「上人、或時(あるとき)しめして曰(のたまわ)く、
聖道・浄土の二門をよくよく分別すべきものなり。
聖道門は、「煩悩即菩提、生死即涅槃」と談ず。
我も此法門を人にをしへつべけれども、当世の機根においてはかなふべからず。
いかにも煩悩の本執に立かへりて[煩悩ばかり気になり]、人を損ずべき故なり。
浄土門は身心を放下(ほうげ)して[投げ出して]、
三界・六道に希望する所ひとつもなくして、往生を願ずるなり。
此界の中に、一物も要事あるべからず。
此身をこゝに置ながら、生死をはなるゝことにはあらず」
(一遍上人語録)

1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。
1002.(1003) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
(テーラガーターで阿羅漢達がリフレインしている常套句)


浄土門の一遍上人も聖道門(?)のサーリプッタ長老、サンキッチャ長老、コンダンニャ長老も
道は違えど「現世に望みはなくかといって死を願うわけでもない」というたどり着いた境地は変わらないのかもしれない。