本のすこでももう下記写すのは大変だから飛ばして(つづき)想像されたイエスのイメージを超えなければなりません。自分の神に
ついてそういうイメージが結局は邪魔になる。それが土壇場で結局は障害になってしまいます。もし自分なりのイデオロギー、
自分のちっぽけな思考形式に固執していると、神についてのより大きな経験がやって来たときーに、自分の心のなかにイメージに
しがみつくことによつて、それから逃げてしまう、それは自己信仰の保全として知られている態度です。精神は経験の様々な中心、
ないし元型的な階段を通じて向上する、という考えがありますね、人間は飢えと貧欲という原初な動物としての経験から出発し、
性的な情熱を経て、いろんな種類の肉体的・物理的な熱達や支配に至る。これらはすべて経験能力を強める段階です。しかし
そのあと経験が心臓に達し、他人や動物に対する慈愛の念が目覚め、自分と相手とがある意味では同じ生命を共有している存在
だと自覚するとき、精神のうちに全く新しい生命の段階が展開します。こうやって心の世界に開かれる。処女降誕はまさしく
その事を神話的に象徴しているのです。それは健康、生殖、力、そして少しの楽しみといつた単なる肉体的目的を追求する原初
的な動物的存在でしかなかった人間のなかに、精神的な生活が生まれることを意味しているのです。だが、ここでまたべつの
ものにぶつかる。こういう思いやり、他者との調和、さらに進んで他者との一体感を抱くということ、つまり心の中に新たに宿った
原理ー(つづく)次は明日に続けるか?何か疲れた私の意見も疲れたなんで続けなきゃいかんのか?