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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/02/06(月) 19:54:16.56ID:j6KzG6kR
0878老クリスチャン
垢版 |
2017/09/30(土) 11:00:37.61ID:I9WNh2UG
2014年(主日A年) 9月28日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28  フィリ 2:1〜11  マタ 21:28〜32

「ところで、あなたたちはどう思うか。 ある人に息子が二人いたが、 ・・・・・ 」(マタ v.28)

旧約聖書ではしばしば、神の民イスラエルが神の “子” と呼ばれてます。
「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」(出 4:22)
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセ 11:1)

旧約聖書全体を通して “子” という呼称は、その父に服従する(仕える)者であるという意味で用いられています。
ですからエジプト王ファラオは、「わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよ」(出 4:23)と命じられました。
このような背景の理解を前提にして福音書を読むことは、たいへん重要なことなのです。
それは “子” という表現が “神の民である教会” を指しているのであって、決して一般的な個人の尊厳や価値のようなもののことを言っているのではないからです。
0879老クリスチャン
垢版 |
2017/09/30(土) 11:01:10.90ID:I9WNh2UG
(つづき)
旧約聖書で使われているもう一つの表現に、神の民イスラエルをぶどうの木、あるいはぶどう畑に譬えているものがあります。

「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを(約束の地に)植えられました。」(詩 80:9)
「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。」(イザ 5:7)

福音書においても、ぶどう園の譬えはそのような背景で理解するのが正しいのです。
ぶどう園で働くとは、神の民である教会に仕えることであって、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)ということから切り離して理解してはなりません。

「キリストと共同の相続人」(ロマ 8:17)として 「神の国に入る」(マタ v.31)、すなわち “御国を受け継ぐ教会”(エフェ 1:14)のことを真剣に考えましょう。
神は今朝の朗読聖書を通して私たちに、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(マタ v.28)と招いてくださっているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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