>>401 素人A さん

>  我々は旅旅困難に会うと段々 近何に慣れて来て、盲細かい事は気にしなくなる。
  悪い事が有れば 良い事もあるし 損なのまあよいか、と大雑把 いや大目に見ることが出来る様になる鴨しれない。
  つまり 大目に見れば雑という事でも ある小さい事は 盲ほつとけで。
  細かい眼に会う人は 大きな眼には会えないし、一方を見る説きは一方は暮らしでまあよいか?
  解らんでも なるように鳴っている空

   無門関 三七   庭の柏の木

  趙州は、坊ずに、「ダルマさまはどんなつもりではるばるインドから中国へやってきましたか?」
  ときかれ、いうには
  「庭のあの柏の木さ。」
  
  柏の木の出てくる別の公案にこんなのがある。
   じょう州に一人の僧がたずねた。「柏の木には仏性がありましょうか、ないでしょうか
  」大師「ある」
  僧「では柏樹は何時成仏するのでしょうか」
  大師「虚空が地に落ちるまで待て」
   僧「虚空は何時地に落ちるのでしょうか」
  大師「柏の樹が成仏するまで待て」

?この公案に親切な答えがあるような?
つまり「達磨が中国に来たのは・・」とたずねた僧は悟りが頭に登りすぎて落ちがつかなかつたのだ。
落ち着けで落ちなさいというネタかつまり、空ばかりでは何の役も立たない。
空即是色で柏の樹になつた?
道元はこう言っている?
悟ってもすぐ元の木阿弥になる身である
空それでは一生懸命修行した成果我無いもし、その成果があるなら柏の樹や境とつべこべ言うことは無い?
いつの間にか私の妄想にすり変わっているけど、
悟っても可愛い我が身が用が無くなると、ついつい文句もでるのか
わからんネタも落ちつかず、だらだらとなった・・・  』

⇒ わたしたちは、ものごころがついて以来、右か左か、AかBか、前後か上下か、とどちらかのひとつを選び取る判断をし、行動する。
  それが色の世界、現実の日常生活である。
  禅の公案は、その色の世界を言っているのではない。
  AかBかの分別のないところ、無分別の空を言っている。
  空とは何か、を問うている。
  空とは、何を言ったものだろうか。