鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 3 [無断転載禁止]©2ch.net
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まこととかいう者が、遠隔操作をして、勝手に
スレッドを建てていたらしく、このスレッドが
建てられなんだのじゃ
引き続き、悟りを語り合うのじゃ 鬼和尚様、別スレで読んだんですけど。
鬼和尚の法華観は
悟りを知らない人らが編纂したって感じなんですか
ほかの大乗経典も同じ評価でしょうか あと英語勉強してるんですけどリスニングやリーディング、
仏教的に考えて上達する方法ってありますか
人それぞれっていうのもあるとは思うんですけど
心の原則? から考えられる大道が知りたいです、語学勉強の。 >>212
所持金50,000位持って数ヶ月海外に行けばいいんだ☺️
人間いざとなったら大概のことはできるんだ🙋 >>211 そのようなものじゃ。
身分差別がいかんことも知らなかった者たちなのじゃ。
空と観るのは役に立つがのう。
その他は見習わないほうがよいのじゃ。
>>212 お経には何度も何度も同じ文が繰り返されているのじゃ。
これは初期には紙に書かないで、僧たちが一所懸命記憶したからなのじゃ。
何度も何度も繰り返すと自然に覚えてしまうのが人の脳なのじゃ。
テレビのコマーシャルなども特に注意しては居なくとも覚えてしまうのじゃ。
記憶しようと頑張らないで、ただ単に繰り返すとよいのじゃ。
それが大道なのじゃ。 >>214
具体的に言うとどの経典が身分差別をしてますか? 身分差別をするなというのは無理な話なんだ🤔
みんな等しくぽかトンになれることなんてなかなかないんだ😫
身分が消えても差別は残るし😐
差別は人の心の根底に深く根付いているんだ😠 それが問題なんじゃなくて、鬼和尚は読まずに経典批判する差別をしてんだよ
例えば維摩経は出家在家の差別無く得道出来ることを説いてるし、法華経は二乗や女性や改心した元悪人や、果ては物怪まで得道出来ることを説いてる
何回も生まれ直す必要も無くなね
そもそも大乗経典の立場は、衆生漏れなく既に仏と説いてる
どうして差別があろうか 素直に差別してるのもあれば差別をできるだけ無くしてるのもあると思うんだ🤔
むみぃは本は小説か漫画しか読まないからわかんねぇんだ☺️ >>222
多分機種依存文字だね
仏教経典は初期から大乗まで
スッタニパータ
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
をほぼ一貫してる
この場合バラモンとは単に聖者の意味で使われてる
そもそも人の苦悩や生き死にに、人種や門地や性別や年齢などの差別が無いから、
それに応ずるには仏に差別が有ったらお話にならない
仏の境地は無分別だしね
悟りをまだ知らない人に、その道を教える経典なのに、既に悟ったと自称する鬼和尚がこれらを理解できないとすればヤヴァいよヤヴァいよ >>223
それならみんなバラモンになるんだ🤔
生まれでバラモンになれるか決まらないならむみぃならバラモンになると思うんだ😠 >>224
賎しいか賎しくないか、バラモンかバラモンじゃないかは、その人の為された行為で決まると言ってるんだよ
聖者に成りたいならそう言う修行をしないとね
釈迦の時代こそカースト絶対の差別社会で、全員生まれた家系で身分や職業が決定してて、自分勝手に変えたら身分や職種の詐称を問われ、良くて追放、悪いと死刑だったとか
仏教はそれと真っ向対峙して改革しだした新興勢力だったんだよ >>225
なんか微妙なんだ🤔
やっぱり本に書いてあるのは空論なんだ😭 >>218 法華経にもあるじゃろう。
十四章安楽行品に、旃陀羅、猟師などには近づくなとか書いてあるのじゃ。
旃陀羅は殺傷をしているわけではないのに生まれだけで、殺傷を生業にする者たちと同じ扱いなのじゃ。
>>220 他人が経を読んでいないように見えるならばもしかするとおぬしが読んでいないのかもしれん。
女子は法華経では一度男にならなければいかんというのじゃ。
男になりたくない女子は悟れないのじゃ。
人類の半数は悟れないと大乗はいうのじゃ。
華厳経では男も何度も生まれかわり、何劫も修業しなければいかんというのじゃ。
経典の通りならば実際には誰一人いまの世で悟りを得られないのじゃ。
実際には禅の者が何人も悟っているがのう。
>>227
むみぃはしがないただのトンスラーなんだ😊 デパスか
まこと君
おまえは、蓋をしなくてはいけない蓋を開けて
分裂病の鬱がバレちまったなww >>228
>法華経にもあるじゃろう。
>十四章安楽行品に、旃陀羅、猟師などには近づくなとか書いてあるのじゃ。
>旃陀羅は殺傷をしているわけではないのに生まれだけで、殺傷を生業にする者たちと同じ扱いなのじゃ。
それは確かに書いてありますが、法華経では推奨される修行が大まかに受持・読・唱・解説・書写であり、
これらを行っても良い環境として、政治家や役人の長に親しく近づかないとか、異教を以てこの理法を弾圧してくる人々に近づかないとか、
危険な遊び等を躊躇しない人々に近づかないとか、カースト最下層の教育が行き届いていない人々に近づかないとか、
自分の悟りだけを求める出家男女在家男女に近づかないとか、或いは一人で居室に居る場合でも妄想に耽らないとか、
これらは全て、成仏得道の妨げになるので、未だ得ざる身を以て自ら好んでこれらに入るのは危険だからやめろ、との教示なんですよ。
向こうから来るものは拒めませんから、或いは話をしなければならないかも知れませんが、その場合でも言い張ったり押し付けたりしない旨が
教示されてます。
これを不当な差別だ、と観るのは自由ですが分からない内は無学ではないと言う事になります。
>他人が経を読んでいないように見えるならばもしかするとおぬしが読んでいないのかもしれん。
これは失礼しました、しかし、読書と体得は別だと思われます。
ただの読書だと行間が読まれませんから体得出来ないでしょうし、体得には行間をもちゃんと読まねば分からないかと。
>女子は法華経では一度男にならなければいかんというのじゃ。
今風に平たく言うならば、「頑張った自分にご褒美」「綺麗は正義、可愛いは正義」、これらは雑誌等が作った言葉ですが
これに参ずる女性が多いからこそ生み出された殺し文句なのではないでしょうか。
「欲」に関して言うならば、女性は男性の比にならないほど強欲と言えるでしょう、その女性特有の性質を克服せよとの含意がその意なんですよ。
>男になりたくない女子は悟れないのじゃ。
覚ったら男女の別など無いでしょう。
欲を直視し対峙し克服したくない人は全人類の半数より多いと思われます。
欲を統御したくないと仰るなら、この部類に入ると言えるのでしょうね。 >>228
>華厳経では男も何度も生まれかわり、何劫も修業しなければいかんというのじゃ。
>経典の通りならば実際には誰一人いまの世で悟りを得られないのじゃ。
鬼和尚さんが、仏法に於ける生死の問題を、全く解決出来てない人である事がこれで完全に解りました。
ありがとうございました。
鬼和尚さんは法華経を云々する前に先ず、生死とは何かを体達された方が良いと思われます。
スマナサーラさんの講義ですが、仏教全体で言わんとする生死の真実を簡略説いておられます。
https://youtu.be/L6ghzoueVfk?t=952
釈尊が生まれ変わり等を質問されて否定しなかった本当の理由も、或いはこの講義で理解できるかもしれません。
分からなかったら、もう数年かかるかも知れません、望む限りはいつかは必ず判ると思いますよ。 スマさんの動画も踏まえて、補足します。
>華厳経では男も何度も生まれかわり、何劫も修業しなければいかんというのじゃ。
華厳経も法華経と同じ様に、経典全体を方便で構成させた経典です。
宇宙的な場面もあるのは、華厳経自体が寂滅道場会より逝多林会に至るまでの会座の話で
それは瞑想中の瞑想内容を舞台としている方便の教えだからです。
これが法華経だと二処三会といって、霊鷲山と虚空との二処で三回会座が開かれます。
こちらも瞑想中の瞑想内容を舞台とした、全体が方便の経典です。
それらを踏まえて読み直すと、違った理解があるかも知れません。
先ほどのスマさんのたとえ話は、聴衆が経典等に通じてるとは限らない・異教の人も居ると予想できる観点から絶妙な選択だったと思われます。
これを、仏教の教義ではどう説いてるかと言えば、十二の連なり・十二因縁と言う形で表現され教示されているのは有名でしょう。
無明に縁りて行起こり、行に縁りて識起こり、識に縁りて名色起こり・・・ と言うアレです。
これをぶっちゃけスマさんの動画を踏まえて我々に当てると、端的に言えば12回の生死を繰り返して老死の苦悩があるのだ、となるのです。
無明や行や識などの十二個一つ一つ各々、これが一生の連なりなのです。
無知(無明)を打開出来ねばこの十二生をほぼ無限に繰り返す無間の輪廻に落ち入ります。
ここから解脱するのが仏教の教えたい本文であり、その方法が色々脈々と手を変え品を変え説かれていると言う訳です。
スマさんは、これを一般の人に理解可能な例えを使って話をしていたと言うだけなんです。
我々の避け難い苦悩のメカニズムは、この様に生死と言う一般的な一生への誤解の解消から打開が始まり、必ずだれでも解脱出来る訳です。 それはないのじゃ
女性の性欲のピークでさえ、男性の通常時の
半分以下なのじゃ >>234
口紅一つとっても、そう言う趣味が無い男は通常使いませんね。
唇を綺麗に見せたいのは何故でしょう。
女性特有とも言える欲はこの様に、案外理解されてなかったりします。
男女に限らず女々しいのが問題と言うべきでしょうか。
女性は先ず、お金が掛かるんですよね。
毎月の為に衛生用品は欠かせませんし、最低でも唇に何か塗らずには居れません。
気付くまでは気付かないので大変だと言えるでしょう。 男は一生懸命働いて💥⛏😠酒をパッと飲んで😆🍺ぐーぐー寝る😪くらいが丁度いいんだ☺️
男が女のやる事にいちいち文句つけてたら女々しいんだ😉👉 >>214
>空と観るのは役に立つがのう。
>その他は見習わないほうがよいのじゃ。
なるほどです
>記憶しようと頑張らないで、ただ単に繰り返すとよいのじゃ。
単語帳眺めてたらわりと記憶していて読めるようになったことがあるんで実感ありです
この路線でいってみます。ありがとうございます >>231>>232 やはりおぬしはちゃんと経を読んでおらんのじゃ。
仏教も理解しておらんのじゃ。
受持等は修業ではないのじゃ。
流布のための推奨であるだけなのじゃ。
それらの文によるとおぬし自身がカースト差別と女子差別をしておる。
もはや言語道断じゃのう。
既知の外に居るものじゃな。
>>239 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
仏教以前に差別をやめたらよいのじゃ。
お釈迦様が二千五百年前に説いたことを今でも理解できないとはおかしなことじゃ。
人は生まれではなく行いによって自ら区別あるべきなのじゃ。
女子でもセンダラでも日々修行する者がブラフマンであり、修行者であり、菩薩とも言えるのじゃ。 ブラフマン?
「業報有りて而も作者無し、此の陰滅し己わりて異陰相続す(第一義空経)」
鬼和尚、作者を立てたらそれは外道ですよ。
「差別をやめろ」も立派な差別です。
それが分からないなら、あなたは偽善者です。 まことの言っていることは、ヘイトスピーチの
都合良き理論です 差別をやめろと言ってやめるほど人間はできた生き物じゃないんだ🤔
差がないと思い込むのはできても差をなくす事なんてきっと人間にはできはしないんだ😌
思い込むだけで差は心のどこかにあるんだ😉👆
むみぃも他との差をたまに感じることがあるんだ😠 >>244 するとおぬしは外道じゃな。
差別をやめろは立派な差別と言う作者を立てておる。
ついでに偽善者と言う作者を立てる偽善者にもなっておる。
外道偽善者じゃな。
どこまで堕ちていくのじゃ? >>250
横から済まんな。
ブラフマン(常見)と言ったからでしょ。 差別をやめろと言ってやめるほど人間はできた生き物じゃないんだ🤔
差がないと思い込むのはできても差をなくす事なんてきっと人間にはできはしないんだ😌
思い込むだけで差は心のどこかにあるんだ😉👆
むみぃも他との差をたまに感じることがあるんだ😠 だから、まことは、いつも、ヘイトスピーチを繰り返すんだなww
キチガイの都合良き理論だぜww >>250
ブラフマンを立てるのが外道なんですよ。
あなたはアドヴァイタの人なんですか?
それなら話も分かりやすい、なるほど仮面の仏教徒ですからね。
仮にも仏教に於ける悟りを云々する人が
畢竟の座を自ら譲って法を説けと懇願したものと一如になっちゃダメでしょう。
あなたは仮面の仏教徒って事です。
アドヴァイタは空も縁起も涅槃も説くからややこしいですね。
差別をやめろ、とはあなたが差別しているから言えるんですよ。
差別を悪だとあなたが決め付けているから「差別をやめろ」と主張できるんです。
差別が悪なら区別も悪になります。
別の理に拘らず、悪しき事を正せればそれで良いのでしょう。
それだって善悪を差別して成り立ちます。
差別が無ければ善悪を正すことが不可能になります。
それなのにあなたは、「差別をやめろ」と言う。
偽善者は貴方です。 補足。
「業報有りて而も作者無し」
とは、業も報もその関連としての業報も無いと否定など出来ないが、
それを作っている原作者は居ないと言ってるんですよ。
言い換えれば上記の場合、報の原因は業にあたり、それは作者ではないでしょう。
仏教の場合、業とは行為の事で、内訳は身口意に於ける行為を指し、ここから
行なわれた結果を報(果報)と言います。
仏教では無我を説きますから、無我は実在しません。
つまり、身口意を行なう当事者が、この時点で既に無いと言うのが無我なんです。
真我なる実在を説く教えの人には、この辺のご理解が全く為されないのは非常に残念だと思われます。
我は実在しない、それが無我と言うのですが、我が無いならどうして無我があろうか。
と言う訳です、つまり無我は実在しない。
それ故に「業報有りて而も作者無し」なんです。 >>251 それは正確にはブラフマナ、ブラフマンの徒であり、今の僧にあたるものじゃ。
日本では音訳を略して婆羅門というほうが一般的なのじゃ。
ブラフマンは常見ではないのじゃ。
アートマンと混同した上にその知見も欠いているようじゃのう。
>>254 それがおぬしが外道であり、偽善者であり、差別主義者であり、無知でもあるという証拠なのじゃ。
お釈迦様はブラフマンを説いているのじゃ。
おぬしが知らないだけなのじゃ。
アートマンも正確に知り、それを説いているのじゃ。
お釈迦様こそヴェーダの奥義を正確に知り、アートマンは無と教えられたのじゃ。
それが諸法無我の真の意義なのじゃ。
自分の差別主義を糊塗するために知ったかぶりをして、余計に無知をさらけ出すとは愚かなことじゃ。 >>256
コテあり鬼や?
それはバラモン(婆羅門)の間違いだろ?
良く調べてみな? >>258
リンク貼れんw
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。 鬼や?
苦しいのか?
デパス飲んだのか?
無理するな。 俺と鬼和尚の区別がつかないのか?
ジャンキーはいったい何を
観てるんだい? バラモンとブラフマンを間違えて、しかも知見だ足りないとか、相当精神にきてるんじゃないの?
デパスは効くけど副作用かなり有るとか聞いてるし。 鬼や?
苦しいのか?
デパス飲んだのか?
無理するな。 さすが、まことだ
ウツだけあって、デパスという薬を知ってやがるwwww 何で、まことは、自分のトラウマを相手に罵るんだ??? そもそも、デパスなんて言葉を、普通の人間が
知っているか?
そのへんの自爆癖を、まことは治したほうがいい >>268
そういえば、テレビでやってたけど、統合失調症
ではないやつが、薬を飲んだら、幻覚が見えるのか?! 窓を開けてたら必ず偵察隊長の大きな蜂が入ってくるの。👰そっと電気を消して逃がしています✨でもすごく(>_<) >>274
蜂は可哀想だから逃がしてやるんだ🐝〜👋😠 >>256
>お釈迦様はブラフマンを説いているのじゃ。
その経典を教えてください。
>お釈迦様こそヴェーダの奥義を正確に知り、アートマンは無と教えられたのじゃ。
無をアートマンだと釈迦が説いたとは初耳です。
経典を教えてください。 >>277
アートマンだからお絵かきが上手なんだ🤔
ウオオオ🎨😠✏️🛤🏯🌠🌅🌌🏖🎆🏜🛣
たくさん書くから無じゃないんだ😤 そんなことは聞いていない
オレ達カタギの者が、デパスとやらを飲んだら
幻覚が見えるのかと聞いてんだよww 277.
バカ鬼和尚の悟りである。
それはインチキである。 デパスに異常に反応する、スレ主トリップなし鬼和尚
=まことの喜びじじいこと、愁傷爺でした コテ鬼は勝手に僧侶を名乗ってるだけ。
ブラフマンだのヴェーダだのを論ずるヒンズー教徒だから。
観照が起きて智慧と対話したとか、幻聴体験を悟りと嘯いている紛い物だよ。 >>257 わしはすでに婆羅門と書いているのじゃ。
それはブラフマナの略なのじゃ。
全てはブラフマンであるからブラフマナがブラフマンでも間違いは無いのじゃ。
おぬしも他人のレスが読めない者ならば、日ごろ嘲笑している者と同等かそれ以下のレベルということじゃな。
>>277 お釈迦様はウダーナヴァルガでこのように説いているのじゃ。
悪い事柄を除き、邪曲なく、穢濁も無く、自己が確立していて、ヴェーダの奥義に通じ
清らかな行いを修し、適当な時にブラフマンに関する議論を語り、
その人のうちには嘆きもなく、慢心もなく、貪りを離れ、「私のもの」という観念が無く、
望むところも無く、過ちを除き、自らが解きほぐされて安らぎに帰した人。
―彼は<バラモン>である。彼は<修行者>である。彼は<修行僧>である。
私はバラモン女の胎から生まれバラモン母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。
もし彼が何か所有物を持っているのであれば、彼は「<君>といって呼びかける者」なのである。
無一物であって執着の無い人。―私は彼を<バラモン>と呼ぶ。
お釈迦様は本当はヴェーダを読み、ブラフマンについて正しく語り、ブラフマンの徒弟であることを要求しているのじゃ。
アートマンが無によってのみ現されるとはお釈迦様が読むことを要求しているヴェーダに書いてあることじゃ。
このように原典を読んでみなければ、お釈迦様の本当の教えはわからないのじゃ。
どんなに偉い学者のものでも他人の解釈を鵜呑みにして、更に解釈しては永遠に真実はわからないのじゃ。 >>284 それではお釈迦様もヒンズー教徒であったということになるのじゃ。
ヒンズー教徒などどこにもいないのじゃ。
おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
>>285 おぬしの心の中に居るじゃろう。
早く会いにくるとよいのじゃ。 >>288
この馬鹿者が!
よく確認するのぢゃ。
バラモン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/04 15:11 UTC 版)
(婆羅門 から転送)
バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。 >>289
このたわけ者が、
ブラフマンは梵天のことぢゃ。
お釈迦様は梵天に説得されてはじめて教を説いたのぢゃ。 >>288
バラモン(婆羅門)/バラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称
ブラフマン(梵天)/ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理
ここでのヴェーダは知識という意味だよ。
なぁコテ鬼や?
間違ったら「間違った」で済むだけだろ?
何故そこまで意固地に我を張り通すのか?
理由を聞かせてくれないか? 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM よ。
過ちは過ちとして認めるのぢゃ。
でないなら鬼和尚の称号ははく奪ぢゃ。 >>288
33.13 悪いことがらを除き、邪曲なく、穢濁も無く、自己が確立していて、ヴェーダの奥義に通じ、清らかな行ないを修し、適当な時にブラフマンに関する論議を語り、
33.14 その人のうちには欺きも無く、慢心も無く、貪ぼりを離れ、「わがもの」という観念が無く、積むところも無く、過ちを除き、みずからが解きほごされてやすらぎに帰した人、
――かれは〈バラモン〉である、かれは〈修行者〉である、かれは〈修行僧〉である。
33.15 われは、〈バラモン女の〉胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。もしもかれが何か所有物をもっているのであれば、かれは「〈きみよ〉といって呼びかける者」なのである。
無一物であって執著のない人、――かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶのである。
この場合のヴェーダとはリグ・ヴェーダの事なんでしょう。
ブラフマンの論議を語るとは、聖典に説かれる最高神を言ってるのも見て取れます。
それを分かってバラモンとはヴェーダに説かれる最高神に使える梵行者の事を指しますよね。
その通りに出来てる人を、バラモンと呼ぶと仰ってますね。
説いてる訳じゃ無い、あんたその通りに出来てるのか?との問いなんですよこれは。
そして、リグヴェーダを言ってるとしたらそれは真我を説く教えですから、アートマンを無とは教えませんよね、有我が真我で、それを知るのが梵我一如なんですから。
更に、釈尊は上記の説で、アートマンは無の事だとは教えてませんし、有の事だとも教えてません。
>どんなに偉い学者のものでも他人の解釈を鵜呑みにして、更に解釈しては永遠に真実はわからないのじゃ。
ウダーナヴァルガと言う経典は、説一切有部が編纂した経典だとご存じでしょうか。
御覧の様に実有恒有よりに編纂されてる特徴的な経典です、有用ですけどね。
その注意点を知らずに引くと誤解されますよ。
アドヴァイタもその経典を使いますから。 >お釈迦様は本当はヴェーダを読み、ブラフマンについて正しく語り、ブラフマンの徒弟であることを要求しているのじゃ。
>アートマンが無によってのみ現されるとはお釈迦様が読むことを要求しているヴェーダに書いてあることじゃ。
この頃の聖典っておいそれと部外者が読めたんでしょうかね。
釈尊はクシャトリヤ出身で且つナースティカ(ダルシャナに対しての異端)の人です。
外道としては大事な根拠となる聖典を、おいそれと異端且つ部外者且つ低い階級のものに見せたとは考え難い。
であればおそらく、口誦されてるのを聞いたのでしょう。
釈尊はヴェーダを読めなどと教えてません。
バラモンは下層のものにその聖典を見せる事を許さなかったそうなんですから。
鬼和尚さん、いよいよヤキが回ってきましたね。
その物言いは凡そ仏教のそれでは無く、思う存分外道じゃありませんか。
カーラーマ経
・人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文、神の啓示などに頼ってはいけない、
・世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
・古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
・自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
・経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
・理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
・人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
・自分の見方に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
・説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
・説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、
このどれにも掛からず頼らないのが内道、つまり仏教なんですよ。 もう一つ。
内道とは「内に道を求める」って事です。
道とは四諦に言う苦集滅道の道の事です。
その道の入り口を示す為に、八正道から始まり八万四千の法門が展開されてます。
全部これが内道への入口を示す地図の様なものです。
どれも入口を示しているだけなので、本当の道は己身にあると釈尊は言う訳です。
自灯明法灯明自帰依法帰依はこの事を意味します。
具体的には静かに瞑想/禅定を指す訳ですが。
それを顧みず他身に救いの道を求める事を外道と言います。
仏教に身を置いてるつもりでも、物や姿勢や呪文や施設などを真如なる根拠としてしまえばそれも外道となります。
アートマンは無の事だ、と言う主張もここに属します。
宇宙全域に漏れなく轟く梵音声が無なんですから推して知るべしかと思われます。
事物は無から忽然と生ずることは不可能で、それは道理に反し仏教はそんな非道理を沈黙を以て否認する立場です。
イエスキリストでさえ、聖母マリアと言う原因の片棒が説かれています。
鬼和尚さんの説では聖書ですらも超える無茶・矛盾を言う訳です。 >>292 ブラフマナじゃよ。
他人が間違っているように見えるならば自分が間違っているからかもしれん。
実際はバラモンなどいないのじゃ。
それは中国語でしかも略語であるからのう。
>>295 問いではないのじゃ。
ダンマパダではこのように説いておる。
388 悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)(brahmana)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)(samana)と呼ばれる。
おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。
ここでは明らかにバラモンとシャモンが同一に語られているのじゃ。
422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
覚った人仏陀さえもバラモンと呼ぶのじゃ。
それでも適当な解釈をしてお釈迦様はバラモンであることを説かなかったといいはることもできるじゃろう。
しかし、本当にお釈迦様の言いたかったことを知るために、ヴェーダを読み、ブラフマンについて知ることも出来るのじゃ。
そしてヴェーダにはアートマンとは無によってのみ表される実践のための法と記されているのじゃ。
ヴェーダを読みもしないで知ったかぶりをすれば、真実を知る者には見透かされて恥をかくのじゃ。
無知の道と真実を知る道は常におぬしの目の前にあるものじゃ。
目覚めた者はただ道標として、真実の道を教えるだけなのじゃ。
おぬしも無知な者として生きたいならば、自らの考えに固執してこれからも恥を掻き続けるとよいのじゃ。
真実を知る者として生きたいならば、むしろヴェーダに触れる機会を喜べばよいのじゃ。
選ぶのはおぬしなのじゃ。 >>298
ブラフマンとバラモンを間違えたんだろ?
「単純に間違い!」って言えば済むだろに。
何ゴニョゴニョ、誰の間違いか分からないような、主語が不明でどちらとも受け取れる様な変な書き方するんだろうね。
それが貴方の素性なんだろうね。
なんかジメジメして、後ろめたくて、劣等感を感じさせるコンプレックスを感じるんだよ。
ある意味ポタ公と似ているな。
差別とか言いだすだろうから、それが何であるかは言わないけどね。
返信一切無用! >>298
今度はダンマパダですか、正田大観訳も出しておきます。
26.6或るどこかの婆羅門の出家者の事例
388.(388)悪を拒否した者、ということで、「婆羅門」。行ないが平静なるがゆえに、「沙門」と呼ばれる。自己の垢を〔常に〕払っている者は、それゆえに、「出家者」と呼ばれる。
26.39アングリマーラ長老の事例
423.(422)〔勇猛果敢な〕雄牛を、最も優れた勇者を、偉大なる聖賢を、〔一切の〕征圧者を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。
26.40デーヴァヒタ婆羅門の事例
424.(423)彼が、過去(前世)の居住“いきざま”を知ったなら、さらには、〔死後に赴く〕天上と悪所(地獄)を〔両者ともに〕見るなら、しかして、生の滅尽を得た者であり、
〔あるがままに〕証知して〔知慧が〕完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。
この章がバラモンとは如何なる存在で、何をすればバラモンか、どんな素行かの実態事例集である事を鬼和尚は知らなかった訳ですね。
中村先生の訳本をお持ちならP143の注釈をお読みください。祭祀者をバラモンと考えられてた時代に、バラモンとは是の如したれと言ってるんですよ。
>おぬしも無知な者として生きたいならば、自らの考えに固執してこれからも恥を掻き続けるとよいのじゃ。
恥を掻いているのは鬼和尚、あなたですよ。
「ヴェーダに触れる機会」などは図書館での読書で十分です、それは仏道に関係しません。
本当に重要なら梵網経(ブラフマジャーラスッタ)にそう説かれた筈です。
ヴェーダの説かれてる真理は、梵網経では邪見と看做されています。
>選ぶのはおぬしなのじゃ。
ヴェーダを読めと教えなかった、そんなものを当てにせよとは説かれなかった大般涅槃経(マハーパリニッヴァーナスッタ)に私は範を見ます。
私は仏教徒であり、仏法者ですから、ヴェーダに範を見ません。
あくまでも自灯明法灯明・自帰依法帰依・接心精進あるのみだと考えます。
ありがとうございました。 補足。
ヴェーダの主宰神とその教えが梵網経(ブラフマジャーラスッタ)では「一部常住論」として分析されています。
ブラフマンは永遠で、この世界はブラフマンから生じたので有限(無常)であると。
生じる世界は有限だが、生じさせている原理そのものはブラフマンが原理なのだから、原理それ自体を永遠と感得(梵我一如)すれば
不滅になれると言うのがヴェーダの教えだと、そしてこの教えの極理は「そう分かる・思う・知り得る」ことで成り立つのだと。
確かにブラフマン、その素性は「無」なので、「未だ生じていないものは生じない」と言う龍樹の言う通り、そりゃ永遠に生じないでしょう。
だからブラフマンは常住論に掛からないと強弁出来る訳で、その教えも矛盾が無いと思われてしまう感も否めない訳です。
仮面の仏教徒が陥りやすいこれこそが謬見です。
根本中頌観成壊品
21章12 有存在するものは有から生じない。有は無から生じない。無から無は生じない。無から有は生じない。
これは縁起を無視すると起る極論をわざと戯論して見せている一例です。
事物は前後際断して観ると、縁起して起こり縁起して滅する、これが実際なのです。
決して無から生じるなど有り得ない。
前後際断を解いて無分別してみれば、これは単に縁起縁起縁起にしか見えず、一度も有や無で固定などされてないのです。
ヴェーダに被れたアドヴァイタの人々はこれが理解できない訳で困ったものだと言えるでしょう。
人は、遡れば無限の原因(縁起)からなる卵子と精子との邂逅から人体として始まっています。
この人体も絶えず縁起の連鎖を繰り返し、一瞬たりとも有や無に固定などされず、やがては終焉を迎え死体になります。
人が死んだら死体があります、それを衛生上の観点からも焼けば灰と骨とガスが起ります、離散したとしても無にはなりません。
分かるまでは分からないのでしょうが、つまりそう言う事です。
鬼和尚さんは仏教をやり直しましょう。
アドヴァイタは捨ててやり直さない限り、貴方は何故仏教が不死の法と言われるかを知らずに終わることになるでしょう。
アドヴァイタでそれを知る事は不可能です。 じゃあ、まことは、妄想で幻覚が見えるのか?!
オカルト染みているよな! まあ、テレビでは、統合失調症でない者が
薬を飲んだら、幻覚が見えるようになった
という話だったがな まあ、まことの喜びじいさんは毎日まことの幻覚を見ているようだが(笑) で、まこと君
ウツで幻覚が見えるようになったのか?
普通の者が、デパスとやらを飲んだら、幻覚が
見えるようになるのか? >>299 全てがブラフマンであるのに、ブラフマナだけがブラフマンでないと何故思うのじゃ?
わしの公案に瞬殺じゃな。
>>300 わしはどんな偉い学者の説でも鵜呑みにしてはいかんと書いた筈であるがのう。
それが元からバラモンである者達だけに与えられた言葉であるならば、お釈迦様の言葉に矛盾が生じるのじゃ。
お釈迦様は氏素性や生まれによってバラモンなのではない、行いによってバラモンであると説いているのじゃ。
そうであるからちゃんと修業するシャモンもバラモンであり、おぬしも修業すればバラモンなのじゃ。
修業して悟った者も全てバラモンとお釈迦様は呼ぶのじゃ。
それでこそお釈迦様の言葉に矛盾はなくなるのじゃ。
祭祀者の中から修業する者達だけをバラモンと呼ぶというのならば、行いによってバラモンであるという説と食い違うのじゃ。
ちゃんと修業する全ての者がバラモンであるとすれば、お釈迦様の言葉は首尾一貫していることになるのじゃ。
自分の頭で考えないからこのような単純なことさえ気がつかないのじゃ。
論理がわからず、ヴェーダの知識も無いとなれば、仏教について語る全てが滑稽な嘘になるのみなのじゃ。
梵網経などは後世に作られた経であり、お釈迦様の言葉ではないものじゃ。
ブラフマンに関する知識も幼稚であり、それを基にした論など無意味なのじゃ。
大乗の説こそお釈迦様の真の言葉に反する外道の説そのものなのじゃ。
>>311
あのさぁ・・・
ブラフマンとバラモンの勘違いの話だよ?
いつ迄粘るの?
関係ない話にすり替えるなよ?
宗教板は古いけど初めて使うわ。
お前はキショイ。 修行は、座禅が基本じゃ
つべこべ言わず座るのじゃ
さあ、今スグに座るのじゃ!れ まことは、天才と自称しているのじゃ
儂の出る幕はないじゃろ まことのばあい、得意のネット検索だけどね(笑)
自己満足にすぎん >梵網経などは後世に作られた経であり、お釈迦様の言葉ではないものじゃ。
非二元の奴は大体そう言うな
>大乗の説こそお釈迦様の真の言葉に反する外道の説そのものなのじゃ。
いよいよ本心語ったなw
鬼和尚は仏教転けたノンデュアリティ紛いの外道
嘗て閻魔が言ってたことは事実だったと 仏教を学ぶ事は、結局仏教史を学ぶ事になるんだよなぁ。
殆どの方は入門書から唯識のパターン。
さらに中観、倶舎と、歴史とは逆の順にね。
コテ鬼の仏教知識は継ぎ接ぎだらけのフランケンシュタインなんだよ。 梵網経も大般涅槃経も普通は否定しないからなぁ。
パーリ三蔵の経典否定したら仏教にならない。
大乗経典だって、三蔵で修行して確かめられて、インド古来の習俗を外して説き直されてるんだし。
スッタニパータやダンマパダなんかもパーリ三蔵の一部の小部の一つだし。 フランケンシュタインみたいなもんだな、コテ鬼は。
継ぎ接ぎ知識の成りすまし和尚だもんなぁ。 >>312 全てがブラフマンであるのに、ブラフマナだけがブラフマンではないとはなぜなのじゃ?
おぬしが何かいかす答えをだすまで続くのじゃ。
だせなければわしの公案に瞬殺なのじゃ。
>>325 既に否定されているのじゃ。
大乗非仏説なのじゃ。
それも知らないとはおぬしは異世界からでも来たのかのう。
それともおおのり経典なのかのう。
>>327
何度繰り返そうが、無意味な詭弁には意味はない。
>>312をよく読みなさい。
返答無用。 無意味な詭弁と言っておるが、おまえさんの詭弁は、屁以下じゃろ キチガイか
まことは、中高生の挨拶のようなものにも
馴染めなかったようだなww さすが、まことだ
ウツだけあって、普通の者が知らないことを
知ってやがる >>327
>>>325 既に否定されているのじゃ。
> 大乗非仏説なのじゃ。
ええと、大般涅槃経も梵網経も「二種在る」事をご存じ無いんですね。
大乗経典としても涅槃経や梵網経はありますが、それ以前に重要な経典として
パーリ三蔵に既に涅槃経も梵網経もあるんですよ。
普通、涅槃経とか梵網経とかで参照されるのはパーリ文献の方の経典です。
こっちを否定する学者や僧侶は皆無です。
鬼和尚さん、知ったかは恥の上塗りですよ。 キチガイか
まことは、中高生の挨拶のようなものにも
馴染めなかったようだな 因みに、ヴェーダーンタスートラとウパニシャッドとバガヴァッドギーターとの三大聖典を根拠に
アドヴァイタヴェーダーンタ(不二一元論)を提唱して大成したとされる人はシャンカラです。
この人は西暦8世紀の人だそうです。
世に言う非二元とかノンデュアリティとか言って批判されない様に呼び変えてるのもこれです。
仏教に縁が無かったか、または勉強したけど挫折した人がここ(アドヴァイタ)へ流れます。
宗教色を出来るだけ排して語られる事が多いので、悟りも気安く語られ、その表現の多くが
「主体と客体が無いこと」や「個人の自分が無くなること、全ての概念が無いこと」などと言う
要は「所感」が結論と豪語されます。
これらは概ね瞑想=禅定で得られる旨を説かれますが、所詮は所感として過去を語るので
「知った方」に用が無い仏教とは、似ても似つかない戯論となります。
繰り返します。
シャンカラは紀元後8世紀の人です。
天台智(チギ)は紀元後5世紀の人、龍樹は紀元後2世紀の人で大乗もこの頃位から始まってるとされます。
お釈迦様は紀元前約5世紀の人です。
ウパニシャッドは古くからあったそうですが、埋もれそうだった教えを再興させたのはシャンカラです。
古いの新しいの後だの先だのでは何も分からない訳です。 菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
それは仏道修行の在り方を言ってるんだよ。
修行に入ってない人にそれを言ったら「何にもしなくて良いんじゃん」ってなる。
聞く耳を持たない人に内側の話ばかりしててもそれこそ時間の無駄だよ。
バカにされて鼻で笑われてそれだけ 342.
それは結果を報告したものである。
よってして、以後の修行は必要ない。 >>342
この記事は個人の感想であり、坐禅の効果・効能を示すものではありません。 コテ鬼は大乗否定してるんだwwwwww
戒も受けないで出家を詐称しているパチもんがwwwwww 今迄、金剛経で観照が起きたとか、空とか般若心経とか信心銘とか偉そうに騙っていたくせに、今になって大乗否定に走ったのは、公案で瞬殺されて本物の仏教に触れたのもあるのかなw
何も知らない人達を相手にいい事に、我流外道仏教もどきで鬼和尚を騙って自惚れ、有頂天まで伸びた鼻をさも簡単にへし折られ、今になって初めて仏教の実際を学んだ事だろうな。
だいたい、観照とか、見る自分と見られる自分に分けてるし、知識と対話だの妄想か幻聴だしな。
そんなもん悟りじゃないから。
仏教舐めんなwwwwww >>328 公案から逃避じゃな。
他人には勝手に公案に瞬殺と書いておきながら、自分は逃避して答えないとはおかしなことじゃ。
おぬしも詭弁を恥と思わない者なのじゃな。
返信不要と書いておきながらわしにはレスを返しておる。
わしに夢中じゃな。
>>339 わしは大乗非仏説と書いたのじゃ。
その場合、大乗経典は否定されているという意味になるのじゃ。
文章が読めるものならばそれ位は察することが出来る筈であるがのう。
やはりおぬしのいうのはおおのり経典なのかのう。
>>350
>その場合、大乗経典は否定されているという意味になるのじゃ
論理が破たんしてますよ。
梵網経も涅槃経も三蔵にもあります、大乗経典だけじゃないんですよ、別物として有るんです。
そして、大乗非仏説を唱えたのは外道の学者です、あなたは外道の学者の説を鵜呑みにするんですか。
お話になりませんねアドヴァイタの人は。 >>350
そうそう、何故パーリ三蔵の涅槃経が重要かと言うとですね、
貴方の主張する「ヴェーダを読め(読むべき)」に反する事が書かれてるので重要なんですよ。
読んだこと無ければそんなのは知らぬが仏なんでしょうけど。
自灯明法灯明自帰依法帰依の教えは、このパーリ三蔵版の大般涅槃経が出自なんですよ。
鬼和尚さん、三蔵法師という名はご存じでしょ?
この三蔵とは阿含三蔵(経・律・論)を修了して講義が出来る人って意味なんですよ。
玄奘三蔵然り、鳩摩羅什三蔵然りです。
三蔵を学び修了し、それを講義が出来る人を法師と言うんです。
大乗否定の人だから、法華経法師品とかも読まないし分からないでしょうけどね。 アドヴァイタヴェーダーンタ(不二一元論)をまとめたシャンカラは天台大師5世紀の後に世に出た人(8世紀)の論です。
巷間流布されてる非二元の論は全て漏れなくこのシャンカラの説が根拠です。
三大聖典が時代とともに部分部分で欠けが生じてきていたのを、瞑想などから得た境地で補足して再興させたのが今に至る非二元なんです。
だから、現代で例えばバガヴァッドギーター等を読もうとしても、それはシャンカラが欠けてた部分を補足したか
改ざんされているかで、殆ど正確な聖典を読む事は不可能と言われています。
肝心のアドヴァイタヴェーダーンタですら改ざんされてる始末。
もっと言えば、時代的には龍樹天台より後って事は天親(世親)よりも後になるので
アドヴァイタは唯識も空もパクって成立してると言われています。
そんな訳で、縁起も空も説くし、唯識なんかも言う訳です。
パクってますからね、仏教から。
んで、都合の悪い大乗仏教は全否定、これもアドヴァイタ連中はみんなそうみたいです。
否定するのが忍びない人は「読んだこと無い・仏教は全く知らない」とシラを切ったりしますね。
解説書なんかじゃ堂々と「仏教で言う縁起と同じ」とか言ったりしてるのにです。
仮面の仏教徒は伊達じゃないですね。
嘘吐きの天才集団です。 >わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こった
>わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
>この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
>この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、
>為す事も無いのだから。と、智慧が答えた.
これは明らかに妄想性の幻聴だよw
ポッタンと同じ現象。 >空であると観じていると、認識するものが消えた。
>一切空と教える誤り。
>大乗経典は否定されているという意味になるのじゃ。
>修行者は大乗の法をもよく選択して実践するとよいのじゃ >>355
何故、妄想で幻聴なのか
具体的に説明できますか? 金剛経って金剛般若経だよね。
なら思いっきり 大乗経典なのに、大乗非仏説とは是如何に。
ブラフマン=非仏=大乗梵天説
なるほど、そう言う事にしたいんだね。 >>359
見るもの(見分)と見られるもの(相分)は一つの識が分析されたものであるが、
境地という対象、また智慧という対象を設け外に立てている。
その最後という境地はどこから生じたのか?
その最後を確認する智慧はどこから生じたのか?
その智慧というのは何者か?
おそらく外道が語る「ブラフマン」であろう。 >>351->>354 あいかわらず勘違いが激しいのう。
おぬしは実践はせず、学ぶこともしないと広言した故に放って置いているが、最初から勘違いばかりなのじゃ。
昔、勘違いばかりしているバラモンがいたのじゃ。
そこへ正しい悟りを得た鬼のような和尚がこのようにいったのじゃ。
「お釈迦様は修行する者はみんなバラモンじゃ、と言ったのじゃ」
すると勘違いするバラモンは、
「それはアドバイタじゃぁぁぁアウアウアー」
と叫んでえびのように跳ね回り、地面に激しく頭を打ちつけ転げまわったのじゃ。
鬼のような和尚が放って置いていると、
「アドヴァイタはシャンカラじゃぁあああアウアウアー」とか。
「外道じゃぁぁぁぁアウアウアー」
「パーり語の梵網経じゃアウアウアー」
とか次々に叫びながらえびのように跳ね回り、地面に激しく頭を打ちつけ転げまわったのじゃ。
そして最後には不常見の穴、断見の穴に落ちて死んでしまったのじゃ。
わしはアドヴァイタであるとかシャンカラの説が正しいとは一言も語っていないのじゃ。
お釈迦様が修業する者は皆バラモンと語ったブラフマンについて語ったヴェーダを学ぶことも語ったと、教えたのじゃ。
するとおぬしが勝手に妄想し、それはアドヴァイタであるとか、シャンカラは五世紀とか妄想をはじめただけなのじゃ。
ブラフマンを常見、不断見とするものこそ外道に陥っているのじゃ。
ヴェーダとお釈迦様の教えは完全に整合し、正しい道を示しているのじゃ。
ヴェーダを学ばないと語ったおぬしには永遠にわからない話であろうがのう。 >>366
>お釈迦様が修業する者は皆バラモンと語ったブラフマンについて語ったヴェーダを学ぶことも語ったと、教えたのじゃ。
血迷った事をこれ以上続けないで頂きたい。
釈迦がヴェーダを持ち出したのは「古代インド」での習俗上の話。
あなたは何時代に生きてるんですか?
この日本に釈迦の時代のヴェーダがちゃんと伝わってるんですか?
その作法が伝わってるんでしょうか?貴方がそれを会得してるとでも言うのでしょうか。
古代インドの習俗や宗教は鵜呑みに出来て、パーリ三蔵の梵網経や涅槃経は理解できないその身勝手な理屈は
凡そ悟ったと言う人の行いとは到底思えません。
>ヴェーダを学ばないと語ったおぬしには永遠にわからない話であろうがのう。
ヴェーダのの前にちゃんと仏典は読みましょうか。
話はそれからですよ、整合性の取れてないバラモン教典を鵜呑みに出来るなら
パーリ三蔵も大乗経典も理解出来て当たり前なんです。
悟ってる筈なのに仏典が理解できないのはどうした事でしょうか?
おかしな話です。 >>366
>おぬしは実践はせず、学ぶこともしないと広言した故に放って置いているが、
いつどこで実践しないと公言しましたか?
学ばないとどこで公言しましたか?
嘘はやめてください。
ヴェーダ教典には従わないと言いましたが、貴方はヴェーダ教典を強要するんでしょうか?
仏教徒がヴェーダを頼るのはおかしい筈です。
外道ですから。
どこの寺がヴェーダに頼ってますか。
貴方は法華経が差別してるとか何とかほざいてましたが、
そのあなたが、ヴェーダを読まない頼らない人を差別してるこの事実はどう申し開くつもりでしょうか。
屁理屈と言い訳が楽しみです。 >>366
お前は明らかな外道だよ。
下記の通り「ブラフマンに至れる」って書いてるんだから。
違うか?
> 289鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/06/11(日) 21:38:36.35ID:gtCqE31p>>291
> >>284 (中略)おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
それは梵我一如思想以外の何物でもないんだよ?
「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我
(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一で
あることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論(advaita, アドヴ
ァイタ)ともいう。」(wiki引用) 一応、ダンマパダやスッタニパータなどで、何故バラモンやヴェーダなどに大徳が言及してるのか、種明かししておきます。
当時の仏教教団は、大徳釈迦牟尼世尊を中心に、勢力としては新興勢力でまだまだ出来たばかり、
旗揚げしたばかりの無名集団だった、それ故に例えば「八正道」と教えたとしても、人々は何を基準として正しい根拠と出来るのか
それ自体がまだまだ分からず、しかも当時の正しき基準は「バラモン教」で、正しき人とされてたのは代々バラモンの家に生まれた人
古代インドのカースト制では頂点に位置する家柄の人だけが、正しく穢れの無い人と考えられてたんです。
百姓の家に生まれた人は、どんなに頑張ろうが王族なんかとは結婚も許されず、どんなに聡明だったとしてもバラモンになる事は出来なかったんです。
そう言う時代背景の中で、王族に生まれ育った釈迦は、暮らしが嫌になったので妻子を捨て夜逃げして出家比丘になって悟って
「人は生まれによってバラモンになるのではない、行いによってバラモンにも卑しき人にもなるのだ」と教えたのであって
バラモンになる事を勧めた訳でもなく、ヴェーダを読む事を勧めた訳でも無いのです。
ダンマパダやスッタニパータなどの成立時代は、バラモンを比較の対象にしなければ民衆には理解できなかっただけなんです。
鬼和尚は時代錯誤も甚だし過ぎます。
初期仏教や初期経典・部派仏教などが、大乗グループから区別される様になった経緯も、
古代インドの習俗をそのまま引きずる輩が絶えなかったので区別されるようになり、或いは小乗教と言われ差別すらされたんです。
大乗は古代インドの習俗は極力排除され、全て方便で経典が成り立つ、時代を超えられる経典群となっているんです。
それはヴェーダ教典すら及ぶところではありません。
この辺の理解が出来ない以上、鬼和尚の悟りとやらは自称、詐称の類を免れません。
まあ、パーリ版の梵網経と涅槃経を認められないのですから推して知るべしでしょう。
外道は軒並みこの文献を否定して止みませんから。 ハッキリ、もっとハッキリ言っといた方が良いでしょうね。
鬼和尚はヒンズー教を仏教のつもりで語ってる人ってだけです。
現代のヒンズー教では多神教の神々の中に釈迦も含まれます。
ヒンズー教ならヒンズー教として語れば良いだけなんですよ。
混ぜるなキケン!
仮面の仏教徒は嘘吐きですから困ったものです。
仏教かな・・と思ってたら「いつの間にかヒンズー」「気付いたらヒンズー」、それが非二元の罠ですから。 > 289鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/06/11(日) 21:38:36.35ID:gtCqE31p>>291
> >>284 (中略)おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
これが鬼和尚の見解なんですから高が知れてます。
彼の言うブラフマンとは「無」と同義ですから、そこに至ればハイ終わりと。
最近の人で「色即是空」は正しくない、正しくは「色即是無」だって言った人を思い出しました。
守銭奴且つ肩書一杯で有名な人です、最近は検索にも掛からなくなってきましたけど。
龍樹曰く、有無は観念なので実在しない。
また曰く、真に無である場合は認知できないので有り得ない。
また曰く、無常の世界に於いて真に有と呼べるものも実在しないと言います。
不生不滅 不常不断 不一不異 不去不来を解き明かした目覚めた人に傾首すると龍樹は言います。
これは無の事じゃありません。 >>366
>そこへ正しい悟りを得た鬼のような
>和尚がこのようにいったのじゃ。
違うだろ?
そこへ妄想を悟りと盲信しているコンプレックスの塊で和尚を詐称するキチガイが、火病を起こしながら暴言を吐いたのじゃ。 鬼和尚は女性なの? なのに じゃ とか言ってんの?
悟りを開いたのに衆生を救うために説法は一般大衆向けにはしてないの? コテ鬼の仏教理解はポッたんレベルだね。
(梵我)一如が悟りと理解しているから。
しかも彼らは一如の頭の理解だけで、本当の禅定体験がない。
観察する者(見分)と観察される者(相分)が一つの識から分析されているのに気付かないから、「あれぇ、自分が無い」とか「智慧と対話」とか嘯いている。
仏教を学んでいると誰しもそこに行くと思うし、外道に陥りやすいポイント。
差別から一如、更に一如もないところに至って改めて差別に戻らないとね。
まさに十牛図はポイントを示している。 もりあがってきたようじゃのう。
過疎スレがわしの力で満員じゃ。
>>367 おかしなことを書くのう。
お釈迦様の時代のヴェーダが正しく伝わっていないというのならば、お釈迦様の言葉も正しく伝わっていないことになるのじゃ。
二つとも同時代に同地域に同一の口伝による流布がされていたのであるからのう。
おぬしは仏教全否定派なのかのう。
キリスト教徒の学者にその主張をする者がいるというがもはや外道を通り越して仏教破壊者なのじゃ。
するとおぬしはわしの方が仏教全否定者とか書くじゃろう。
何でもお見通しなのじゃ。
>>368 学ばない者は実践もできないのじゃ。
正しい知識がなければ実践が出来るはずもないからのう。
学びなければ実践なしなのじゃ
ヴェーダに従わない 妄想
ヴェーダを強要 被害妄想
おぬしが本当に誰かに何か強要されていると思うならば警察に行くとよいのじゃ。
寺がヴェーダ 意味不明。
ヴェーダに頼らない人差別 被害妄想
おぬしが誰かに差別されていると思うならば人権保護委員会に保護申し立てをするとよいのじゃ。
おぬしの人権は守られるじゃろう。
もしくは病院につれていってくれるじゃろう。
>>369 勘違いするバラモンはすでにアドヴァィタが自分の勘違いと知って引っ込めたのに、おぬしはその傷を抉っているようじゃのう。
お釈迦様が修行するものはバラモンであり、ブラフマンについて語れと言ったのじゃ。
おぬしの主張ではお釈迦様も外道のアドヴァィタということになるのじゃ。
タイムリープという奴じゃな。 >>370->>373 典拠も論拠もないおぬしの勘違いによる妄想。
おぬしが典拠と論拠を示し、わしにこれの真偽はどうかと尋ねるならば真実を教えるじゃろう。
しかし、典拠も論拠もなくわしに聞くこともないならば、学ばない者の勘違いに一々答えることもないのじゃ。
ここには思想信仰の自由があるから 、誰がどんな妄想をしても自由なのじゃ。
と書くとおぬしは勘違いで妄想しているのはわしのほうじゃとか書くじゃろう。
何でもお見通しなのじゃ。
おぬしは総じて勘違いと思い込みが激しいのじゃ。
書く前に何か勘違いしていないかチェックしてから書き込むのじゃ。
勘違いに一々答えるのは意味がないからのう。
そうでないと又仏教全否定のレスをしてしまうじゃろう。
>>374 わしに夢中じゃな。
>>37 5じじいなのじゃ。
わしのブログなどを参考にするのじゃ。
正しい悟りへの道が説かれているじゃろう。
おぬしも実践して悟りを得るとよいのじゃ。 >>376 おぬしもわしに夢中じゃな。
返信不要とかかいているのに本当に返信しないと出てくるのであるからのう。
他人が梵我一如が悟りと理解していると思うならば、おぬしが不常見、断見に陥っているのかもしれん。
自分の本心を見てみるのじゃ。
ID:YOMh+3LC
話は簡単ですよ。
>ここには思想信仰の自由があるから 、誰がどんな妄想をしても自由なのじゃ。
つまり、貴方の信じるところに間違いはない。
それは釈迦も否定してません。
但し、貴方の中では、と言う限定ですけどね。
仏典を認めない貴方は分からないでしょうけど、
伝によれば釈迦は成道してから梵天勧請をされて転法輪の決意をされてます。
貴方が言うヴェーダの教主、所謂ブラフマンはその地位を釈迦に譲ってるんですよ。
なので、いつまでも「無」に拘ってれば良いでしょう。
去年の暦を眺めて、悟りを詐称してれば良いでしょう。
良い気味ですな。
あ、そうそう。
何故悟りを詐称するとバレるか、ご存知ですか?ご存じないのではないでしょうか。
梵網経に書いてありますよ。
悟りを詐称する貴方は、紛れもなく「現世涅槃論者」だとね。
ご愁傷さまです。 鬼和尚、念を押しておきましょう。
不生不滅 不常不断 不一不異 不去不来
これは決して無の事を言っているのではないです。
これを解明したのは大徳釈迦牟尼世尊です、解釈として上記の様に補足したのは龍樹ですがね。
そして、成道後の伝に於けるイベントは「梵天勧請」です。
つまり、それまでそれが最上とされていた真理の座は、釈尊に譲られた、と言うエピソードになります。
鬼和尚の見解でも、また巷間流布され解説されてる理屈でも、ブラフマンは究極の無がその正体でしたね。
この座は釈迦牟尼の真理解明によって最上の真理じゃ無くなってるんですよ。
繰り返します。
無は悟りの結論では有り得ません。
なのでブラフマンを説く事もベーダを読み随う事も阿耨多羅三藐三菩提に至るとは言えません。
更に繰り返します。
涅槃は無の事ではありません。
ブラフマンなるものの教えではこれが分からない訳です。
片手しか無い人が行う拍手は決して無音では無いんですよ。
不生不滅 不常不断 不一不異 不去不来 を「無」の事だと思い込んでる限り、これは分からないと思われます。 >>379
はいはいw
今更見苦しい言い訳しようが、下記の通り書かれてある事実は誤魔化せないからw
> 289鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2017/06/11(日) 21:38:36.35ID:gtCqE31p>>291
> >>284 (中略)おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
コテ鬼はブラフマンに至る道を説く。
梵我一如は外道。
∴コテ鬼は外道。
以上証明畢んぬ。 クレームの中に真理があるのと同じじゃ
何という哲学者が言ってたかは忘れたがのう で、まこと君
そのデパスというのを、オレ達カタギが飲んだら
幻覚が見えるのか? >>380 そうかもしれん。
むみぃのおかげかもしれん。
>>381>>382 ブラフマンがお釈迦様に地位を譲ったとはわしも初耳じゃ。
するとお釈迦様はブラフマンの地位を得たからには、その役割を受け継ぎ、行っていたということになるのう。
そして行いによってバラモンになり、商人にもなるのであるから、ブラフマンの行いをしているお釈迦様はブラフマンそのものであると、おぬしは主張していることになるのう。
それはもしかするとアドヴァィタとか呼ばれる思想かもしれん。
他人をアドヴァィタと呼ぶものが、自分が実はアドヴァィタであったと告白したと言うことじゃな。
それが正しい論理と言うものじゃ。
実際には梵天は教えを請うただけであるがのう。
おぬしの頭の中では何か別のストーリーが自己発展しているようじゃのう。
>>383 それではお釈迦様も外道ということになるのう。
修行するものは誰でもバラモンであり、ブラフマンになると語ったのであるからのう。
わしは外道と呼ばれてもお釈迦様と同じ側を選ぶのじゃ。
>>394
>それではお釈迦様も外道ということになるのう。
>修行するものは誰でもバラモンであり、ブラフ
>マンになると語ったのであるからのう。
>わしは外道と呼ばれてもお釈迦様と同じ側を選
>ぶのじゃ。
あららw
嘘の上塗りに上塗りを重ねて、遂にそこまで(釈迦の教説=梵我一如思想)結論付けて言っちゃうんだw
どっかの国のミンジョクだな、こりゃw
公案で瞬殺されて引くに引けなくなったの?
>>257でバラモンとブラフマンの勘違いを俺に指摘された時、訂正してりゃ済んでたものを。
ダンマパタには「バラモン(婆羅門)」になるとはあっても、ブラフマンになるとは書いてないね。
まぁ貴方の勝手な解釈だし、それも信教の自由だw
コテ鬼教では、「釈迦は梵我一如を説いた」んだね、ふむふむ。 >>394
>実際には梵天は教えを請うただけであるがのう。
そうですね、とういう事は梵天は究極の真理では無かったと貴方は認められる筈です。
そして、ブラフマンなる行いを人間が行う事は不可能でしょう、無なんですから。
人間は無ではありません。
>おぬしの頭の中では何か別のストーリーが自己発展しているようじゃのう。
自己紹介は不要ですよ、鬼和尚。 鬼和尚、ダンマパダのバラモン章には先ずこう始まります。
26.383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
26.384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。
26.385 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラモンと呼ぶ。
26.386 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
26.387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
わかりますか?
バラモンとブッダとは別物だと説かれてます。
仏は中道を説きます。
良く読んでください、バラモンは中道になりませんよ。
鬼和尚は「無」を究極と思い込んでる限り、分からないでしょう。 鬼和尚、貴方が悟ったと詐称できるその根拠は
「有ではなく、無ではなく、有且つ無ではなく、非有非無でもない」ものは「無」だと思い込んでるから詐称できる訳です。
貴方は仏教を騙るまがい物です。
ブッダは「無」の事ではありません、故にブラフマンがブッダとは言えません。
その事が分からない内は、貴方はまがい物のままです。
アドヴァイタと遜色のないまがい物のままですよ。
それで良いと鬼和尚が思うなら、これ以上問う事もありませんね。
言い訳は聞きたくありませんから。
但し、貴方がそう信じてるならそれは構いませんが、他者に貴方の信条を説くなら指摘させていただきます。
インチキであると。
インチキと言われたくないなら、今一度学びなおし、坐禅からやり直してください。
そのままじゃ晃と同じですよ。
本当に仏教を学んだのなら、初期仏典も大乗仏典も、仏典と伝わるものに否定出来得る要素は無いと分かる筈です。
ダンマパダも法華経も、結局は同じ事しか伝えようとしてないんですよ。
それが分からない貴方は、ずっとまがい物のままでしょう。 おまえさんは、悟りを難しく考えすぎているのじゃ
悟りは、ありのままじゃ
悟りは、悟りじゃ まことには、無の境地とありのままが
違うものに見えてるだろうね(笑) >>398
君も悟ってるようには見えないんだ🤔
それなのにまがい物って決めつけるな😡😡😡
何が本物かわからないんだ😉👉
自分の考える悟りにそぐわないからって頭ごなしに否定する事は良くない事なんだ😤
ブリーフマンなんてわけがわからないものはどうでもいいんだ🙄
む〜みぃ〜マンをすこれ😌🙏🍼👶 見方を変えてみましょうか。
パーリ三蔵の梵網経(ブラフマジャーラスッタ)には62見と呼ばれる邪見が列挙され、
ヴェーダの教えやその真理をこの梵網経では「一部常住論」と言う邪見として分析されているのです。
邪見とは、「邪な見解」と言う意味で、仏教で邪とは「思考」に頼って己義を構える事を意味します。
ブラフマンだけは例外と考え、これだけは常住で、それ以外はブラフマンから生まれたものなので無常である、
と見解を立てるのが一部常住論です。
ブラフマンが、無常のこの世界でただ一つ常住で居られる根拠は、ブラフマンが「無」だからです。
最初から生まれていなければ確かに無始なのでそれはそのまま無終です、始まってないのだから終わり様もない。
此れこそがこの世界の究極にして常住の真理だ、と考えるのが邪見とされた根拠で、それが梵網経に説かれている訳です。
見方を変えて同じ様に説かれるものにパーリ三蔵の沙門果経と言うのが有ります。
こちらは邪見の列挙では無く、沙門になった時の果報とは何かが説かれた経典で、一部常住論の沙門の果報も説かれています。
つまり、沙門として真理を追究していくとき、仏法畢竟に至るまでの途中に一部常住論は、道の通過点としてある訳です。
梵網経でも沙門果経でも、この一部常住論が悪いと言って退けているのではなく、この境地に執着せず通過して
如来は解脱を果たした、と説かれている訳です。
通過点だと言う事を忘れて、「これこそ最高の真理だ」と掴んでしまうと、鬼和尚の完成と相成る訳です。
仏教は、最後は経典に矛盾しないかの確認があります。
どの経典に於いても矛盾を来さなければそれが純円教円通と言う事になり無学となります。
当然ダンマパダは良くて法華経はダメ、などと言うハンチクな事を言う訳が無いのです。
本当に悟ったならブッダですから、ブッダと言うならそれは世間解です。
世間の為に説かれた大乗経が分からない訳が無いんです。
世間の全てを解すのが世間解なのですから、久遠実成と訊いて「なぜなのじゃ」は有り得ないのです。 >>403
>何が本物かわからないんだ
では鬼和尚が悟ったかどうかも分からない事になります。
>自分の考える悟りにそぐわないからって頭ごなしに否定する事は良くない事なんだ
悟りは考えではありません。
戯論寂滅、つまり拘る考えが全て解されてそこから脱せられ、もう一切拘りがなければそれが悟りです。
色々な師家や諭師が「涅槃を証せ」と言うのもこれの事です。
色んな経典を読んで、その分からないところを鬼和尚に尋ねて一緒に学ばれてみたら如何でしょうか。 >>406
素直に和尚さんで悟ってる人なんかいないんだ😠
女に金使いまくってろくなのがいないんだ😡
素直に悟りなんて理想論なんだ😭 はい✨🍓言葉だけのものです。⭐実際は何もありません✨ コテ鬼や?
貴方は智慧と対話して「これが最終到達点云々」と確認したそうだが、その智慧とは何者だ?
それがブラフマンか? >>395 やはりわしに夢中じゃな。
梵我一如とは何じゃ?
わしはそのようなことは書いていないがのう。
詳しく説明してみるのじゃ。
ブラフマンになるとはダンマパダにはなくとも他の経にあるのじゃ。
探してみるとよいのじゃ。
>>396 ブラフマンが無とはどのような事じゃ?
無がどうして教えを請うことができるのか詳しく説明してみるのじゃ。
>>397 それにはバラモンと仏陀はべつものとは書いていないのじゃ。
字が読めないのかのう。
しかし、仏陀は威力をもって輝くと書いてあるのじゃ。
捏造はいかんのじゃ。
法の破壊者じゃな。
本当はダンマパダには覚った人、目覚めた者はバラモンと呼ぶと書いてあるのじゃ。
419 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、
かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、
かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、
かれをわれは<バラモン>と呼ぶ
バラモンは中道ではないとはどのような事じゃ?
お釈迦様はちゃんと修行する者は誰でもバラモンと説いたのじゃ。
正しく修業すると中道ではなくなってしまうということかのう。
まさしく外道の教えそのものじゃな。
>>398 わしは「有ではなく、無ではなく、有且つ無ではなく、非有非無でもない」ものは「無」だと書いたかのう。
もしおぬしがそう思っているならば、速やかに精神科に行くとよいのじゃ。
幻覚を見ているのであるからのう。
差別をする法華経とお釈迦様の教えが同じ筈はないのじゃ。
もしそう思えるのならば択法を怠っているということになるのじゃ。
>>405 それがおぬしの解釈ならばかなり狂っているとしか言えんがのう。
通過点としても一部常住論を受け入れると言うならば、おぬしは誤ったブラフマン信仰を受け入れたと言うことになるのじゃ。
やはりおぬしはアドヴァィタなのかのう。
それは修行中におこる体験を根拠にしたさまざまな見解に囚われてはいかんというだけなのじゃ。
実践しない者には永遠に意味がわからないのじゃ。
常住見に囚われてはいかんというならば、論理的には非常住見をとるべきであるとなるが、それにも囚われるなというのじゃ。
既にその時点で論理を逸脱しているのじゃ。
常住の反対は非常住であるからのう。
両方の見解に囚われるなとは、結局全ての見解に囚われるなということなのじゃ。
一つの見解に囚われていては修行中にそれを肯定するような体験があれば、それで覚ったとか、梵天になったとか思い込んで修業をやめてしまうかもしれんからのう。
正に今のおぬしの状態になってしまうのじゃ。
おぬしには理解できないかもしれんが、他の賢い者の為に書いておくのじゃ。 >>412 おぬしわしに詳しいのう。
わしの信者じゃな。
智慧とは何じゃ?
わしに詳しく説明してみるのじゃ。 >>417
ふーんw
>>284 (中略)おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
これと梵我一如は別だと言うんだw
いよいよ嘘の上塗りで行き場が無くなって来たなw >>419
確か知恵を使う事😣?
確かそんな感じだったんだ🙆
むみぃは読んだんだ☺️ >>417
なるほど、あくまでも大乗仏教は認められないと言う立場なんですね。
>>418
>両方の見解に囚われるなとは、結局全ての見解に囚われるなということなのじゃ。
>一つの見解に囚われていては修行中にそれを肯定するような体験があれば、それで覚ったとか、梵天になったとか思い込んで修業をやめてしまうかもしれんからのう。
おや?↓矛盾してますよ?
>>417
>差別をする法華経
差別をしていると捉われてますよ鬼和尚。
鬼和尚は悟ってるんでしたよね?
本当に間違いはありませんか?
だとしたら今は修行はどうしてるんでしょうか?
お釈迦様が成道後も修行を欠かさなかった理由を、悟られた見地としてご開陳ください。 >>418
それと↓これはイカンですな。
>それがおぬしの解釈ならばかなり狂っているとしか言えんがのう。
貴方の見解では私と貴方とでは立場が違う。
私は顛倒の衆生と言う立場に当たりますから、言葉が少々過ぎても致し方が無いと思われます。
悟った人なら顛倒した衆生は当たり前なんですから敢えて言葉を投げつける必要は無い筈です。
一切の武器は置かれている筈でしょう?違うんでしょうか。
>それは修行中におこる体験を根拠にしたさまざまな見解に囚われてはいかんというだけなのじゃ。
経典読めてませんね。
ダメですよ、適当書いちゃ。
>>417
>バラモンは中道ではないとはどのような事じゃ?
悟られた人に疑問は無い筈でしょう、無学なんですから。 >>419
確か知恵を使う事😣?
確かそんな感じだったんだ🙆
むみぃは読んだんだ☺️ まことには、もう無理だよ
どうしても、というなら、今からひたすら読書
考え抜いて、行動してみな
もし、それで、まことが普通に働けたら、お前
を知恵者と認めてやるよ >>425
😫💥✋😠
>>426
働く事と知恵者は素直に違うんだ😉👉
働くのに読書や無駄に考える事は必要ないんだ😤
無職にはわからない事なんだ😏 >>424
素直に読んでわかる事には限界があるんだ🤔
経典すこりすぎなんだ☺️
そんなだとむみぃたちから経典ガイジって馬鹿にされちゃうんだ😉👉 >>427
まこと君
やはり、おまえには、知恵者には無理そうだ >>430
おっ、出たなガイジ☺️
知恵者なんてならなくても生きてはいけるんだ😉
ぽかトンな人生が送れるんだ👋😆 ID変えガイジけ😃?
まだくだらない事やってるんだ😠
むみぃとぽかトンな人生を送るんだ😚 >>426 よくよく見たら、おまえさんの言っている
ことは奥が深いのう そういえば、まことは、ザ掲示板でIDコロコロ
変えることを指摘されて
それは、自演の証拠にはならない
と、言ってたっけ! >>436
まあ、まことは、56歳ニートだからね
56歳まで引きこもっていたら、普通に働くのは
無理でしょう ザ掲示板💥✋😠💥
人になりきったりコロコロ適当な事言ったりむみぃたちトンスラーよりくこがおかしいんだ👉😜 儂の尊敬しているまことが、56歳まで引きこもって
いることはなかろう >>439
むみぃが知ってる人41歳まで引きこもってたらしいんだ🤔
今はちゃんと働いてるんだ🙆 酉がついてない和尚さんは空いてるんだ変えガイジの自演なんだ😤
くこテストに出ます☝️☺️ >>443 もし、まことが56歳まで引きこもって
いたなら、知恵者でもなければ働けんのう
じゃが、本人は悟ったと言っているのじゃ
働くのは簡単じゃ ひたすら、読書をして
ひたすら、考え抜く
まことが働くには、これしかない 読書しなくても働けますから、日野さん😚💨
適当な事ばかり言ってたら誰にも信用されなくなるんだ😡 で、まこと君
デパスを飲んだら、どうなるんだ?
教えてくれよww 宇宙の周波数に合わせて下さい。龍のパワーを流します。第4チャクラに愛と感謝を込めて 自分は十界のどの位置にいるんだろう。修羅界?人界?天界?
悟った鬼和尚は仏界? で、まこと君
デパスを飲んだら、どうなるんだ?
教えてくれよww 教えんかい!まこと!
同僚ということにしておいてやるから
早く教えんかい! >>420 おぬしとわしの言葉では意味が違うかもしれんからのう。
智慧とはわしの仮設する意味では、観念知識を適切な時と処に配置する役割を持つものなのじゃ。
おぬしのもつ智慧の意味は何か書いてみるのじゃ。
わしと同じでもよいのじゃ。
>>421 わしは梵我一如とは書いていないのじゃ。
おぬしが書いたのじゃ。
梵我一如とは何か詳しく書いてみるのじゃ。
>>422 知識を適切に使うことともいえるのじゃ。
むみぃは勉強しているような気がするのじゃ。
>>423 わしはそれも観念とわかっているのじゃ。
法華経も仮設された観念の上で差別していると書いているのじゃ。
それは捉われではないのじゃ。
悟った後も修業あるのみなのじゃ。
衆生のためなのじゃ。
>>424 わしはうそをつかないからありのままの感想をそのまま書いてしまうのじゃ。
わしには何の立場も無いのじゃ。
おぬしがそれを武器とか思うならばやめてもよいのじゃ。
それが真実なのじゃ。
おぬしも何の根拠も示さず適当に書いてるとかやめたらどうじゃ?
それではバラモンこそ中道を守る者ということでよいのかのう。
またおぬしの単なる勘違いじゃな。
それがわしの理解なのじゃ。
>>460
>それではバラモンこそ中道を守る者ということでよいのかのう。
去年の暦ではそうだったんでしょう。
鬼和尚がこの意味を分からないのは仕方がないですね。
ダンマパダ等は有用な経典ですが、今の時代はダンマパダの時代では無い訳です。
対機説法として、当時の正しき人の代名詞がバラモンだっただけ・正しき真理の代名詞がヴェーダやブラフマンで例えなきゃ分からなかっただけでしょう。
なので鬼和尚が聖者の意味でバラモンを言ってるつもりなら、これ以上は不毛なので矛を仕舞いましょう。
古代インドでは仏教は殆ど駆逐されてしまいましたが、仏教が外道を駆逐する事はありませんでした。
先師に倣って不毛論を止論にしたいと思います。
ありがとうございました。 461の「去年の暦」補足
例えば、アニメ等の作品で「Ghost in The Shell・攻殻機動隊」と言うのがあります。
この中に「攻性防壁」と言う専門用語が度々出てきます。
内容は、重要な通信拠点に通信端末が不正アクセスをすると、アクセスを試みた端末が
許可なく侵入した事を理由に、端末を焼いてしまう仕組みの事なのですが
このアニメが世に出た当時は1995年で、まだまだパソコンもインターネットも普及率が低く
今ではそんなに珍しくない用語になっている「ファイヤーウォール」と言う呼称もその仕組みもあまり知られてませんでした。
「重要な通信拠点」なども別の言い方ではメインフレームなどとも劇中では言ったりしますが
今なら普通に「サーバー」で通じるそれの事です。
その時代ではまだまだ新しい概念を説明するには、それなりの方法を踏まねば伝わらない訳です。
要するに、ダンマパダ等で言うバラモンやヴェーダやブラフマンは、当時の人に、例えば八正道と教えたとして
「何を基準に正しいものと言えるのか」を理解させるには、釈迦の様にとか勿論自分では言わないでしょうけど
それでも釈迦の正しさはまだまだ理解されておらず、当時の世の中の正しいと考えられてる基準で説明するしかなかった
これが真実なのでしょう。
この辺の方便を無視して、「釈迦はバラモンと言ったから、ヴェーダと言ったから、ブラフマンと言ったから」と、そう経典に書いてあるからと
額面通りにそれを目指せと釈迦は教えたのじゃ、では去年の暦だと言ってる訳です。
もし、ヴェーダを読みバラモンとしてブラフマンになるだか一体になるだかを目指すのが、鬼和尚が言うように正しいのなら
長部経典大般涅槃経の自洲法洲自帰依法帰依の箇所でもそう述べて記されてた筈です。
ダンマパダやスッタニパータは、随分早くに編纂された常用経典の類と聞きます。
つまり、勤行に使う様な類の日常用に纏められたものと言う事です。
どうしても、「そうじゃないのじゃ」と仰りたいならそれはそれです、ご自由にどうぞ。
しかし、わたしに貴方が主張する悟りは証明されなかった事実は変わらないのです。 >>460
>>284 (中略)おぬしも修業すればバラモンとなり、ブラフマンにも至れるのじゃ。
それ、梵我一如思想だろ?
>智慧とはわしの仮設する意味では、観念知識を
>適切な時と処に配置する役割を持つものなのじゃ。
概念はともかく、その持つものの「もの」とは、なにもの?
それと対話したというした「もの」は、なにもの? 要するに、思考が自己と智慧に分析されたのを観照が起きたと騙って、その対話をもって悟りと勘違いしてるんだよ。
んなもん、ただの妄想だよ。 独自な勝手解釈のポッたんと
方便のドグマを額面通り鵜呑みに盲信する晃
これらを足したのがトリップ付き鬼和尚って感じ
文字は読めても文字を知らないから行間が読めない
行間が読めないから額面通りにしか理解できない
だから奥深い意味も汲み取れない
こんなの自己愛性人格障害拗らせたアスペだよ
独特の言い回しに拘りを持つのも自己顕示欲の現れだし
金剛経で観照を得た?
金剛経って大乗の経典だろ、大乗非仏説とか言っててもこれはいいのか
支離滅裂だなw 存在、…それは神でも世界の根拠でもありません✨存在はすべての存在者よりも更に遠いのです👸にもかかわらず存在者が🐍であり岩であり芸術であり機械であり天使であり神であろうと 存在はすべての存在者よりも更に人間に近いのです👸⭐💛 ttps://goo.gl/wAhKcG
ヤバイヤバイw
金剛経から観照が起きてこの見解は狂ってる
どこの学者の説に感化されたんだろw
古ウパニシャッドは文献も揃ってないのに言いたい放題だな
古代の暗喩は飲み込めるのに法華経とかの暗喩は拒絶したがるとか選り好み厳禁だろ
テーリーガーターもちゃんと読めてない
女が男より戒律が100は多かった理由も無視なのな
美醜の拘りとか審美欲とか生理とか貞操観念とか、男より遥かに壁が高かったのにそれも無視か
五障三従とか知らないのかな、世間知らずだな
鬼和尚は阿羅漢が最高なのか、煩悩障しか克服出来てないのに
勉強不足で所知障の克服を知らんのな
一切空が誤りとか、仏教知らない奴の論理だよ
自分で「それは観念なのじゃ」って言ってたのに、善悪は実在らしいw
外道のプーラナカッサパの論を大乗と混ぜて考えてるし
一切空だと善悪が無くなるらしいw
一切が外面外境だと決め付けてるのが鬼和尚の外道癖
どこが悟ってんのよw
先ず一切が間違ってる、次に一生も間違ってる
空も全然違う
生まれ変りとか言語道断
キチガイを究めてるな鬼和尚はwww で、まこと君
デパスを飲んだら、どうなるんだ?
教えてくれよww 教えんかい!まこと!
同僚ということにしておいてやるから
早く教えんかい! キチガイなんだよ。
悟ったとか嘯いてる奴や、
執拗に固執している奴は。
コテ鬼、鬼、ボタ、でお・・・
晃、桃太、二号、魚・・・ で、まこと君
デパスを飲んだら、どうなるんだ?
教えてくれよww 教えんかい!まこと!
同僚ということにしておいてやるから
早く教えんかい! >>461 論理破綻じゃな。
>>462 不毛な論議が止論されておらんのじゃ。
典拠も論拠もないおぬしの感想文なのじゃ。
そうあってほしいという願望から書いているだけなのじゃ。
>>463 おぬしの考える梵我一如がどのようなものか知らなければわからんのじゃ。
もしかするとお盆が一つしかないにょ、とかいうのかもしれん。
お盆はこの際関係ないといえるのじゃ。
ものとは言葉じゃ。
言葉は仮設されたものなのじゃ。
智慧の定義としてそれでよいのかわしは聞いているのであるがのう。
実はおぬしも他人のレスが読めないものなのかのう。
>>464 と、おぬしは妄想しているのじゃな。
その妄想をもつことで自分を守っているのじゃな。
>>468 それでおぬしが実は般若経を読んでいないことがわかったのじゃ。
般若経には明白にかいてあることじゃ。
無知がわかると恥ずかしいから名無しなのじゃな。
>>475
>>>463 おぬしの考える梵我一如がどのようなものか知らなければわからんのじゃ。
> もしかするとお盆が一つしかないにょ、とかいうのかもしれん。
> お盆はこの際関係ないといえるのじゃ。
過去レス見ろや? >>475
>>>464 と、おぬしは妄想しているのじゃな。
> その妄想をもつことで自分を守っているのじゃな。
ん?
身に覚えがあるのか。 >>476-477
一つのレスにまとめた方がわかりやすいんだ😠 鬼和尚の言う「ヴェーダを読め」は大間違いですね。
例として、スッタニパータから引用します。
749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、
もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない(中村元訳)
749 無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩が完全に滅尽するがゆえに、〔食について正しく〕考究して、〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、
法(正義)に依って立ち、〔真の〕知に達した者となり、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことはない(名付けを離れた存在となる)。(正田大観訳)
ヴェーダとは「知識」と言う意味でしたね。
「読めと教えてるのじゃ」はミスリードを誘因させる鬼和尚の姑息な手なんでしょう。
中村先生は、
「理法に住するヴェーダの達人は、」と訳し
正田師は、
「〔食について正しく〕考究して、〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立ち、〔真の〕知に達した者となり、」
と訳されています。
また中村トラップの出現とも言えるかも知れません。
鵜呑み厳禁な和訳が中村訳って事なのであり、それを知ってか知らずか鵜呑みに用いている鬼和尚は
「お釈迦様はヴェーダを読めと言って居るのじゃ」と豪語する訳です。
バラモンの件も、正田師の訳を照らしてみると、バラモンに問われたからバラモンとしての心得を説いてるって話です。
民衆にバラモンになれとは教えてません。
時に鬼和尚、
747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
これに付いての貴方の見解をお願いします。 鬼和尚に質問です。
遍照が起きて智慧と対話したそうですか、その智慧はブラフマンですか?
鬼和尚はブラフマンと一つになって、今話してる鬼和尚は個人の人格がないブラフマンそのものですか? 480.
食料が消滅すれば、苦しみの生じることはない、か。
食料が、あっても無くても、苦しみが生じることはない。
バカが苦しむだけのことである。 鬼和尚に聞いてみるスレ part9
ジャンキー君におみやげだ、鬼和尚本気で狂っているぞw したらばはモデレーター管理の掲示板なので、鬼和尚が個別の管理人
気に食わない書込みはモデレーターが容易に消せるしアクセス禁止も出来る
IPも抜けるので要注意 >>476>>477 わしにびびりすぎじゃな。
まともに会話もできないならば2ちゃんねるに書き込む意味も無いのじゃ。
おぬしが正しい梵我一如を知っているとはわしもおもわないのじゃ。
間違っていてもびびらずに書くとよいのじゃ。
>>480 おぬしは本当に論破し易いのう。
まるでわしの伝説を流布するために存在するかのようじゃ。
今回の回答は正田翻訳が誤り、で終わりなのじゃ。
殆どの経は修業のための道しるべなのじゃ。
その通りに観察すればよいのじゃ。
おぬしはそれを理解できずに、謬見を披露するであろうがのう。
何でもお見通しなのじゃ。
>>481 ブラフマンとは全てに偏在するものじゃ。
それが何かと一つになる事は無いのじゃ。
唯一つのそれを見出すとき、全ては叡智として開かれるのじゃ。
理解不能であればそのように考えてもよいのじゃ。
言葉は全て嘘であるからのう。
>>485
>>>476>>477 わしにびびりすぎじゃな。
> まともに会話もできないならば2ちゃんねるに書き込む意味も無いのじゃ。
> おぬしが正しい梵我一如を知っているとはわしもおもわないのじゃ。
> 間違っていてもびびらずに書くとよいのじゃ。
あのなぁ、コテ鬼や?
>>258.259.292,.369・・・
見ろや?
お前は都合が悪い文字は見えなくなる、ぼったんみたいな障害があるのか?
あ? >>485
>ブラフマンとは全てに偏在するものじゃ。
>それが何かと一つになる事は無いのじゃ。
鬼和尚質問です。
全てに偏在するのなら、ブラフマンはチューイングガムにもありますよね?
ガムとガムがくっついたら一つになりますが? >>485
>ブラフマンとは全てに偏在するものじゃ。
>唯一つのそれを見出すとき(以下略)
全てに偏在するのに何故唯一なのですか? >>485
>今回の回答は正田翻訳が誤り、で終わりなのじゃ。
へええ、しかしですよ?
中村先生訳の「ブッダのことば」、違う節からも引用しますが、
733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
この節で中村先生は注釈にこう述べてます。
「ヴェーダの達人 - vedagu. この場合にはバラモン教のヴェーダ聖典に言及しているが、意味内容は換骨脱脂して、真理の認識を得た人のことをいう」
とあります。
違う意味に捉えてるのは鬼和尚、貴方だけですよ。
中村先生も正田師も、鬼和尚とは違う意味に取られてます。
貴方の解釈こそ謬見です。
正田師の和文訳はテーラワーダでも使われてるものですから、鬼和尚の勝手解釈よりは至ってまともですよ。 中村元訳は、初心者には入りやすい読みやすい訳なのは良い。
しかし、テーラワーダなんかでも指摘されてる様に、意訳などに課題が多い。
例えば「犀の角の様に独り歩め」なんかが顕著だが、実際「際の角の様に」で意味が分かる人は居ない。
犀の角の様に独り歩めと言われて、「おお、なるほど」と言うなら、その人は謬見を真実だとする思い込みの激しい人と言える。
この部分、中村氏は意訳はせず、逆に直訳して誤解を招いているのであると聞く。
寺和田の坊さん曰く、この部分のパーリテキストを、日本語に正しく訳すとすれば、「角のある犀の様に独り歩め」となると言う。
インド犀は一本角の種類で孤独に生活する性質を持つ、釈尊はこれを例えとして用いているのであり、
犀はともかく、「角の様に」では意味が分からなくなる筈なのである。
パーリテキストの経典は、和訳に種類が有るなら出来るだけ多数を用い、可能であればパーリ原典も参照した方が無難である。
大家たる中村教授がこの体たらくなのだから。 491.
死後の転生、か。
それを忘れていない人は信じる。
それを忘れている人は信じない。 >>491
スッタニパータ
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
死んだ人とは、もう会えない人・もう居ない人とも言えます。
小学校に上がりたての純真無垢で可愛らしかったあなたも、今は居ないでしょう。
つまり、今のあなたが死後の転生先とも言えるんですよ。
生死のことわりを真に弁えるのも仏の教える事の一つです。
それが適えば輪廻から解脱します。
と言う事は、生死は繰り返される、無知だとそれがずっと続くと言う訳です。
信じる信じないの問題ではありません。 昔からそうだが、まことの書き込みは、
わかりにくて仕方がない キチガイか
まことは、中高生の挨拶のようなものにも
馴染めなかったようだなww 鬼和尚質問です。
ブラフマンが全てに偏在するのなら、私の身体の何処にあるのですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています