おはようございます。
 仏教は霊魂の修行の過程の心をネーミングしまくっているように
思います。例えば「空」「色」「識」ですね、それらの語を
使って心の動きや状態を説明しようとします。ネーミングや説明が「修行」そのものでは
ないのに、それを半分「修行」と考えているのではないでしょうか。
 
カトリックでは、イエス様の教えに従っているうちに、あまり無理せずに
自然と執着を捨てていきますよ。ロザリオの連祷(れんとう)では仏教でいう
「無我」の境地を体現しているのかもしれません。
そんな心の状態や動きを逐一ネーミングしたり説明したりはしません。
しかし、仏教徒が目指す「修行」
そのものを、日常生活を通して、ダイレクトに行っているように思うのです。