572-576 嶺南の木人 さん  ID:CU5W4Cfa [1/5]
>>566
体得と言うよりは会得、会得と言うよりは今流行りのいわゆる気づきで良いのです、十分なのです。坐禅中に、あれ、自分が無い⁈ならそれで良いのです、止め置くことは要らないのです。
それを悟りだ云々するから妄想になるのです。人は記憶さえ塗り替えるそうですから。

よく見かけますが、「◯◯を会得する事を悟りと言う」の類、此れは宜しくありません。
いわゆる般若の知見は、自(みずか)ら会得ものではなく、自(おのずか)ら気付かされるものだからです。
また、「真理とは◯◯である」の類、此れも宜しくありません。サイコロを振って出た一面に過ぎないからです。

> 把手供行(はしゅきょうこう)
  さとれば、祖佛祖師方と手を把って供に歩み行く、のです。

成る程、理は分かりますが、それは宜しくありません。

祖佛祖師方は、既に、私共と手を把って供に歩まれておられるのです。隣に居られながら気づきがないだけと申しましょうか。

なすがなる、するがさるるになるがまま。 如何ですか。 』



わたしの外に 唯一絶対の神を見るのが、一神教ですね。
八百万(やおよろず)の神々を見る神道(しんとう)があります。

わたしの外に神があり、内に神があり、
これが、アジア人の神に対する、あるいは、自然の一員である、との受け取り、です。

さとりは、不特定の誰かの事ではありません。
わたしの事なのです。
知識を捨てなさい、分別を捨てなさい、と求められているのです。
その時、わたしが無い、無我である、これが悟りです。
これを体得するのが、わたしが取り組んだ公案、両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、取り組んでいくのです。
ほかに、無字の公案があります。
公案は、理ではありませんよ。
とくに初関を透る、とは、無我を言います、一の如し、を言います。
これはとくに言っときますが、坐禅でさとった人は皆無です、ただの一人もいらっしゃりません。