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本則

楞厳経(りょうごんきょう)に云(いわ)く、「吾が不見の時、何ぞ吾が不見の処(ところ)を見ざる。
もし不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。
もし吾が不見の処を見ずんば、自然に物に非ず。
いかんが汝にあらざらん」。

本則:
首楞厳経では次のように言っている、「もし見るということが客観的な存在物であるならば、 私が見ないということ(不見)もあなたは客観的な物として見るだろう。
同じように私が見る時には見ることは物として存在する。
それを私を見ると名づけることができるだろう。

しかし、私が見ない時(不見)には、それは見えない。
何故私が見ないこと(不見)を見ないのだろうか? 
もし、見ない(不見)という物を見ることがあれば、それは不見の相とは言えないことになる。
このように不見の処は見ることはないのだから、不見は客観的存在ではない(働きである)。
その物でない(働きである)ところがどうしてお前さんの本性でないことがあろうか
(いかんが汝にあらざらん)。
それがお前さんの本性(「本来の面目」)なのだ」。

本文 (現代訳語)

『私が見えない時、なぜ私が『不見』と言う事を見ないのか』。
無知、無明では『見れない』と言う事も分からず、(正しく) 『不見 (見れない)』を見る事も出来ない。

『もし「不見」を見る事が出来れば、自然にそれは「不見」の相ではない』。
『不見』と言う見れない物を見る事が出来るなれば、それは必然的に『不見 (見れない)』の真の相ではない。 (言葉を返すと: もし実際に見れない事を見たのであれば、それは本当の「不見 (見れない)」を見たのではない。)

『もし私に「不見」の地が見えなければ、自然にそれは物ではない』。
物 (五感で捉える一切の現象) は見える物ですから、私が『不見 (見れない)』が見えなければ、『不見』は (見える) 物ではない。

『如何にそれが貴方ではないと言えるのか』。
(この言葉を返すと) それが貴方だ。 『不見』が貴方で、貴方は物ではない。 本来は『不見』で、それが貴方の真の姿で貴方は物としては存在していない。