仏教は苦を滅するのに役立たない [無断転載禁止]©2ch.net
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釈迦の教えがそんなに素晴らしくて役に立つなら、皆忠実に従おうとするだろう。
ところが実際には多くの派が乱立してしまい、何が何やら分からぬ状態。
仏教が苦を滅する特効薬だと言い張る輩を、試しに拷問してやりたい。
もし苦しんだらそいつは嘘つきだ。 mettaというのが慈しみのこと。
また慈悲というのは智慧と不可分である。
大人にならなきゃわからないかもね(笑) 460.
慈悲というものは生活の智慧である。
それは宗教の智慧ではない。 打倒天皇の極左一二三が理解するには100年早い(笑) 「スッタニパータ」
「慈しみ」の言葉よりも「真理」の言葉が多い^^
割合としては・・
「慈しみ」は1%以下だろう^^
つまり・・^^
これは仏教ではなく真理を追求する哲学に近い^^ 真俗二諦
『般若経』(小品になく大品に二諦説がある)では、世諦とは差別、分別、言説など
の相対界についていい、第一義諦は分別言説をこえた言亡慮絶の絶対界を指す。
しかし、その相対界は単なる仮ではなく、真如実相の妙境界を言葉のうえで有と無と
の両方面から示すのが世諦であり、それの絶対の理を直ちにみているのが勝義諦で
あるというのである。 仏は二諦によって、衆生のために法を説く。一には世俗諦、二つには第一義諦なり 仏陀の聖なる教えは 二種の真理に依存している。
条件付きの真理と、 超越的真理である。
これら二つの真理の違いを 知らない者は、
意味深い仏教の真髄を 知ることができない。 〔中論〕 世間的知によらなければ 真理は理解できない。
真理に近づけなければ 涅槃には到達できない。 真俗二諦とは真諦と俗諦との二つをいう。
諦(たい)とは真実や真理の意味である。
前者は第一義諦、勝義諦などと訳出され、仏教の経諦に明らかにされる悟りに
関する真理をいう。
後者は世諦(せたい)、世俗諦、等諦(とうたい)などと訳され、世間にしたがって
仮説した種々の教えをいう。
したがって、真俗二諦は悟りに関する真理と世俗にしたがう相対真理とを
いうものである。 te vāda-kāmā parisaṃ vigayha,
かれら論争を好むものたちは、衆会に入り込み
bālaṃ dahantī mithu aññamaññaṃ.
愚か者であると、相互に、お互いに烙印を押し
vadanti te añña-sitā kathojjaṃ,
かれら他物に依存する者たちは、論争を交わす
pasaṃsa-kāmā kusalā vadānā.
賞讃を望みつつ、熟達者だと語るものたちは
826.
yutto kathāyaṃ parisāya majjhe,
論争に結ばれた者は、衆会の中で
pasaṃsam icchaṃ vinighāti hoti.
賞讃を欲し、敗北を怖れている
apāhatasmiṃ pana maṅku hoti,
敗北すると、うちしおれ
nindāya so kuppati randham-esī.
非難されると、(相手の)弱点を探しながら怒る 827.
yam assa vādaṃ 'parihīnam' āhu,
かれの所論に対して、‘劣っている’、
'apāhataṃ' pañha-vimaṃsakāse.
’打ち破られた’と、諸々の審判者が言うと
paridevati socati hīna-vādo,
論争に敗れた者は嘆き、悲しみ
'upaccagā man' ti anutthunāti.
‘私を打ち負かした’と言って悲泣する
828.
ete vivādā samaṇesu jātā,
これらの論争が、諸々の修行者たちに起こると
etesu ugghāti nighāti hoti.
そこには、勝利と敗北とがある
etam pi disvā virame kathojjaṃ,
これを見て、論争をやめるべきである
na h' aññad-atth' atthi pasaṃsa-lābhā.
賞讃を得る、という以外の目的がないからである
829.
pasaṃsito vā pana tattha hoti,
そこで賞賛されると、
akkhāya vādaṃ parisāya majjhe.
衆会の中で議論を説いて。
so hassati uṇṇamati-cca tena,
かれは、それによって、笑い、心高ぶる
pappuyya tam atthaṃ yathā mano ahu.
心が期待したような、その目的が得られて
830.
yā uṇṇati sā' ssa vighāta-bhūmi,
心の高ぶり、それは、かれの害なわれる場所である
mān'ātimānaṃ vadate pan' eso.
それでも、かれは高慢・増上慢の言を為す
etam pi disvā na vivādayetha,
これを見て、論争してはならない
na hi tena suddhiṃ kusalā vadanti.
それによって清浄があるとは、真理に通達した人々は語らない >>472
は?↓これが君のことだろ、
Sn.794「かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、
「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。」
自分の固執した思いを言いたい放題書いて、最後は反論するなと独善的だな
だいたい無分別智なんて抱いている時点で、束縛されてるよな
無分別智と主張した時点で、四句分別に該当している
ブッダが説いた道徳、慈悲の説法は、智慧から、無分別なら石にでもなれよ
ただ現象の生滅があるだけで、勝手に妄想分別してるだけ
君みたいなのが出てくるから、龍樹は後に道徳実践論を書いて反省してたの知らないのか >>449
悟りに至れば縁起とは本願成就だと気付く
慈悲は他力本願であり動的活動ではなくなる
悟りとはその縁起を悟り続けることであり、縁起を悟り続けるというのは
慈悲と瞑想の動的活動をつづけることである >>416
>今回も上から目線で四無色定を無意識と語ったのは何方かな?
何処をどう読んだら、「私」が「四無色定を無意味」と言った事になるんだ?
とりあえず君は、仏教を語る前に日本語の勉強をしたらいいんじゃないかと思うが。
「四無色定が無意味」なんじゃなくて、仏教の(≒釈尊が目指した)ゴールが四無色定を達成する事ではないから、
四無色定(と似た境地)を「ゴール」としていた「ウッダカラーマプッタなどが目指した境地」に対して、
「そのような境地を目指す意味はない」と、「釈尊が」言ったという話であってだな。
>混乱した意識を瞑想で静める必要があるんじゃないですか?
いやだから、道具、ツール、過程として必要となる場合もあるけど、それが目標、ゴール、到達地点ではないって話であってだな。
とりあえず君は、君の好きな瞑想でもして、混乱した意識を静めたほうが良いと思うぞ? 伸びていると思ったら、「慈悲」の論争かw
これはまた厄介な問題をw
仏典的にいえば、>>426の言うように、梵天勧請によって初めて他者を救うと言う「慈悲」の行為を行われたのであって、
それまで成道したばかりの釈尊は、悟りを一人で楽しみつつそのまま死ぬ予定だったわけだから、
仏教の「悟り」の内容と、「慈悲」には関係が無い事になる。
ただ、仏教という宗派としては、梵天勧請によって慈悲の心を持った釈尊の教えを受け継ぐ集団なのだから、
宗派としては慈悲の心を持って布教をすべきであることになる。
その一方で論理的に考えた時、縁起という関係性の中で仮説される我と言うものが在ると考えるならば、自然と慈悲と言う行為が出てくるはずであるので、仏教は元々慈悲を内包していたと言う考えも否定はできない。
また、>>461のように、教団を維持する為に必要とされた生活の知恵として生み出されたものであって、仏教の本質ではないと言う考えもそれはそれで納得できる。
まあなんにせよ、>>1の苦の問題と同じで、何を以て「慈悲」とするのか、何が「仏教」なのか、どの立場で語るのか、それを明確にしないで、各々がてんでバラバラに言っているから、議論がかみ合わないんだよw > 「そのような境地を目指す意味はない」と、「釈尊が」言ったという話であってだな。
出典を明記してください >>477
>出典を明記してください
「1+1=2の出典を」と言われても困るレベルなんだがw
ちょいとググったら、この辺にまとまって十数点の出典が書いてあるんで、これでいいかな?
http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/1422.html
例えば、
方広(大正03 p.580上);王舎城辺有一仙人、摩羅之子名烏特迦、與七百弟子倶。常説非想非
非想定。……菩薩作是思惟、……非厭離法、……非涅槃法。
LV.(Lef. p.243, 溝口 p.219);……その法は……(非想非非想処定)に導くもので
あった。……この道は嫌悪することに導かず、……ニルヴァーナ(nirvANa)にも導きません。
というか、ウッダカラーマプッタの非想非非想処がゴールでいいなら、なんで釈尊はウッダカラーマプッタの元を離れて独自の修行をした後に初めて悟りを得たんだって言う話であってだな。
そもそも、非想非非想処がゴールでいいなら、ウッダカラーマプッタが仏教の開祖になっちまうぞ?w >>477
九次第定(四禅定→四無色定→想受滅定)は、止のプロセスで、
これでは最終解脱できずと説かれ、中部経典のどこか
もっとも合理的な方法として、智慧の解脱のプロセスを説いている
その方法、七科三十七道品、八正道に四無色定は入ってない
そして四禅に関しても、止行とはまた別の説明で説かれている
四無色定は、スシーマ経でも必須でないと説かれている >>476
智慧のあるものは、慈しみがあると某上座の長老は力説している
智慧がないものが、あれこれ語るだけで分からないってことか 記述が全て滅茶苦茶です
七科三十七道品を修して獲得する瞑想状態が四禅定、四無色定であり
あなたの解釈はキチガイレベルです
四無色定が最終ではない事等
その上に滅尽定があるのだから当然なんですが・・・
基本的に精神病の方ですね 仏教にはなんの力もないし信じても救われない
苦しみから逃れる為に俗世での幸せは捨て禁欲し苦しい修業するのは痛みで痛みを紛らわしているだけじゃないか
何よりチベットを見れば仏教は糞の役にもたたないと証明されてるだろ、馬鹿かと >>483
これまた同じ事ばかりつぶやいている精神病の方ですね
仏教を学んで疑問を晴らすなり、勉強する気がないなら
こういう議論の場を離れてあなたの有意義だと思う生き方をするべきではありませんか?
傍から見るにキチガイにしか見えません >>482
仏道を歩む者がキチガイってレッテル貼る、そのレベル知れるよな
三十七道品 (八正道・七覚支・五根・五力・四念処・四正断・四神足)
これ全部、やる必要ないの、スシーマ経でも神通力の体得は必須でないと否定
で、倶分解脱、心解脱、慧解脱を中部経典で説かれていて、
もっとも合理的な方法が、慧解脱のプロセス、四念処経には、これだけで
最終解脱できると説かれいる 初歩の人は、日本に集中三昧onlyの中国産仏教と
ヒンドゥ系の影響で、九次第定に囚われてしまうのよ >>486
キチガイですネェ
普通に修行し、瞑想し、定に入る王道をわざわざ否定してますが
正確に引用すればすぐ間違いだってわかりますよ 最終解脱って一体どこのオウムですか?
お引取りください >>487
あのね、学者によると、原始仏典の中に複数の解脱プロセスがあるのは、
釈迦が高弟子がやったとされる方法と、
それを踏まえて合理的な方法として智慧の解脱を、説いているのよ
念処経、大念処経ぐらい目を通しなよ、この観の系譜で解脱と説かれ
中部経典では、止行を極めても解脱できないと説かれているの
君が執着しているのは、止の系譜
あのさ、観行でも禅定に入れているのよ、観察集中したことないのか
まず心の散乱を抑えるのに軽く止やって、次に観はテラワダでもやってるの 複数の方方があるのは知ってますが
わざわざ禅定を否定してませんが
お引取りください オウムは瞑想至上主義ですから
さすがにこういうことは言わないですよ
創価の人がわざと撹乱してるんでしょう 草加も必死だな
日本国民を騙してきた自分たちの嘘がばれたら
教団滅亡待ったなしだからな ID:OhCBP29Tさんはおそらく元オウムの人でしょうね。
「最終解脱」という言葉はいくら創価でも使わないでしょう。 因縁果もそうだけど、ブッダを「釈迦」とか「ブッダちゃん」とかいうやつは
ブッダに帰依してないから、独善に陥ると思う。 >>487
こういうコメント見てると仏教というのは厨二秒の池沼がやるものだってのがよく伝わってくるね >>494
必死に自分達が日本仏教じゃないと主張してる人達がいるんで
層化の人がわざと霍乱の為にオウム用語を使ってるんでしょう
原始仏教や正統な仏教が広まると
金や権力を失う創価は必死ですよ >>496
その通り。
仏典で悪口や乱暴な言葉を使うなと説かれていても
つい「基地害」とか言っちゃうレベルじゃ、禅定なんて無理。 自分の瞑想ばかりしている小乗仏教は下だ
社会救済を行う公明党、創価が正しいんだというのが
彼らの主張なんですぐわかります >>498
>>496
> >>487
> こういうコメント見てると仏教というのは厨二秒の池沼がやるものだってのがよく伝わってくるね
>仏教というのは厨二秒の池沼がやるもの
このコメントにその通りと言ってしまうあなたも変わりませんよ?
自覚無いんですか? そう思われてもしょうがないじゃないですかと言ってるだけ。 >>497
> つい「基地害」とか言っちゃうレベルじゃ、禅定なんて無理。
相手を下げずむ発言もひどいですよね
偽善はいい加減にしてください 創価は仏教でさえないですからね。
仏教は池田大作や日蓮をあがめるものじゃないですから。 さげすんでないですよ。その通り書いただけ。
つい「基地害」とか言っちゃう人は、正語や正念がまだまだなんですよ。
だから禅定もまだまだだろうなと想像に難くない。 >>484
なんら反論になってないな
ただ精神病ってことにしてるだけだ
チベットをどー説明するのかね?
チベットは仏教を信じていたんだよ?
それがどんな目にあわされたかはわかってるよね?w >>502
自分が池沼だと言われてることを飲み込めず他人を咎めることに必死だな仏教徒www >>501
その通りというのとそう思われても仕方ないでは意味が違うじゃないですか
いい加減自分だけが正しいようなかっこつけるのはやめてください >>505
チベットは仏教を信じていたために
武力闘争を放棄し殺される道を選んだんですが理解できませんか?
輪廻を信じる仏教はそういう選択もあります
いい加減ちょっと勉強すればわかることを
一々きかないでくださいよ
普通にわかってることだと思ってるんでこっちは >>510
あぁ、自演がばれましたな
池沼の自己紹介乙 お釈迦様は「どんなに悪口や誹謗中傷を言われても耐えなさい」と説かれた。
その通りすればいいのに。 >>505
で、この武力闘争を放棄して業のままに死ぬ事すら厭わないというパターンは
マハーモッガラーナや釈迦族、イスラムによる仏教滅亡の際など
仏教ではよく見られるパターンです
良く勉強してください >>512
そうですよね
何でわざわざ反論してるんですか?あなたは >>514
わかってるならそれでいいじゃないですか。
私のことなどどうでもいいんですよ。 滅びるのはチベットに限らず皆そうですから。
2036年に地球に小惑星が衝突するとの情報もある。
そうじゃなくても必ず地球は滅する。 チベット仏教の人たちは大変信心深く仏教を信仰していて素晴らしいですが
それでも滅びる。仏教を信じなくても滅びる。
ダンマパダに「真実を知らず100年生きるより、真実を悟り一日生きるほうが優っている」と説かれている。 >>515
お前は駄目だか自分はいいんだですか
お見事な卑怯者ですね >>508
>>517
それじゃあ糞の役にも立ってないんだよ
何も信じてない弱者とかわらない
戦うことすらしないのかよ
それじゃあ仏教は無害な思想ではなく有害な思想であり日本から排除すべきだな >>519
貴方の様な粗野な人の周りで
耐えて波風立てず我慢している人がいるんですよ
どっちが有害なのか本人はわからないんですよね 仏教は外敵と戦うことじゃなく、内なる敵「煩悩」と戦うんですよ。
仏教を突き詰めれば、敵にぼこぼこにされても怒らない状態になることが目標。
そればかりか、攻撃してくる相手に対して、わが一人子のように慈悲を持てるようになることが理想。 >>521
キリスト教も仏教も邪神の教えじゃね?
ずいぶんと悪者や悪魔に都合がいいじゃないか
邪神や悪魔の言いなりになれ、いかなる不義も我慢せよと
それじゃあすき放題やられてボロクソにされるわな
悪魔はぶっ殺せくらいじゃないとこの不条理な世の中は渡っていけない
俺がキリスト教や仏教を信じる気はないよ
お前らは一生そんなこと言ってて地獄に叩き堕とされろ 仏教やキリスト教のような悪者や邪神や悪魔の言いなりになるような教えならないほうがマシだと言っているのだよ
この悪魔のような世ではまったく通用してないだろが
お前らは邪神や悪魔の奴隷になれと言ってるようなものだぞ?
救われる為の教えではなく他の誰かが都合のよい奴隷学なんじゃないのか? 仏教では悪魔は心の中に潜む。そこを押さえないと話が平行線になる。 悪魔の法華経にそそのかされて
敗戦に突き進んだ歴史を知らないんですかね >>522
>>523
実際は、日本仏教はごく一部を除き、さきの戦争を支持し加担している
昔は兵僧なるものもいた
南方仏教でも仏教徒によるイスラム教徒への迫害がある
けど出家僧で本当に悟っている人なら、無抵抗に殺されるかもな
非暴力で戦わずして勝ったガンディーのあり方が理想らしいけどね
自分は在家であり、仏教のいいところ取りをしている日本人
武道をやってたし無抵抗はないかもな
そのいいところ取りで、この世の中で生きやすくなれた 信仰もやり過ぎるとただの盲信と化す。
信仰はそこそこにして運動なり仕事なり野良仕事なりで汗かいた方が心身ともに健康になっていいぞよ。 >>529
そういうのは創価に言えよ
プロト仏教は、神秘、超越性に委ねない
信仰の篤さは、執着
絶対視させる教えでない
執着でもって自我を強化させる >>530
プロト仏教で社会生活を送りながら心身ともに健康になれるの? >>531
なれるよ、生きやすくなる
出家しなくても、いいところ取りで十分効果あり
例えば、現代医学が効果ありと認めたマインドフルネス瞑想、
米国の大企業に取り入れられたり、うつ病予防やうつ病の薬物と同等の効果が
あるとエビデンスが出てる
中心となる教えは、>>442を参考に 私は上座の瞑想にも参加した
瞑想はじめる前に、知的準備はしといた方がいいね、意義が分かるので
例えば、禅と初期仏教と老荘思想が入ったエックハルトトールの本お勧め
人間の心について説き明かしている
さとり本とニューアースの2冊必読、いきなり専門書より楽に入れる >>533
頭のかたい人だな
入門者に優しい入門書を紹介した
なら中村元かテラワダのサイトで勉強してきなよ
なら何で上座部は在家に瞑想指導してるか分かるか >>533
プロト仏教といったら無我なんだよ
無我に沿った教えが、外人の本にベストセラーとして
あるのを紹介しただけ >>536
Sn.にある四諦は、大筋として共通している
大乗がプロト仏教なんて、学術研究上ない
全く同じでなく、他と比べ根本に一番近い >>1
キリスト教では、そうやって魔女裁判になったんかな >>538
大乗関係ない
上座部はプロト仏教ではない
プロト仏教は出家至上主義で私有財産といえは三衣一鉢だけの原始共産制システム
雨季以外は洞窟や木の下で生活する
欲望を可能な限りなくして執着を捨てる
そういう生き方をしてなおかつ社会生活生活を送れるのか?
それを両立させて心身ともに健康になれるのか?
もっともこんなことを2号に訊いても無意味だけどな
2ちゃんねるに書き込んでいる時点でパソやスマホを所有している2号がプロト仏教で心身ともに健康とかいうのはちゃんちゃらおかしいのだよ >>540
頭かたいよな
教えを抜き出して、いいとこ取りしてるって書いてるよね
ちなみに仏典に在家者が在家のまま解脱している話もある
君はこうでなければダメという思いに囚われ、
固執した思いの束縛からも解脱できてない >>541
だからそれはプロト仏教ではない
瞑想は仏教のツールだが仏教=瞑想でもない
プロト仏教の無我の解釈も上座部の解釈とは違うのかもしれないことはここでも散々議論されている
だいたいにして「いいとこ取りして苦滅」だの釈迦教団のやってきたことを馬鹿にしてるだろ
何のために彼らは世俗とは離れて暮らしてたのよ?
釈迦とその弟子は効率悪い人生を送ってたとでもいうのか?2号よ? >>541
>君はこうでなければダメという思いに囚われ、
>固執した思いの束縛からも解脱できてない
この言葉に固執してるのが2号、お前だよw
お前のレスは直ぐに分かる 現に、クソジジイのハッキング、遠隔操作には執念がある >>542
全く同じとは書いてないでしょ、今ある中では一番近い
無我の解釈?無我か非我の論争程度で、梵我一如でないことは確か
馬鹿にしてないよ、出家サンガは修行に専念できる環境でベストなのさ
だからって在家がその教えを一切かじってはダメなんて教えでもない
在家者がブッダの出家向けの説法で在家のまま解脱した話もある
だが現代人の環境で阿羅漢なんて無理に等しいよ
けど悟りには、四段階の階梯があって、一段階でもいったら違うよ
俗世心に染まった無知無明な人と異なり、生きやすさや恩恵を実感できるよ 梵我一如とはどういうことですか?
仏教について調べているのですがそのベースにあるインド哲学の世界観が理解できません。
アートマンとブラフマンについてだけでも良い... #知恵袋_
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11140405316 ヴァッチャは、仏陀に対し、このように尋ねた。
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「在家に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「在家に居て、天界に赴く者は、五百を越える。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「外道に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」
「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「外道に居て、天界に赴く者は、一人だけ居た。」
「ゴータマよ、それでは、その異教の法は、
天界に至るまでは、正しいと言えるのですか。」
「ヴァッチャよ、その法は、天界までは正しい。」
これを聞いた、ヴァッチャは、歓喜し実践した。
「中部経典ヴァッチャ三明経」 >>546
ググれば、たくさん解説が出てきますよ
>>547
律蔵大品には釈尊の成道から舎利弗、目連の帰依に至る経緯が書かれていて、
大品で重要な場面は、釈尊の説法に対する在家ヤサの反応と宮元氏が解説して
います
・在家ヤサが釈尊の説法で、預流の悟りを得る(中村元訳)
良家の子ヤサが一隅に坐った時に、尊師は彼に、〈順序次第に従った訓話〉を
説かれた。すなわち、施しの訓話、戒めの訓話、生天の訓話、諸々の欲望の患いと
害悪と汚れおよび出離の勝れた利益とを説かれた。尊師は、良家の子ヤサが、健全
な心・柔軟な心・偏見に覆われない心・喜び勇んだ心・澄んだ心をなったのを知っ
て、そこで〈目覚めた人々〉(諸仏)の称賛し給う教えの説示なるものを説かれた。
すなわち、苦しみとその原因と止滅と(止滅に至る)道(という四つの真理の説)
である。たとえば、清らかで汚点のない布が完全に染め上がるように、良家の子
ヤサには、その場において、塵なく汚れのなくなった真理を見る眼が生じた。
・ヤサは阿羅漢の悟りを得る
父のために真理が説かれている間に、良家の子ヤサは、見たまま知ったままに
(自分の)境地を観察して、執着が無くなって、心が煩悩から解脱した。そこで
尊師はこう思われた。「父のために教えが説かれている間に、良家の子ヤサは、
見たまま知ったままに(自分の)境地を観察して、執着が無くなって、心が煩悩
から解脱した。良家の子ヤサは、賤しい(世俗の)生活に戻って、前に在家の身
であった時のように、諸々の欲望を享受することはできない」と。(中村元訳) 重要なのはヤサは「良家の子」であったこと。
いくら在家でも、悪家の子では出家するしかないということ。 546、
梵我一如、か。
悟りとバカとが一体となる、ということである。
それは物体の問題ではない。 で、そんなこと色々言ってて仏教議論の局面で何か役に立つの?ここの人らの話。 私たちは、永遠不滅で形の無いプルシャ(意識、気づき)と、プラクリティ(根本的物質)の生み出した心(チッタ)と一体化してしまう傾向にある。ここにすべての苦の原因がある。
この一体化を離れ、プルシャのみが独立し、心のはたらきが止滅した状態がヨーガの目的であるサマーディと呼ばれるものである。 最近の仏教寺院の廃れ具合からして
日本人は仏教に付随する呪術(密教などの)
や知識を求めていただけで、
仏教そのものの教えにはあまり
共感してないのではないかと思える。
とくに仏教の教えの前提となる
一切皆苦などの世界観は本来
の日本人の価値観とまったく合わない。 >>557
正確でないね、無縁仏が増えてるし、形骸化した葬式仏教離れが起きて
いることは確か、そもそも高額戒名とか元来の仏教でないでしょ。
呪術とかは古代の迷信信仰で、護国仏教として取り入れたのは確かだけど、
元祖仏教は、呪術を否定しているし、密教は想像で創られた異端変容仏教で、
神秘不可知力に委ねないのが本来の根本仏教(心の教え、実践付)だったわけで、
苦を滅する方法を説いていた。流行りのマインドフルネスは本来の仏教がルーツで、
現代医療が効果ありとそれを取り入れているでしょ。
生老病死における苦、四苦八苦って言葉がある通りで、一時的な気晴らし気休め
の娯楽、快楽等でごまかしても常に欠乏渇望から逃れられないのは事実で、
その価値観という仮構の洗脳を疑えだからね、自殺者の多い日本、救えるのは、
本来の仏教にはありますよ。受験は勉強しないと呪術、祈りだけで合格できません。
密教はかつてのオウムカルトの連中が惹かれたものです。 そりゃこんな痛々しい世界で我慢なんてできませんよw >>558
2号君、マインドフルネスとて毎日継続して生涯実践し続けなければ一時的な苦滅で終わるのだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています