>>675
>ところが「仏凡一体」というのは、縁起によって
>空になったことを現している。

空なら実体のない仏凡という呼称に過ぎない
縁起する故に無我、空は、変化していて実体がない
何か基体を構成させるものでない
仏と一体だから不変なる空住とか、何でもありの理屈観念の世界になりますよ
色受想行識、五蘊が空と説かれているのですよ
その理屈、観念世界を展開させているのは、五蘊の自我の観念で、
無我は、縁起する構成要素の心身は、私、私のもの、私の本質でないので、
その五蘊の範疇の接触の思いが生んだ観念、哲学も本質でないわけです
こういう書き方で、理解してもらえるかな