>普通に述べてもらわないとわかりません

たとえば
上座部系とかの呼吸の観察を
どこの誰の視点から
善悪の判断を交えることなく
客観的に観察するのか?

たとえば
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛を前提とした視点から
善悪の判断を交えることなく
客観的に観察するのか?

 − これを対処するために −

自在力・神通力を具現化させる
四如意足の
如来の智慧と慈悲によって
般若の智慧によって観照された → 思惟観察をするのか?

という質問でつ

ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定  ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを集中対象である呼吸に戻してくる要素
(無明している世界を手放して → 般若の智慧に戻る帰る要素)

般若の智慧の世界からの → 止(シャマタ禅定)・観(ヴィパシヤナ智慧)