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ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net

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0090老クリスチャン
垢版 |
2017/10/04(水) 18:26:52.33ID:U+k/VRcC
2005年(主日A年) 10月2日 年間第27主日
イザ 5:1〜7  フィリ 4:6〜9  マタ 21:33〜43

イエスはこの譬え話を、有名なイザヤ書のぶどう畑の歌からの引用によって語り始められました。
当時の聴衆たちが、主のぶどう畑がイスラエルを意味することをよく知っていたので、祭司長たちやファリサイ派の人々はそれが 「自分たちのこと」 であるとすぐに気づいたと報告されています(マタ 21:45)。

主イエスは間近に迫っていた御自分の死と、その後にやって来るユダヤ社会の瓦解を、この譬え話で予告されました。
初代教会の伝承の過程で叙述が幾分か押し広げられたために、ユダヤ人が退けられて異邦人が選びに入れられたという理解がより明確にされ、詩 118:22-23 の引用がキリスト証言のために付け加えられたと考えられます。
宗教的指導権は、今やユダヤの権威者たちからキリストの使徒たちに移ったというのが、初代教会の見解でありました。
0091老クリスチャン
垢版 |
2017/10/04(水) 18:27:25.72ID:U+k/VRcC
(つづき)
「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(マタ v.40)

神の国にふさわしいのは、この悪人どもではなくて、「季節毎に収穫を納めるほかの農夫たち」 であるというのが、この譬え話が意図する自然な結論でありました。
そして初代教会がユダヤ人を前者に、異邦人キリスト者を後者に当てはめて理解したことは言うまでもありません。
ただその場合、教会は “使徒たちの宣教” によって、そのような理解を得たのでした。

「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ 2:8)
「では、人の誇りはどこにあるのか。 それは取り除かれました。」(ロマ 3:27)

しかもこの理解は本来、イスラエルの信仰から受け継いだものであったことを忘れてはなりません。
すでに申命記は情熱を込めて述べています。
「あなたは、“私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった” と思ってはならない。 この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。」(申 9:4,7:6-8 参照)
ですからもし私たちが、ユダヤ民族は呪われた民、キリスト教に属する人々は神に祝福された民であるという単純な類型化によって神の救済史を理解しているなら、それは大きな誤りであると言わなければなりません。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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