2002年(主日A年) 9月15日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7  ロマ 14:7〜9  マタ 18:21〜35

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。 従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ v.8)

“イエス・キリストは主である” とは、そういうことです。
それはキリスト教の信仰告白の最も初期の形の一つでありました(フィリ 2:11)。
この信仰によって教会は、一方では神を愛することを、他方では共同体における “互いに愛し合う”(ヨハ 13:34-35) ことを、二つの決して切り離し得ない共同体形成の原動力として成長して来たのでした。

今日私たち信者一人一人が聖書を読み、そこから私たちの教会に向かって語られる神のことばを聞こうとするとき、決して忘れてはならない大切な予備知識があります。
それは先ず第一に、聖書は教会の、そして教会のための書物であるという理解です。
もし教会が歴史の中に誕生していなかったなら、私たちの聖書も存在しなかったことでしょう。
さらに教会を造り上げて行くためでなかったら、私たちの新約聖書のどの一部分も書かれはしなかったことでしょう。
このあまりにも当然な事実が、永い間多くの人々に忘れられていました。

私たちが聖書から神のことばを聞こうとするときに忘れてはならない第二の予備知識は、それがその信仰の内容として、神を愛することとその民(新約聖書では教会)を愛するという両面を、いつも同時に前提にして語っているということです。
私たちは皆、“主のために生き、主のために死にたい” と願っています。
しかし私たちは罪深い者であって、ともすれば神を愛し教会を愛することを忘れてしまいます。
そしてそのために、聖書を正しく読むことが出来ないことが多いのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より