人生ってたまんないね!! [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
年収(手取り)170万円
月の生活費
ネット7000円
携帯7000円
車保険5000円
ガソリン6000円
家に入れる分4万円
その他出費1万円
絞めて7.5万円
7.5×12=90万円
170-90=80万円
80万円からその他車検や冠婚葬祭、大きな買いもなど色々引いて年に60万円は貯金できる
25歳から働いていて今年29歳になる
今の貯金が200万円で今年の末に260万
来年30歳の年に320万円10年後の40歳で920万円
さらに10年後の50歳で1520万円
さらに10年後の60歳で2120万円
さらに5年後65歳定年で退職金含めて貯金2700万円くらい
年金を年に100万貰えるとして
1年の消費を多く見積もって200万円
つまり実質年100万円の消失
2700÷100=27年は生活水準を下げずに生活できる
そして65+27=92歳(ここまで独身童貞)で人生に幕を閉じ
天国に向かう 天国で25歳からスタート
大企業に就職し年収(手取り)プライスレス
月の生活プライスレス
29歳の時に天使橋本環奈(14才)と結婚するプライスレス
40歳の時には子供を授かりマイホームを購入するプライスレス
50歳の時には早期退職し妻の天使橋本環奈(14才)と娘の本田望結(12才)やエマ・ワトソン(12才)などたくさんの家族と幸せに過ごすプライスレス
65歳のころにはひ孫もできて大家族で幸せに暮らすプライスレス
老後の心配などせずひたすら天使橋本環奈(14才)と愛し合いさらにたくさんの子を授かるプライスレス
ここまでに消費した精液量プライスレス
92歳のときたくさんの愛しい人にたくさん愛されながら幸せの絶頂とともに息を引き取るアヘ顔ダブルピース
ここで私の生涯に終止符がうたれるのである
不幸せが長く続けば続くほどその先の幸せも長く続き
不幸せが深い深い闇の底にあればあるほど幸せが高く広い大空まで駆け巡り
不幸せを知っているからこそ知れる幸せもあり
不幸せでも生きて死ぬまでに人は幸せになれると思います
終わり良ければ全てよし
自分という物語をハッピーエンドに
これこそ今思いついた
プラス思考教の誕生の瞬間である
この歴史に刮目せよ ここから俺が乗っ取るわ
楽に生きるためのメモ帳にする 悩みや苦しみの原因って扁桃体らしい
なら、扁桃体ちっさくすりゃ万事解決って事やな 努力は報われるとか、因果応報とか、実際は嘘やなぁ
どんな努力しても善行を行なっても、死はいきなりやってくる
迫ってくるんやなくて、落とし穴みたく、いきなり全てを攫っていく 病気や怪我の苦しみ以外の苦しみって、ただの幻想や
己は作用の集合体であって、確たる自己なんて無いわ ふと思った
人間って宇宙から肉体借りてる状態だけど
一番最初の物質ってどこから生まれたもの?
一番最初の生物は?
精神どころか、肉体すら本当は無いんでないの?
ただ、有ると感じているだけで
この五感の感じているものは、必ずしも正しいとは言えない 成長は必要ない
何かを得ようとするのではなく、捨てて捨てて身軽になるのが正しい
成長の先にあるものは死でしかない
こだわりを減らす、求めるものを減らす 世界とは、自分が見てる景色のみ
己が感じられるものが世界であり、同じ景色を見れるのは己のみ 言葉に本来意味は無い
ただの空気の振動に意味を上乗せしているだけ 思考は勝手に湧きあがる
人は何か衝撃を受けた時、思考を暴走させる
思考は肉体に組み込まれた作用であり、己の管理下にはない
思考は己ではない 不安や恐れを感じていても、それをそのまま受け入れれば良い
良し悪しの判断はしない
ただ、流れるままに この怒りは逃避
不安と後悔を誤魔化すための逃避
恐れていることを直視する
そして、これは条件反射でしかないと、よく確認する
恐れているのは己ではない
身体の反応として、扁桃体が肥大化しているだけにすぎない
己はただ、観察するのみ
思考は後付けにすぎない 捨てる、捨てる、捨てる
反応を自己と同一視しない
ひたすら身体の動きのみを眺めろ
頭は涼しく、重心は腹に有り 怒りは全て心配の裏返し
心配すること自体が恐怖の根源
何が起きても、感情は己でなく肉体的な反応だと理解できれば、恐怖も不安も怒りも焦りも無くなる 己は容器
己はからっぽ
己は環境に応じて形の変わる入れ物 誓いとは、ただの反応に意味を上塗りしたものだ
願いとは、ただの反応に意味を上塗りしたものだ
ただ観察すれば良い
その意味付けした原因は、恐怖からの逃避にある さあ、捨てろ
守るべきものなんて何もない
有るのは反応だけだ 苦しみを感じた時に快楽を刺激を求めるのは逃避に近い
ただ肉体と感情を観察すればいい 苦しむことは純粋な悪ではないよ
苦しむ理由でいちばんよくあるのが、のぞみが叶わないことだから
望みが叶わないのは、いまあるもので生きる知恵が足りないから
それはどうしようもないこと
生まれつき物不足でも快適に生きる知恵を持っている人なんてあまりいないだろう
だから苦しんでいる 訂正
物不足でも快適に生きる知恵を
生まれつき持っている人なんてあまりいないだろう 苦しむときに快楽を感じてはいけないと思うなら
「ダメージを食らったら回復する」と思えばいいだろう
逃げてはいけないという精神論、根性論で適当に言って
多くの人は痛めつけるだけしかやり方を知らない。
痛めつけるだけでは、弱って当然だ。
だから慢性的に疲れが残る
人は、疲労がたまりすぎれば、騒ぎ、
それでもだめなら、病気になり、
それでもだめなら、異常行動をし、
それでもだめなら、自殺する。 逃避しているときは逃避している自分を観察する
感じている感覚をそのまま認め、意味を上乗せせず、そのまま観察する
不安や恐怖や怒りを感じた時その感覚を観察する
喜びを感じた時も、その感覚を観察する
そこには機能としての脳や肉体の働きしか無く、己は無い その傷は肉体の傷と同じだ
己が傷ついているのではなく肉体が傷ついている
肉体は、身体は、脳は、己ではない
機能が備わるだけで、発生した働きは己の本体ではない
己には本体などなく、ただ観察する者が居るだけ 観察した対象の善悪は判断しない
道徳心や社会常識なるものは無視する
苦しみには高低は無い
子供の苦しみも、老人の苦しみも、苦しみは苦しみだ
己の苦しみは、湧き上がる感情に価値を上書きすることから始まる
その感情を味わい尽くす
上質な料理を全身全霊で味わうように 良い考察を得た
全身全霊で味わえば良いのだ
全身全霊で肉体の感覚を観察し、全身全霊で思考を観察し、全身全霊で感情を観察する
そして、嫌なものを消すように意識する必要はない
ただ見つめていれば、それが大した意味をもたない事に気づく
大人が紙芝居への興味を失うように ソープ代を無視できる聖人になるために支払ってるコストも公表しないと不公平だ キリスト教宣教師(75)、インドで孤児院の少女を常習的にレイプし逃走中
キリスト教関係者は総スルー
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1377082052/
【キリスト教牧師】 キリスト教会、セクハラ牧師問題で謝罪文発表
「キリスト教牧師は長年にわたりセクハラや暴力行為をしていた」
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1420032194/ 不安と恐怖は未来にある
後悔と悲しみは過去にある
今、この時には、この時しかない さあ、逃避を見ろ
あるがままに心を見ろ
追われるように生きている現状を見ろ
お前が大切に守っているその財布の中身は空っぽだ
大金なんて入っていない >>32
>その感情を味わい尽くす
>上質な料理を全身全霊で味わうように
なんのために味わうんだ。どうせ死ぬわけだが。死んで無になるのだろう? 理解できるようになるから
恐怖は恐怖、苦痛は苦痛で、身体の反応と心の反応を観察する
死は死で観察し、生は生で観察する
生も死も関係ない 生きる事に意味は無く、死ぬ事にも意味はない
思考と感情が意味を上乗せして、それで己の常識をつくるだけ
己の常識が荷物をつくり、苦しみと快楽をつくる ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) 不快から逃げようとしている
その不快の原因は何だ
何もない
ただの習慣だ
不快を不快と思うのは何故だ
ただの習慣でしかない 自己とは記憶と反応でしかない
記憶は身体の機能でしかない
機能は必ず間違いを犯す
過去は無い
機能があるだけで、確たるものはない
赤ん坊も老人も、今だけの存在
故に、老は無い 似た機能が集まると社会になる
似た機能であるから、おおむね整合性がとれる
しかし、その機能には差異がある
自然から見れば、社会通念は何の意味もない 己は何者でもない
あるがまま
優れていても劣ってもいない 自然の一部が己である
自然の一部が他である
そこには何の過不足もない
過不足を決めるのは己の欲
優劣を決めるのは己の欲
この自然を道を宇宙を切り取り、一部を誰かの所有物と思い込むから苦しみが生まれる
巡る、ひたすら巡る あぁ、苦しみと理法があるから、苦しみを消す方法を知れる
ありがたい
大抵の苦しみは思考から生まれる できないことに苦しみを感じず
できることに拘りを持たない 思考によって価値を判断して意味を上乗せするから苦しむ
過去の失敗をどうして悔やむのか
失敗を悪いものと捉える分別
社会の常識との整合性への拘り
記憶への過剰な信頼 が原因である
自然には、宇宙には、善悪の区別は無い
自然には、宇宙には、社会常識など何の意味を持たない
自然には、宇宙には、過去を実証する術は無い 価値の有る無しは、己の基準
他者の価値観も、己が受け入れれば己の価値観となる
価値あるものも朽ちて自然に混ざる
価値の保存は千年程度が限界
この世に朽ちて循環しないものは無い
すべてのものは一時的なもの
腐敗は、人から見れば恐ろしいもの
腐敗は、微生物から見れば命の営み
腐敗は、自然から見れば循環
自然が事実であり、法則を正しく見るのが理法
死は、腐敗は、排泄は、循環でしかない
どこに滅びがある
意識は肉体の作用でしかなく、意識は己ではない
己など作用の集まりであり、確たる己などない
固定化していないものに対して幻想を抱くことが苦しみの始まり 社会の価値観とは、個人の妄想と欲望の集合体
固執すれば心身の破滅を招く 放下せよ
苦しい時、思考を、拘りを、常識を、識別を、すべて放下せよ
ただ呼吸と肉体を観察せよ
言語も捨てて良い 人と関わるから楽しいのではない
人を介して己の世界を見ているだけ
人は己の見えているものしか見えないし、見ない 人の頭なんて、なんらかの薬が入り込めば別の作用を産む
思考なんて、作用でしかない
気分の良し悪しを感じるのも頭の作用でしかない 他人とは、己の意味づけした形でしか見えない
己ですら、自分が意味付けした形でしかない
すべての意味付けを排除すればいい
そこには、命があるだけ 先の事を考えれば不安が生まれ
他人の事を考えれば不満が生まれる 今感じている感覚が、そのまま生きるということだ
それ以上のものはこの世に無い さあ、楽に生きるのだ
己に執着せず、他人に執着せず
過去に執着せず、未来に執着せず
逃避でもいい
逃避でもいいから、それを観察しろ
観察したものを評価しない 人は移り変わり、環境と刺激により変わるもの
失敗した自分、成功した自分に固執しない
今の生を、ただ生きる 皆、普通の基準に怯えている
逃避していることに気づいていない 過去の努力なんて関係ない
今、この瞬間を坐れているか否かが重要 積み重ねる、という意識は誤り
思い入れが強くなり、意地や自尊心が生じて結果に固執するようになる
過程こそ人生 人の気持ちは揺れ動く
人の価値観も揺れ動く
固めるな
水の形にこだわって、意識を上乗せするな
水の上に家は建たない 自分の身を大切に扱うのは良い
安楽に生きれば良い
程よく眠り、程よく動き、程よく食べる
自他の比較、過去未来への妄想は控える 社会生活での苦しみは自他と過去未来への想念にある
先ず、己の思考や気分は揺れ動くものであり、その時々の肉体の状況により変化する
他者への評価と過去の考察は、思考と気分により意味付けが変化する
今の肉体現象が過去と他者への幻想を生んでいる
今、この肉体と意識を呼吸と感覚のみに集中すれば、すべて消え失せる 姿勢が思考をつくる
呼吸が思考をつくる
内臓が思考をつくる
神経が思考をつくる
血液が思考をつくる 感情が揺れ動く
疲れと不安を餌に、怒りがよってくる
その疲れも一時的なもの
さあ、放下しよう
他人の評価、評判への警戒は己の心の鏡 事実に対する怒りも、憶測に対する怒りも、共に悪魔の囁きだ
この社会生活に事実は少ない 己は何者でも無い
己はこういう人間、己はこうやって生きてきた、己はこうやって生きていく
己、己、己
流れる水を掴むことはできない
己とは水
己とは空洞
己とは生と滅を繰り返し循環するもの 漫画、テレビに楽しみは無い
怠け心ができるだけ
無人で目の前に没頭し、感情の入る余地の無い状態こそが楽しい 俺は仕事に疲れていたのではなく、消化に疲れていたのかもしれない
夜の食事を抜くだけで充実する ゴールを求めて行動すれば苦しみと焦りがつきまとう
遊びに楽しみは無い 己の吐いた言葉に固執し、他人に付けられた評価に固執することがある
それも放下、放下 その緊張をくまなく味わい、緊張と一体となり、緊張している事をひたすら認め確認する
そうすれば緊張のみが存在し己が消える
己が消えれば、緊張はなくなり、他者もなくなり、こだわりも消える 色を付けているのはお前だ
他人じゃなく、お前だけだ >>88
テレビは魔法のように人の知力を下げる道具だ。
マンガは、知能を下げようと思えばどこまでも下げることができる。
そして、どの作品も考える作品は存在するが、まったく教育になっていない。
その理由は、売るためだけに作っているから。
教育番組ですら、視聴率を誇る。
まずはその特徴(金が全てという価値観が世界を支配していること)を知っておく必要がある。 テレビは視聴者の反応を決めてから作ることにしている。
どんなに「面白い作品を」といったところで、真の意味で視聴者の立場になることはない。
これは話題の選択により、ごまかせる。
日本のテレビはあり得ないほど知能が低い番組を作る。
仮にCMで教育しようという組織があれば、何もわかっていない。
「宣伝は知能が低いほど良い」とヒトラーが書いている。
そして、日本のテレビはおそらく、ありとあらゆる要素をCMに替えようとしている。
さらに登場俳優の行動はテレビ業界の押し付けたい概念の洗脳のために用意されている。
これに従わない芸能人は、仕事を干されることによって、事実上の永久追放になる。
(見た目は、売れない芸能人にとっては、売れないまま有名になることを諦めることになる) 外国のメディアの話し方を知るとわかるが、日本はあり得ないほど
内容に考えるところが見いだせない。
あきらかに、たった一つの意味だけですべてを表現しようとする。
「そうだけど、そうじゃない!」などとアニメで言いそうなセリフだが
これこそが、難しい意味を全く言わないように努力した結果だ。
日本のメディアは、難しいことを言わないようにするあまり、
信じられないほど頭の悪い表現だけで話を作っている。
まず、これだけでも視聴者の知能は下がる。 学校教育は、ただロボットのように入力したから消えない程度にしか考えていない。
子供たちの記憶力の限界や、成長速度に対応することは不可能である。
教育を実行する前に、だいたいの方針を考えた時点で結果が決まる。
平均の実力を設定し、実力が平均に達しない人間は、どんな理由が有ろうと切り捨てる。
落ちこぼれた人間は、やり直しをしようと努力して社会に出てきても、排除するだろう。
なぜなら、学歴のせいである。
成長速度には対応しなくていいため、あとで使える人間になっても排除し
半永久的な人材不足に陥るだろう。
学校に限らずあらゆる組織は、学習者の記憶力の限界は想定外だ。
覚えない人は、定性的なことも定量的に判断し、容赦なく切り捨てる。
教育は10年で考えろと言っているのは、結果を見たからであり、考えたからではない。
森友問題を上げるまでもなく、日本にある組織の多くは、やっていることに一貫性がない。
頭の回転が異常なほど遅い。
「日本人は点検が苦手です」リー・クアン・ユー『目覚めよ日本!』より メディアの扱う言葉が単純すぎて、
日本人の多くは、難しい表現を一つも知らない人がいるだろう。
だが、実際に就職し、職場に行けば形式ばった表現も扱えないといけない。
(テレビの言葉遣いに格式語はない。格式語はファッションであり、
俗語との切り替えは一時的なものでファッションであり
ありとあらゆる表現が、ひねくれたしかめっ面をした登場人物の話し方になる。
エリート警察官ですら、なんだかひねくれたような態度で小さな声で話す。
日本のテレビでは小さな声でしゃべる意味はない。
元気がないか、ハリウッドのマネ程度である。
余談だが、カメラワークはハリウッドのマネが増えてきている
ハリウッドのカメラワークを採用し、その意味は解らないままいきなり使われる) BBCなどの番組を見るとわかるが、日本人と話し方が全く違う。
BBCなどのほうが知的な話し方であり、内容が濃い。
難しいことをサラッという。
日本は難しいことを言わないようにして、ぎこちなくしゃべる。
洗練された学芸会の演技である。
特にアクションはへたくそである。慣れていないのが目に見えている動きをする。
ハリウッドは慣れていないのがさっぱりわからない、自然な動きである。
ハリウッドの場合でも俳優は深く考えなくても表現できればいい気がするが、深く考えているように見せるのがうまい。
日本はゆっくり動いているだけであり、テンポが遅すぎて内容と行動が合わないことが多い、それが日本の主流であろう。
この日本のゆっくり過ぎる行動は、あまりにもゆっくりなので
遅すぎて、思考しようがない。
BBCなどはテンポが速くて、一度に多くのことを言っているが
慣れれば、非常に細かいこともしっかり表現する。
日本は、そう見えるように言葉が並んでいるだけであり、
俳優が感情をこめて音読しているだけである。
あまりにもゆっくり過ぎて、そう見えてしまうし、実際にそうしているのではないだろうか 難しいことを決して言わないため、
誰も難しいことを言えなくなってしまっている。
すると、よく考えてさらっとしゃべる人なんていないので
よく考えているように見えて考えていなくて、ゆっくりぎこちなく音読している人ばかり見ている。
CNNですら原稿を読まない。
ニュースの内容を作っているところを見たことはないが、おそらくこうしていると思う。
話の内容のチャートみたいなものを用意し、順番を決めて流れを表にする。
その内容で、その順番になるような展開だけを用意しておく。
日本のテレビみたいに、ありとあらゆる要素を文字にしてそれを見て報告しろ、というわけじゃないと思う。
内容と展開が決まれば、知っていることを結論に向けてその場で作りながら話す。
その方がスムーズに言えるからだ。
もし、元寇を用意し、一言一句を正確に読まないといけないのなら、前を見てはなせない。
何度も視線を下に落とさなければならず、そういう報告方法だと印象が悪い。
だから普通、報告するなら、原稿をすべて用意して正確に音読しようとはしないはずだ。
話の展開を決めておいて、そうなるようにその場で言葉を紡ぐ方がいい。
こうすると、正確に読むときに間違ったら対応できないのとは違って、
咬んでもすぐ言い直せば済む。原稿を用意すると、咬むことが許されなくなるのだろう。
だから正確に読まないといけないような原稿は作らない。
日本はすべてのスピーチが、すべての言葉を正確に読まないといけない。
これだと、目の前の人に話しかけることができないため、相手のいない主張になる。
テレビはその意識で作られていると思われる。 原稿を用意して、すべての言葉をかまないように読むと
相手のいないスピーチになるしかない。
それに言葉にまったく自由が存在しないので、咬むことを心配しなければならない。
だからそういうスピーチの用意の仕方があること自体が、おかしいのである。
たとえば、ビジネスの個人のプレゼンでも、一言一句を間違ってはいけないような原稿は最初から作らないほうがいい。
何の話を、どの展開で話すか、という準備方法をとるほうがいい。
正確に読むやり方だと、全部暗記しなければいけなくなり、内容に集中できないからだ。
よって、テレビのように考えないで音読するだけの話し方になる。
プレゼンは相手が質問してくるのだから、原稿丸暗記だとその対応はほとんど不可能であるからだ。
暗記することで、内容を意識していない声で話すことになる。
日本のテレビは内容を意識しているとは思えない声なのである。
これは、感情がこもるとどんな声になる物か、知っておくと区別がつくようになってくる。 いろいろ言ったが、日本のテレビにこれらのことはほとんどないはずだ。
原稿を正確に読むのに気が奪われ、今ここで何があるかがわからない。
だからそんな声の表情になっている。
そんな人が下手な演技で笑って見せたりするから、違和感がある。
それが洗練されたのがテレビドラマだろう。
テレビはおそらくありとあらゆる要素をCMにしていると思う。
CMにすることで、自然と内容の知能は下がる。
アメリカのテレビのCMでハリウッド映画並みの、考えないとわからないようなCMを見たが
私にはあれでいいのかはわからない。
CMで売りつけたいものを記憶に刷り込むなら、別に考えないといけない内容にする必要はない。
アメリカはそうしたいから、そうしているのだろうか。
私にはどっちがいいのかはわからない。
ヒトラーの言葉で、そういうもんかと思っているが、アメリカでもそういうもんかという気もしてくる。
どっちでも記憶しそうだし。
それはともかく、日本では内容の薄すぎる話しかない。
現実のニュース、ドキュメント、教養ですら、深い意味が見当たらない表現しかない。
日本のテレビは表現が易しすぎるのだ。 日本のテレビは、修飾語でしか話さない。
「こういうことをしてこうなった人」これで説明したと思い込んでいる。
外国から見ても、おそらく「人」と言われただけだと思う。
「こういうことがあって、こういうことをした男性」と日本のテレビは好んで使う。
おそらく、これだと「男性」としか示されていない。
すると「その男性がどうしたの?」となる。
「男性」「女性」と並ぶだけで、何か文章を作ったと思っている。
外国では、意味だけで文章を作って「そうか」と、言葉にしないで思うことはない。
外国では、言葉で100パーセントに限りなく近い表現を書き尽くし、
そのうえで、意味だけの文章が出来上がるという方法をとる。
日本は、「男性。」「女性。」といっただけで修飾語で説明したと思う。
「こういうことがあって、こういうことをした男性」といえば、映像でも「男性」が一人写っているだけ。
なんでそこにいるのかは、まだ示していないがテレビは示したと思っている。 視聴者も、修飾語でしか話せなくなってしまう。
そして、ビジネスで信用される話し方ではない。
これだと、勉強を身に着けるなと言っているに等しい。
テレビは魔法のように知能を下げる道具だ。
おそらく、情報伝達危機はすべて、知能を下げる道具かもしれない。
スマホをいじって、トランス状態になる人もいるくらいだ。
頭を使っていないから、トランス状態になっている。 頭はいくら使っても構わない。
身体はどこかで限度が来るかもしれないが、頭はそういうことはない。
年を取って衰える以外のことはほとんど怒らない。
ちゃんと思考して過ごしている場合は。
物事がどういう仕組みになっているか、
どんなストーリーだったか、頭の中でイメージしながら、人の話を聞くといい。
文字だけをイメージしてもダメである。
映像、動画でイメージする方が理解しやすい。
ちゃんと音声もつけて、生き生きとイメージできるといい。
一方向の映像だけではなく、回転させてあっちこっちから眺める。
これでかなり頭が鍛えられるはず 人から何か言われて、意見が言えないとすれば
考えが足りないのか、考えを言う意識があまりないのだろう。
普段は考えを言う機会がないが、急に誰かに聞かれるので
少しはイメージを働かせて生活しておく必要がある。
そうすることで、ある程度の理解力を一生維持しようではないか。 そのためには、普段から、ある程度内容のあることを言うこと。
そして、内容のあることを言われたら、
理解しようとすると同時に、質問すること。
そして、質問された人は、省きすぎないこと。
これができるようになるには、意味のあることをテレビが言うこと。
おそらく思い込みでぎこちない話し方になっていると思うが
BBCなどは自由に言葉を作っている。
たとえばニュースのように原稿を読めない時は、話の展開を考えておくだけだから。
いつでもどこでも正確に全部読めることを気にしなくていい。
そんなことに神経をすり減らしながら、現実に対応できる人は見かけない。
だから丸暗記は敵視されているわけである。
記憶に振り回され、目のまえの人が言っていることが頭に残らないのである。
こうやって、店員や公務員の相手を見ないサービスになる。 日本人の知能を下げないためにも、話し方を工夫したほうがいい。
説明を省きすぎないことである。
日本人は、言わないでわかってもらおうとしているが
言ってくれない限り分からないのは、外国と変わらないのだから。
早く初めければ、日本人はまだまだ知能が下がる。 わないでわかってもらうのは、成功しないこともある
なぜか。
一人一人、知っていることが違うのにもかかわらず
みんな同じことを知っているかのように思い込んでいるから
みんな同じことを知っているなら
知らないことを言われて考えさせられることは決してない
ほんの少しでも考えなければいけないことを言うと嫌がる人がいるが
その人は考えるのが嫌なのだろう。
しかし、考えるのを止めると頭が衰えてくる。
頭は使えば使うほど冴えてくる。 認知症ではなく、頭を使っていないだけの人もいる。
考えると言っても、難しいことをわからなくてもいいし
理解すると言っても、100%わかることが前提ではない。
この世に100%理解できることなど、一つでもあるだろうか。
学校の問題は他人が用意した限定された問題なので、100%わかることも可能だろう。
人生は学校で他人が用意した問題はない。 学校で習ったことは知っておくと理解しやすい材料である。
学校の外では、学校で用意される問題以外の問題が発生し、学校の知識は使わないと役に立たない。
大事なのは、自分で学校の知識を役立てる気があるかどうかである。
だから、100%の理解を想定する時点で非現実的なのである。
もうちょっと想像を巡らせば、100%理解できることがあるかどうか、習っていなくてもわかるはずである。
それでもわからないと思ったり、こうして言われたから否定して反撃しようとする人がいれば
その人は習っていないことをどうするか、わかっていないことになる。
習うのは基礎の段階であり、すぐに応用できるように使い始めなければ、教育の意味がない。
学校は、読み書き以外で使うことを想定していない。
学校では読み書きができる機械さえでき上れば、人間の事情など知ったことではない。
というか、教師の方が指導をよくわかっていなくて、育てたくてもできないのである。 学校の教師の多くは、人の育て方など知らない。
試験にパスしたから。
教師になる前にいくつか学校を回って現場を見るらしいが
それで教育の仕方がわかる人がいるとは思えない。
やっぱり、勉強以外に、人がどうやって学習するのかとか研究していないとわかりづらい。
そして、教師になれる人ほど勉強熱心な人は、教師になる勉強以外に勉強する余裕があるだろうか。
基礎は数回見たら、すぐに使うために準備することは学校では想定していないはずである。
最初は半分、遊びに近い形で学び、レベルが上がったら講義形式にすることも考えにないはずで
そういうところは他校との差別化程度にしか考えていないはずである。
だったら、差別化でうちの学校だけはどんなにひどいと言われても、これでいいと信じてやりますと
キレイ事のように言って見せて、その根拠がそれらしく聞こえさえすれば、他人を騙せるだろう。
そして、何も知らない生徒は、教育が悪いから成績が上がらないと思うことはできず
自分の勉強不足だけが理由だと信じ込まされる。
社会問題の議論では、自分の学校よりも遠い世界の社会問題として、教育問題に取り組むだろう。
こうして、機能しない社会が形成される。 日本人の理解力を付けるために言っている。
学問上で、論理的思考ができるだけが理解力のすべてではない。
そんなものに人の気持ちの理解はない。
論理的に自然な帰結とは、脳みそ的に不自然な帰結だからである。
たとえば、綺麗にリストになってまとまったノートをとって
勉強をするのは、脳みそには不自然なノートになるという。
あと、箇条書きでただ、文章を並べているだけのノートがあるが
これも脳みそには不自然で学べないノートである。
ただの丸暗記でもしない限り、こんなノートでは記憶すらもできない。
脳みそにもわかりやすいノートの取り方を知っている人は少ない。
(そういう人全員が、自然なノートを取れていないわけじゃないが、
なんとなくそうなっただけであり、意識してできる人はもっと少ない。
脳みそに自然なノートを取った人は、たまたまそうなったのである
そのノートがなぜ、自然なのか知らないでなんとなくノートを取っていただろう
だからわかっていて自然なノートを作れる人は少ないと思う) 不自然なノートは日本人だけではなく、みんながやってしまうことらしい。
言われたことを、ただ書き留めれば勝手に箇条書きになるからしょうがないことではある。
だがきれいに整理するほど、脳みそには不自然なノートなのである。
覚えろと言われたのに、どうしても覚えられないのは、実は、自分だけのせいじゃなかったのだ。
だが世の中は、勉強できないのは全部自分のせいにするように洗脳されている。
自分のせいにするのは、他人が命令してやらせることだろうか? 自分のせいにするのは、他人に言われたからやることだろうか?
よく考えて、自分が悪いと思ったところだけ反省する方が現実的だろう。
なんでもかんでも自分のせいにしなさいと誰かに示すのは、常識のいけないところである。
ここは自分のせいだ、ここはしょうがないことがあったと、区別する方がいいに決まっている。
なんでもかんでも自分のせいにしなさいと、言われた人は、考えなくてもいいではないか。
はい、全部自分が悪いですと、何も考えずに言わせたいのだろう。
言わせようとする人の非現実性に巻き込まれる生徒がかわいそうである。
ちゃんと身に着ける方法があるのに、知らないまま、人から言われるままにやっているのである。
世の中は若者に期待するのはなぜだろうか。
よくわからないまま、ただ期待しているんじゃないだろうか。
それに、期待するからには、それが実現できる社会にしなければいけないではないか。
現実はあっちこっちの組織が邪魔しあっている。
夢が実現できないのは、本当に努力不足だろうか?
周りの応援が全く無く、夢は実現するだろうか?
学生はなぜ「みんなのお陰で自分はここにいる」というのだろうか?
感謝の言葉を言わせていないだろうか?
夢のためにがんばっている人の苦労を、周りは知らないのだから
余計な口出しをしないほうがいいのではないか?
暖かく見守り、待つのは、実は勇気がいることで、緊張の連続なのではないだろうか? たとえば、人が学び、ある程度成長すると、指導者、周りの人にとって悲しい現実が待っている。
かなりの部分を、学んでいる人に任せなければならない。
分かってもいないくせに、細かいことまで口出しする段階は終わったのだ。
分かっているからと言って、細かいことまで口出しするときでもない。
分かっている指導者は、今まで以上に、タイミングをよく考えて
少なめにアドバイスする以外にない。
難しいのは、普段は放っておいて、問題が深刻になりそうな時だけ
すべて把握したうえで的確なアドバイスをすることだ。
これが出来たら、神監督である。そんなことできる人は多くない。
指示やしつけはしても、教え込む段階ではない。
そして、もっと覚悟がいる現実がある。
指導者を、生徒が超える時が来ることである。
これをわかっていないのが日本社会の一般である。
実際の指導者の一部が、俺を超えてくれたらうれしいと思っているだろう。
多くの指導者は、学校教師のように指導できない未熟者だから、超えてもらっては困ると思っているはずだ。
超えてもらっては困ると思う指導者、教師がいるとしたら、その人たちは
生徒はいつかは超えるんだとわかっていないことになる。
良い指導者、良い教師なら、俺を超えてくれることを喜びとするはずだ。
だから、それが喜びとなるくらいに、腹をくくっていないといけない。
それができないから、超えられたらみっともないなどと思える。
もちろん、無関係な周りも「教え子のほうができるのは、指導者、教師が無能」という
安直な常識をもってはならない。 教え子が超えたら、急に無能になることが現実にあるだろうか?
よく考えたらおかしいとわかる。
「一人で励ましているなんて寂しい―」というのも間違った常識だ。
一人ぼっちの人は、励ます人は自分しかいないのに、やってはいけないとは何事か。
だが、一人で励ますのがみっともないと思うのか、自分で自分を励まさない人が多い。
いつまでも「つらい」を連呼し、そのままにしている人が多い。
もっと自分を大切にしなさい。
また「一人が悪い」「一人が寂しいから、一人になってはいけない」という価値観も間違った常識である。
まさか、常にべたべたしろというのか。
これは、何か頑張ることがある人には、良いことである。
何か頑張っていると、一人なれるほうがいい。
人間関係が苦手なのではなく、人がいると気が知って、がんばっている感覚が消えてしまうからだ。
他人がうろちょろし、時間をおいて声をかけてきたりすると、いちいち途切れてしまう。
何かを学ぶときには、一人になるしかないのである。
一人になって、ちょっとしっかり学んでおかないと、身につくものも身につかないのである。
それがわかってないのか、全員とずっとべったりするアニメばかりである。
もちろん、寂しくないわけじゃないし、人付き合いは大事である。
だからといって、ずっとべたべたするものではない。
いい関係は、一緒にいて、何もしないでいられる関係がいい。 沈黙していられるのだから。
一緒にいて、キャッキャウフフしなければいけないわけじゃない。
一緒にいて、何もしないで何時間いても居心地がいい、そんな関係になれればいい。
ただ、勉強会はおおいにやってくれていい。 ほぼ同レベルの人同士で教え合うのは、いい勉強だ。
できれば、問題を解くだけじゃなくて、問題に関係あってもなくてもいいから
議論を交わすことである。
そうすると、物事を考えるようになる。
学校で習う問題の是非まで考える人はいるかもしれないが、その議論を他人に吹っかけたことはないだろう。
そこまでできると、もっと知的になれる。
日本の表社会は議論がキライに見える。
5ちゃんのように知的な会話を求める人ばかりじゃないからだ。
5ちゃんで知的な会話の人が優勢になりやすいのは、文字だけのためである。
文字だけでやりとりすると、スマホなどに関係なく、漢字が増える傾向にあるのをご存じだろうか?
そういう、物事の性質による特徴というのもあって、物事は発生しているのである。
いろいろ知っていると、頭だけで理解できた時はうれしいものだ。
ただサボりたいから頭だけを使っていたいのとは違う。
頭だけで過ごすということは、いろいろ知っていないと難しいことなのだ。
何も知らない奴が頭だけ使って寝ていたいなら、さぼっていたいのだろう。
それが本当にできる人とは、勉強家なのである。
だから、寝転んで考えているだけなのに、怠けているわけじゃないのだ。
怠けて見えるし、自分は最初から寝ていたいから、何でも知っていて引きこもる人になりたいと思う。
そんなことができる人は、世界最強である。
自分がそんなことはできないなら、さぼりたくても動くしかない。
上記のように言えば、怒るかもしれないが、リーダーシップとしては
暇そうにして、実は能力高い人は尊敬される。
だから、あなたもそうなれば、寝ていても怒られないのである。
それに、やらなきゃいけない時に、動けないという感覚もない。
そうなるために学ぶのもいいのではないだろうか。
あくまでもサボりたいから学ぶのではなく、世の中をよくするためには影響力がないと人は動かないということだ。
いろんなことを知っていると、何を言われても途方に暮れることはなく、想像がつく。
非常に楽しい、インテリのようなライフが遅れる。
知識があると人生が楽しめる。 また己の意識がでてきたぞ
今だけを見ろ
食事の時は味と口の動き、歯触り、香りのみに集中しろ
物があり、肉体で味わい、肉体に情報を受ける ゴールを見て行動するのは誤り
人生のゴールは死のみ
その過程を安楽に過ごすのが正しい 死を見すぎなくてよし
充実するように今を長く過ごす 時間とは、今の連続
先も無ければ過去もなく、比較もない
故に老いも死も無い
今を見るが故に、過去の後悔、未来への不安がない
比較が無い故に、優劣も無い 充実した今を過ごすのを
ずっと続ける
忙しければ
嘆く暇なし 快楽を求めようとしている
受ける感覚を選り好みしている
これは違う
快も苦も、ただの肉体的な現象と知り、観察するのがただしい
今、快楽から抜けろ 快楽に満足は無い
刺激に満足は無い
己の外に意識は無い
すべて憶測と勘違い (性的とは限らない、いろんな)快楽の何がいけないかというと
際限なく求めるのがいけない
ビジネスは際限なく快楽を求めるようにCMしている
しかし、楽しむことがすべてダメというと人生が辛くなる 「淫」
エロいという意味ではない。
本当は、「現実の区別がつかなくなるほど乱れる」という意味だそうだ 現実とは、ただあるがままの存在
そこに価値を上乗せするから苦しむ さあ、幻想を捨てろ
夢を捨てろ、淡い期待を捨てろ、計画を捨てろ
全てそろっている
今だけ見る 運など無い
実力も関係ない
良し悪しの判断をしているだけにすぎない
比較をせず、ただあるがまま
あるがままを、ただ没頭する
怠けず、無理をせず 正解も不正解も、ただの判断
快楽や苦痛を考えなければ、人間の判断した正解も不正解も関係無い --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイによる福音書7章13節)
-- 現在、この瞬間に生きるのみ
結果とは未来でしか無い 己の世界に溺れている
思考と価値観を取り除く
人は脳内で勝手に世界を作り出し、意味を上乗せし、意味に対して喜怒哀楽を発生させている
意味なんて無い
水は水、土は土、石は石
海はそのまま海、山はそのまま山
魚は魚、獣は獣、人間は人間
ただの物質に意味を上乗せしない 自分を自分だと思い込んでる精神異常者が俺だ
自己とは本来空白
妄想が他人を生み出している その非難に対する負の感情は他人の価値観ではない
己の、お前の価値観だ お前が見るように世界の意味は変わる
お前が創造主だ
その苦しみの創造主は己
その怒りの創造主は己
その不安の創造主は己 ああ、とらわれている
過去と己の価値観に縛られている
放下せよ
お前は、何者でもない
他者すら、己のつくりだした幻想
この世とは、己の色眼鏡で通してみた世界
憶測しか存在しない、あやふやな世界
憶測に憶測を重ねれば、現実は遠ざかる とりのぞけ
今しか存在しない
仕事をしているときは仕事をし
飯を食っているときは飯を食い
皿を洗っているとなかは皿を洗い
眠るときは、ただひたすら眠る 努力を重ねれば思い入れが強くなり、怒りも生じやすい
放下せよ
努力と結果がイコールと断じるのは欲だ 結局は不安と恐怖が怒りを誘発する
思い入れを持つな
人は空っぽだ
人間本来無一物
心などない 有るのは記憶だけだ
反応があるだけだ
他者のイメージを想定し、それを己に投影するだけ
自己があり他己を認識するのではなく、他己を想定したうえで自己なる幻想を想定するのが、頭の反応のようだ
己と言う人間性、自意識、定義は、他者が消えた場合には消える
己とは他者の想定を推測したものに、記憶の色をつけたものでしかない そもそも、全ては循環する
流れる水など放っておけ
私は水
その、反応は私ではない
私はいない
他者も、いない 怒りは不安の裏返し
推測と憶測の結果にすぎない
無一物のこの身、何を守る必要があるか その反応は己ではない
己がやった良いこと、悪いこと
判断はすべて機能でしかないし
行動も機能でしかない 悟った人は、社会の中で、山で生活するように物事を見る 一人居で人前に出るのと同じ様にすごし
社会の中で、一人居と同じ様にすごす お前は、他者からの評価が欲しいのか
他者からの理解が欲しいのか
他者からの同情が欲しいのか
それを手に入れても、何も得るものは無い
勘違いの上塗りをするだけだ
社会とは価値観の上塗りであり妄想だ
妄想に推測を重ねても、妄想があるだけだ 怒りの正体は不安や恐怖
不安や恐怖は、常日頃己が気にしている事から生じる
故に、他者によって怒りや不安は発生しない
苦しみだけでなく、全ての感情の根元は、己の中だけにある 他者の評価に重きを置かなければ、人生は楽になる
ありのままで没頭する >>167
そうやって無感動になろうと努力していると
かってに心をかき乱されるようなことが起きるだろう
そこに人生のヒントがあるんだよ 分別は迷いの証
今、迷っている自分をそのまま見る
自己は己ではなく、比較によって生まれた存在
評価や区別がなければ己なるものも他者なるものも、自然も宇宙も無い ただ、目の前のことをやり、その他の意味付けはいっさいしない
感想すらもたず、ただひたすら取り組むだけ 社会の重さではない
己の一人分の重さだ
まるでビー玉
手のひら程度の重さだ ただ見つめる
今の抱いてる価値観すら幻想
たとえ全てが上手く行こうとも不満を感じるだろう
己を己と思いたい欲望がすでに、苦しみへの道である あれやこらやの考察は要らん
他者の価値観を推し量る必要すらない
ただ、放下せよ 飯を食い、服を着、働き、眠る
これ以外に何か必要があるか さあ、色眼鏡を外せ
意味の上塗りがなくなれば、全ては、ただ有るだけ
有ることにたいして、あれやこれやと文句を言う必要すらない
進化は欲が起こすものではなく、環境への適応であり、自動運転でしかない 人間の本体とは心でも感情でもなく、その肉体的な働きにある
脳も内臓も四肢も同じ 骨は己の本体ではない
骨をつつみこむ肉体はおのれの本体ではない
思考は社会の模倣であり、本体ではない
己の本体などない
ただ、機能がそこにあるだけである
感覚が繋がっているだけである
感覚があり思考がある事も、とくだん善ではないし悪でもない そのまま、その命を生きれば良い
優劣は認識によるものであり、存在しない概念
【調査】女性が結婚相手に望む年収「400万円」、昨年比200万ダウン 年収700万円以上を求める女性は2割のみ★11
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1525952190/ >他人が何者であろうと、どんな人格であろうと
>自分が何者であろうと、どんな人格であろうと
>今を集中して生きる事に変わりは無い
>
>体を動かし、頭をうごかし、ひたすら今を生きるのみ
>社会などなく社会通念もなく心すら無いのに、何にこだわる必要がある >程度が低いなら低いで精一杯生き、程度が高いなら高いで精一杯生きれば良い
>
>どんなに狩の上手い生物が居ようと、人間にとっては意味は無い
>どんなに徳の高い僧侶も、自然に生きる生物にとっては意味がない
>動物や人間の死も、自然にとっては物質の循環でしかなく、意味を持たない 空即是色の社会への影響について
>他者と己への拘りが無くなる
>
>比較が消え、他者と己が消え、肉体の機能のみが残る
>今、この知覚できる今の機能と作用のみに集中する
>
>道元の言う信身脱落とは、
>集中するから全てが消えるのではなく、
>全ての余計な妄想が消えるから、知覚できる今のみに集中できるのだと思う 僕の知り合いの知り合いができたパソコン一台でお金持ちになれるやり方
知りたい方だけみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
RX3VV >己を己だと認識する根拠は記憶でしかなく
>現実だと思っているものは経験をもとにつくりだした幻想
>肉体のなかの思考という機能が作り出すものが幻想
>
>この肉体に備わった機能のうち、何をどう使えば良いかは個人の裁量
>現実と考えている妄想を信じるも良し、妄想を信じず好き勝手やるも良し、場合によって使い分けるも良し
>
>今みている現実や事実が、己の頭が作り出した世界だと分かっていれば、それで良い >事実に限りなく近いのは、
>この肉体が外部の情報を知覚でき、この肉体を維持できる空間があること
>
>それすら肉体の機能と憶測でしかないが、知覚できることしか認識できんのだから、今ある感覚を一旦は信じるしかない
>
>物質の存在すら事実か否か怪しいのに、更に上乗せした記憶や思考が正しい根拠がどこにある
>無から有は生まれないのを当然ととらえながら、最初の有はどこから生じたのか知る者はどこにもいない
>すでに細胞の一つ、元素の一つ、粒子の一つが存在すると考える認識自体が矛盾している
>科学ですら、これ以上の最小の存在の観測は不可能となった
>今、存在していると感じる全てのものに、存在を証明する根拠は無い
>我思う以前に、その我が存在する根拠が無い
>
>今あるようだと感じるものを、好きなように使えば良い
>この世は夢の中と同じ、己の思考と憶測が作り出した世界なんだから
>苦しく生きるのも、楽に生きるのも自由 人に上下や貴賎なし
そもそも、人だけでなく生物も同じ
等しく、機能があるだけで価値が無い 自己の幻想、他人の幻想から離れるべし
価値など関係ない 他人の頭の中を気にする余裕なんて、お前にあるのか?
結局は想像の域を出ない https://togetter.com/li/1052127
↑
これってどこの新興宗教?
信者が何十時間も何日も何日も必死に祈ってなおかつ多額の献金をしないと
日本に原爆が投下されるだの
北朝鮮が攻めてくるだの
未曾有の地震や災害が日本が襲うだの脅してくるようなのは
力ノレ卜宗教と言われて世間に断罪されても仕方がないと思う
教祖が災害の予言をする
信者の祈りと献金次第でその災害は回避されるといって多額のカネ集め
災害が起きなければ教祖と信者のおかげ
災害が起きても
「本来起きるはずの災害よりはだいぶ縮小された」
などと教祖と信者のおかげ
あるいは災害が起きたら
「信者の祈りと献金額が全く足りていないせい」
と教祖が信者を叱りつける題材に回す
こんなインチキ儀式の繰り返しで
信者は
「世の中を動かす使命を担っているのはここの教祖と信者なのだ」
という選民意識を持つようになるらしい 判断しなくていい
結果も出さなくていい
何と思われてもいい 貧乏だから無料の板に来てわめく
という自覚から始めなければ
何もわからないしできないし底辺のまま墓へ行くだけ 恐怖を直視しろ
不安を直視しろ
死への道は何も変わらないぞ 自分のやったこと、やらなかったことにも執着しない
自由に自然に
罪などない その判断している作用とは己か?
脳とは己なのか?
己など、どこにもない
肉体に備わった機能でしかない
物質の複合作動が己というだけ
物質単体には己は無い そもそも、諸法無我
己など無く、物質があり、現象が連続するのみ ネットする時間が勿体ない
ここで脱糞できたら簡単にネット断ちできることは分かってるのに
なぜかできない 自分があって作業をするのではなく、作業そのものが自分であるなら
そこに欲は無い 毎日の仕事、これこそ禅
自分が無いのに、なぜ飽きるか
自分が無いのに、なぜ評価を気にするのか
自分が無いのに、なぜ失敗を恐れるのか
自分が無いのに、なぜ価値を乗せるのか 他人の反応も、結局は推測と意味付けを重ねた妄想でしかない
その妄想は己がつくりだした
己は己の思考しか見ていない
己しか見ていない
他人を介して己で己しか見ているにすぎない 無いものにこだわってどうする
消えるものにこだわってどうする 怒りを見つめろ
そこには何がある
誤魔化しと打算だ 自分の見ているものは、自分を主体としたもの
分けて考えたもの
一部 その怒り、その悲しみは、恐怖の裏返しにすぎない
事実そのものよりも、恐怖という幻想自体が辛さを生み出す だれも、現実を、事実を証明できない
共通の価値観なんて存在しない 幻想から覚めれば、楽になる
人格なんて偽物
習慣がそこにあるだけ 人格はない
その機能が備わっているだけ
人格も恐怖によって整合性を持たせているだけ それは感情ではない
経験から生まれる反応だ
反応するな
己の反応に反応するな それは肉体の反応
反応は意味がなくても発生する
その反応に意味を乗せるな
感情は後付けにすぎない
感覚を言語化し、それに意味を後付けしているだけ
そういう感覚を身体は感じただけ
感情とは体調の一部にすぎない 感情に、肉体の反応に、意味付けされた後書きのストーリーに、命を賭けるな
豊かで、安楽な道を選べ
安らぎに満ちた道を選べ 意味を勝手につけて、その意味に縛られる
意味をつけない
概念化しない
すべては、ただそこに有るだけ 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。 j
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです lt
備考 その他の入ってはいけないランキングです
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ) 見えるものは不確実
聞こえるものは不確実
意味の上乗せも不確実
意思の共有も不確実
すべては不確実 自分が飼ってるわけでもない、ただただ隣に住んでるロクでもない奴らの所有する犬畜生に起こされるという時点ですでに腹ただしい。
連休くらい朝ゆっくり寝たいですよね。
つっても朝7時過ぎてからだったらいわゆる常識の範囲で、文句言えない(シャクだけど)。。
しかも自分の場合8時、9時まで寝たいというのだからわがまますぎると思いますがw
時々その家のおばーさんがうっかり忘れるのか、自分の起床と共に(年寄りは早起きだから)間抜けな犬畜生を庭に放ってしまい、5時や6時に吠えさせとるから許せん。 他人が己を見て感じるものは妄想だが
それを推測するのも妄想だ
妄想に妄想を重ねたものに信実は無い 己の意識は己を司るものではない
身体の一部でしかない 世の中の全てが自分の思い通りに動くというのは幸せなことではないよ。 その場その場で自分にできることに最善を尽くすこと。
失敗はあって当たり前。勝ちたいのも誰しも同じ。
勝つことにこだわり過ぎないこと。 あんまり楽々と越えられても困るってこと。
普通の人間がそこにたどり着くのには、どれ程の葛藤と闘わなければならないことか。
人生はそんなにお手軽なもんじゃないからね。 いつでもここに戻ってこれるように逃げ道を作っておくこと。 暗さ、弱さ、醜さ、それを認めることのできない自分を受け入れること。 前向きなものにせよ後ろ向きなものにせよ感情に気持ちを入れすぎないこと。 煮詰まったらさっさと諦めて次に進むこと。あまり考えこみすぎない。 人の気持ちなんてものをごちゃごちゃ考えない。それは考えるものではなく、感じるもの。 全ての始まりにおいて自分が馬鹿で無能だということを認めること。
知性や実力はその根本認識の上に積み上げるものであって、
中途半端なプライドや過去の実績・名声を頼みにすることは、冷静で客観的な自己イメージを見失う元。
これは謙虚とか傲慢といった他者評価の振れ幅で揺れ動く問題ではなく、徹頭徹尾個人的な生き方の問題。 何か問題が起こっても存在に関わるようなことでない限り、しばらく手を加えず放置する。
変化がない場合は、その後で対策を考える。
大概の問題はこれでふるい落とされる。 外的な刺激に心が揺れ動くのを抑える。
物事に動じないといった硬直した態度ではなく、心の波をなだらかにする。
心に極端な山と谷をつくらない。 人から理解されようとしないこと。
やりたいことの為ならどんな理不尽な汚名を被ってもいい。 社会の作り出す強迫的な空気感に無条件で乗せられない。
乗せられるのなら乗せられているという自覚を持つ。
時代の只中を流されるにせよ、どこかに一人の人間として時代を対等なものとして眺める態度は必要。 他人に迷惑をかけることを嫌がらないこと。
そこを踏まえないとやって良いことと悪いことの違いも身に沁みては分からない。 目的にまとわりつく余計な感傷を削ぎ落すこと。
それらは自らの意志をぼやけさせるだけ。 行動の主体をごまかさない。
自分が自分の為にやっているという感覚に他人を混ぜ込んであやふやにしない。 自分の言動の広がりに対して自分がけじめをつけられる範囲を意識する。立場を踏み外さない。 どんなにウザい相手でも反発したり立ちふさがって態度を硬化させる前に、相手の背景を理解するよう努めること。
譲らない自分が明確にあれば、殊更それを人に押し付けることもない。 この世の不条理を受け入れること。
その強さがあればこそ自分を高めることができる。 あとは全力でいい加減に生きるこっちゃな。
それで世の中ちゃんと回るようにできてるんだから不思議なもんだ。 まあ世の中なんてそんなもんだ。
自分にできることなんてたかが知れている。
嘘にまみれた世の中だが、そういうものと諦めて自分のことだけ考えて生きていくしかないな。 色んな問題があるけど、それはしゃーないんちゃうかな。
一々まともに向き合ってたらしんどいだけ。 理不尽とは、己の世界観から見たルールにすぎない
全ては現象にすぎず、意味は無い 真面目に頑張れば報われると考えるのは欲
ただ己を消し、目の前に熱中すれば良いだけ
遊びやゲームに報酬を求めないように 価値観を周りに合わせない
その周りと思っているものも、己の解釈にすぎない その正しさは己の判断にしかすぎない
己とは思考の枠でつくった創作物にすぎない
そこに有るのは、機能をもった、生きた肉の
塊 己は作用による創作物
時間の概念も創作物
社会も常識も創作物
ただ、有るだけ まあ人生なんて浮かれているのは幻みたいなもんで、本当は何一つ良いことなんかないんかもしれん。
それでも生きていれば何かが見えてくることもあるかもしれん。 日本の問題は、今俺がアイスクリームを食べたいということ。 めんどくさいけど付き合っていかなあかんにゃなあ。やれやれ。 俺はやることはやるよ。どんなに風当たりがきつくてもな。
今の世の中、何かをやったつもりになってる奴ばっかりだ。 俺の思うがままwそろそろ終わりが見えてきたな。やってられへんわ。 通すべき筋さえ通せば、後は何やってもいいよ。
誰も自分を否定することはできない。 後は分からんことを分かったつもりにならないこと。それだけ。 受け身で何が悪いねん
何にでもポジティブにがっつく人間なんて逆に気持ち悪い めんどくさいことごちゃごちゃ考えずに生きたいように生きればいいんだよ。
そら色んなことあるわ。 俺も力説しすぎたな。
あまり必死になると、どんなにちゃんとしたことでも人は聞いてくれへん。
といって、何も言わなければ何の返りもない。
ということで、何事も程々に。 生活にかくあるべき姿を持ち込み過ぎないってことだな。
日々の縛りの中をどう気持ちを楽にやり過ごすかというか。 自分と他人の間に明確な一線を引くこと。
自分の問題は自分の問題。他人の問題は他人の問題。
揺れ動かない。 人生なんて試行錯誤の繰り返し。
間違ったり、くよくよしたり、思いつめたりしながら進んでいく。 意味付けすればいい。自分でな
人生が大変なのは他人が用意した意味を強制されるからだ これから世の中あんまりよくない時代来るしなんかないかなあと思って
キリスト教か仏教かどっちがいいかな 病は待ってくれない
死は待ってくれない
命は、偶発的な事、想定外の事で、すぐに消えてしまうもの
人にとれる手段は受容しか無い 意思の力など無い
肉体に備わった機能が発現しているだけで、血流が滞れば停止するだけ
薬物が脳に届けば、停止するだけ
停止するだけ 死とは、停止するだけ
恐怖は、恐怖そのものが恐ろしさを生み出している 何を恐れるのか
社会は幻想
現実も、己の意味づけが生んだ現象 死は待ってくれない
こちらの都合など何も考えず、全てを攫っていく 己とは、意味付けが生んだ、肉体の機能が作用した幻想
本来、肉体があるだけで、自己イメージを己と勘違いしている
自己イメージは己ではない
人格は脳の生み出した作用でしかなく、人格という本体など存在しないのだから、魂など無い 自分という人格があると錯覚している、肉の塊が己の正体
肉の塊は有るが、そこに上乗せされているものは全て、本来存在しない
人間本来無一物 日常生活での苦痛は、他人の価値基準の推測から産まれる >肉の塊は有るが、そこに上乗せされているものは全て、本来存在しない
>人間本来無一物
(禅的に)未だ捨てるべき存在にコミットしている
(実存主義哲学的に)個人の審美的価値観は公共性を破壊し、共同性次元に再び再起する事は出来ない。
(ポスト構造主義哲学的に)対象へのメタ認識の個の差異は自体が、反復によって個の心に係留する。
(法華経的に)全ては元居た場所に帰り、世界に再び静寂が訪れた。
(奥田民生的に)風の先の終わりを見ていたらこうなった。雲の形を真に受けてしまった。
海の波の続きを見てたらこうなった。胸の隙間に入り込まれてしまった。
誰の為の道しるべだったんだ。それを、もし無視したらどうなった
「さすらい」もしないで。このまま死なねえぞー
さすらおう、この世界中を、転がり続けて歌うよ、旅路の歌を 「死んだ豚は0頭」 養豚場がウソの報告 - FNN.jpプライムオンライン
https://www.fnn.jp/posts/00415965CX
うその報告をしていたのは本巣市の養豚場で、感染が発覚するまでの2週間に、7頭の豚が死んでいたのに、県に対し「死んだ豚は0頭」と伝えていた。
その後、県がこの養豚場に検査に入り、感染が発覚し、豚およそ780頭が殺処分された。
農林水産省は、立ち入り検査を避けるためにうその報告をしたと判断し、殺処分の対象となった養豚場に対する補償の一部を減額した。
養豚場の担当者は、「けがをして弱った豚が死んだため、豚コレラが原因ではないと判断したが、虚偽報告と言われても仕方ない」と話している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています