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キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/02/05(日) 15:09:44.92ID:pNngxdaq
0274老クリスチャン
垢版 |
2017/10/19(木) 12:55:32.29ID:kqYRv9rW
2002年(主日A年) 10月20日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

紀元前539年、新バビロニアを滅ぼしてペルシア帝国を樹立したキュロス王は、その翌年に捕囚のユダヤ人の帰還とエルサレム神殿の再建を布告しました。
今朝のイザヤ書のテキストは彼のことを、「主が油を注がれた人キュロス」(イザ v.1)と述べています。

キュロスは神に選ばれた民イスラエルには属していない、ペルシア帝国の王でありました。
彼はヤーウェの信仰者ではなかったけれども、ヤーウェは御自分の民イスラエルへの約束を実現するために彼の心を動かし(エズ 1:1)、これを用いられたのでした。
彼自身はそのことを知らなかったけれども、歴史の支配者であるヤーウェがすべてを導いておられました。

そのように、イエス・キリストは教会の主であるばかりではなくて、この世のすべてを含む全世界の主であることを、私たちは理解しなければなりません(フィリ 2:9-10)。
この世に対する責務も、神の民としての責務も、いずれも神の支配のもとにあるのです。
0275老クリスチャン
垢版 |
2017/10/19(木) 12:57:26.20ID:kqYRv9rW
(つづき)
しかしそれは、両者が同じ一つのことであるということを意味してはいないのです。
この世に対する責務を果たすことで、神に対する神の民の責務が帳消しになるという解釈は、今朝の福音書のテキストからは生じません。
また神に対する神の民の責務は、この世に対する責務と不可分であるという解釈も決して生じないのです。
むしろそれぞれの責務にはそれぞれの独自性があって、一方が他方の代用にはならないことが主張されているのです。

そしてもう一つ注目すべき大切な点は、両者は互いに相手を妨げることなく、両立する事柄として述べられているということです。
この世の人々にはこの世に対する責務だけがありますが、神に選ばれた民であるキリスト者には、それと並行して独自の神に対する責務があることを、今朝の福音書から私たちは聞かされるのです。

21世紀を歩み始めた私たちの教会に、神がキリストの福音を 「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ 1:5)語ってくださいますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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