2008年(主日A年) 9月7日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9  ロマ 13:8〜10  マタ 18:15〜20

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、・・・・・ 」(マタ v.15)

私たちは、罪の赦しという今朝の主題が、聖書では全く “教会の問題” としてのみ取り上げられていることに注目しましょう。
使徒パウロは、「(教会の)外部の人を裁くことは、わたしの務めでしょうか。 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 外部の人々は神がお裁きになります」 と言いました(Iコリ 5:12-13)。
そしてさらに、「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 ・・ (そうであるなら) ・・ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです」 と、コリントの教会の人々を諭しています(同 6:5,7)。
そして、他のところでは、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」 と教えました(コロ 3:13)。

神の民である教会では、共に助け合うことによって 「自分の救いを達成するように努めなさい」 と勧められていますから(フィリ 2:12)、何かの罪に陥った兄弟を、柔和な心で正しい(信仰の)道に立ち帰らせることが、勧められています(ガラ 6:1、ヤコ 5:19-20、Iヨハ 5:16)。
ここで問題にされているのは、神に対する罪と不信仰なのです。

罪人の集まりである歴史の教会(教会憲章 8)は、いつもこの問題に取り組まなければなりませんでした。
「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(Iペト 4:17)という危機感を、教会は忘れてはならないのです。
今朝のテキストで述べられている “二人または三人が主の名によって集まる”(マタ v.20)というのは、このような教会の課題に取り組むことを指していると理解すべきでしょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より