2005年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9  フィリ 1:20〜27a  マタ 20:1〜16

いつの時代にも、教会の中には厳格な正義や純潔への主張があって、それに反する行為に陥った人々に対しては冷淡な対応をして来ました。
論理的には全く正しく、誰も正面から反論出来ないために、そのような人々は教会の日陰者として生きるか、教会から出て行くしかありませんでした。
夕方五時頃に雇われた労働者たちは言っています。 「なぜ何もしないで一日中ここに ・・・・・ ?」 「・・・・・ 誰も雇ってくれない(自分では解決できない)のです。」

今日の男女関係の世界で、カトリック教会が禁じている避妊を日常的に行っている人々ややむを得ず妊娠中絶を行った人々、離婚を経てまた再婚したり同棲しているカップルは、非常に多くなっています。
彼らはその行為をゲーム感覚で面白がってやっているわけではありません。
そこには計り知れない人間模様の苦しみや悩みと悲しみが隠されています。
しかし現代のカトリック教会は彼らに対して 「あなたたちもぶどう園に行きなさい」 とは言いません。

真面目に考えるなら、私たちの大多数はいわば三時や五時になって雇われた労働者であって、厳格な正義や純潔に耐え得るような理想的な人間は殆どいないはずです。
私たちは終わりの日に天の父が厳格な正義によって私たちを扱われないことに期待しているのであって、自分の義ではなくて神の義を当てにしているのです(ロマ 10:3-4 参照)。
それで、何らかの事情で小教区のミサで今は御聖体に与ることを許されていないような信者も、それでも教会から離れずに、苦しみながら信仰生活を続けているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より