>>162
現在の「不確定性原理」の定義は昔とは変わっているようですが、(昔の定義の)
不確定性原理の話ですよね。私も若い頃には興味を持ったものです。

私は物理学については素人なので物理学の内容について語ることはできない
のですが、「物理学と仏教」という観点で私の頭に浮かぶのは二人の人物です。

一人は禅僧の村上光照師で、この人はもともとは名古屋大学で量子力学の研究
をしていたようですが、物理学で真理をつかむことは出来ないことがわかって
物理学者を捨てて禅僧になった人です。現在は、(コチコチの)曹洞宗の禅僧
になられています。

もう一人は物理学者の故・小田切瑞穂氏(近畿大学教授、奈良大学教授)です。
小田切瑞穂氏は京都大学で湯川秀樹博士の同級生で、「中間子論」についても
論文発表前に湯川博士とよく議論をしたそうです。私は京都に住んでいた時に
知人の紹介で小田切瑞穂氏にお会いし、小田切氏の「潜態論」の話も聞いたこと
があります。(話の中にシュレディンガーの波動方程式や複雑な行列式が沢山
出て来て、物理学の素人にはチンプンカンプンでしたが)禅仏教の教えを科学的
に説明したものが「「潜態論」だということでした。

私としては、「禅仏教は禅仏教として学べばよいのに、なぜ物理学の言葉で説明
する必要があるのか? 小田切先生は禅が体験出来ていないから、自分の職業の
物理学の言葉に置き換えて理解しようとしているだけではないのか?」と思いながら
小田切氏の話を聞いていた思い出があります。

大切なのは「自分が悟れるかどうか」ですよね。神経症者なら、「神経症が治るか
どうか」ですね。学問的にどのように説明をつけてみても、実存の問題は一般性の
問題で取って代えることは出来ない訳です。
沢木興道老師が 「人間というものは、屁一発も貸し借りは出来んのじゃ。みなが
自分ぎりの自分生きなければならんのじゃ」とよく言われていたのはそのことです。
「自然科学の研究」と「自己の実存の問題」を混同してはいけないということですね。

そういう意味で、私は小田切瑞穂氏よりも村上光照師の方に親近感を覚えています。