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ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net
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0115老クリスチャン
垢版 |
2017/10/19(木) 13:04:00.85ID:kqYRv9rW
2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、私たちは知っています。 私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」(Iテサ vv.4-5)

使徒パウロはこのように書いて、テサロニケの教会のことを神に感謝しました。
マケドニアに渡って最初の町フィリピで投獄の難に遭ったパウロとシラス(シルワノ)は、テサロニケに着いて 「激しい苦闘の中で神の福音を語った」(Iテサ 2:2)のでした。
そして彼らは 「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(Iテサ 1:6)、来るべき怒りから私たちを救ってくださる復活のキリストが再び天から来られるのを、待ち望むようになったのでした(Iテサ 1:10)。

この福音は “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせるものであり、その完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げる” という実を結んだことを理解しましょう。
聖書が聖伝と共に現代の私たちに伝えていることは、教会がこのような救済史の中を旅する群であるということであります。
私たちが聖書に親しみ、ミサの中で “ことばの典礼” が正しくその役割を果たすとき、テサロニケの人々に働いたのと同じ聖霊は現代にも働いて、私たちに “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせてくださいます。
なぜなら福音は、復活して今も父の右におられる現在のキリストからの“良い知らせ” だからです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0116老クリスチャン
垢版 |
2017/10/19(木) 13:21:29.19ID:kqYRv9rW
2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

この物語りで、主イエスの対抗勢力であるファリサイ派の人々の判断基準は、“律法に適っているか、いないか”(マタ v.17)でありました。
そして恐らく伝承は意図的に彼らの口に 「神の道」(マタ v.16)という言葉を入れて、これを彼らの律法主義に対比させています。

使徒パウロはその改心前に、“この道に従う者”(使 9:2)を迫害しました。
エフェソの町でプリスキラとアキラが信徒伝道者アポロに伝授したのも、「神の道」 でありました(使 18:24-28)。
新約聖書で “道” とは、キリストの福音によって救済史の中に生きるようになることであり、“秘められた計画” を知ってその完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げていく” ことなのです。

聖書を読むこと、それも色眼鏡なしに素直に読むことが、日常の習慣とはほとんど無縁になった近・現代のキリスト者たちは、この “道” をキリスト教的な文化や思想、また道徳観や価値観に置き換えて理解して来ました。
そのような価値観や基準に “適っているか、いないか” に人々の関心が寄せられて、キリストの福音の内容である “秘められた計画” と教会を “造り上げていく” という目的に沿って歩むということは忘れ去られてしまいました。
0117老クリスチャン
垢版 |
2017/10/19(木) 13:22:53.60ID:kqYRv9rW
(つづき)
皇帝のものを皇帝に返すとは、ローマ帝国民としての法的、また道徳的な責務を果たすということですが、それは律法が要求していることではない。
だからその責務を果たしたからといって、神の要求をいささかでも満たしたことにはならない。
それは神に仕えることの免責理由にはならないと、そう初代教会は主イエスのことばを理解したようです。

律法にせよ他の価値観や基準にせよ、それに “適っているか、いないか” という判断の仕方と対比して、“神の道” を考えることの大切さを知りましょう。
「知恵のある人はどこにいる。 学者はどこにいる。 この世の論客はどこにいる。 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」 と使徒パウロは言いました(Iコリ 1:20)。
福音の前進に役立っているか(フィリ 1:12)、教会を造り上げるために益となっているかどうか(Iコリ 14:12,17,26)という視点が大切なのです。

「神のものは神に返しなさい。」(マタ v.21)

これまでしばしば教会は頭脳明晰なこの世の論客たちに振り回されて、無用な議論に引き込まれて疲れ果て、本来の “神のものを神に返す” ことをずっと後回しにして来たのではなかったでしょうか。
そのような私たちのありのままの姿を、復活のキリストは天から、また祭壇から御覧になっているのです。
今朝の福音朗読から、そのキリストの眼差しを感じることが出来る人は幸いです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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