>>668
この文章なんだけど、仏教の教えの本質を知らないから
こういう文章になる。

もともと、ブラフマンとかアートマンという思想は、本質的には仏教と同じだったんだよ。
それを後の人の解釈で、実体化し始めた。
自我の延長上に、そういうものがあると解釈し始めたわけだ。
(そこで自力の行にもなるわけだ。)

それをお釈迦様の時代に、無我思想として改めたわけなんだよね。
悟りの世界というのは、我々自我の延長上には無いものだと。
自我を鍛え上げていった先にあるものじゃないと。
自我とは何の関係もないものだと。

ところが、小乗仏教の輩が、またしてもブラフマン、アートマン思想の時に陥ったワナにはまった。
すなわち、自我を鍛え上げていったその先に、悟りの世界があると思っちゃった。
自力の行というのは、イコール、無我思想に反するんだよ。
自分の延長線上に悟りの世界を置く = 自力の行 = 無我思想に反する。

こういうのをもう一度戻すために、今度は大乗の空思想が現れた。
だけど基本は同じなんだよ。
自我の延長線上に無いものを目指すわけだから、あくまでそういう世界を「在る」としてはならない。
だけど、自我を越えたところには、確かにあるわけだよ。

だから修行者には、「そういうものを目指すな、それはお前の延長上にあるものではない」ということになるし、
教典的には、「自我を越えたところに悟りの世界がある。」という表現になる。

始めのブラフマン思想の時にストレートに出しすぎたものを、後のお釈迦様の時代にひっこめた。
それを大乗仏教がストレートに出しつつも、ひっこめないといけない理由も説明した。
教えは進化しているんだよ。