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2014年(主日B年) 11月30日 待降節第1主日
イザ 63:16b〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。 あなたはわたしたちから御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザ vv.6-7)
私は元プロテスタントの牧師でありましたので、プロテスタント各派の牧師たちの説教には現在もかなり関心を持って注目しています。
プロテスタントの教会の実態はほとんど個々の牧師の説教に依存していて、まるで事実上別々の宗教のような有様です。
それではカトリック教会の場合はどうでしょうか。
私自身はそこには神学的な意味での “教会の信仰” というものが、使徒継承によって豊かに保たれているということを認識しています。
しかし残念なことに、実際の個々の小教区における司祭の説教は、“教会に委ねられた信仰の遺産” からはほど遠いお粗末な無駄話に過ぎず、まさに “わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた” 姿は、プロテスタントの場合と同じなのです。 (つづき)
第三イザヤは、当時そのような現状を認めた上で、なお嘆きの中から主に訴えました。
「しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」
教会が典礼暦の新しい一年を歩み始めるとは、このようにただ主に信頼して今年も進み行くということなのです。
私たちのミサの開祭の部にある “回心の祈り” は、決して私たちが罪のない人間になることではありません。
それは “自分は罪人だが、さらに神の恵みのうちにありたいと望むなら、そのことをわたしたちが 『告白する』 ことなのである。”(ユンクマン/ミサ p.202)
「わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 アーメン、 ハレルヤ。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年も 「17〜18年典礼暦」 をアップロードしました。
http://www.kuwaei2000.com/guide.html
→ ●資料集● の冒頭にあります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています