2011年(主日A年) 7月3日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10  ロマ 8:9〜13  マタ 11:25〜30

「そのとき、イエスはこう言われた。 “天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです。 これは御心に適うことでした。”」(マタ vv.25-26)

ミサ典礼書の総則は宣教奉仕者という特別な役割について定めて、“福音を除き、聖書を朗読するために選任される” と述べています(66)。
福音の朗読と説教は司祭または助祭に保留されていることなので、信徒がこれを受け持つことはありません。
いずれにしてもこれを聞く信者は、これらの行為を通して “キリストが現存され自分に語っておられる” ことを認めるようにと教えられています(総則 35)。

司祭や助祭は言うまでもなく、このような奉仕者も、通常 「知恵ある者や賢い者」 のように振る舞っています。
なぜなら、それらは間違いなく “まことに尊い大切な務め” だからです。
だれがそれに異論を唱えることが出来るでしょうか。

カトリックだけではなくて、実際にはプロテスタントでも、大多数の信者は聖書をきちんと読んでいないのが実状です。
ネズミがチーズをかじったからといって、料理や栄養についての知識や理解を得たことにはならないように、
人が聖書のあれやこれやの断片を呪文のように唱えたり読んだりしても、神のことば (キリストの福音) を聞いたことにはならないのですが、不思議なことにそういう人は、自分が無知で愚かであるなどとは決して思っていないのです。

聖伝と聖書は外から与えられたものではなくて、カトリック教会が使徒継承によって受け継いで来た神のことばの “聖なる委託物” であり、神の啓示の源泉であることを、第二バチカン公会議は明確に宣言しました。
“信者が自分で聖書を読むと、理解がまちまちとなり、一致が損なわれる” などという口実を設けて、幼子のように神のことばを聞く者とならないで、しかも 「知恵ある者や賢い者」 のように振る舞っている人々のことが、今朝の福音で語られているのではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より