>>869

ポッたん猊下、すでにジャンキー大山氏が答えてしまっているけど、

十牛図に「人牛倶忘」ってありますよね?

あれは知覚する「我」も、対象も消えて真っ白なわけです。

だとすると、何らかの体験をした「我」もあったらおかしいでしょう。

結局生きてる限りは、全部「我」「私」が知覚したり認識したりするわけで、

だったら、その亡霊みたいな「我」って何なのか?

ということじゃありませんか?

何らかのことを観測できているのは、観測主体があるからです。

それが「我」ですよ。

客体をごちゃごちゃ言って主体(我)を追究しないのは、

禅とはいえません。