日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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' ー── ' 老クリにとって他者というのは
自分がラビ面したりする対象であり踏み台なんだよなー
だから老クリがユダのように口づけしに近づいてきたら逃げろよ
道具として利用されるぞ 老クリさんは眼差しが悪いですよ。
カトリック教会に通っていると、ブログのトップに書いてありますね。
ミサに与って、何を観ているのかというと、キリスト教としておかしいところを
探しているのです。若い神父様の揚げ足をとろうと試みた投稿もありましたね。
善くしようとして書いたのではなく、自分が詳しいだとか、虚栄のために
「自分のことを思って」それを書くのです。
カトリック信徒を観るときには、「みなさん、この人からは何を学べるだろうか?
という意識をもって観てください」という主旨のことも書いていました。
そして「2年?もすれば、もうその人からは何も学べないということがわかるのです」
だったでしょうか。「もって、2年」というような、ニュアンスのことが
書いてありました。マムシの目と心を持つ者・・。
老クリさんもまた「レギオン数千体入ってる」シールが背中に貼られた者!と、
叫びたくなってしまうのです。 2005年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16 Iテサ 4:13〜18 マタ 25:1〜13
今年も典礼歴の最後の三主日の日課を学ぶ時を迎えました。
私たちはこの期節に、聖書の中から終末についてのテキストを学びますが、それは主の日の到来に備えるということが最初から使徒たちの宣教の主題であったことに、私たちが注目するためです。
十人の乙女の譬え話の結論は、「だから、目を覚ましていなさい」(マタ v.13)であり、その理由はキリストの再臨が確かに近づいていることと、その日がいつであるとも知れないからです。
このような勧告が初代教会に広く教えられていたことは、使徒パウロの手紙からも、福音書からも十分に知られます。
再臨を待っているのは御子の血によって贖われた民である教会であり、使徒を初めとする群の指導者たちには 「忠実で賢い僕」(マタ 24:45)となることが主から求められていました。
この譬え話の花婿は明らかに再臨の主イエスであり、その到着が神の国の来臨であることは確かです。
その日には愚かな乙女たちは神の国から閉め出されます。
「御主人様、御主人様、開けてください」(マタ v.11)との訴えに返ってきた答えは、「はっきり言っておく。 私はお前たちを知らない」(マタ v.12)でありました。
この主題は マタ 7:21-23、ルカ 13:22-30 でも取り上げられています。
使徒たちは、現代人が考えるような意味での主イエスの歴史的回想を語ったのではなく、そうではなくて聖霊と復活の主に導かれて、最後的世界の危機である主の再臨に備える訴えを、主の多くの譬え話に読み取ったと理解するのが適切であるように思われます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>182 >>175-176 >>135-136 >>126-127 > >>122 >>96-97 >>91
老クリスチャン 降臨
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' ー── ' >>180
> 老クリにとって他者というのは
> 自分がラビ面したりする対象であり踏み台なんだよなー
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IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38
「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神 ・・・・・ が」(IIテサ v.16)
新約聖書で “永遠” と翻訳されているのは αἰών であって、“世” と訳される場合には “この世” と “後の世” の両方に使われる言葉です(マコ 10:30)。
“永遠の慰め、希望” というのは “永遠の命” の場合と同じく、後の世すなわち来るべき神の国の慰め、希望、命のことを言っているのです。
近代人の多くは、聖書の語る復活も来るべき神の国も本気で信じなくなったために、新約聖書で使われている “永遠” の意味が理解出来なくなってしまいました。
実際、主の祈りの副文を締めくくる “国と力と栄光は、限りなくあなたのもの” や、ニケア・コンスタンチノープル信条の中の “その国は終わることがありません” が何を意味しているのかを理解している信者は稀少なのです。
しかし、この神の国を待ち望む “希望と慰め” という前提を抜きにした “善い働き、善い言葉”(IIテサ v.17)がいくら語られても、それは福音の宣教にはならならないし、そのような説教から人々が “神のことば” を聞くことは、決して起こり得ません。
このように、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタ 22:14)のです。
しかしそれにもかかわらず、カトリック教会には “委ねられた信仰の遺産”(カテキズム/使徒憲章)があることに信頼し、
“わたしたちの罪ではなく教会の信仰を”(教会に平和を願う祈り)主が顧みてくださることを願って、私たちは 「静かにささやく声」(王上 19:12)に耳を傾けようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨
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∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ いつも面白いAAだが、今回のはイマイチ練られてなかったかな? 個人的な希望としては、キリスト教なんていう集金団体に所属しなくてもいいから
すべての日本人に聖書をひととおり読んでもらいたい それだけでいい 2002年(主日A年) 11月17日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「主の日」 という語は、新約聖書では二つの意味で用いられています。
一つは、教会が一つに集まって共にミサをささげる “週の始めの日” のことです(黙 1:10)。
私たちはこの用法にしたがって、日曜日のことを “主日” と呼んでいます。
もう一つは、 Iテサ v.2,v.4 の、キリストの再臨の日を指す用法です。
これはまた 「キリストの日」(フィリ 2:16 )、「人の子が現れる日」(ルカ 17:30)などとも呼ばれています。
キリストの福音の光りに照らされて生きている人は、この日に向かってその人生を歩みます。
「しかし兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。 ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。 わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。」(Iテサ vv.4-5) (つづき)
しかし現代のキリスト者である私たちは、ここで重大な反省を迫られていると言うべきでしょう。
なぜなら、私たちがこれまで聞かされて来た20世紀の教会の福音の説教からは、この “主の日の到来” という部分が事実上抜け落ちていたからです。
私たちは殆ど全く、“生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト(IIテモ 4:1)の福音” を聞くことがありませんでした。
福音とは、「来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」(Iテサ 1:10)に関するものであることを、会衆は殆ど知りませんでした。
しかし、新約聖書によればキリストの福音は明確に、今や迫り来たりつつある神の国の福音であります(マコ 1:15)。
21世紀の教会は、この福音の光に照らされて歩む 「光の子、昼の子」 とならなければなりません。
「盗人が夜やって来るように」(Iテサ v.2)到来する主の日のことを無視して安眠していてはならないのです。
私たちは神の国の福音に目を覚まして、21世紀の教会を造り上げて行くようにと、神から期待されているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 老クリさんのマルチポストって、内容がデタラメなの? これを信じることが条件です。
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
信じられなければキリスト教徒にはなれません。 2014年(主日A年) 11月16日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと精算を始めた。」(マタ v.19)
五タラントンと二タラントンをもうけた僕たちに目が行きがちですが、むしろ預かったタラントンを地の中に隠しておいた僕こそがこの譬え話の中心人物であることを見落としてはなりません。
彼は “主人が帰って来る精算の時” という復活の日の救い(フィリ 2:12,16)を、恐らく本気で信じてはいない人でありました。
彼にとって大切なことは、ただ “死後、刑罰を受けることにならないように” 用心することだけのように思えたのです(マタ v.24-25)。
つまり彼は、使徒たちが宣教する福音を理解せず、その人生は “主人が帰って来る精算の時のことを思って、目を覚まして用意している”(Iテサ 5:6)というものではなかったということです。 (つづき)
「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。」(マタ v.30)
神を、そしてキリストを、全く誤解している信者が、初代教会にもいたのだという事実を、現代の私たちはこのようなテキストから窺い知るのです(マタ 13:50,22:13,24:51 参照)。
すでに半世紀以上前から私たちは、教会の聖職者でありながら “神が信じられない” と公言するような人々の噂を聞くようになり、最近はさらにそのような人々の数が増えたように感じています。
しかし、それくらいのことに驚いていているのは、まだ無邪気なことであって、それよりももっとはるかに悲惨な信者が教会にはいるのです。
神を、そしてキリストを、全く誤解している信者がいる! 終わりの日に、神の裁きの座から退けられて、“神様、それはないよ ・・・、そんなはずではなかったのに ・・・ ” と、そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう信者が ・・・・・ 。
毎年典礼暦の最後の三主日が、“終わりの時” に心を向けるために用意されていることを、感謝しようではありませんか。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブ 4:7)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>201-202
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
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(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
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人 2014年(主日A年) 11月16日 年間第33主日
箴 31:10〜31 Iテサ 5:1〜6 マタ 25:14〜30
箴 vv.10〜31 の中から、読者は気に入った節を取り上げて、自由にいろいろな教訓を引き出すことが出来ます。
箴言のようないわゆる “知恵文学” と呼ばれるものは、特にそのような性格を持っています。
“主を畏れる女こそ、たたえられる”(箴 v.30)とは、女性信者の理想の形でありましょう。
“有能な妻を見出す”(箴 v.10)ことは男性にとっての理想であるに違いありません。
“夫は名を知られた人で”(箴 v.23)ということは妻にとっての栄誉であります。
しかし、世の中そんなにうまく行かない、それよりも現実は厳しいというのが、おおかたの実感でありましょう。
ましてこのようなテキストを根拠に、古い ”良妻賢母” とか “妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けあり” などという価値観を弁護するとしたら、それは聖書の読み方としては的外れなことです。
ここに “有能な妻” として描かれているのは、言うまでもなく神の民イスラエルの理想像であって(ホセ 2:21-25 参照)、それはキリストの花嫁である教会の完成形に他なりません(黙 19:7-8,21:2 参照)。
地上の教会で共にミサをささげている私たち会衆が、やがて天の神殿で神を礼拝する “白い衣を身に着けた大群衆”(黙 7:9)と、間違いなく同一あると信じることの出来る信者は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 >>194-195 >>201-202 >>207
老クリスチャン 降臨
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> 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!!!<
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あほなこと言うな。 キリスト教やヤーウェ(ユダヤ教)は不動明王に非常にだまされやすい。
西洋の分析では見抜けない所から、嘘おおげさ紛らわしい術他を不動は仕掛けてくる。
だから西洋が東洋の術を見破るにはKSAから東洋のよくよく仏陀になったものを何体もつれてこなくてはならない。
東洋でもアマテラスみたいに浅知恵だとだまされている。(例えば今まであたった霊媒師達が私のことを
こぞってわるくいってるのにひっかかていたが、それらは全員不動の術中にはめられてる者たちだった。
釈迦でもだまされていた?ことがある。
過去にキリストはだまされて神戸の地震をおこしてると霊媒師に何件も聞いたし、
ヤーウェは不動にだまされたまんま豊田にいやがらせをした。そしてだまされたまんま
どちらもこっちの邪魔をしてくる。だから不動はみんなおがんじゃいけないし
不動はもはや悪い方へ行ってしまったのではやく上の神仏が弁償大きくとって抹消しきらなきゃいけない。
イルミナティも不動のわけ御霊だといっていた霊媒師がいたので同じ。
今後もこんなことが続くようならクリスマスも祝って栄えるに値しない。
もちろん初詣も不動関係の神社には絶対いってはいけない。みんな嫉妬でつぶしあいになって
ダメにされてしまう。 >>1
日本もキリスト教を盛んにしようよ。
あほなこと言うな。 >>1
日本もキリスト教を盛んにしようよ。
あほなこと言うな。 >>1
日本もキリスト教を盛んにしようよ。
あほなこと言うな。 >>1
日本もキリスト教を盛んにしようよ。
あほなこと言うな。 >>200
> これを信じることが条件です。
>
> 「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
> 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
> 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
> ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて
> 死に葬られ、陰府(よみ)に下り、 三日目に死者のうちから復活し、
> 天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
> 生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
> 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
> からだの復活、永遠のいのちを信じます。」
>
> 信じられなければキリスト教徒にはなれません。
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く__,.ヘヽ. / ,ー、 〉
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/`ー' L//`ヽ、
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イ / /-‐/ i L_ ハ ヽ! i
レ ヘ 7⌒ ,___, ⌒ )ト、!| |
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レ'| i>.、,,__ _,.イ / .i |
レ'| | / k_7_/レ'ヽ, ハ. |
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私たちは主日のミサの中で、説教の後に一同で起立して、必ず 「信仰宣言」 を唱和します。
カトリック教会では、永らく幼児洗礼が入信の通常の形であって、多くの信者が(いわば)生まれながらのカトリック信徒でありました。
成長して学齢に達する頃に、簡単なカテケージスの後に堅信の秘跡を受けて、ミサで聖体を拝領するようになったのです。
彼らにとって 「信仰宣言」 は、いつものミサで唱える決まり文句に過ぎず、改めて自覚的に 「信仰」 というものを深く考え、反省するというような人は、滅多にいませんでした。
初めてカトリック教会の門をたたく成人が、これから信仰を持ちたいと思うとき、しばらくすると、先輩のカトリック信徒からはほとんど何も学ぶことが出来ないことに気づくようになります。
彼らは 「信仰宣言」 の旗印の下に、同じ一つの信仰を守って結束している共同体ではなくて、ただのカトリック的文化を共有する(建前上)善意の人々の、寄り集まりに過ぎないと気づくからです。 【信仰とは A】
第二バチカン公会議は、古代教会の時代に倣って、「数段階に分けられる成人の入信準備制度」 を復興しました。
それが 「儀式書 成人のキリスト教入信式」 に取り入れられています。
そこには三つの段階が定められていて、その第一段階である 「入門式」 で、先ず 「求道者」 となります。
この 「入門式」 の中で、次のような問答が行われます。
司 ○○さん、あなたは教会に何を求めますか。
答 信仰を求めます。
司 信仰によって何が与えられますか。
答 永遠のいのちが与えられます。
そして、説教の後に、「主の祈りの授与」 が行われます。
「この祈りは古代から、神の子どもとされた人々の祈りであって、将来、感謝の祭儀で信者とともに唱えるものである。」 >>234
>彼らにとって 「信仰宣言」 は、いつものミサで唱える決まり文句に過ぎず、
>改めて自覚的に 「信仰」 というものを深く考え、反省するというような人は、
>滅多にいませんでした。
どうして判ったのでしょう。
・・・。
「レギオン入ってる」シールが背中に貼られた者の「しっぽ」を出しましたね。
あなたが兄弟へ向けるまなざしはマムシの目ではありませんか。
そして事実「よそ者」の目と心を持つあなたを、「よそ者」であるかのように
観るカトリック信徒の方が悪いかのように、「すり替え」て、ブログに
書いておられましたね・・。 神学の勉強は犠牲(いけにえ)ではありませんか。自分に栄光を帰すために
自分に有利な「信仰のモノサシ」を自他にあてたい・・。リアルでは気づいた
キリスト者がいても、老クリさんに直接言わなかったのですよ。
マタイ傳 第十二章 七
「われ憐憫(あわれみ)を好みて、犠牲(いけにえ)を好まず」とは如何(いか)なる
意(こころ)かを、知りたらんには、罪なき者を罪せざりしならん。 ____
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人 【信仰とは B】
第二段階の 「洗礼志願式」 の中で 「信条の授与」 が行われます。
ここで初めて 「洗礼志願者」 は、主日のミサで唱和する 「信仰宣言(信条)」 を公式に授けられるのです。
そして第三段階の 「入信の秘跡の祭儀」 の中で、洗礼に先立って洗礼志願者一人一人が 「信仰宣言」 をします。
儀式の上では、簡略化された形の問答形式で行われますが、言うまでもなくその実質は 「信条」 に他なりません。
使徒パウロは、弟子テモテの洗礼式での、かつての信仰宣言を思い起こして、次のように書いています。
「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(Iテモ 6:12)
それは、キリスト御自身の 「立派な宣言」 に、信仰によって一つに結ばれるものでありました。(同 6:13)
自覚ある成人が、もし良い準備を経てカトリック教会に入信するなら、その人にとっての 「信仰宣言」 は、古い信者さんたちの 「いつものミサで唱える決まり文句」 とは、全く別のものになるのです。 【信仰とは C】
「信仰の特徴」 を、三点だけ取り上げたいと思います。
(1) 先ず、「神を信じる」 とは、自分自身を神に委ね、神ご自身に帰依することです。
カテキズムの言葉を借りれば、「キリスト者の信仰は神への人格的な帰依と、神が啓示された真理への同意です」 と言うことが出来ます。
あれやこれやの規則や習わしを守るというような、些細な行いをいくら積み上げても、それで 「神への人格的な帰依」 という信仰に至ることは出来ません。
主イエスは、イザヤ書を引用して警告されました。
「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」(マコ 7:6-7) ____
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人 >>234-235 >>241-242
老クリスチャン 降臨
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○ .┃ `、,~´+√ ▽ ',!ヽ.◇ ; o┃
. ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛; とある霊媒師の話じゃキリストは現在何とか大丈夫そうだがキリスト教が不動教(実は何万年と
悪いことをやってきた)に洗脳され悪事をやっている。それらをどけ3倍ぐらい自主的に弁償し
てこない限り、上(神仏界)で強制的にに弁償させられ最悪抹消させられるだろう。
もちろんクリスマスの栄えもそれなりに落ちてしまう。初詣はもちろん不動のまつってある
神社にいってはいけない!例え一見幸福になったように見えても不幸が着きもまとう。 【信仰とは D】
(2) 信仰は、神の賜物です。
信仰というのは確かに人間的行為、人間の知的行為ですが、決して人間が自分の能力で作り出すものではありません。
啓示憲章は、次のように述べています。
「このような信仰が生じるためには、それに先立つ神の助力の恩恵と聖霊の内からの援助が必要である。
聖霊は心を動かして神に向かわせ、知性の目を開き、『真理に同意してこれを信じることの甘美さをすべての人に』 与えるであろう。」
(3) 信仰は、個人の主体的な行為でありますが、それは同時に教会の行為なのです。
言い換えれば、人は信仰を教会から与えられ、洗礼によって主体的にその 「教会の信仰」 に参加するのです。
教会の公同の信仰とは別に、自己流の信仰を主張する人は、「交わり」 というものを理解していない人です。
感謝の典礼 → 交わりの儀 → 教会に平和を願う祈り → 「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、・ ・ ・ 」 【信仰とは E】
ここで、「信条」 が三つの部分から成っていることに言及しておきたいと思います。
第一は 「父」 への信仰宣言、第二は 「子なるキリスト」 への信仰宣言、そして第三が 「聖霊」 への信仰宣言です。
このような三位一体への信仰が、古代以来のすべての信仰宣言を貫いているのです。
すでに信条の本文は、はるか昔に確定したものなので、それぞれの成立時の事情を反映していて、現在もそのままの形で伝えられています。
ローマ教会の古い洗礼信条であった 「使徒信条」 は、特にこの三位一体への信仰宣言という形式を重んじています。
信仰が神への人格的な帰依であることを意識して、父と子と聖霊に対してそれぞれ Credo in (Believe in) という表現が使われているのです。
そして、「聖なる普遍の教会」 以下については この in が付けられていません。
つまり、この部分の全体が、聖霊の御業として、聖霊への信仰宣言の内容になっているということです。
ニケア・コンスタンチノープル信条については、ローマ教会のラテン語本文では、やはりこの部分に in が入っていません。
ところが東方教会のギリシア語本文では、in に相当する “エイス” が、教会に対しても用いられています。
現代の、英語訳の信条でも、この in のついた翻訳が使われています。
きっとこの違いは、その昔の本文成立時の事情(用語法への拘りの違い)によるのではないかと思われます。 ____
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人 2011年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ v.33)
この 「分からない」 ということを、人間の弱点、さらに言えば人間性の欠陥、つまりマイナスの要素と解釈する人たちが、歴史の中には繰り返し存在しました。
そのような人たちは、何らかの超人的努力や霊感によって、“終末の到来する日時を予言” しようとしました。
もちろんそれが当たったためしはないのですが、多くのクリスチャンがそれによって動揺させられて来ました。
聖書を素直に読めばすぐ分かることですが、主が聖書を通して私たちに呼びかけておられるのは、「目を覚ましていなさい」(マコ vv.35,37)ということなのです。
“御国の出現する日、生きている者と死んだ者を裁くためにキリストが来られる日”(IIテモ 4:1、各信条 参照)を待ち望むことは、普段は忘れていて、一生に一二回だけ思い出せばよいという事柄ではないのです。
そうではなくて、教会にとっては待ち望むことが希望であって(ロマ 8:24、ヘブ 11:1-2)、その希望の中で私たちキリスト者一人一人には復活のキリストが、信仰によって歩む(IIコリ 5:7)という 「仕事を割り当てて責任を持たせ」(マコ v.34)てくださっています。
“ミサを生きる”(ミサ典礼書の総則 初版の序文)ことは決して片手間仕事ではない、信仰の生涯をそれに賭けることなのです。
主が最後まで私たちをしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、一人一人を非のうちどころのない者にしてくださいますように(Iコリ 1:8)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2014年(主日B年) 11月30日 待降節第1主日
イザ 63:16b〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「気をつけて、目を覚ましていなさい。 その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ v.33)
「だから、目を覚ましていなさい。 いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」(マコ v.35)
聖伝と聖書は、神が歴史を通して示された啓示を伝えるものであり、天地創造の御業から始まって、最後にはこの終わりの時代に御子の受肉と受難、そして死と復活によって語られた啓示を証言しています。
神の啓示に関する教義憲章は、この歴史的啓示を取り上げて論じた上で、“われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない”(4)と、明確に述べています。
この啓示は “信仰によって”(ロマ 9:32)だけ知ることの出来るものであって(エフェ 1:17-23 参照)、イエスと行動を共にした弟子たちも当時は理解せず、復活の主にお会いして初めて信じたことを聖書は証言しています(ヨハ 2:22 参照)。
そのことは、それに続く時代のすべてのキリスト者にも当てはまることであって、それ故に “目を覚ましていなさい” と言われているのです。 (つづく)
言うまでもなく、それは信仰に関してのことであって、キリストの福音を正しく理解していることから切り離すことは出来ません。
つまりそれは、肉体的に眠らないでいるという意味ではないし、ただの処世術としていつも用心深く緊張していなさいという教えでもありません。
まさにそれは、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(マタ 24:40)終わりの日のために、“用意している” ということだからです。
復活の主の宣教命令が、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マコ 16:15)となっていることから、かつての西欧世界はキリスト教が全人類を支配するときがやがて来ると、安易に夢見ていました。
しかしそれは聖書の誤った解釈であって、使徒たちは彼らの宣教に、“招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない”(マタ 22:14)というイエスの言葉を付け加えることを忘れませんでした。
現代の教会は、“命に通じる門を見出す者は少ない”(マタ 7:14)という厳粛な事実に直面させられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2014年(主日B年) 11月30日 待降節第1主日
イザ 63:16b〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「あなたがたは ・・・・・ わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(Iコリ v.7)
教会の宣教は、“神がかつて預言者によって、 ・・・ この終わりの時代には御子によって語られた”(ヘブ 1:1-2)歴史的啓示に基づくものでありますが、
この啓示と訳されているἀποκάλυψιςが新約聖書で使われれる場合にはいつも、終末的な、主イエスの再臨という意味で用いられています。
教会は、“聖なる者とされた人々”(Iコリ 1:2)を主が、“わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださる”(Iコリ v.8)ことに、信頼しているのです。
使徒たちの時代にも、その後の歴史の教会においても、啓示は信仰によってだけ知ることの出来るものであって、それ故にアンナスもカイアファも、ヘロデもピラトも、イエスが王の王であることを知ることなく彼を処刑しました。
しかし、主イエスの現れの日には、すべての人が信仰のあるなしに関わりなく “大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る”(マコ 13:26、黙 1:7)ことになるのです。
教会は毎年典礼暦の最初を、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと会衆一同が心を向ける期節とし、そのような意図に基づく主日のミサの朗読配分に耳を傾けて来ました。
それは信仰によることであって、いわば “今は、鏡におぼろに映ったものを見ている” けれども、“だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる”(Iコリ 13:12)ことを期待しているのです。
それは信じない者たちにとっては “滅びの徴”、信じる者たちにとっては “救いの徴”(フィリ 1:28/フランシスコ会訳)であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ____
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