2012年(主日B年) 7月1日 年間第13主日
知 1:13-15, 2:23-24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。 それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリ v.9)

これはエルサレム教会の窮乏を助けるための異邦人教会からの援助について、パウロが奨めている手紙の一節ですが、私たちはこれを世間一般の慈善と同じように理解してはなりません。
聖書のイエスを、ただの気前の良い太っ腹な主人のように考えるのと、「主イエス・キリストの恵みを知る」(IIコリ v.9)こととは、全く別のことなのです。
これはキリストの受肉の出来事を指していて、“神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたこと”(フィリ 2:6-7)、
“わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったこと”(ロマ 5:8)、“父なる神がわたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたこと”(ロマ 8:32)だからです。
エルサレム教会から始まった福音の宣教によって、異邦人はその霊的なものにあずかったのだから、今彼らの窮乏を助ける義務があるとパウロは言ったのです(ロマ 15:26-27)。

現代の私たちがミサのことばの典礼で、聖書を通して使徒たちと原始教会の宣教者の説教の片鱗に触れることが出来る幸いを、感謝しましょう。
私たち信者は、ことばの典礼を通して、善意と慈愛に満ちた美しいイエス物語りではなくて、そのために命をかけた使徒と殉教者の宣教を、確かに聞いているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より