0879安堂拓海
2017/06/09(金) 02:07:35.35ID:wikl2MPgポッたん猊下、すでにジャンキー大山氏が答えてしまっているけど、
十牛図に「人牛倶忘」ってありますよね?
あれは知覚する「我」も、対象も消えて真っ白なわけです。
だとすると、何らかの体験をした「我」もあったらおかしいでしょう。
結局生きてる限りは、全部「我」「私」が知覚したり認識したりするわけで、
だったら、その亡霊みたいな「我」って何なのか?
ということじゃありませんか?
何らかのことを観測できているのは、観測主体があるからです。
それが「我」ですよ。
客体をごちゃごちゃ言って主体(我)を追究しないのは、
禅とはいえません。