ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
朝鮮人と朝鮮新報
自分に都合の良い判決は勝訴を大々的に喧伝し、
敗訴したら「不当判決」と駄々をこねるゴミクズども。
コイツらは法治国家を理解しない。
ソクラテスは不当な判決でも受け入れた。
判決を選り好みするのは法を軽んじてるんだよ。
朝鮮新報と在日朝鮮人は幼児だね。
旧約聖書 ヨブ記
「私は神から良い物を受けてきた。ならば悪い物も受け取るべきではないか。」 2002年(主日A年) 9月15日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7 ロマ 14:7〜9 マタ 18:21〜35
教会共同体の一員である私たちが兄弟であるだれかの罪を赦すことについて、マタイ福音書は “主の祈り” の解説のところで次のように述べています。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタ 6:14-15)
マタ v.21 のペトロの質問に対しても、主イエスは同様の答えをされました。
しかしこれに並行する ルカ 17:3-4 にも、私たちは注目しなければなりません。
そこにはこう述べられています。 「悔い改めれば ・・・・ 」 「“悔い改めます” と言ってあなたのところに来るなら ・・・・・ 」。
赦すことと、うやむやにして忘れてしまうこととは、決して同じではないのです。
マタイ福音書の譬え話をよく注意して読むと、マタ v.31 が重要な鍵になっているのが分かります。
「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。」(マタ v.31)
教会の仲間たちは、このような罪をうやむやにして忘れてしまってはならないのです。
教会の仲間の一人に対する罪は教会に対する罪であり、それは教会の頭である主への罪なのですから、教会は “あるいはつなぎ、あるいは解く”(マタ 18:18 ) ことを主から求められるのです。
教会がこのような重い責任を十分に理解するときにこそ、初めて逆説的に、マタ v.35 は私たちへの主の大きな恵みの語りかけとなるのではないでしょうか。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタ v.35)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています