外道の独り言 7 [無断転載禁止]©2ch.net
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まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。
前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1474820531/
ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html 生存努力が楽であると見るのも顛倒である。
生存を維持するために悪をなす。
悪を成すがゆえに苦しみの因を積む。やがてその因により苦しみとなる。
この身柄を維持するために他の生き物を犠牲にする。
あるいは貪りによって、人から強奪する。北朝鮮の将軍や、中国共産党はその極みであろう。
政治家のように税金で不倫したりして遊ぶのも悪である。 身体は、四大(地・水・火・風)の集合体であり
それぞれがせめぎあっているがゆえに苦を免れない。
子供のころは身軽なのは、まだ風、つまりエネルギーが強く、体が軽いがゆえに元気であるが
歳を重ねるにつれ、体が重くなり地が風を阻害するようになる。
そうなるとだるくなり、しんどくなる。
また、水と火は互いに打ち消し合っている。 四大というのは存在するのか?
また存在するのならば
その存在を認識する主体はなにか?
何によって四大は存在すると認めるのか?
仮和合による感覚器官は無常であり苦であり無我である
その感覚器官を持って存在すると仮定はできても断定はできないのだが 余談ですが、
阿含宗はダメだが阿含経(7科37道品)は早く完全に具体的になにをするのか、解読しネットにでも
のせそれをやるところをつくるべきだ。ただ、故桐山みたいに絶対悪用しないようにすること! 宗教信者諸君は、科学につい
て無知蒙昧だった大昔の開祖
が「何を言ったか」ではなく、
「開祖が現代に生きていれば
何を言うか」を考えるべきだな。
開祖たちは、「当時における最
新のこと」をいったはずである。
現代に生きていれば、現代の
最新科学に付いて語るはずだ。
古代人における宗教の発生は、
あくまで「生存の手段」の一つ
としてであった。当時における
彼らなりの、「生存のための精
一杯の現実性、合理性、科学
性の表れであった。その意味で、
宗教と科学の発生は同根なの
である。いずれも、生命の維持に
仕えるためであった。
創唱宗教は、例外なく、開祖の
精神障害から発生したもので、
宗教本来の生存との関係を断ち
切ってしまったのである。 釈迦も、生存(布施)のために、
途方も無い遠距離を歩き回って
説法し、苦を説くことに、生の喜
びを得ていたのであるw。
苦概念を植え付けられた信者は
大迷惑。 パーピーちゃんは、現在、「神など実在
しないスレ」で、生理学の神経
伝達に付いて講義中。彼の医学
知識は完璧。釈迦の論理矛盾の
無我など語るより、医学を語って
くれたほうが、遥かに有益。 『パーピマン』という者、単なる呼び名であり、標識、記号、ただの言葉に過ぎませぬ。
(パーピマンという)人格の実体などは存在しないのです。 >>804
あっちこっちの施設や寺をたらい回しにされて喜んでいるお前と一緒にするな(笑) >>807
釈迦は、他の教祖の弟子を多数
奪って恨まれていたな。釈迦の
死は、暗殺であった可能性がある。
仏教徒は、誰か、「釈迦暗殺事件」
という推理小説を書けば、ベスト
セラーになるぞ。 fc2blogだからリンク貼れないけど、そのblog主がいうには無我とアートマンは呼び名が違うだけで一緒だってさ。 現在の脳科学の進歩は、まさに目を見張るものがある。
20年前では考えられなかった実験手法により、ここ10年の成果は驚異的だ。
・・・・・・これは、まず1990年頃に、遺伝子レベルの操作が可能になった実験マウスの
登場だろう。
さらに視覚細胞にある光に反応するタンパク質を特定ニューロンに組み込み、
神経細胞を直に調べられるようになったこと。
・・・・その結果、今までは出来なかった、「特定の感情を外部刺激により引き起こすことが可能
であることが判明し、」「さらに実際は体験してない架空の体験記憶まで外部入力できることも
わかった。」
・・・・・・具体的にどのような効用があるかというと、
「うつ病の人間に特定の神経細胞に刺激を加えることにより、治療が可能である」・・・とのこと。
(勿論、実験段階ですよw)
・・・・・・これってある意味恐ろしいねw
「苦を感じる神経細胞を狙い撃ちして、覚者を製造できるようになったりして」wwww (自ら確認した)解決法を、
説明し、
指導し、
相手にそれを実行・再現させ得なかったら、
覚者とは言えないのでは? >>810 勿論、目覚めたなら、皆おしなべてブッダかもしれない。
「ああ、そうか」と目覚めていればよいのなら。
が、もし、
もし、そこに、「導く義務」が課せられるとしたなら(→菩提樹下から立ち上がることこそが、ブッダ(覚者)たる証、資格なれば)、
治療による、医療行為・投薬による苦の解決(≒解消)は、
阿耨多羅三藐三菩提と言い得るか否か? 治療行為が「法」ではないが
治療行為は「法」におさまる 「菩提心」を覚者たる条件に付加するか?
セブンはどう?w
阿羅漢よりも、菩薩上位を支持するかね? >>814
一代じゃないがw菩提心は必須でしょ。
ただ、
個人差、スキル、(指導・解説・弁論への)向き不向き、等等
様々あるから、(十大弟子と言われるようにw)、
広義では、「自身の解決」ができれば、資格を有するとは思うけれど、
山の中でひっそりと一人清々しく生きている者に、
他者が、(例えば「覚者」とかw)称号・呼び名(→ラベル)を付す事象は起きない。
その意味で、自己解決しただけの者をブッダと呼んでいいかどうかは、判断に迷う。
*(勿論、禅は、(入廛垂手の逆相としてw)隠遁が理想とされる面はあるけれど。)
逆に考えれば、
「“人々への、提示、教示、例示、指導”無き覚者」に、
人々から「覚者」として、 見做され、 呼ばれ、 認められ、 敬意を受ける、
そのようなことが起きうるかどうか。
誰にも知られず、ひっそりと世を去る人間の脳味噌の中身に、どれほどの意味があるか。
その意味で、定義の問題でしかないように思う。
重要なことは、(大乗非仏説とも関連するが)
仏法が、(実体験として)、示され・伝承されることであり、
そのスキルを有するのが「覚者(・・・(釈尊の)教えを理解し、体現する(示す)者)」である
とするのが、語の定義の必要条件かな、と。 >>810
精神病の原因が「神経伝達物
質」という「物質」の異常である
という発見は、人類史上最大の
発見だと思うね。
宗教も、全般的に考え直すことが
必要だろう。 まあ、好みの問題でもあるがw
>*(勿論、禅は、(入廛垂手の逆相としてw)隠遁が理想とされる面はあるけれ>ど。)
オレは、こっちをとりたいねw
何の名誉もなく、他人に認められることもなく、唯のアホと思われて消えていくのが理想だなw
何の役にも立たない・・・・・これぞ覚者www それでも、
お釈迦さんが菩提樹下から立ち上がったことを、
自分たちのルーツと位置付けないなんてことはあり得ないし、
禅宗でも、称号として「【大恩】【教主】釈迦牟尼世尊」と呼びかけるわけでねw
お釈迦さんがアホと思われて消えていっていたら、
仏法は(それこそ龍樹すらw)存在していないわけで・・。 まあねw
釈迦はいいよw・・・・
だがね、昨今の、特に新興宗教系の、「救っちゃうよ」感丸出しのw
「みんな、幸せにしちゃうから。」モードはどうもねw
何か、「自分は真理を了解してる菩薩」 臭は、なんとも鼻につくんだがww ☆
たとえば、おじゃるの場合は
2chで書き込みしている
なんちゃって覚者タソ、勝義一辺倒の勝義房タソに
高確率で絡まれて、鬱陶しいので、それゆえに
道元、禅宗に興味を持てないけど、それでも、とりあえず
人々の想いに合わせて
各人の宗教的能力に合わせて
>(自ら確認した)解決法を、説明し、指導し、(導いていく)
世俗諦 → 勝義諦
世俗の中に存する根拠なしに → 勝義なるものの重要性は説き得ない
勝義なるものの重要性を理解することなしに → 解脱(涅槃)は達成され得ない
なんちゃって覚者タソとか
勝義一辺倒の勝義房タソとかは↓こちらへ
ttp://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1498731325
因縁果
ttp://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1502001462
遍計所執性の執着
ttp://rosie.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
ひだ =^・ ・^= まり 余談ですが、鶴太郎は最近ヨガにはまってるらしいが、シヴァ(不動明王)は絶対唱えてはいけない。
こいつは実は何万年も人類をだましてきてます。嫉妬とひがみの因縁が切れておらずわかりやすく
いえばオーム心理教と同じです。記憶や思いも都合いいように変えられてしまいます。実際には
そうゆう不徳じゃない人が不正に障害者にされたり借金地獄にされたりしています。
たけしもいつかテレビで見たが密教の寺を興味もってたずねていたが不動は絶対
お参りしてはいけません。また、密教の寺のほうももう不動は悪にいってしまったので曼荼羅から
はずすべきです。 >何か、「自分は真理を了解してる菩薩」 臭は、なんとも鼻につくんだがww
参照w
396ジャンキー大山2017/08/20(日) 06:32:36.61ID:xWgIhXwS>>403
実参しないで禅を騙るとかw
てか、実参しなきゃ分からないよ、「これ」は。
飯台看でも作務でも経行でも立ち振る舞い見て「あ、この人無字だ」「それ無字」ってあるから、分かるから。
ある程度長く坐禅やってれば自ずからそうなるもんだし、その人の無字の深さが分かるから。
そうした観察眼が備わるから。 >何か、「自分は真理を了解してる菩薩」 臭は、なんとも鼻につくんだがww
参照w
8神も仏も名無しさん2017/09/06(水) 02:27:11.76ID:6Ts8S3xN>>13
>>964
あのさぁ、そういうインチキはもう止めろや?
公案はなぁ、ある程度進んだ修行者が覚悟を決めて、師家の元に独参し、三拝低頭して始めて「頂く」もんなんだよ?
お前みたいな参禅経験が無いどころか、2ちゃんねるで悟りを嘯く糞野郎が、軽々しく「無に参ぜよ」とかそんなチャラいお遊び宗教ごっこじゃねーんだよ?
禅宗舐めんなや?
この糞掻き箆に貼り付いた乾燥蛆虫の糞がwww
11ジャンキー大山2017/09/06(水) 08:28:10.29ID:vi+h5Rvq>>13
ポタ公や?
お前はやはり "真性ぶぁーか" だのうwww
その>>1の公案は呼吸器官を停止させて臨死体験をさせる公案じゃねーぞなwwwwwwww
いくら釈迦や達磨でも呼吸器官を塞いだら死んじまうわw
却と塞じゃ全然意味が違うわ、ぶぁーかw ☆↓まだ読んでないけど、とりあえず
ttps://samgha.co.jp/shop/products/detail/320
サンガジャパン Vol.27
テーラワーダからみた禅 アルボムッレ・スマナサーラ×藤田一照
(観想(ビジュアライゼーション)することもなく)余念を交えず、ただひたすら座禅する
− これに対して −
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
仮設としての
無明している世界の中で
地水火風空識に依存している
色受想行識の仮和合の
密集に依存して
(無明に縁りて → )行に縁りて → 識 … が現れている
− これを対処するために −
色受想行識の仮和合を
地水火風空識(の微粒子)に分解して
(観想(ビジュアライゼーション)して)
(地水火風空識(の微粒子)に依存している)
色受想行識の
密集を看破して ← 勝義無性の世界から 痴という字はよくできてるねぇ。
やまいだれに(知る)と書く。
食べたんだから代金はいいとして、
ここまで来た旅費は一体誰に返してもらうべきなのか。
知ることじゃない。分かることじゃない。 ☆
>知ることじゃない。分かることじゃない
たとえば
(円成実性の世界を前提として)
月輪観とか
数息観とかから始めて
四界分別とかの
観想(ビジュアライゼーション)の道筋を通って
最終的には
滅に触れて順々の正知による想滅定が生起して
そして
余念を交えず、ただひたすら
(縁起したものを離れて ← 無為法の世界そのものなので、それゆえに)
何にもならない(道元禅師の)坐禅
さらに無の世界も超えて
菩提心をもって元の世界に戻ってきて
(円成実性を見ずして → 依他起性を見ることはできないので、それゆえに)
円成実性の世界から
平等性智をもって
(無明している世界を手放して)
(妄想することなく)
分別することなく → 移り行く世界の様をありのまま見つめている >>826
そういう理屈を追いかける(≒理解する)状況にあるうちは、
所詮、身に付いていないということ。
「意識して」「或る形・ラインに沿うように」「行動を制御して」、
目標のライン通りに進むようラジコンカーを操るようなもの。
意図して、意識して、目指して、計算して、(分別計らいの上に行動の方向性を設定して、その通りに進める)のでなく、
瞬間瞬間に、意図せず・意識せず・計算せず、すかさず行動に移っている、
そういうような「行(業、行為)」を生起させ得るようでないと。
一瞬でも、>>826が(その極一部すら)意識されたとしたら、
その瞬間に、 世俗の判断・世俗の行為・世俗の価値判断 に堕すことになる。 >>827
という理屈(理論)すら、あってはならない、とw ☆
たとえば、勝義一辺倒の勝義房タソとかも
>>827のような理屈(理論)すら、あってはならない、とw
それゆえに
机先生とかの場合は
(只管打坐は ← 円成実性の世界そのものなので、それゆえに)
『(仮設としての、無明している世界の中においては)只管打坐すらも(必要が)ない』
とか言ってたような気がします
勝義房タソの場合は
勝義一辺倒なので、それゆえに
『仏の智慧も・仏の慈悲も』必要がないかもしれないけど、それでも、とりあえず
仏が大悲・大智によって衆生に応じて
衆生がそれを受け入れて
双方が相応一致して
生きとし生けるものにも
光り輝いている
『仏の智慧と・仏の慈悲が』現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
おじゃるには >>827 >>828 は無理なので
中論 第二十七章 見解(邪見)の考察
…
すべての見解を棄てるようにと導く
真実の教え(法)を
(如来の智慧と)
慈悲の心から説いて下さったゴータマにひれ伏します m(_ _)m
献呈歌
(依他起性の世界)依存的に生じている
(円成実性の世界)現れることもなく滅することもない
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
中論の献呈歌の
現れることもなく滅することもない
円成実性の世界を前提として
円成実性の世界に住む
そのために
通常は
入出息観とか
四界分別観とかから始めなければなりません
たとえば
おじゃるの精神的能力(機根)や性質などに応じてそれにふさわしい
(月輪観とかの)
観想(ビジュアライゼーション)というような苦集滅道で導いていく 仏教では、ギリシア哲学(例えば、プラトンの『クラテュロス』の議論や、
ユークリッドの『原論』における定義のあり方など)にも見られるように、
言葉や概念は、社会的・世俗的な約束事として、仮に設定しているものに過ぎないという発想が、
少なくとも部派仏教の段階では既に確立していた。
そしてこれは、「二諦論」における片方の「世俗諦」(世俗・人間社会の真理)とも結合したものでもあり、
仏教が主張する「世界の実相」としての「勝義諦」(真諦)と、対を成すものでもあった。 施設に収容されている宗教性妄想患者が作成した文章の例。
>俺は、最近裏工作的に牧師の霊的指導を笑、
>当然そういう風に魅せずにな笑。
>世話になっている坊主に俺は、自分の修行が
>進まんのにクリスチャンの世話ばかりしてい
>ると笑。
>今日は、さっき書いたが、修行マニアの書い
>た本(どちらかというと仏教、神道系など、
>神秘主義修行の内容が多いのに笑)に、世話
>になっている坊主の公案修行、鈴なのど本を
>書いてあるのを読んだ。
>彼は本物だと知っていたが、きちんとした出
>版社に載るようになったとは笑。 宗教性妄想患者の書いた文章。
*********************
ほとけとは、ゴマモチだなあ、やっぱり、
とか言ってパクリと口に放り込んだんだろう、
そして、お茶をゴクリ。
大上段にふりかぶった大刀(だいとう)が虚空
を切ったな。
わたしは、片手に徒が叩く拍手の音を聞いて
さとった。
夜が明けるまでに3度、わたしを否定するだろ
うと、マブダチ、ヨシュアが言ってるよ。
********************* 参禅すると、チワワ犬的にマーキング的にマルチポスト発狂できます、
参禅者募集笑。
ジャンキー大山がまっているぜ笑。 サウジアラビアがいってるKSAではなくて月読、ガブリエル、アルテミス、降三世明王などで
形成されたKSAの神仏をこれからは拝まなきゃいけません。 キリスト教、イスラム教、仏教はいい加減に世界宗教という考え方を否定するべきだと思う
布教先を侵略するか、現地の土着宗教と習合するか
このどちらかでしか教化に成功してない
宗教なんてものは土着的なもんなんだから
他の地域に押し付けるのはやめるべきだ 真言宗←ただの呪術だしこの宗派は仏教名乗るべきじゃないだろ。。。寺生まれのTさん教 ・ [253473865]
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1507048946/ wwwwwwwwww
しかしなあ、w
立川流・・・・・・これこそが真の仏教なんて言われたら、釈迦はどんな顔するか?ww 南直裁が、今回のブログで書いているが・・・・
教団(仏教出家社会)と世俗での価値体系の相違について述べてるんだが・・
実際、自称仏教徒たち・・・特に新興宗教系の者たちは、ホント、そこをきちんと
理解してないんだよなw
仏教は、全ての人を幸せにしますとかw うちの組織に入って信仰を深めれば
幸せになれます とかw
仏教は幸せになるための お救い宗教じゃねえってのw
・・・・・まず、仏教に内包される「反社会性」を理解しなさいってえのww さて・・
「仏教」が継承されるとはどういうことか?
*勿論そこには、
「仏教」が継承されるということと「仏法」が継承されるということとの違い
も、吟味されねばならないわけだが、どちらにしても↓
継承するために、
現代社会・行政・世相・未来志向の価値観、
個人の権利・尊厳・自由意志、社会的相関関係・しがらみ
に阿諛しなけれならないのが、――もっと言い換えれば――
非世俗で有り続けるために世俗化せねばならない状況に、現代日本仏教は陥っているわけで。
なんという劇的な矛盾www 仏教は反社会じゃないよ。脱世間。
反社会というのは、暴力や詐欺をするような連中であって。 しかし、仏教は資本主義社会には反しているとは言える。
仏教は世間=苦であり、世間的な利益追求は貪りであり、苦しみをもたらす。
そんなことから離れなさい、遠ざかりなさい。
貪りを滅し尽くしなさいと仏典で説かれている。 多くの日本人は仏教が正しいと分かっているんだが、実行は無理なだけ。
みんなオマンマ食べたいから仕方なく利益を貪っている。 江戸時代の真言宗の慈雲尊者は、日本ではまれに見る仏教徒だった。
戒律を徹底して守られていた。
宗派関係なく三宝に帰依し、戒律を守ってる者が真の仏教徒と言える。 >>851->>855
空想的内容が多すぎ、
850のバービーの文章なら意味は理解できるが、 >仏教は反社会じゃないよ。脱世間。
> 反社会というのは、暴力や詐欺をするような連中であって。
「反社会」という語彙を単に「暴力、詐欺」等の犯罪行為に限定しているわけではないのw
釈迦仏教が持つ、⇒「一般的な世俗における価値体系と反する価値体系」を
「反社会」という語彙で表現したのさ。
釈迦仏教は、とことん行けば、社会の破棄にもリンクするわけ。
勿論、現実にはそんなことにはならないだろうし、釈迦もその辺は分かってるから
世俗での生き方も説いている。
しかし、それに内包されている「反社会性」を理解せずに、「信じれば救われる」的な
安易な新興宗教の甘言のみに浸っていると、永久に釈迦の教説はわからんよw >>859
まあしかし釈迦の教説も社会性がないからそう有り難がるものでもないけどな
釈迦もその辺は分かってて布教はしたが無理強いはしなかった >>860 その無理強いはしなかった ところが、釈迦が最も優れていたところだと思うのだがw
しかし、仏教の継承 と言う観点からみると、大乗の発生は必然だし、世俗からの需要に適応
することも、いわば、「必要悪」だったとも言える。
仏教の土着宗教の許容とか、葬儀への関わりとかねw
そういうのを完全に却下するのも短絡的だし、また、それに埋没して原点を無視するのも
浅薄だしw どのみち社会は必ず滅するわけだから。
だけれども心は平静であれ。これがお釈迦様の教えだと思います。 お釈迦様は人には無理強いしなかったが
お釈迦様ご自身は誰よりも自分に無理強いしたことは明らか。 >>859
このような知見がパーピマンの真骨頂。
仏教信奉者側からは普段、こういった見解が語られることは殆どない。
外道を自称するパーピマンだからこその優れた見識かな。 >>865
マハトマ・ガンジーに見るようなヒンドゥーの教えである非暴力アヒンサーの重要性が、
ラーマ・クリシュナら近代アヴァターラ方によって更に強調して説かれたけれども、
一応、現在は無くなったとはいわれているヴェーダの動物生贄の伝統のみならず、
今だに続いているらしいカーリー女神像へ吹き付けられる動物生血の鮮血や
シヴァ派サドーら(裸系苦行者)の中にも人間に危害を加える過激な奴がいるともいう...。
ということで、
ヒンドゥー教としての教義上では業と非暴力の思想から平和的である筈なのですが、
派や各グループ個人においてはかなり不透明で混沌としており、中には恐ろしい人間もいると見るべきでしょう。 パーピマンは天空寺の柚子森に考え方が似てる
そっくりかも 柚子森 って誰だい?w
コテつけてるのかね? その人は。 >>864追記:
仏教というものは、
それが説かれた年代と地域と時代背景を考慮しなければならないと思う。
つまり、もしも現代日本においてゴータマがいたのならば、
果たしてどのような教えが説かれただろうか? ということ。
ゴータマの対機説法は当然、きっとまた違った教え方をされたに違いない筈です。
当時の古代インドでの教えとは異なったものとなる、と。 >>868
パーピもやられたね笑
もしかして柚子森知ってないか?
絡んだことあるかもよ
とにかく悠々してて話も面白い
ロンには嫌われまくってる笑 >>870
wwwww
わからんw
最近は、鬼スレ殆どいかないんで、住人がわからんw みなさん不動明王は拝んではいけません。一瞬よくなったように見えても、もともと悪く
なるように仕組んでおいて、それをはずしてるだけだったりするので、その後また悪くなる。
徳がつんであって障害者になる運命じゃない人をなんくせつけて不正に障害者になるよう仕向
けたり、借金地獄になるような運命じゃない人を借金地獄になるよう仕向けたりしてます。
また落ちこぼれの人に教えるよう救いの手を差し向けるとそこをねらってその落ちこぼれの
人の運命と入れ替え逆になるようしむけたりもあります。また幼いころから釈迦などと
後でもめるよう仕向けたりしておいて、後でもめてるところを、自分は釈迦とグルになるよう
はからったり、情報では2万年前のソドムとゴモラの町も別に悪い町じゃなく今より何百年か
何千年かすすんだ科学都市だったらしいですが、それで他の惑星と友好的にやっていこうと
してたのに、例の不動の癖で嫉妬とひがみにくるった状態で裏からヤハウェに「あれでお宅の惑星
を攻めてくるつもりです」と嘘を巧みな話術と幻術で洗脳し滅ぼすように仕組んだりもありました。
とにかくひがみと嫉妬に狂っていて汚くずるい。カリスマ性やモテ度もカリスマ性やモテ度を持ってる人から
奪い取って嘘のカリスマ性やモテ度で周りを呼び込んでいます。
ビートたけしは家が真言宗だと聞いたが、不動はおがんではいけません。だからか、最近ギャグ
を言ってもぜんぜん面白くないし、映画もたいしておもしろくない。というよりは真言宗が一番中心に
となえる神から不動明王を排除して降三世明王や他の明王にすべきです。不動は悪い方へ行って
しまったのではなくもともと何万年と人類や上の神仏をだましてきたのです。
上の神様大日如来もパワーがほしいときあるいは怒りがほしいとき不動とがったいしてはいけません。
記憶、記録も思いもいいように嘘にすりかえられてしまいます。 ☆
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
永遠に変化することのないプルシャ
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
ttp://☆mi☆tsu☆nako☆udai.blog.fc☆2.com/blog-en☆try-160.html
古代エジプト 魂
…
…カーを原型にして、その人固有の身体と人格が形作られている
生きている間は、カーが主体となって、その人の精神的活動を行う
「自我」や「エゴ」というものは、カーの働きによって形成されている
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
阿頼耶識 − さとりに達するための修行の障害がない
末那識 − 我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害がある
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れる
ttp://www.onedhamma.com/?p=6349
無為の世界を納得できないのは、やはりエゴに邪魔されている為なのか?
たとえば、おじゃるの場合は、無明と我愛に依存して
それゆえに >>827 >>828 は無理なので おじゃる m(_ _)m キリスト教の福音派は進化論の否定w
よって公立学校では進化論を教えられてしまうので、自宅学習にしている世帯が
なんと100万世帯ww
しかし、世界の最先端科学を担っているのもアメリカw
面白い国だなあw Nスペ 藤井聡太
Q:同世代の子を羨ましく思ったりしない?
A:特には・・。
ずっと将棋をやってきてたので、将棋ができることが楽しいので。
仏弟子も、こうあるべきかもな・・w
世俗に興味なく、修行が楽しい、と。
で、世襲ってのは、
(梨園も、もしかしたらそうあるべきだし、それができている世界かもしらんけど)、
≪そういう「人材育成」ができる≫という点でのみ、
教義上も許容される可能性を有するのかもな・・。 が、同時に、
(今日の昼間の、鑑定団再放送のラスト出品は、「一休の源氏物語写し」だったがw)
一休の在り様も、
アレはアレで、禅僧の生き方の、一つのサンプル(―しかも、本質を抉り尽くした―)
と、言い得るわけでね・・・w オレは、昔から、一休は どうもねw
自己を単なる「一夜の現れ、刹那の現出」と割り切って、
「ならば、遊びに遊びきって、全てを茶化して生きる」 ってのも、禅的にはOKなんだろうが、
それには、絶対的に外せない条件があると思うんだが?w
つまり、全てを「遊び」に昇華してしまうのならば、そこに必ず自己も含めること。
自己をも遊びの一端として、徹底的に突き放せるんならばいいけど、大概の者は、
遊びと自己を分離して、遊ぶ対象と遊んでいる自己・・・になるでしょう?w
すると結局は、無頼を気取るだけの似非覚者で終わってしまう。
・・・・世間的な常識、宗教者としての常識をわざと、逸脱するような言動を繰り返し、
「何物にも縛られない自己」というものを演出する。
これは他者を欺くのを目的とするよりも、寧ろ自己を欺く・・・・これが悟りだ・・・
という思い込みに酔う 意味合いが大きいと思うけどねw
そして、そういう者は必ずある種の臭みが漂う。
・・・・オレ的には、どうしても、一休にはその臭みがねえwww 明恵、白隠、良寛、一休、
時代下って山本玄峰、山田無文、
或いは、政治世俗絡みで夢窓とか、
これらそれぞれにどういう評価を与えるか?
が、そのままその人の立ち位置になるかもな。 明恵は、以前、道元のことを調べていた資料で知ったが、あまりよくは知らんなw
ただ、なんていうか、密教臭が強かったので、深く知ろうとも思わんかったw
白隠は、好きなほうだねw
ジタバタしてる感じが、何とも人間臭くていいw
やっぱり、この中では良寛が一番好きだw
この人は、悟っているとは思えないが、実に自分に素直に生きた・・・という印象なんだw
なんというか、僧侶のくせして、「悟り」自体にも興味がなさそうで、ただ、思うがままに生きた
印象だねw
自分が何者かになろうとするところが全く見られなくて(若いときはそういう面も見られたがw)
常に方の力を抜いて生きてるみたいなw
(その書も、なんかすごくいいw まさに「飄々」として・・・)
山本玄峰、山田無文、・・・・この人たちについては、正直よくわからんw
評価が定まるのは、まだずっと先のようなw
夢窓についても、詳しく調べたことはないのでww
ただ、庭造りが得意な人か? 明恵は、法相宗の貞慶や三論宗の明遍とならび、しばしば超人的な学僧と評される[5]が、学問としての教説理解よりも実際の修行を重視し、きびしく戒律を護って身を持することきわめて謹厳であった[3]。
上覚からは伝法灌頂を受けており、学問研究と実践修行の統一を図った[2]。
その人柄は、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがいささかもなかった。
かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたものであった[3]。
たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により、『観無量寿経』に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」
あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど[6][7]、
後述するように、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった[8]。
なお、松尾剛次は、明恵を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる[4]。
建暦2年(1212年)、法然批判の書『摧邪輪』を著しており、翌年には『摧邪輪荘厳記』を著してそれを補足している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5 >>880
ばーびーちゅわん。
俺は、明恵の唯一の後継者らしい笑(爆)
山本玄峰は、まともな奴に坐禅不要論、
山田無文はまあ基礎を教育してもらったよ、これは本で。。 みなさん不動明王とイルミナティ(フリーメーソン)は悪の出方は違っても
同じところから発してる同一のものだとだした霊媒師がいたので、どちらも
拝んではいけません。後はそれぞれで他宗教にあたってよくよく調べてください。 >>883 wwwwwwwwww
ったくw
スマさんも、アホな説法いい加減にやめればいいのにw
スマさんは、日本の仏教とは異なる、上座部という仏教があるんですよ と紹介した
功績はあるけど、大乗への攻撃・・・・それも非常に偏向性に富んだ浅薄な見解で
批判するもんだから、バカにされるw 某師家
今入制提唱で普賢行力説
又、数代前の師家の著や書入れをもとに
近世禅宗の観音信仰及び念観音(→自己の行の在り方の点検)の意義をも
若いが、
やっぱり、今全国一だろうな・・・ >>889
諸師遍参のプロみたいな大王に聞いてみたら? >>888補
また、
白隠(法華経的世界観)の功罪を指摘しつつ、近世禅林の様相を俯瞰して、
今後の方向性を(華厳的(普賢行的)世界観・視座に立脚したベクトルを)模索している点も、
将来性の高さを感じさせる >>891
普賢行ねえw
確かに理念として尊いのはわかるが、(悪魔的視座からw)ひねくれた見解を述べると・・・・
オレは御免こうむりたいw 全部まとめて衆生救済 てえのは、何とも上から目線の「善の押しつけ」
のように感じられてねw
一つ菩薩さまにお尋ねしたいw
「貴方は自分のしていることを正しいことと信じて行っているのですよね?
その貴方の心の片隅にほんの僅かでも、「このようなことを行っている自分は正しいのだ」というような
自己肯定の心はありませんか?
衆生救済は絶対的な善であると、自己の行為の「絶対性」という固定観念に囚われていませんか?」
「利他の精神」というのは、本当に難しいと思うね。
・・・・・確かに、人のために無償で何かを行う と言う行為は素晴らしいよ。
実に尊い行為だ。 それは間違いないと思う。 だがねw
自分の心の奥底をじっと覗いてごらん。
そこに、「こんなことしてる自分はエライ。」 っていう意識が潜んでないかい?w
無意識の奥の奥に、潜んではいませんか?w
以前、「ボランティア活動を通して一体感が得られる。みんなと繋がっている自分を確認できる。」
と言ってたアホ ボランティアがいたw
・・・・・「お前、結局、自分のためにボランティアしてるんじゃん。」 と、心の中で突っ込んだがww 憲法というのは、確かに「理念」の標榜 という面がある。
下位の法律の文言に比しても、その言い回しは非常に抽象的であり、よって
そこに「解釈」という作業が必須となる。
単に理念の標榜だけであればよいが、憲法は下位の法律に干渉し、それに反する立法は排除される。
しかし、現実の社会は常に流動的であり、実体が憲法と乖離すれば、当然、何かしらの作業が
必要とされる。
@解釈の変更
A関連法の立法
B憲法そのものの変更
・・・・・俺としては、Bが最も妥当だと思うけどね。 そのために、改正の手続きも定められて
いるのだし。
9条があり、話し合いさえすれば、どの様な場合でも平和は保証されるなんて、脳内お花畑は
いい加減にやめましょうw 法華経の久遠実成も浄土宗の阿弥陀様も
イエス・キリストのことだと言ってるの
いるけど、ホントですか?因みに大乗仏教
もキリスト教も時期的に、あまり変わらない
のだとか? >法華経の久遠実成も浄土宗の阿弥陀様も
>イエス・キリストのことだと言ってるの
> いるけど、ホントですか?
んなわけないでしょうw
>因みに大乗仏教
>もキリスト教も時期的に、あまり変わらない
>のだとか?
時期的にかぶるところはありますが、大乗の萌芽は紀元前からあります。
お話にあった法華経も成立年代には長いスパンがあって、ごく初期のものは
紀元前後と言われていますが、その思想そのものは紀元前に既にあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています