>>886

でも、よくよく考えると、
真正さ、つまり任意の事象を真正に書いているかどうか、Aさん自身もよく担保できない。
それは>>882で書いたとおり、Aさんの「真正さ」は

> 知識や経験、いま置かれている状況や社会の有様、自分の精神状況、デバイス、
> そういうものに左右されて成り立つ

ほかにも、使用している言語、文脈の理解力や言語スキル、身体的精神的な障がいや病気の有無、
成育歴、性別、自身や相手の社会的地位・階層、相手との関係、端的に「知力」、
そのほか無数の条件に拠っている。
受け取る側Bさんの「真正さ」も同じ。
もし文Xが真正であれば、いつでも誰が書いても同じ文になるはずなのに、
けっしてそうはならないのがその証拠。

よって「書く-読む」という行為は、たしかに「真正さ」に拠って成り立っているが、
「わたしは真正に書いている」ということも「わたしは真正に読んでいる」ということも、
実は証明できない。
Cという状況すらありうる(ことが示されている)世界ではもはや、
真正に書くこともできなければ真正に読むこともできない。

それでこのスレも、いつでもこんなふうなんだよw
稚拙で純粋なありもしない「真正さ」を争っているんだろうよ。
宗教が解体されつつある世界(正典すら無際限な真正さを認められない世界)では、
あまねく必然的にこうなってしまうのさw