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2014年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
「すると、イエスは言われた。 “では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。”」(マタ v.21)
私たち日本人にとっては事実上、納税は逃れることの出来ない国民の義務でありますから、納めるのが正しいか否かなどと考えることはありません。
むしろ “皇帝のものは皇帝に” という言葉を、教会やキリスト者一人一人の社会的政治的責任に当てはめて理解する傾向が、20世紀以来かなり強くなって来たことはよく知られています。
しかしそれは現代人がこじつけた解釈であって、元来のテキストが全く意識していなかった主張であることは明らかです。
むしろ、今朝の福音書のテキストの重点は “神のものは神に返しなさい” にあるのですが、実はそのことの意味もまた、近代以来の人本主義、道徳主義に強く影響されて解釈されて来ました。
つまりそれは要するに、世のため人のためになる行動を実行することであると再解釈するのが、当然のことであるとされて来たのです。
そこでこのイエスの言葉は、教会とキリスト者一人一人が社会的政治的責任に目覚め、その責任を具体的に果たして行くことが、神のものは神に返すということになる(換算される)という意味なのだと主張されるようになりました。 (つづき)
今朝の朗読部分に含まれていない マタ v.22 を参照すると、ファリサイ派の人々はこのイエスの答えに驚いて立ち去ったと書いてあります。
彼らにとってはイエスの答えは余りにも当然過ぎたからです。
皇帝に対して政治的社会的責務を果たすことがどんなに重荷であっても、それはいささかも “神のものは神に返す” ことの免責理由にはならないと言われたからです。
果たして自分たちは今、神のものは神に返すという歩みを実際にしているだろうかと、鋭く心に突き刺さるものを彼らは感じて “驚いた” のでした。
それでは “神のものは神に返す” とは、どういうことなのでしょうか。
それを知るには聖書を読まなければなりません。
啓示の源泉は聖書が証言する神の子イエス・キリストであって(ヘブ 1:2)、これ以外のところに解釈の鍵はないからです(神の啓示に関する教義憲章 4)。
それは難しすぎるものでもなく、普通の信者の遠く及ばぬものでもなくて(申 30:11、ロマ 10:5-13)、むしろ単純に、色眼鏡を掛けずに読めば、だれでも理解出来るものです。
ただその、単純に、色眼鏡を掛けずに、しかし熱心に聖書を読むということが、現代では多くの教導職と信徒には欠けているのであって、それが私自身の過去60年ほどの教会生活における悲しい見聞体験でありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています