カトリック [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
2005年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
当初ユダヤ人に向けて語られたキリストの福音は、教会の誕生後間もなくの頃から異邦人へと伝えられ、初代教会は各地で異邦人をその構成員として受け入れて行きました。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ロマ 1:16)と使徒パウロが後に手紙に書いたように、初代教会の宣教において重視されたのは信仰でありました。
この(マタイ福音書の)テキストの趣旨は明快であって、一人のカナンの女の謙遜でしかも一途な信仰が主に受け入れられたということであり、それが初代教会の福音理解であったということです。
従来のユダヤ人たちに忘れられていた 「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」(マタ v.27)という謙遜な信仰が、ひときわ素晴らしいものとして賞賛されているのが分かります。
このような生き生きとした信仰を、現代のキリスト者も自らのものとするために、再び目覚めなければなりません。
党派的な、教条主義的な、独善的で排他的な傾向の強いキリスト教ではなくて、主キリストとその福音への謙遜で一途な信仰を大切に考えるキリスト教になるために、私たち一人一人が聖書から神のことばを聞くことは21世紀の課題です。
主日のミサで、福音書を朗読するのは通常司祭ですが、その他の朗読は信徒が行います。
当番で奉仕者となる信徒が、よい準備をして、自らそのテキストに心を打たれて朗読するなら、神のことばはより強く会衆に伝わることでしょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
今朝の朗読が ロマ vv.16-28 を省略しているのは、単なるミサの時間配分のためであって、その部分が重要でないという意味ではありません。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。 ・・・・・ 神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」(ロマ 11:22)
福音を正しく理解していない人は、神の慈しみが見出せないような状況に追い詰められると、“神はいるのだろうか” と反抗し始めます。
神が人間を慈しむのは当然であって、人間にとってそれは特権だと考えているからです。
しかし、「もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(同)
さらに、「彼ら(ユダヤ人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。 神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。」(ロマ 11:23)
ですから信仰に入った異邦人は、ユダヤ人に対して誇る何の理由をも持たないことをよく理解する必要があります。
ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、「実に、神は唯一だからです。 この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」(ロマ 3:30)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2014年(主日A年) 8月17日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、 ・・・・・ 」(ロマ v.15)
現代ユダヤ人哲学者として高名な E.レヴィナス は、旧約聖書に書かれている出エジプトやバビロン捕囚から、近代のヒトラーやスターリン等の迫害に至るユダヤ人の受難を、決して偶発的な災禍とは考えませんでした。
“それはユダヤ人がこの世界で果たすべき民族的な責務ゆえの必然なのである。 ユダヤ人はそのために諸国民の中から選ばれたのである” と言うのです(内田樹の書籍から引用)。
600万ユダヤ人の大虐殺(いわゆるホロコースト)を経て、なお神の民イスラエルの選びと使命を信じる現代ユダヤ人哲学者の声に、私たちキリスト者は襟を正す謙虚さを持つべきでありましょう。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ロマ v.29)
私の個人的な体験から言うと、多くの一般的キリスト者の理解では、この言葉がイスラエル人を指して言っていることにほとんど気付いていないように思えるのです。
その第一の原因は聖書を断片的にしか読んでいないことにありますが、それと並んで聖書を勝手に料理して捻出した(非現実的な)キリスト教的道徳やスローガンが、真の神のことばを排除してまかり通っていることにあります。
E.レヴィナスは彼の著書 “全体性と永遠”(岩波文庫)の冒頭を、“私たちは(いわゆる)道徳によって欺かれてはいないだろうか” と書き始めています。
聡明であるなら、戦争のない平和な世界を実現しようなどという非現実的な道徳的スローガンはあり得ないと言うのです。 “戦争によって道徳はわら(嘲笑)うべきものとなってしまう。”(同)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています