>>879 Ann ちゃん

> >>869

>  ポッたん猊下、すでにジャンキー大山氏が答えてしまっているけど、 十牛図に「人牛倶忘」ってありますよね?

あれは知覚する「我」も、対象も消えて真っ白なわけです。 だとすると、何らかの体験をした「我」もあったらおかしいでしょう。

結局生きてる限りは、全部「我」「私」が知覚したり認識したりするわけで、 だったら、その亡霊みたいな「我」って何なのか? ということじゃありませんか?

何らかのことを観測できているのは、観測主体があるからです。 それが「我」ですよ。

客体をごちゃごちゃ言って主体(我)を追究しないのは、 禅とはいえません。 』

⇒ 華厳経に出て来るのが、十牛図だと思うけど、つまりは説明。
  たとえな、邪鬼さんを指摘して、尋牛(じんぎゅう)だ、とズバリ指摘するときなどは、分かりやすくて、使い勝手がいい、と思ったりするけどね。
  無我とは、空。
  存在するものをよくよく見て取れば、因縁によって結び合わされた物、であって、色と言う。
  人間は、おさないときは、無我そのものだったのに、これとそれが分別できるようになると、第一人称、二人称、三人称が、出る。
  いち、に、さん、だ。
  一の如し、と言う禅の真理さとり は、この いち、に、さん、が一の如し、との受け取りになる。
  これは、色はすなわち空である。

  色即是空は、空即是色、と還(かえ)る。
  これは、十牛図では、にってんすいしゅ、と言うのだろうね。
  布袋さんのような、大きなおなかの老人と少年の二人が、連れ立って街の中に入って行こう、としている図が充てられている。
  この老人と少年の二人が、
二は二では無い、
だが、二では無いが、二である、
而二不二 ににふに 不二而二 ふににに、ということである。

大切なことは、これとそれとあれは、一の如しである、と言う真理さとりを体得することだよね。