2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17  Iコリ 15:20〜28  マタ 25:31〜46

キリストの救いを信じていなくても、人には善意があれば “飢えている小さな者の一人に食べさせ、飲ませ、援助の手を差し伸べる” ことは出来るのです。
問題は、それが 「わたしが ・・・・・」(マタ vv.35,42) 「わたしに ・・・・・」(マタ vv.40,45)という決定的な点で、キリストへの奉献になっていたかどうかが問われるのです。
この世の霊ではなくて、聖霊に導かれて行ったことだけが、裁きの日には受け入れられるのです。
人本主義的な善意や人類愛が、自動的にキリストへの奉献として “換算される” などというのは、サタンの甘言にしか過ぎません。

私たちは今朝のミサで、王であるキリストの御前に共に立っていることを覚えましょう。

主なる神は、「自分の群れ」 「自分の羊」(エゼ v.11)を自ら探し出し、必ず救い出されます。
神の救済史は終わりの日に向かって進み、その日は必ず来るのです(ハバ 2:3)。
その日に 「私の群れよ」(エゼ v.17)と呼んでいただける人たちは幸いです。
復活の日には、その人たちだけが王であるキリストから、“用意されている国を受け継ぎなさい”(マタ 25:34)と言っていただけるのですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
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