一般的に縁起、空、無我というのを解説すると、たとえば、ある人が、月が3分の1と3分の2という個体が
別々にあると錯覚していたとする。
ところが、3分の1がある所には、必ず3分の2があるんだよね
反対に、3分の1がある所には、必ず3分の2もない
相依性は一体性を表していると言っていいだろう

あきらかに月は一つであるわけで、月の3分の1という独立した個体が無いわけだ
それは相依性の一体性により否定される
そこで月の3分の1も、3分の2も、「無」ということになるわけだよね

よく縁起の説明で、お互いが依存しあってると説明する人がいるけど、これは間違ってる
なぜなら、依存関係ではまだお互いの個としての存在を認めているからだ
AとBが深く結びついているということで、AとBの存在の否定につながっていない。

そして、「我は空である」という表現も間違いだ
我はあくまで「無」だ
テーブルの上にあるガラクタが無くって、テーブルの上がスッキリした状態が「空」だ
月の例でいうと、月の3分の1と3分の1という、独立存在が「無」になって、
一つの月の上に、何一つ独立存在が無くなって空(から)になった状態が「空」だ
我が無になるから、その場が「空」になるということ。

で、ここで問題となってくるのは、感情や思考ということなんだよね
独立存在が無であることは、分かりそうだ
ならば、感情や思考はどうか。
感情や思考の源は、おそらく、二元相対的な価値判断(分別)ということだよね
たとえば、「好き」「嫌い」というのは相依関係にあるから、これは無であることがわかる
その裏には空である一体性が広がっているわけだ
これは価値判断の停止した世界、「ありのままに見る世界」と表現出来るわけだ
ところが人間は、常に相対的な価値判断を働かせているため、苦しみが生じるということになっている

おそらく、長短も含め、すべての個我の存在を認めるのも、この二元相対的価値判断が元になっているということだろう。
「あれ」「これ」と個我を認める時に、長短、明暗、大小といった、価値判断の複合によって
存在が認められているということかもしれない