果たしてオウム・Aleph・ひかりは完璧か?302 [無断転載禁止]©2ch.net
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麻原に帰らなければならない
超越神力をやらないとダメだ ツォンカパの『菩提道次第広論』初日
https://www.youtube.com/watch?v=XheEcLVFEfU
25:00分から日本語^^
う〜〜ん^^
ここで書いたこととおなじこと言っておる感がする^^ ブッダの説いた教え(ダンマ=法)、ブッダに従う弟子たちの集団(サンガ=僧伽)が
具わることになった。
ブッダ(仏)・ダンマ(法)・サンガ(僧)をあわせて三宝という。 オウム真理教の超越神力は最高だよ
もしもの時に気が付いてさあ
これで不幸を回避できる ブッダちゃんは利他行で悟りを開いたと思わないけどな・・^^
外界との接触点は・・
ガヤー地区(英語版)のほとりを流れるリラジャンで沐浴したあと、
村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、気力の回復を図って、
インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きて
この座をたたない」という固い決意で瞑想した。
ここだな・・・^^
う〜〜ん^^
まさか・・・^^ そもそも悟れば利他という概念はない^^
無分別という智が生じる^^ 超越神力の守護をありがとうございます!
警察が一件一件逮捕状を取り直さなければならないそうですね
心の準備ぐらいにしかなりませんが、神様、ご苦労様です 空を知るということは執着から離れるということなんだよな・・^^
その点では一致してる^^ 大豆は体に悪い
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統合失調症、うつ病、パニック障害は糖を抜くと3日で治った。
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毒を食べているようなもの
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O型は、小麦、トウモロコシ、豚肉、大豆、チーズ、蕎麦、ピーナッツ、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
B型は、小麦、トウモロコシ、鶏肉、カニ、貝、エビ、ピーナッツ、蕎麦、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
日本人は牛乳を消化することができない
植物油は体に悪い最悪の食べ物
アメリカとオーストラリアの牛肉は成長ホルモンが大量に含まれてるので体にすごく悪い
養殖のサーモンには抗生物質が、マグロには水銀が大量にあるので体にすごく悪い
◆米、小麦などの炭水化物(砂糖)を食べると統合失調症(糖質)になります◆ 破戒僧アサハラーが飛び出してきた。
1たたかう
2にげる
3でしになる
4つーほーする 仏教の土台となる真理・・四諦か・・^^
よく出てくるな^^ ツォンカパの『菩提道次第広論』初日
https://www.youtube.com/watch?v=XheEcLVFEfU
3:23:00分から・・
ふむふむ^^ やな^^ ダライ・ラマ法王が述べられていることは経典を根拠にしておられますからね。
お釈迦様の前生談、本生経には、お釈迦様が利他行をされてる内容も説かれています。
ウサギ輪廻転生談や、飢えた虎に対する身の供養もそうです。
ダライ・ラマ法王のゲルク派は「本生経」が必須経典ですからね。 ツォンカパ
「重要なことは自らの無明がどのように増益しているのかという把握形式を
批判することを通じて、その逆の立場である自性空たる空性に対する確定を
強烈に起こし空性を修習しなければならないことなのであって、我執や無明の
把握形式を批判することなく、空性をその一部のみのものとしそれを修習したと
しても、二我執に対して何らの損傷を与えることはできないのである。」
う〜〜ん^^ ツォンカパ
空思想を彼が考えたその最も重要な理由は、空性を理解することが我執を断じる
ためであるという空性の目的にある。
ん?
763因縁果 ◆d........o 2017/09/17(日) 21:14:35.25ID:CKEJdQSN
空を知るということは執着から離れるということなんだよな・・^^
その点では一致してる^^
これやな^^
とりあえず・・^^
寝る^^ う〜〜ん^^
欲は悪ではないんだよな〜^^
必要最低限あればよいというか・・^^
それに執着しなければよい^^
欲を滅しようとするから無理が出る^^
欲は自然のながれ〜〜^^
そこらへんをみんな勘違いしている^^ 「弦の音は、中ほどに締めれば音色がよい」
これだな・・^^ 中道か・・・^^
まぁいろいろな解釈はあるが・・^^
「弦の音」としておこう^^ そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。
「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、
これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることで
はない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、
これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。
比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。
これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・
涅槃のために役だつものである。
比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、
心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。
それは八つの項目から成るとうとい道(八正道、八支聖道)である。
う〜〜ん^^ 「愛欲快楽を求める」・・・^^
求めるということは・・執着するということであり・・^^
その執着から快楽が生じる・・
欲を欲として認めそれに執着し快楽を求めないと・・^^
それゆえに八正道が必要になってくると・・^^
こうゆうことだな・・・^^
経典でもあられる私の脳がそのようにおっしゃっている^^
控えよ^^ ここらへんの解釈で「欲は悪いものだー」と皆勘違いする^^
当然である^^ 縁起すなわち現象世界のあり方を理解しても・・^^
自然と欲は生じる^^
その欲を滅しようとすると不自然な流れになる^^
つまり・・^^
欲が生じるのは自然の流れであり・・^^
それに執着し快楽を求めるな・・^^
と・・・^^ ん?
おまえら・・^^
身近に出家しても愛欲快楽を求めるへんな宗教オタク
いなかったか?
超越神力とか歌ってた奴・・^^
う〜〜ん^^
気のせいか・・・^^ もしも仏教の真理が、「無分別・言語道断・離戯論(戯論寂滅)」で良しとするならば、
不思不観、無念無想の境地において、「何も考えなければよい」、「何も思わなけれ
ばよい」、「何も言わなくても(主張しなくて)よい」ということから、やがては、
「何もしなくてもよい」、「何をしても意味がない」、「何をしても無駄である」、
更には、「何をしても構わない」、「何でもあり」と、様々な弊害を生み出してしまい、
お釈迦様の真なる教えが破壊されていってしまうのは明白であり、実際の仏教史
上においても、そのような流れにおいて、仏教が変容していってしまいました。
うん^^
773神も仏も名無しさん2017/09/18(月) 01:08:53.62ID:JWVMl0Hz
何もしないでブッダになる
こんな人でてきた^^ 「非有・非無の中道」・・ここの絶妙なるところにおける「深遠なる縁起の理法」の理解が、誠に仏教最大の要諦であります
ふむふむ^^ つまりは、「無実体・無自性・無自相」も非(無)「無実体・無自性・無自相」として、
「無」ということにとらわれて、何か「無」というものがあるとしてしまう偏見も取り除か
なければならないこととなります。
そこから、有、無、非有無、非有非無のそれぞれのあり方について、
そのいずれもが成り立たない、執着できないという「空」を理解し、
最高真理としての「勝義諦」は、戯論寂滅であるというところへと誘っていく
こととなりますが、ツォンカパ論師の中観思想における、師の理解では、
「非有・非無」は、世俗諦と勝義諦という二諦の解釈を踏まえた上で、
世俗諦(コトバの世界)においては、「勝義としては、無(非有)であるが、
世俗としては、有(非無)である」という独自の解釈展開が行われます。
動画で言ってたな・・^^
世俗の真理と究極の真理の上での空とか・・^^
詳しく語らなかったけど・・このことか^^ 「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」
う〜〜ん^^
う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん^^ あっ^^
おまえら仏教詳しいと思われるので・・^^
「勝義としては、無(非有)であるが、世俗としては、有(非無)である」
これを簡単に例をあげてここに書いといて^^
お願いします^^
ということで・・寝る^^ うん?
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ^^ 空は実体をもたないから、本質的な意味で生ずるということがない(不生)。生じないということは有であることができない。また、生じないということは無くなるということもないから無ということもできない。すなわち空は、有でもなく無でもない非有非無の中道なのである。
ふむふむ^^ ちなみに、空を非有非無の中道と解する考えは、中国に伝わって変化する。
中国で生まれた天台宗は、空もまた一つの極端(無に近い)とし、空をさらに
空じたところに中道があるとする。非有非無の中道に対して非有非空の中道と
いわれる。その考えは日本にも伝わり、日本仏教の伝統的考えになっていると
いわれる。
ふむふむ^^ 中道=悟りの道であるから、見解どうこうじゃなく
実践が中道であるかどうか。
ダライ・ラマ法王が言われているように
無明(ものごとを実体視すること)による煩悩と、自己中心的な心を無くしてく実践が
中道であると言えるんじゃないでしょうか。 中国に伝わって変化する・・^^
天台宗「非有非空の中道」と・・^^
当然それが比叡山に伝わり・・・^^
「非有非空の中道」で{あーでもない^^ こうでもない^^」と
何千年も議論されてきたわけか・・・^^ 相変わらず、文面をしっかり読んでないね(笑)
BY 空海 ん?
空の観想において・・・^^
「非有非無の中道」と「非有非空の中道」では・・^^
かなり異なるものではあるまいか^^
空の見解がまったく違っておる^^
これは腰を落ち着かせてじっくりと考察する必要がある^^
う〜〜ん^^
「非有非無の中道」と「非有非空の中道」の相違については・・^^
1週間の時間を自らに与えよう^^ 「難解や・・・^^」
経典でもある私の脳がそのようにおっしゃられておる^^
ブッダちゃんでも難解かもしれん^^
温泉瞑想に行って空を観想して確かめるとするかな・・^^
「非有非無の中道」と「非有非空の中道」ね〜〜^^
ところで^^
だれが難解にしてるんや^^
出てこいやぁあああああ嗚呼ああああああああああああああああああ^^ 天台宗は必要ないよ。亜流もいいとこ。
大乗仏教はインドで隆盛してたときはまだ原始仏教を土台にしていたけど
中国に渡ってから、亜流に変化し仏教本来から離れたものが多い。
禅宗ひとつ見ても、達磨菩薩が説いた教えから、どんどん離れて
「ただ座ればいい」「仏に会えば仏を殺せ」「このからだの働きそのものが仏」などの非仏教になっているし
公案のようにとんち問答に重きを置いているように
完全に仏教から離れてしまっている。
座りかただけはひきつがれているけど、もはや形骸化している。 因縁によって生ぜられたものは空である。これは確かに真理であるが、
しかし、われわれは空という「特殊な原理を」考えてはならない。
空というのも仮りに設けられたものであり、空を実体視してはならない。
故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。
因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、
その空をも空ずるから非空であり、このようにして『非有非空の中道』が成立する。
すなわち中道は二重の否定を意味する」
「故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。」
ここやな^^
中道が現れなかったらどない責任とってくれるんや^^
・・ということやな^^ 「すなわち中道は二重の否定を意味する」
これもなんかおかしい^^ そもそも天台宗の最澄が、まったく悟ってなかったじゃん。
頭は良かったのかもしれないけど、知的貪りに支配されていた。 >>801
ということは・・・^^
日蓮は・・・^^
一念三千・・一心三観・・・^^
そうかがっ・・・^^
うわぁあああああああああああああああああああ^^
ん? 日本では中国・天台仏教の天台教学の支配力と影響力はかなり強かったようで、
これを外して仏教は語れない程の体系でした。法華経を華厳より下位に置いた
あの空海ですら摩訶止観や天台学は無視していません。その一念三千の元と
なった三諦論ですが、これがじつは論議があって「空・仮・中道」がそれぞれ
異なった諦(真理)であるのか、それとも同義のものであるのかという論争が
過去にあったようです。
智の説くところでは、我々の居る世の中は、それぞれに存在としての
「仮(の体)」がありますが、仏教から言えばコレは「有る」とは言えない、
常に変化し続けるものです。実体の無いもの、つまり無常というものですね。
ですから体がないので「空」なるものであり、無とも言えませんが、
有るではない「非有」として、そして仮に和合しているものも「空」としますが、「
空」なるものがココに有るという妄想錯視を更に否定して「非空」とし、
二重に否定して浮かぶ、その認識を中道であると天台大師はしたわけです。
ふむふむ^^ 最澄が空海に弟子入りして、空海がダメだと言っているのに
理趣経を貸せとおねだりしたというエピソードを聞いて
ああ最澄は全然悟っていないし、素質としても大したことないなと思いました。 空海は密教の才能が高くて、中国の密教僧に弟子入りしたときも教えの伝授も許された。
密教は大乗的な利他心が土台にないと、エゴに使ってしまう。
空海は利他心が強く、中国の密教僧はそれを見抜いたんだと思いました。 現世執着を取っていく・・・^^
ここは同感やな・・^^
彼も正直やな・・^^
そこらへんは信頼できる^^ 外界に対して執着を取っていく・・^^
そのとうりや・・・^^ 空とは煩悩破壊の最も有力な武器・・
うん?
いいこというね〜〜^^
煩悩とは執着することにより生じるからね・・^^
それを滅するのが空であると・・^^
ダライラマもでてきたか・・^^ おっと・・^^
温泉瞑想の時間や^^
火の瞑想のあと水行で汚れを落としてくるかなっと^^ よくわからんのだが唯識のアラヤ識ってアカシックレコードのことなの? よく解らないこと言ってたら、促進成仏させられるぞ! >>820
しかし、確かにアカシックレコードは大事だから、大丈夫だろう
精神世界的に 瞑想してきた^^
「非有非無の中道」を理解した^^
難解ではなかった^^
寝る^^ ちょっと理解したことメモしとくかな・・^^
@生滅変化するものは実体がない・・空である^^
A常住しているもの変化しないものはこの現象世界には存在しない
Bひとはものを常住しているものとして常に見る(実体のあるものとして) つまりやな・・^^
ここからは有料になります^^
はい^^ 仮に・・こに「ふみひろさん」がいたとする^^
ここで「ふみひろさん」と名前を与えただけで人は
ふみひろさんは常住不変の人だと虚妄する^^
実は・・ふみひろさんは刹那に生滅変化を繰り返してるから
すでにふみひろさんではないんだよね^^
厳密に言えば・・^^
ふみひろさんが「ここにいるよ」と言っても
おなじふみひろさんは変化生滅してるのでそこにはいない^^
このようなものを実体がないというんだよね^^
そこで非有とは・・^^
ここにあらず・・・と・・^^
そして非無・・
ないのではあらず・・と^^
つまり・・縁起によって生滅変化するものは実体がない空であると・・^^
う〜〜ん^^
表現がいまいちか^^ >>826
j修行は科学だと思わないと、先が見えて来ない まぁ結論的に「非有非無の中道」はブッダちゃんの
考えたことじゃないから「ふむふむ」と言っておくのが無難だな^^ 縁起の法
これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、
これなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである
(南伝 相応部経典12-37 汝のものにあらず ) 比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。
苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、
わが我 (が)にあらず、またわが本体にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
(南伝相応部経典22-15 無常なるもの(1)) その時、世尊は、一つまみの塵をつまんで、爪のうえにのせて、その比丘にいった。
「比丘よ、たったこれっぽちの色だって、常住し、恒存し、永住して、変化することの
ないもの、永遠にわたってまさしく存するものはない。
比丘よ、もし、たったこれっぽちの色だって、常住し、恒存し、永住して、変化する
ことのないようなものがあらば、この清浄の行を修して、よく、まさしく苦を滅し尽くす
ことはできないであろう。だが、比丘よ、たったこれっぽちの色だって、常住し、
恒存し、永住して、変化することのないようなものはないがゆえに、よく清浄の行を
修して、まさしく苦を滅し尽くすことができるのである。
(南伝 相応部経典22-97 爪頂)
ん?
ブッダちゃんが言っておられる・・
「たったこれっぽちの何々だと・・・^^
そんな表現使ったことないぞ」と^^ スッタニパータ
第5 彼岸にいたる道の章
1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。
あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。
世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」
1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。
わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。
世の中にある種々様々な苦しみは、執著(しゅうじゃく)を縁として生起する。
1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。
だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)を
つくってはならない。」 1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼(ま)のあたり体得される
この理法を、わたしはそなたに解き明かすであろう。その理法を知って、
よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」
1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っている
ものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、
変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、
わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、
この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」
1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。
煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。
たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに
知っておられるのです。
1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを
捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生!
どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」
1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの
達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。
かれは彼岸に達して、心の荒(すさ)びなく、疑惑もない。
1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、
種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。
『かれは生と老衰とを乗り越えた』とわたくしは説く。」 「わたしはそなたに解き明かすであろう。その理法を知って、
よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
「その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
その理法って空じゃないよな・・縁起だよな・・^^
ということは・・^^
空はブッダちゃん説いていないもんな・^^
縁起が空だとしても・・^^
空には違和感があるな・・^^ 一般の人の「考察しない」把握の仕方について、ケードゥプジェが『千の要点』に
おいて分かりやすい例を挙げて説明している。
たとえば、デーヴァダッタに会いたいと思う人が、カラスの鳴き声のする家に
デーヴァダッタがいるという言葉だけに従ってその家の中に入〔れば〕
デーヴァダッタに会うことができけれども、この中にいるデーヴァダッタという
その名前の指し示している対象(gang la 'jug pa'i gzhi)は、彼の〔五〕蘊と
同一の実在であるのか別の実在であるのか、どのようなものであるのか
などと分析して、このようなものであると見つけて(=認識して)から、
その人と会わなければならないとしたら、デーヴァダッタと会うことは
できないであろう。なぜならば、そのように探し求めたならば、
どこにも〔デーヴァダッタを〕見出すことはできないからである。
う〜〜ん^^
なんか似てる感がする^^ ダンマパダかスッタニパータか忘れたけど
原始仏典にも空は出てくる。さらっとだけど。 この二つの我執は、倶生のものであり、衆生に普遍的に存在しており、
それこそが衆生を輪廻に縛りつけているものとである。
ただ、実際に中観の論書の中ではそれらが主題的に取り上げられることは少ない。
ツォンカパ自身も指摘はするものの、その具体的な分析は少なく、同じような表現
が繰り返し用いられるだけである。ここにも見られるように、実際には言説のみの
もの、名前だけのもの、名付けられただけのものであるのに、そのように「言説の
力よって設定されたものではなく、それ自身の方で成立しているもの」と言及される
ことが多い。この表現自身は、もちろん、それほど難しいものではなく、全ての存在
を言説によって設定された、名付けられただけのものと理解できずに、それ自体で
そのように存在していると信憑している。一般の衆生の認識のこの二重構造
(名前だけに従って行動し、その実体が何であるかの分析をしないことと、
しかし名付けられただけのものであるとは思わずに、それ自体でそれとして
存在していると思いなしていること)は、後期の二諦説の中でも、世俗諦と
唯世俗の対比の中に組み込まれていく。
書いたこととおなじか・・・^^ 『真理のことば』(ダンマパダ)
二〇 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、
情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの
無い人は、修行者の部類に入る。 スッタニパータ 1119
自我に固執する見解を打ち破って
世界を空なりと観ぜよ。 しかし、ここではパーリ経典相応部第四巻第2部4章第2節の「空経」を参考にして
考えてみましょう。アーナンダ尊者のブッダへの質問の始めの部分を引用します。
以下の世間という言葉はパーリ語ではローカで世界と同じ言葉です。
「尊い方よ、『世間は空である、世間は空である』といわれていますが、いったいど
の点から、『世間は空である』といわれるのですか」と。
「アーナンダよ、実に我について空であり、我に属するものについて空であるから、
それゆえに、世間は空といわれる。アーナンダよ、我について空であり、我に属す
るものについて空である、とは何であるか。
アーナンダよ、実に、眼は我について空であり、我に属するものについて空である
。色は我について空であり、我に属するものについて空である。
眼の識別作用(眼識)は我について空であり、我に属するものについて空である。
眼と色と識別作用との接触(眼触)は我について空であり、我に属するものに
ついて空である。また、眼の接触によって生じるところの、楽と感じること、
苦と感じること、苦でもなく楽でもないと感じること、それもまた我について空で
あり、我に属するものについて空である。
(以下同様な内容が耳、鼻、舌、身、意について述べられます。
そして、結論は次の通りです。)
「アーナンダよ、実に、我について空であり、我に属するものについて空でから、
それゆえに、世間は空であるといわれるのである。」」
(春秋社版:原始仏典U相応部経典第四巻182p:から引用)
以上を読んでも分からないと思う方は、空を難しく考えずに、「空っぽ」と思って
下さい。空っぽに対しては欲も起こらす、執着もないのです。
そのような人には欲はないのです。ですから悪魔は見ることが出来ず、
悪魔の支配から離れているのです。
ブッダは解脱した人の境地(涅槃)を「空」で説かれましたが、その際も修行者に
とって一番大切なこと、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って」、
そうすれば、「世界は空である」と分かるという形でこの偈を述べられたのです。
ん?
まじ^^? スッタニパータは原始仏典の中でも最古の経典だと言われている。
龍樹など、昔の大乗仏教の導師は、原始仏典を『聖典』と呼んでいたように
お釈迦様の言葉として重んじていて、大乗仏教とはいえ原始仏典を根拠にしていた。 「非有も三十棒、非無も三十棒、中道も三十棒」
ん?
なんぞ^^ つまり、釈尊 が アーナンダ尊者 を 始めとする 弟子たち に
教えて いた 「 空性 」 とは・・・
まじかー^^
またまた寝る^^ 縁起から空は自然のながれだよな〜〜^^
知らなくてすまん^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています