カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
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2005年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
主イエスが御国の福音を宣べ伝えて歩まれたとき、それに最も強力に対抗したのはユダヤ教の指導者たちでありました。
その記憶は1世紀末の教会にとってもなお生々しいものであったと思われます。
1世紀末頃の使徒的文書と推測されているディダケーには “ユダヤ人 = 偽善者” という決めつけが見られ、マタイ23章がそのような背景の中で伝承されたことを伺わせます。
しかし当時すでに教会はユダヤ教から独立した歩みをしていましたから、この物語りにはむしろ、キリスト教徒自らの福音理解を純粋に保つという新しい役割が期待されていました。
モーセの座とは旧約聖書の権威のことで、キリストの福音が “律法と預言者によって立証されて” 与えられたことを理解するようにと教え(ロマ 3:21)、しかもそれが信者にキリストとの生き生きとした交わりを与えるものであることを示そうとしたのです。 (つづき)
諸世紀を通して組織としてのカトリック教会には、事実上神学や聖書研究を、聖職者だけの専管事項にしようとする傾向が見られました。
教会において教導職に委ねられた責任が大きいとはいえ、それがカトリック教会で、信者たち自身による学びや研究を禁じるもののように受けとめられて来たとすれば、不幸なことであったと言わなければなりません。
主イエスが 「あなた達は聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。 ところが、聖書は私について証しをするものだ」(ヨハ 5:39)と言われたとき、それは一般の信者を対象にしていました。
パウロとシラスのマケドニア伝道の報告の中には、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使 17:11)と書かれています。
旧約聖書とそれに基づく福音を学ぶとき、「あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタ v.9)、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタ v.10)ということを忘れてはならないと、マタイ福音書は教えました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています