【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.net
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仏教、 無我の教え、悟り、森田療法により神経症(不安障害)は治せる
という話をしている無我さんのスレです。
※前スレ
【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教、悟り】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462873365/ スレ立て、ご苦労様。
(前スレの)
>>921
>内、外 と言うのも、両方とも自分の認識に過ぎず、物理的な現実世界は含まれてないですよね?
>が、その人の認識以前に物理的な石(現実世界)はあるじゃんと。
まだまだわかっていませんね。
あなたの考えのどこに間違いがあるかは、>>885-886 で説明しています。
>>879 >>885-886 >>893-894 をよく読んでよく考えてみましょう。
(本当に解かるのは意識が変容した時なのですが、理屈だけでも一応の納得は可能です。) >>3
無我さんも『』付きで『その人にとって』って書き込んでますよね?
『その人にとって』以前の物理的な世界は全く想定していないんですか?
もしくは想定しようがしまいが、いずれにせよ『その人にとって』の認識を抜け出せないわけだから、あえて想定しない? もしくは物理という言葉を使った時点で、既に認識じゃんという立場? >>4
その質問の答えも >>885-886 にちゃんと書いてあるのですよ。
内容がきちんと読めていないということだと思いますが、「意識の変容」が起こるまでは、
あなたのように考えてしまいがちなものです。この論理に初めて触れた人にとっては難しい
だろうと思います。
実は、カントの哲学が難しいのも同じ理由で、カントの哲学は龍樹の哲学の 「前半部分」 なの
です。カントは残りの半分(意識が変容して初めて解かる内容)に入ることが出来なかった為に
「悟り」 に至ることはなかったのですが、それでもカントの哲学は一般の人々にとっては非常に
難しいのですから、龍樹の哲学がさらに難しいのは当然なのです。
ですから、少し考えてわからなくてもガッカリする必要は全くありません。
引き続き、時間がある時に
>>879 >>885-886 >>893-894 を繰り返し読んで考えて行って下さい。
(時々は座禅や瞑想をしながら考えてみるのもよいと思います。)
>>5
私も師匠からよく言われたことですが、
『仏教というのは、自分の考え方の中に仏教の考え方を取り込むのではありません。
自分が仏教の考え方の中に取り込まれて行くことなのです。』
これは自力、他力を問わず仏教の根本で、信仰によって救いを求める場合も、また
仏教哲学によって悟りを求める場合も同じです。 >>6
一応>>4にイエスかノーで答えて頂けるとありがたいです。
このギャップこそが鍵になりそうな予感がします。 >>8
>『その人にとって』以前の物理的な世界は全く想定していないんですか?
「以前の」 というのが無意味な言葉なので、
イエス、ノーでは答えようがない、ということですね。
>>879 で、
<すべては 「意識(意識内容)」 に過ぎず、時間というものは存在しない>
と書いたでしょう。
「以前」も 「今」 も 「将来」 も、それらは、「今の意識」 なのです。
「100年前から存在していたはずだ」 などと思っても、それを考えているのは
「今の意識」 であって、「その意識の中」以外にはどこにも100年前の世界などは
存在していないのです。
(少しは、わかってきたでしょうか・・?)
(このように、世間の常識的な思考・感覚の誤りに気付くことによって意識の変容が
起こり、それによって 「悟り」 の世界に入れることを発見したのが龍樹の最大の功績
だと言えるでしょう。) (追加説明)
>もしくは想定しようがしまいが、いずれにせよ『その人にとって』の認識を抜け出せないわけだから、あえて想定しない?
「あえて想定しない」 というよりも、想定して(考えて)いいのです。
しかし、それは 「今の(意識の中)」 であって、常識的な発想の「過去」ということではない
ということですね。 >>9
ありがとうございます
時間の例えだと、かなり分かりやすいです 頭の悪いリア充が、対人恐怖が少なくて恋や趣味に突き進んでいる
これは、難解な無我や仏教哲学を理解してるわけではないけどどういう状態?
無我さんは「無自覚だが、意識と属性が密着してない状態」と説明するが
「属性がいい意味でお花畑」ってこともありますよね?
一方対人恐怖症の人は「属性が一人相撲の監獄」的な。
まあこれは「認知を変えていく」という普通の心理学的な捉え方に近いと思いますが。
属性=認知 的な。 対人〜の人は、属性が固定的ってのはありますね。
何年も固定的な属性に縛られた状態。
「終わらない思春期」みたいな言葉もあって、変わるべき属性、認知がやたらと固定的になってしまっている状態。
一方バカなリア充は
(まあバカじゃなくてもいいんですがw)
対人恐怖が始めからゼロなわけではないけど
経験を積むことによって
属性、認知を変えていく
その中で、ある意味実感として属性は属性に過ぎないということを
対人の人よりわかっているのかもしれない。
そのように普通の心理学的には「経験を積む」ということを基本にすると思うが、
ここでの無我方式は、
極論一人仏教の本を読み込んで
いつの日か100%治るみたいな話ですね。
これはどれほどの再現性があるのか?
「属性は属性に過ぎない」ということの理解と
現実世界で経験を積むこと
その相互的な効果性
この両輪がいいのではないかと。
例えばお寺に行く
お坊さんの話を聞く
「他の参加者がいる」
他の参加者と軽く挨拶する
お坊さんと話をする
これらはまさに「経験」ですよね そういうお坊さんのお話を聞くみたいな場では
集まる参加者は何かしら悩みとかコンプレックスとか負の物を抱えているということが
いい意味で前提となってる感じ、安心感がありますよね。
「お仕事は?」
「ちょっと今無職なんですよね?・・」
「ああそうなの(私もよ)」
スーン(平常)。みたいな。
そもそも雰囲気察して仕事とかいちいち聞かないってのもあると思う。
後は
「恋愛経験は?」
「年齢は?」
とかもある。
つまりそういう社会的、通念的な事柄(属性?)からいい意味で浮き世離れした場なわけですね。
そういうところは。
だからある意味そこに参加するだけで
もうそれは無我の一端なのではないかと。 キリスト教の教会だってイスラム教のモスクだって
そういう側面はあると思う。
いい意味で浮き世離れした空間、人付き合いの場。
現代日本はそういうのが薄くなっててそういうものと無縁な人も多いから心がすさみやすいのかもしれない。
そして、そもそもその浮き世というもの、社会通念
そういったものを皆で強固な「現実」としている認知の形。
これも宗教ですよね。
マインドフルネス別館にも同じようなこと書かれてました。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1476200516/638
おまいらたちは、宗教のことを、宗教宗教っていうけど
世間一般の常識は、ただ多数派っていうだけで、それも立派な宗教だかんな。 回避性パーソナリティ障害 Part72 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1485617745/
こういうところでも
やはり社会通念的な書き込みに溢れてる
『「これが普通」なんだけど「自分はそうじゃないからなあー、恥ずかしいなーいやはや難儀難儀」』
それで、そういうものがある種の
フィクションというか何か心のレトリック?というか
俯瞰して見えてくるようなところもあって
それは無我的なことを考えたりしてる効果かもしれない。
社会通念的なものに100%ドップリの認識よりはいいかなと。 >>12-16
>頭の悪いリア充が、対人恐怖が少なくて恋や趣味に突き進んでいる
これは、難解な無我や仏教哲学を理解してるわけではないけどどういう状態?
それについては、「無自覚だが、意識と属性が密着してない状態」ということ
以外の理由について、あちこちで何度も説明しています。過去スレなどで読んで
下さい。
あなたは私が言っていることが理解出来ていません。そして、間違った理解を
をした上で、その間違った理解を前提にして自分の考えを延々と書き連ねている
だけので、私としてはあなたの書き込みに対してコメントのしようがありません。
「属性」 という言葉についても、あなたが勝手に考えた解釈を基に書いておられる
ようですね。私が使っていた意味とは違います。私は 「属性」 という言葉は誤解を
招き易い言葉であることに気付き、今は 「衣服(のようなもの)」 という言葉で
で説明するようになりました。
仏教に関してコメントしたいのなら、(「正法眼蔵」 は難し過ぎるでしょうから)
せめて 「臨済録」 ぐらいは読んで、禅仏教の基礎的な考え方を知ってからにして
下さい。 無我さんは輪廻を信じる立ち位置だし、
脳がどうので語ったりとか唯物論的な視点、一般論に還元してしまうよう語り方、質問を嫌うよね
そこで話がストップ
まあ難しいわな
郷に入れば郷に従えということで
しょうがないか 何か無我さんの「信仰」には合わない視点があったのだろう。
とは思う。
信仰なのか
真実なのか
それはわからないけど・・ 「悟りの入口でも全く異次元の体験」
それは本当なのかもしれない。
脳にそのようなスペシャルモードがあるのか
それとも一般人の常識を越えた秘めたる真実、世界が存在するのか
それはわからない
でも属性と意識が別ってのは
簡単な事実としてわかる
睡眠中の夢では意識があり
かなり感覚的なリアリティや感情も感じたりする
しかし意識は覚醒時の(現在の)記憶や認知、心(属性?)とは結び付いていない
フワフワとして昔の記憶とか自分とか想像とそういうものと結び付いて「自分」や感覚世界が出来上がる
起きるとそれが現在の固定的な心、認知と結び付いて
「自分」が起動する。
脳はあまりにも高度に感覚世界を作るので、そこにどっぷりで他の感覚などにはなれない。
特に神経症だとガチガチ。
ってなもんで
無我さんにとっては低レベル過ぎるであろう?見解 夢の中では、まさに
時間、空間、身体を超越して
感覚世界が形づくられる。
起きれば物理的科学的な「現実」というのはあるけど、
心、認知、社会通念とかのフィルターを通して見て感じるわけだから、
起きてる時の感覚世界も一種の「夢」だろう。
都合の悪い夢を固定的に見続けるのか
都合のいい夢を生きるのか
生きられるのか
夢から出て謎の秘めたる真実の?世界を見られるのか?・・・ 根本のところで
「信仰だ!」←→(一般人の知らない)「真実だ!」
という構図があるのだろうと思う。
自身の見解とは違う視点に対して、はね返すような応対しかしないところに欺瞞を感じる。
過去にはよく「あなたは高校生未満の国語力です!」とか言ってはね返してた。
「真実」ならひたすら堂々と出来るはず。
なぜ己の信仰を揺るがされたみたいな動揺を見せるのか?
・・お化けが出てくるドッキリに二人組のグループがひっかけられる。
一人は途中でネタ明かしされる。
A「これは本当にお化けだ!
だってあんな現象は絶対本物だよ!」
B「(笑い)
いやいや君落ち着きなさいて(笑い)
真実に気付きなさいて(笑)」
・・
A「これは本当にお化けだ!
だってあんな現象は絶対本物だよ!」
B「馬鹿者!!!
出直してこい!!!!!」
こんなことは有り得ない。
「真実」ならひたすら堂々とするだけの話。 >>18-19
>脳がどうので語ったりとか唯物論的な視点、一般論に還元してしまうよう語り方、
>質問を嫌うよね
それは理由があるからですよ。
私は、「そんなことを考えていても神経症は治りませんよ」
と言っているのです。
実際、あなたはそのようにいろいろ考え続けて来ても、
神経症の問題はまったく解決していないでしょう。
これからも、そのような役に立たない思考を続けて行く
つもりなのですか?
あなただけではなく、(メンタルヘルス板の書き込みを読めば)
神経症に悩んでいる人達も治療者の人達も全くの「お手上げ状態」
だということがわかるでしょう。
つまり、神経症というのは通常の思考方法によっては解決できない
問題なのです。
仏教というのは通常の思考方法ではなく、超越思考と言ってもよい
ものです。
だから、仏教の考え方を 「通常の思考のまな板の上で料理する」
ことは出来ないのです。
「臨済録」 の世界を少しでも覗いてみれば、それを感じることが
出来るでしょう。
>>20
まだ解かっていないのですね。
あなたの言う 「意識」 は、私が言っている 「意識」 とは違うのですよ。
あなたの言う 「意識」 は 「個人性のある意識」 で、私が言っているのは
「個人性のない意識」 なのです。
>>21
>夢の中では、まさに時間、空間、身体を超越して・・・
それも間違っていますよ。
夢の中は現実とは異なった意識状態にあるだけで、時間も空間も身体も
超越などしていませんよ。覚醒時の世界とは異なっているだけで、
夢の中で外界を意識し、他人を意識し悩んだり驚いたりしているでしょう。
>>22
>過去にはよく「あなたは高校生未満の国語力です!」とか言ってはね返してた。
過去ではないのです。今も同じですよ。。
あなたはもっと国語を勉強する必要があるのですよ。
今のあなたの文章理解力では仏典が読めないでしょう。
仏典を読む国語力がなければ仏教は理解できないのです。 (「あなたは高校生未満の国語力です!」とかを
この上ないほどの激オコぶりで。)
上の話とは逆になるが、
お化けっているよね、霊的世界ってあるよね、輪廻はあるよねっていう判断もあっていい。
それはないよなんて何も言い切れない。
つまりこのスレの前提をはっきりさせるのがポイントだと思う。
・霊的世界はある
・輪廻はある
・人や意識は唯物的な物だけではない存在である
を前提とする。
やはり何も前提がなければ、唯物論的な捉え方で語る人が出るのは自明のことだし、
そこでいちいち喧嘩を繰り返すことが
スレの目的なのか?
それは違うだろうと。
それでも私なんか唯物論的な話をしたくなってしまうこともある。
その場合は
(唯物論的な話ではごさいますが)
と前置きします。
それで無我さんは無視してOK。 >>25
そうなのですか? それは神経症が軽い人が言うことですね。
ある程度重症の人は夢の中でも症状に苦しむことが多いものです。
あなたは苦悩の期間が短いので、まだ意識下(無意識世界)まで
染み込んでいない状態なのでしょう。
それなら、心の奥に染み込む前に早く治すように努力するのが
よいでしょう。 無我さんの言葉は単なるレトリックだよな
もしくは認識論か
物理的な石を時間の問題にすり替えて、全て今の意識の問題で存在しないのです
とか言っても
明日になっても石に触れる(存在してる)じゃん >>27
>明日になっても石に触れる(存在してる)じゃん
そのように考えてしまうということが、迷いの中にいる証拠です。
私が書いていることは、「大乗仏教八宗の祖」と言われている龍樹の哲学だということ
を忘れないようにして下さい。龍樹の哲学は「悟り」の世界に入る直前に多くの人々が
経験する(通過する)認識のあり方なのです。
浄土系仏教では、このような哲学的思考は必要でない代わりに、絶対者に対する帰依の
心が必要となります。しかし、「悟り」の世界に入ってしまえば、どちらの道から入っても
時空(時間と空間)を超えた世界に入ることができて、神経症も消えてしまいます。
何度も言っていますが、仏教の考えは常識的思考のまな板の上で料理することは出来ません。
その為に瞑想修行なども必要になって来る訳ですね。
ただ、前スレの>>899-900 でも書いたように、対人恐怖が治る為には 「時間認識の誤まり」 に
気付く」必要は必ずしもありません。それも理解できれば哲学的にも納得できるようになるので
完璧なのですが、難しいと思う人は 3.「自我認識の誤まりに気付く」だけでよいでしょう。
それだけでも、対人恐怖は完全に消えてしまいます。森田療法家の水谷啓二先生などは
3.「自我認識の誤まりに気付く」だけを指導しておられました。 (追加説明)
「時空を超えた世界に入る」と書きましたが、四六時中その意識状態にいるということでは
ありません。それでは日常生活が出来なくなってしまいます。 そうではなく、その世界を
深く知ることが出来れば、「自分の本体」 は 「身心」 ではないことが解かるようになる
のです。それによって神経症も意味を失ってしまうのです。1.や2.の理解は 3.の理解
につながって初めて現実生活で役に立つものになります。
(単なる哲学の戯れではないということですね。) 科学者が仏教の教えで救われようとする場合、科学的の認識体系は捨てる必要がありますか?
それとも「そちらはそちらとして捨てずに、常識を越えた認識体系もハイブリッドで得る」が有り得るということですか?
現代人は皆、ある意味科学者(科学的な世界観、自己観を基準にしてる)なわけですし。 >>28
前スレって読めないんですけど
その時間認識の誤りってなんですか?
自我認識の誤りとは? 脳というまな板の上に人の認知世界がある。
これは、認知は科学というまな板の上に直にあるわけではなく、ある意味自由なキャンパスの上にあるということである。
赤ちゃんの時に人の親からはぐれ、その後おおかみによって育てられた子の実例がある。
この子は自分のことをおおかみの子供だと思っておおかみと共に暮らした。
科学的にはおおかみの子なわけはないのだが、時にそのようにも認識出来るのが人の認識システムなのである。
つまり科学を越えた(科学とは違う)認識にも人はなれるということである。それ自体にはなんの魔法もない。
他の例で言えば、カルト教団の洗脳体系にどっぷりつかることも出来るのである。
そして、対人恐怖などの神経症もある種の(自己)洗脳とも言える。
ポイントは、科学的な認識体系とそれを越えた(それとは違う)認識体系というのは両立出来るのか?同じ脳のまな板の上に二つの世界観を両方置くことは出来るのか?ということだ。
「個人性のない意識」に気付く、体感するみたいなことは、
それまでの脳の認識システムの部位とは別に、脳の新しい領域(現代人が使ってない太古の部位?)を開拓したみたいなことなら有り得るかも??
「科学的な認識」をしていなかった時代のほうが人類は長いわけで、
脳には、科学的ではない超越的、宗教的なものが現代人にも残っている秘められているのかもしれない。
(機能、部位、認識体系)
人類は科学的ではない認識体系の時代のほうがずっと長い、
脳も実はそれに適応した構造をしている。
脳の構造は数百年では変わらない。
→
科学的世界観が圧倒的な基準になっている世界、認識体系は
実は人類にとって不自然
神経症とかも起こりやすい
という仮説なんかは普通に有り得る。
→
・科学的な認識を捨て
宗教的な世界観へ向かうのが処方箋?
・ハイブリッドも可能?
(唯物論的な話ではございますが・・) >>30
ハイブリッドというのは異種のものを同じ次元の上で組み合わせたものですから、
ハイブリッドではありませんね。
<科学> は 「身心」 の次元の話であって、それらは「衣服」の話と同じことです。
<仏教> は「衣服の中にいる自己の本体」の話なので、次元が全く異なる訳です。
認知療法などは身心の「心」の歪みを正すことによって神経症を治そうとするもの
で、「心」 は衣服ですから <科学> に属するものなので、仏教の教えとは全く
異なるものです。
森田療法は仏教的洞察を含んでいるので、仏教の教えに近い精神療法だと言えます。
>科学的の認識体系は捨てる必要がありますか?
捨てる必要は全くありません。別の次元のことですから。
「衣服」 についての心配と 「中身の自分についての心配」 は別の問題ですね。
>>31
>>1
※前スレ
【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教、悟り】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462873365/
>>その時間認識の誤りってなんですか?
>>879 >>885-887 >>893-894 などを参照されたし。
>>32
そのような考えはすべて妄想なのですよ。
そんなことをいくら考え続けてみても、永久に神経症から自由になる日は来ませんよ。
(唯物論的な話)と言うよりも、煩悩による無意味な思考ですね。
これから外出する必要があります。
必要がある場合は、深夜頃に書き込みます。 >>33
>そのような考えはすべて妄想なのですよ。
>(唯物論的な話)と言うよりも、煩悩による無意味な思考ですね。
これは全く間違いですね。
唯物論な話として何がおかしいのか具体的に訂正出来なければ、
「無意味な煩悩」として切り捨てるのは詭弁です。
貴方はやはり唯物論自体を
「無意味な煩悩」としている実例ではないでしょうか?
『「衣服」「心身」と
「衣服の中にいる自己の本体」は全く別次元』という世界観は
おおかみの子だと思うのと同じように可能ですが、
何か厳然たる真実のようなものかは??
そして「厳然たる真実だとすると
どうしたって科学的認識のほうは捨てる部分も出てきますよね?」と言っています。
貴方は「科学的世界観も次元が違うものとして、そのまま捨てる必要はない」と言いますが本当ですか?
仏教的な教えにより救われながら
(超越的な世界観を持ちながら)
科学的な
「人間の心や知覚や意識は脳による現象」
「死んだら終わり」
という世界観を捨てないということが、どう有り得るのか具体的に教えてもらえますか?
(唯物論的な話ではございますが) 「捨てる必要もやはりある」と正直に言ってくれたほうがはるかに分かりやすいわけですよ。
私は「現代科学のほうが絶対正しくて、超越的宗教的認識のほうが間違い」っていうことを言ってるわけではなくて、
「科学では解明していない真実がある、科学を越えた世界が事実としてある」可能性もあるなって思ってるわけです。
だからこそ、常識を越えた仏教的教えの体得において
「科学のほうはどう捉えるのか」というところは大事なわけですよ。
そこを「別次元ですよー問題ないよー捨てなくてよいよー」って簡単に説明されても、なかなかどうにもならない。
科学も全く捨ててない&超越的仏教的教え世界観も体得している
が本当ならもう少し具体的に説明してください。 >>33
>そのような考えはすべて妄想なのですよ。
>(唯物論的な話)と言うよりも、煩悩による無意味な思考ですね。
科学的、唯物論的な世界観を全く捨てていないなら、
何故このような発言になりますか?
科学的世界観を捨てている部分があるからこそ、
そのような視点を「煩悩、無意味な思考」と切り捨てる「必要」が出てくるのではないですか?
「全く科学的世界観も捨てていない」なら説明してください。 「唯物論的・科学的認識も全く捨てていない」なら
「唯物論的・科学的な視点」を安易に否定するのはおかしい。
「捨てている部分もある」ことを認めるなら、
「唯物論的科学的な視点」を安易に否定するのもまあ当然。
「どっちも」は無理。
「常識を越えた認識が必要なのです。常識的な思考のままでは理解出来ませんよ。
ただし常識的な思考も一切捨てなくていいのです。」
はさすがにおかしいでしょう。
「常識的な思考を捨てる部分もあります」としなきゃ理解が進まないでしょ。
国語力を問われてるのは無我さんでは?
ほんとうは国語力云々ではなく
「とにかくこの常識を越えた超越的な認識、世界こそが鍵なのです!
あなた達は神経症治らないくせにごちゃごちゃうるさい!
治りたかったら疑問をいちいち持たずひたすら素直に従え!」(カルトと何が違う?・・)
ということなら
それを「国語力が足りませんね!!馬鹿ですね!!」と変換して勢いで言ってしまうのはミスリードですね。
そして全くの別次元のことと言いながら 「国語力」とか「馬鹿」とか言って、
こっちの普通の次元に執着して
やり合ってるのもまた無我さんですよね。 >>37
「自我認識の誤まり」 については、過去スレでは >>900 で少し触れています。
これまでにいろいろなスレに書いて来たことなのですが、要点は
自分の <身心> を <自分の本体> だと勘違いしている、ということです。
それが 「自我認識の誤まり」 ということですね。
>>34-36 >>38
以前から何度も言っていることですが、あなたは自分が正しいと思ったことしか
理解できない人のようですね。
だから、以前からあなたには、「君は高校も卒業していないんじゃないの?」 と
言って来たのです。そして、中学・高校の現代国語の読解問題集を解くことを何度も
勧めたでしょう。
なぜなら、現代国語の読解問題では自分が絶対に正しいと思って書いた解答がゼロ点
になることが誰でもよくあるからなのです。そして、高校時代にそれを繰り返すこと
によって、他人の文章を正確に理解する能力が少しずつ培われて行くのです。
あなたが書いていることを読むと、文章理解が非常に独りよがりで、相手が言って
いることを間違って理解し、その間違った理解を前提にして自分の考えを主張し続ける
癖があるので、「ああ、この人は現代国語の勉強をして来なかった人なんだな」 と
解かるのです。(私は受験生を教える仕事をしているので、尚更よく解かるのです。)
( → ) ( → )
では、本論に入りましょう。
科学的世界観も科学的な考え方も全く捨てる必要はありません。
それらは対象的・分析的な知識であって非常に役に立つものですから、捨てるなどは
トンデモナイことです。大事にしなければいけません。
しかし、科学的な見方というのは <宗教的な問題に対しては全く無効> なのです。
その理由は、宗教的な真理は対象的な理解ではないからです。
宗教で問題になるのは <主体そのもの=自分自身> ですから、対象化することはできない
のです。自分を対象化して客体化しても、そのときに見ている自分が主体なのですから、
常に<主体>として存在していて客体にはなり得ないのです。
「心理学」が逆立ちしても宗教の問題に迫ることが出来ないのは、そのような根本的な理由が
あるからです。ユングは宗教に非常に興味を持って「集合的無意識」などという概念を考え出し
ましたが、宗教家からは相手にもされないでしょう。客体化した時点で「真実」とはかけ離れた
<似て非なるもの> になってしまうからです。
浄土真宗では、「帰命無量寿如来、南無不可思議光」 と言います。オカシイとは思いませんか?
深い宗教体験によって真実に出会ったのなら、そこに<不可思議>なものはないと考えられます
が、「不可思議(思議できない、よくわからない)光」 だと言っているのです。
しかし、これも当然であって、対象として真実を知っているのではないからなのです。<主体>が
消えた世界なので説明のしようがないのです。説明する主体も説明される対象(客体)もない世界が宗教の世界なのです。
ですから、宗教と科学は全く異なる次元の世界であって決して交わることはないのです。
宗教体験を脳の機能として説明してみたところで、誰も「悟り」を得ることはできないのです。
欧米人の学者の中には、脳に電極を入れて脳の働きを変えることによって 「悟り」 を人為的に
作ることが出来ると考える者もいるようですが、それはオウム真理教で薬物による変性意識を
「悟り」 と勘違いしていたのと同じです。 あなたが宗教・仏教について深く知りたいなら、(哲学を含めて)もっと広くいろいろな勉強を
する必要があるでしょう。
勉強が嫌なら、知識なしで神経症を解決する方法もあります。それは鬼和尚さんが勧めている
ような瞑想(止観)に熟達するか、浄土真宗のように絶対者に帰依する道を学ぶことです。
そのほかにも、天台宗や真言宗の行者になる道もあります。仏教には各人の適性によってさまざま
な道が用意されています。 無我さんの言葉はレトリック、認識論なんですよね?
ある一つの見方であって、
無我さんの見方を正しいとすると、>>27みたいな見方が間違ってるとなるし、
>>27みたいな見方を正しいとすると、無我さんの見方は単なる認識論じゃん
となる
悟りが体感としてあっても、体感が真実かどうかは別問題だし
が、身体や今の物理的な世界に囚われない無我さんの見方だと、神経症から解放されるってことですね? >>39
なるほど自我認識の件、了解しました
ところで、対人恐怖症について自分も対策を編み出したんですよ
それは、素直になる、という方法です。
どう思います?いいと思いませんか? ごちゃごちゃ語って
「こっちの次元」でも一切引かない負けない姿勢が
「別次元」の体得者なんですかねーー?
もう一度聞きますよ。
・「科学的認識や世界観も次元が違うものとして、そのまま一切捨てる必要はない」
が真なりとして、
仏教的な教えにより救われながら
(超越的な認識、世界観を持ちながら)
科学的な
「人間の心や知覚や意識は脳による現象」
「死んだら終わり」
という世界観を「一切捨てない」ということが、どう有り得るのか具体的に教えてもらえますか?
ごちゃごちゃ語って煙に巻ければそれでいい的な
「こっちの次元」でも一切引かない負けない姿勢とかではない
説明でお願いします。
一言「捨てる部分もあるよ」と言えば良いだけです。
そこでただムキになってるだけなら「こっちの次元」でも一切引かない負けない姿勢 なだけですよね。
別次元とか言いながら全ての次元の事柄で全て勝とうとするのは止しましょう。 >>42
>無我さんの言葉はレトリック、認識論なんですよね?
あなたも仏教の教えを理解して神経症が消えた時に、
どちらが真実かがわかるでしょう。
まずは、神経症から自由になることが大切ですね。
>>43
素直になることは治癒への第一歩だと思います。
人によっては、それだけでかなり良くなる人もいるでしょうね。 「国語力」とか「頭の良さ」という事柄を事あるごとに言うのもミスリードだと思いますよ。
そういった事柄はまさに普通の認識、常識の体系を想起させることだから。
ただムキになって煙巻きで言ってるだけならなおさら深刻なミスリードだと思う。
だって、仏教の教えを伝えることより自身のプライドだけが優先されてるわけだから。 冷静に考えてもみてください。
次元が違うからこそ、ある意味無視したり負けたりしてもいいところもあるはずなのに、
全てにおいて勝とうとするスタンスが良い伝道者なのかと。
それで相手を混乱させ続けるのが良いことですか?
「科学的世界観のほうはどうするの?」という至極当たり前で初歩的な質問さえ
プライドを優先させ
その結果説明がこんがらがり相手を困らせる、そんなスタンス。
それが在るべき伝道者の形ですか? 無我さんが言っている「捨てる必要はない」もわかりますよ。
「身体は今世を生きる衣服としてとても大事だから、当然大事にするし西洋医療も利用する」
でもこれは「一切捨てない」とは違いますよ。
輪廻を信じる時点でやはり相当科学的認識は捨てる部分があるでしょう。
そこを正直に言ってくださいよ。 >>44 >>46-48
何度も言いますが、あなたはあまりにも国語の力がなさ過ぎるので、
私が言っていることが理解できていないのです。だから、あなたの
質問はナンセンスなので、答えようがないのですよ。
一度、一流予備校の大学受験模試の現代国語だけでも受験してみて、
自分の読解力のレベルを客観的に知った方がよいと思いますよ。
そうすれば、自分が考えることは必ずしも正しくはないのだいうことが、
客観的に分かるようになるでしょう。
>輪廻を信じる時点でやはり相当科学的認識は捨てる部分があるでしょう。
輪廻と科学的認識が矛盾していると思っている時点で、あなたは無知
過ぎるのです。科学は 「輪廻が有るとか無いとかを判断できない」だけ
なのです。欧米のキリスト教徒の科学者は(輪廻ではなく)死後に神の国
に行くことをい信じている人が非常に多いのです。それは科学と何も矛盾
しないのですよ。 例えば、ある人がいるとして、今日のその人と、明日のその人は普通は同じ人と考える。
が、身体の細胞は入れ替わっているし、厳密には、すでに同じ人とは言えない。
無我さんの認識はこれに近いですか?
>>49
輪廻の話は荒れるので避けたいですが、無我さんは輪廻を信じている感じですか?
また、個人性のない無意識とやらは、宇宙に一つだけで皆さん(人間、動物その他含む)共有なんですかね?
なんかガイア論的な。 >>43
>素直になる って具体的にどういう事ですか?
横レスですが凄く気になったので。 >>50
>ある人がいるとして、今日のその人と、明日のその人は普通は同じ人と考える。
>が、身体の細胞は入れ替わっているし、厳密には、すでに同じ人とは言えない。
>無我さんの認識はこれに近いですか?
その考え方も当然含んでいます。
自分も人も身体の細胞は常に入れ替わっていて同一人物ではないという考え方は、
「無我」の根拠の説明にも使われるものです。
ただ、それだけではなく、他人と自分が異なるのは「衣服」の部分に過ぎず、みんな
同じ一つの意識体だということが重要です。
>無我さんは輪廻を信じている感じですか?
もちろんそうですよ。私は死者と何度か話をしているのです。見える人には見える、
見えない人には見えないだけなのです。
お釈迦様のような完全な悟りを開かない限り、誰もが輪廻するのですよ。
(究極の悟りの世界に入ると、個人性が完全に消えるので輪廻も消えるのです。)
>個人性のない無意識とやらは、宇宙に一つだけで皆さん(人間、動物その他含む)共有なんですかね?
「個人性のない無意識」 ではありませんよ。「個人性のない意識(体)」です。
「宇宙」 というものも 「自己の認識」 を離れて在るものではありません。これも前スレで、重要なこととして説明したことです。 >もちろんそうですよ。私は死者と何度か話をしているのです。見える人には見える、
見えない人には見えないだけなのです。
これは実証できますか?
つまり、無我さんの妄想の可能性は?
もし実証できるとしたら、二人以上の人間が同じ死者の言動を見たとか、そういったことはありますか?
>「個人性のない無意識」 ではありませんよ。「個人性のない意識(体)」です。
打ち間違いです
すいません
>「宇宙」 というものも 「自己の認識」 を離れて在るものではありません。
認識が、実体を含んでいる立場ですか?
つまり、極端な話、言葉を使った時点で、全て自分の脳内で起こったこと(認識)に過ぎず、宇宙(もの、現実)という実体はない・・・もしくは問わない という立場ですか? 宇宙とか人とか、そういった言葉を使った時点で、すでに認識が含まれているから、それらは単独では存在しない・・・という立場ですか?
言葉が世界を生成していると。 繰り返しますが、一種類の個人性のない意識体が多数存在しているのではなく、
一体の個人性のない意識体が、何億の人(及び人以外)を演じているという認識ですか?
ガイア論には近い? 素直な人
国語力、知性がある人
(無我さんにとって)
→
「無我さんの話を無条件に従順にひれ伏して聞く人」
つまりバカな人のこと バカでない場合は演じられる人
・無我さんのプライドを一切傷つけない書き方
・無我さんの宗教的世界観を一切傷つけない書き方
無我さんという個人性の意識が激しくプライドと宗教的世界観にしがみついているので、そこに触れたらいけない。
そして得られる教え
「個人性のある意識は本体ではないのです。それがわかれば神経症は消えます。」
まとめると
・まず第一に、無我さんの個人性の意識(のプライド、宗教感)を最大限に配慮しつつ
・自身のプライドや科学的世界観は捨て去るような態度(を演じる)で疑問を出さない
・そして「 個人性のある意識は本体ではない」を学ぶ
→「素直な人」 無我さんの底抜けに素直じゃない部分をグッとガマン出来る人
→「素直な人」
無我さんの底抜けに素直じゃない部分に素直に対抗する人
→「素直じゃない人」 科学的世界観を捨てつつ
超越的世界観を盲目的に信じ
「科学と宗教は別次元なのですから、科学も一切捨てなくていいのです」というディープな宗教感の内側だけで機能するテーゼ、方便には疑問を抱かず ・無我さんの個人性のある意識が宗教感に固執する
・個人性のある意識は本体ではない身心、衣服は本体ではない
ことの体得体感がキー
・本来の仏教の教えは主体も対象もないところで感じられる、摩訶不思議な様相のもの。
個人性のある意識が固執しこれこそ真実!と対象化して言ってる言説など価値はない。
・とにかく体験だ
・説明の仕方はいろいろだ。
説明自体は方便に過ぎない。それ自体が真実ではない。
・とにかく体験の世界
・全く別次元の「意識」の在り方を体験体得するのだ!
「脳の新しい領域の機能を開花させるのだ!」
・科学的世界観が足を引っ張るなら、方便でもいいからとりあえずそのように思っておいてもいいではないか。
・「脳の新しい領域の機能を開花させる」などと言う科学的説明は絶対駄目!!
宗教と科学は完全なる別次元なのですから!(決定論)
・↑個人性の意識の無我さんのこんな固執的な説明など糞食らえ。
「説明自体は方便に過ぎない」がどこ吹く風でひたすら固執してる。そんな説明糞くらえ。 *「脳の新しい領域の機能を開花させる」などと言う科学的説明は絶対駄目!!
宗教と科学は完全なる別次元なのですから!(決定論)
そんな無意味な思考は捨てなさい!
*「別次元ですから科学的世界感も捨てる必要は一切ありません!」
・ 科学的世界感は捨てられないしな。
とりあえず「脳の新しい領域の機能を開花させる」こんなふうに思っておけばいいか。
・「でも無我さん的には
科学的世界観は捨てる部分もあるということだよね?」
* 「いや別次元ですから科学的世界感も捨てる必要は一切ありません!」
*「でもね!そんな科学的説明は絶対駄目!!
そんな無意味な思考は捨てなさい!」
これ繋がってるのか?・・
バカな俺におしえろくださいな。
「科学と宗教は別次元なのですから、科学も一切捨てなくていいのです」という、ディープな宗教感の内側だけで機能するテーゼ、方便
を個人性の意識の無我さんが
主体でもって対照的に固執してるだけだよね?
これから学ぼうという人はそのディープな宗教感の外側にいるのだから
その方便は通用しないし、混乱させるだけでは?
「個人性の無我さんが固執する宗教感1ミリもずらしてはいけない」ルールわかりにく過ぎるわ。
「説明は方便に過ぎない、大事なのは『体験』に導くこと」なのだよ無我さん。
以前の起こってない時の無我さんが言ってたよ。 「自我認識の誤まりに気付く」
「自分の <身心> を <自分の本体> だと勘違いしていることに気付く」
科学的世界観においてその自我認識の誤まりがあるわけですが、
「科学的世界観は一切捨てる必要はない」!? まあその、
無我とか無意識とか宗教みたいな大きな枠組み(宗教は物によってはとても小さいが 笑)
と、
既存の科学的な知識や常識みたいな小さな枠組み
で話をした場合の話なんでしょうね
無我さんは、日常生活を普通に送ってるわけだから、小さな枠組みも一応は認めてるわけでしょう。
その場合、小さな枠組みの方が大きな枠組みを理解するとしたら、小さな枠組みの中に相手を位置付けて分かったつもりになるのではなく、
大きな枠組みに対して開かれようとするしかないんでしょうけど(以前の書き込みにあった『悟った人の話をそのまま聞く』)、また、それが難しい
どうしても自分の小さな枠組みの中に、全てを位置付けて安心したくなるのが人間だし >>53-55 >>56-63
あなたは、学校に行かないで一人で本を読んで来ただけなので、他人の文章を
正しく理解することが出来ないのですよ。
学校に行っていれば、間違った理解をしている場合はテストで×がつくので、
考え直すことによって正しい思考を少しずつでも学んで行くことが出来るのですが、
あなたのように学校に行かないで一人で本を読んでいただけの場合は、周囲に間違い
を訂正してくれる人がいないので、自分が間違った思考・理解をしていることに気が
付かないまま先に進んで行ってしまうのです。その結果、文章理解力が中学生レベル
ぐらいで止まったままになってしまうのです。
以前にも言いましたが、あなたは先ず、通信制でも夜間でもいいので高校を卒業する
ことが大切でしょう。そして、しっかりと国語の勉強をすることです。その後、大学
に入ることも考えればよいでしょう。
また、それに先立って、大学入試の現代国語の読解問題集をたくさん解いて行って
解答合わせをして、自分が他人の文章を果たしてどれだけ正確に読めているのかを
正しく知ることが必要でしょう。
私が書いていることを全く理解出来ないあなたの文章理解力では、仏教書を理解する
ことは不可能です。今のままのあなたでは仏教の教えによって神経症を治すことも
不可能なのです。
>>63
>「自我認識の誤まりに気付く」
「自分の <身心> を <自分の本体> だと勘違いしていることに気付く」
科学的世界観においてその自我認識の誤まりがあるわけですが、
↑ そのように思えることが、中学生レベルの読解力と思考力だということです。
国語の勉強を徹底的にやり直す必要があるということです。
あなたは、私が >>40 で書いたことを全く理解出来ていないのです。だから、
>>55 で「ガイア論には近い?」 などというナンセンスな質問をしてしまうのです。 自我や常識や既存の科学的知識や、そういったものを越えた話=無我 なんだろうなと思う訳ですが、
通常の常識的な(もしくは凝り固まった)自我意識では聞きにくいんだろうなと
そこで瞑想や座禅やある種のシャーマン的な儀式や、禅問答が(自我意識を緩めるために)必要となるのかなと
無我さんの話を科学的に位置付けようとするよりは、禅問答として聞いた方が、よほど分かるのかも知れないですね
ところで皆さんは座禅してますか?
僕は座禅と気功をたまにしてます >>65
僕は55ですが、別人ですよ(笑)
読解力がないとは、あまり言われないほうです >>51
多分、素直さは
自分なりに掴むしかないんだと思います >>68さんはどんな症状で、素直さでどう緩和されました? >>67
また、以前の 「自演坊や」 の復活だね。
多重人格の可能性もあるのかな? (笑)
<重要なメッセージ>
仏教を 「自分の頭の中の棚」 に整理して理解しようとしている間は、仏教
というものはわかりません。つまり、神経症も治らないということです。
仏教というのは常識的な知性の枠組みで理解することは絶対に出来ません。
「時間認識の誤まり」 なども常識的思考からは生まれない思考なのです。
常識的思考の延長で仏教を理解できたような気がすることがあっても、それで
神経症が消えることはないので、それが 「空しい理解」 であることは自分で
わかるものです。
<求道> というのは、それまでと同じような自分の頭(思考)で理解すること
ではなく、瞑想したり、悟った人が書いた仏教書や経典を熟読することによって
「薫習」 を受けながら <意識の変容> を待つことなのです。
禅宗や浄土真宗で悟った人(救われた人)の指導を直接受けている人は、その
<意識の変容> が早まるのです。ですから、是非、みなさんも身近でよい師匠
を見つけるように努力して下さい。 >>70
>また、以前の 「自演坊や」 の復活だね。
多重人格の可能性もあるのかな? (笑)
無我さん、落ち着いて書き込みを見比べて下さい
理解の仕方も彼とは違うと思うんですが
また僕は無我さんに対して敵対的な書き込みはしていないと思います
その証拠に『重要なメッセージ』で書かれていることは>>64>>66で僕が書いたことと大意は同じでしょう?
どうかもう一度、僕の書き込みを読み返して考え直してみて下さい
皆さんはどう思われますか? 何でしたら 例えば県名が出る掲示板でトリップで書き込みして、証明しましょうか
もちろん彼にもしてもらわないと証明出来ないですが
とりあえず僕は埼玉在住です >>71
>・・・で僕が書いたことと大意は同じでしょう?
似ているようで、違うのですよ。
「大きな枠組み」とか「小さな枠組み」とかいう概念を使って、
通常の知性において何とか理解しようとしているでしょう。
それも、私の言う 「自分の頭の中の棚に整理して理解しようとしている」 ことなのです。
「仏教というものは〜〜〜〜〜のようなものなのだろう」 という考えが、
通常の知性で何とか納得してしまおうという誤まりになるのです。
そして、そのようなことをしていると 「宗教体験」 は現われないのです。
>>72-73
トリップは意味がないのではありませんか?
パソコンとスマホで別々のトリップを使うことが出来るのですから。
同人物か異人物かは別にしても、ID:BhN3lU02 さんと ID:QRVF00yb さんの
思考様式は極めて類似しているのですよ。 >>74
>トリップは意味がないのではありませんか?
パソコンとスマホで別々のトリップを使うことが出来るのですから。
トリップ+県名なら意味があるでしょう?
僕はリンクで埼玉在住と証明しました。
彼が埼玉に住んでいたら別人証明出来ませんが
とりあえずもし彼が埼玉以外に住んでいたら、謝って頂けると嬉しいです
>同人物か異人物かは別にしても、ID:BhN3lU02 さんと ID:QRVF00yb さんの思考様式は極めて類似しているのですよ。
それはちょっと心外ですかね
無我さんの場合は、無我以外は全て同じに見えるんじゃないですか?
ちょっと通常の感覚が希薄なような 重ねてですが、僕と彼以外のご意見もお聞きしたいです >>75
その県名は無意味ではないのですか?
(新疆ウイグル自治区)の人などもいますよ。
>それはちょっと心外ですかね
上にも書きましたが、>>40 が理解できていれば、
「ガイア論には近い?」 などとは書かないはずなのですよ。
自然科学というのは、宇宙であれ、人間であれ、自分であれ、
「対象」 としてしか見ることができないのです。
「対象的な知識・理解」 が自然科学の理解なのです.
ところが、仏教では 「対象的な理解」 は、<無意味、無価値>
=<役に立たない代物> なのです。
そのことをずっと理解できないままでいるのが、「自演坊や」 なので、
今回も自演だと思ったのですよ。 >>77
無我さんが宗教書を読んだり、もしくは悟った人の話を聞く時はどう聞いていたんですか?
今までの知識に当て嵌めて理解ではなく、そのまま聞く感じ?
あと>>53-55の質問にもお答えして頂けると嬉しいです >>53-55の質問も既存の知識に当て嵌めて理解なのかも知れないですが、どうも後味悪いんですよね
これを聞くのは真っ当だと思いますし >>78
>宗教書を読んだり、もしくは悟った人の話を聞く時はどう聞いていたんですか?
最初は(当然のことですが)、さっぱり解かりませんでしたね。
ただ、浄土真宗の高僧に 「わからないまま、ただ聴いていればいいのですよ」 と
言われていたので、仏典を読む時も高僧のお話を聴く時も、わからないまま読んだり
聴いたりしていました。
勿論、「こういうことではないか? ああいうことではないか?」 と考えてしまう
のですが、結局、「わからない、わからない」 となるのですね。
そして、その 「わからない!」 が大事だったのです。
悟りの体験のない仏教学者が沢山いますが、そのような人達は、解からないにも関わらず、
理屈を付けて解釈し、解かったようなつもりになって講演したり、本を書いたりしています。
それが最悪の行為なのです。そんなことをしていたら死ぬまで解かることはないでしょう。
「わからない!」 という事実を誤魔化さずに、(いい加減な解釈をして解かったつもりに
ならないで) 解からないままで読み続け聴き続ければ、いつか本当に 「解かる」 時が来る
ということです。
(今、用事ができたので、>>53-55 は少し経ってから書き込みます。) どうも時遠望夜です!
夢我某矢のは飛ばして読んでいません!
ドロドロ続けるのも流すのも自由。外界に対する在り方は見方在り方次第。
唯織の初級編かもですね!
匿名掲示板でドロドロを断ち切る。
簡単なことです。
夢我某矢もがんばって! >>78
>今までの知識に当て嵌めて理解ではなく、そのまま聞く感じ?
「今までの知識」 というのが、仏典の言葉や悟った人に由来する知識なら役に立ちます。
ところが、悟りを知らない人から出た言葉や科学的な理解などは害あって益なしです。
>>53-55
>これは実証できますか?
実証も何も、神道系の霊能者たちにとっては常識のようなものでしょう。
私も死者からメッセージを受け取ったり、何回かの幽体離脱体験の中で
死者が沢山いる霊界に入った経験がありますから、私にとっても常識です。
作家の三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省)で割腹自殺をした
数時間後に、三島の友人が住職をしていた静岡の有名な禅寺に三島の霊が姿を
現し、それを住職や他の禅僧たちが目撃したという話は有名です。そのことを
住職が著書に書いて当時は騒がれたものです。
ただ、精神世界のことは最終的には一人一人が自分で体験して初めてわかる
ものです。「悟り」 にしても、そういうものが本当にあるかどうかは 「悟り」
を体験した人だけにわかるものですから、科学的な実証というのは意味がない
とも言えるでしょう。
>認識が、実体を含んでいる立場ですか?
実体などと言っても、自分の認識の中にしか存在しないということですね。
最初から外部にあって、それを認識するのではなく、認識した時点で生じるもの
だということですね。(これは、時間概念が妄想であることの理解が基礎にあって
初めて成り立つ理論ですから、先ず、その体験・理解が重要になります。)
>宇宙とか人とか、そういった言葉を使った時点で、すでに認識が含まれているから、・・
言葉は関係ないのですよ。言葉がなくても認識(意識すること)はあるのですから。
(広い意味での認識ということです。) >>55
>一種類の個人性のない意識体が多数存在しているのではなく、
一体の個人性のない意識体が、何億の人(及び人以外)を演じているという認識ですか?
「個人性のない意識体」 というのは 「水」 だと考えるのがよいでしょう。
同じ水がいろいろな容器(形、大きさ、材質、模様など・・)に入っているようなものです。
普通の人は、容器(身体や個性)を自分や他人だと思っています。悟りを体験すれば、容器
ではなく水が自分や他人の本体だとわかるようになります。(これが深く実感できるように
なれば、対人恐怖や社交不安障害は霧が晴れるように消えて行くでしょう。) >>84
詳しくありがとうございます
その水とやらですが、無我さんは他人の容器ではなく水も見えるようになったりしました?
また、水(個人性のない意識体)は一体ではなく、各々に一つずつ?
意識体は容器とは関係なく、意識や意図を持ってるんでしょうか?
>>83
実は死ぬ前に黒い影が見えるとか、身近でも割りとそういった話を聞いたりします
きっとそういった世界はあるとは思うんですよね
ただ、九割方は嘘か個人的な妄想だとは思いますが >>85
>他人の容器ではなく水も見えるようになったりしました?
「見える」 というよりも 「わかる」 という感覚ですね。
「なーんだ、みんな同じじゃないか。 違うのは衣服だけだった!」
とわかり、他人に緊張する必要を感じなくなったのです。
>水(個人性のない意識体)は一体ではなく、各々に一つずつ?
深い宗教体験では生物も無生物も 「一続き(一体)」 のものとして感じ、
浅い宗教体験では 「各々に同じものが一つずつ」 という感じが強いですね。
必ずしも深い宗教体験の方が良いわけではなく、あまりに深い宗教体験の世界では
個人性が完全になくなるので、そのままでは日常生活が出来ない状態になります。
道元禅師の 「正法眼蔵」には、さまざまな宗教体験の心象風景の描写がたくさん
あります。それらは、修行者が実際に体験するもので、私もいくつかを体験しました。
>意識体は容器とは関係なく、意識や意図を持ってるんでしょうか?
宗教家によってさまざまな説明がされていますが、私は自分の体験から
バグワン(オショー)の意識構造のモデルが解かりやすいと思っています。
(これは、あくまでモデルですが。)
〔身心(容器・衣服)〕 ⇔ <意識> ⇔ 〔普遍〕
真ん中の <意識> は動いているのです。
凡夫では、 <意識> は 〔身心〕 と引っ付いています。
〔身心〕 が 「自分」 だと思って生きている状態です。
(この状態では、脳神経系が弱い人は精神障害になりやすいのです。)
<意識> が 〔身心〕 から離れるほど個人的な意識は希薄になっていきます。
心が自由になって生き易くなるわけです。
<意識> が 〔普遍〕 と一体になった状態が、「涅槃(完全な悟り)」 と言えますが、
肉体を持った状態では 「涅槃」 無理だと考えられています。
神経症が治る為だけなら、<意識> が 〔身心〕 から離れるだけでよいのですが、
長年、〔身心〕 が自分の本体だと思って生きて来た人には、それを達成するだけ
でも大変なことです。 >>86
この【意識】と言うのは、個人性のない意識体とやらではなく、普通に言う個人的な意識で、
それが【心身】から離れたのが、個人性のない意識体ということですか?
普遍と言うのは、どういったことですか?
『意図』みたいなものは、個人性を強く感じますが、個人性のない意識体は、意図や好き嫌いや目的みたいなものはあると思われますか? どうも無煙冒家です!
久しぶりに現象世界に戻って来ました!
>>86
>道元禅師の 「正法眼蔵」には、さまざまな宗教体験の心象風景の描写がたくさん
あります。それらは、修行者が実際に体験するもので、私もいくつかを体験しました。
説明は方便に過ぎないのです。説明自体は真実ではないのです。
霧賀乏乎はそこをごっちゃにしています。
霧賀乏乎の個人性のある意識が主体でもって、宗教的な事柄を対照的に論じてしまっているのです。
また、だからこそ聞く人にとっては科学的、常識的な認識とバッティングしてしまうのです。
「霊は確かにいますよ。事実です。
私(個人性)も見ましたし事実です。」
これを見た人は、どうやって「科学とは別次元だからバッティングは全くしない。科学的認識も一切捨てる必要はない。」
で理解できましょうか?
霧賀乏乎自身が別次元のこととして分けて論じてないのに、
表面的に「別次元です」と言ったところで通る話ではありません。
「科学を捨てている部分がある」ことを認めて下さい。 無煙冒家ではありませんでした!
磁苑紡弥でした!
アバターを間違えました!
現象世界と言ってもここは、
0と1のビット世界、文字の羅列世界、身体もない心もアバター
ほぼ霊的世界ですね!
ここの霊的世界はクソですね! だいたい主体も対象もない世界が宗教なら、
何故個人性が輪廻するとされてるのですか?
何故無我さんの個人性が霊的世界を見たのですか?
死ねばまた個人性はなくなり{意識、普遍}にただ戻るのみという
ほうがよほどその宗教感に合うじゃん。
「個人性は本体じゃない」により救われながら、
その個人性で輪廻出来ると期待してるとかどんだけ都合がいいんだよ。
個人性に結び付き囚われた世界、主体と客体がはっきりした世界が、現象世界、科学世界。
主体も客体もない世界が霊的世界、宗教世界という二分律が本当でだからこそ交じり合うことはないはずだったではないですか?
テキトーだな。
ああそうか方便方便全ては方便
説明自体が真実でない か。
テキトーに読めばヨロシ か。
霧賀紡乎の個人性の意識が固執して何やら「確固たる真実」みたいに固い文章で語ってるけど、
テキトーに読めばヨロシ ですね。 霧賀紡乎の言葉
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/utu/1447130451/653
>私が書いていることは説明ではないのです。ヒントなのです。
禅の公案もヒントなのです。考案というのは修行者の意識を変えるためのヒントであって
意識構造を変えることが眼目なのです。ですから公案に対して、意識構造が変わる以前の
通常の意識でいろいろと説明を付けてみても何の意味もないのです。
>西洋の認識論はカントが頂点です。西洋ではそれを超えるものは出ていません。そして、
カントの認識論は大乗仏教哲学者のナーガールジュナ(龍樹)の論理の入り口の段階です。
入り口を越えてはいません。その入り口を越えれば意識が変化して宗教体験が現れます。
そこから先が仏教の世界です。その入り口を越える以前の通常の理性を使ってその先の
世界を説明することは不可能なのです。
だからこそ、膨大な大乗経典が存在しているのです。知らない人が多いですが、禅の公案も
大乗経典も龍樹の哲学もすべて修行者の意識構造を根本から変えるためのヒントであって、
その内容自体が真実だということではないのです。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1461746285/497
>それらすべてが妄想なのですよ。
その人にとってはそのような現実が起きるのです。
哲学や宗教でも説明出来ますが、ゲシュタルト心理学でも説明できます。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1461746285/509
>宗教嫌いなら心理学(ゲシュタルト心理学)を勉強すればいい。
妄想というものが理解できるようになるよ。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1461746285/571
>一人相撲だとはっきり気付くと治る可能性が大きくなるよ。
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1461746285/591
>人はみんな自分だけの世界(一人相撲の世界)を生きています。
客観的な世界が存在しているという思いは妄想です。(これが「唯識」) >人はみんな自分だけの世界(一人相撲の世界)を生きています。
客観的な世界が存在しているという思いは妄想です。(これが「唯識」)
霧賀紡乎の世界観を確固たる真実や確固たる客観的世界だと思う必要はないということですわ。 無我さんの個人性、心身から離れた意識、
主体も対象もない世界
そういう摩訶不思議な文章を書くことは出来ないのですか?
読んでみたいです
他の人は個人性の意識から離れられないから書けないし。
書けたとしてとそれは個人性の意識による想像でしかない。 常人以上に、個人性やプライド感、己の世界観に
ガチガチになって
ガッチガチの文章しか書かない無我さん >>87
>それが【心身】から離れたのが、個人性のない意識体ということですか?
一応、そういうことだと思って下さい。
〔身心〕 から離れている状態が <意識> の本来の状態で、
〔身心〕 から離れているので個人性から自由な状態だということです。
〔普遍〕 というのは究極の真理の世界の象徴です。(言葉で表わすことが
不可能な世界です。仏教で言う 「真如」 です。)
本来、仏教の真理は言葉で表わすことは決して出来ません。
なぜなら、対象的な理解ではないからです。
「見る者」 と 「見られるもの」が一つになった時に
現われる <不可思議な> 世界です。
(>>40 「帰命無量寿如来、南無不可思議光」)
だからこそ、般若経典の「無」でも、浄土経典の 「有」 でも、
どちらでも表わすことができるのです。このことが解かるようになれば、
なぜお釈迦様の 「悟り」 から浄土宗(浄土真宗)のような宗派ができた
かも解かるようになります。
私の言う 「個人性のない意識体」 も一つの説明に過ぎません。
バグワンの説明も一つのモデルに過ぎないわけです。
(仏教の各宗派でさまざまに説明されています。)
>個人性のない意識体は、意図や好き嫌いや目的みたいなものはあると思われますか?
「個人性がない」のですから、好き嫌いや目的などはありませんが、
部分的にでも 〔身心〕 と同一化すれば、個人性(好き嫌いや目的)が生じます。 ↑ >>95
コテハンを入れ忘れました。無我です。 >>88-94
あなたは、まだ仏教を勉強するのは早いようです。
先ず、しっかりとした文章理解力と思考力を身に付けましょう。
あなたは学校にほとんど行っていない為に、間違った思考を訂正される経験を
していないので、「自分が考えたことは正しい」 と思う病気になっているのです。
あなたは中学生頃までは頭の良いよく出来る子だったのでしょう。しかし、
高校以降の勉強をほとんどしていないので、思考力が中学生、高校一年生のレベル
で止まっているのです。(私は塾で教えているので、それがよくわかるのです。)
以前にも書きましたが、あなた自身がそれに気づく為には高校の現代国語の読解問題
を沢山解くことが一番です。そうすれば、自分が正しいと思った解釈が間違っている
ことがわかる経験を沢山することが出来るからです。
そのような訓練を全くしていないあなたは、仏教や哲学の本を読んでも、正確には
何も理解できず、ただ独りよがりの思考を積み重ねていくだけで終わるでしょう。
(あなたには以前に、鬼和尚さんに教えてもらいなさい、と言いましたが、今のあなた
には鬼和尚さんの説明もまったく理解出来ないでしょう。)
そして、もう一つ。
あなたは厳しいお父さんに怒られ続けたことがトラウマになっていて、それが
すべての他人に投影されているようですから、その問題は専門家に相談して、
少しずつでも解決していって下さい。 >>97
単に国語の問題なら
ここがこうですと説明お願いします。
それが国語(力)というものです。
それが出来ないなら「逃げた」「誤魔化した」
それで終わりですね。 >>95
ありがとうございます
ところで例えば悟ったパグワンさんのそういった説明を含む本を読むことは悟りに繋がりますか?
もしくは悟ったパグワンさんの説明でも悟りを遠ざけてしまう?
>>94
ところで94さんは正法眼蔵随聞記読んだり座禅したりしてます?
僕は気功とたまに座禅をしてます
借りてきた正法眼蔵随聞記は部屋のどこかに(笑)
僕はだいたい疑問は無我さんにぶつけたから(もちろん答えが出たとは言わない)、そろそろ座禅したり集中するかなという感じです
後は僕が好きな悟った人の話を聞いたりとか、そんな感じ。
ちなみに一番近くの寺の坊主はクソ坊主でした(笑) >そして、もう一つ。
あなたは厳しいお父さんに怒られ続けたことがトラウマになっていて、それが
すべての他人に投影されているようですから、その問題は専門家に相談して、
少しずつでも解決していって下さい。
>>70
>また、以前の 「自演坊や」 の復活だね。
多重人格の可能性もあるのかな? (笑)
なかなか妄想が激しい国語の先生ですね (笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています