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キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/02/05(日) 15:09:44.92ID:pNngxdaq
0254老クリスチャン
垢版 |
2017/10/14(土) 11:14:31.06ID:oOyNrCJt
2014年(主日A年) 10月12日 年間第28主日

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタ v.14)

教会が神によって召され選ばれた共同体であるという理解は、言うまでもなく旧約聖書におけるイスラエルの神による選びに始まる、最も基本的な宗教概念です。
イスラエルが神との契約へと招かれた民であったように(出 19:5-6、申 5:3、ヨシュ 24:25)、教会もまたキリストの血による新しい契約へと招かれた共同体であります(Iコリ 11:23-26)。

ミサの奉献文における主の言葉を正しく理解するなら、この “招き” が“あなたがた” すなわち共同体に対するものであることが分かります。
すると、私たち信者一人一人にとって自分が “選ばれた人々” つまり “召されて聖なる者となった人たち”(ロマ 1:7)に属しているか否かが、たいへん重要であることになります。

近代人は信仰や救い、キリスト者として召されていることやその使命などを、しばしば個人的な事柄、道徳的な事柄として考える傾向が強く、そのためキリストの救いの共同体性に無知無関心でありました。
カトリック教会における今日の典礼の乱れ、ローマ・ミサへの無理解とそこからの無自覚な逸脱は、単に典礼書の不勉強という怠慢だけが原因ではなくて、聖書が伝える福音を理解することへの不熱心の結果であることは明らかです。
0255老クリスチャン
垢版 |
2017/10/14(土) 11:15:17.51ID:oOyNrCJt
(つづき)
「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタ v.10)

もしかしたら私たちはそうではなくて、教会とは善人ばかりが集まっているところだと考え、またそうなるように努力して来たのではなかったでしょうか。
「礼服を着ていない」(マタ v.11)などということは重要ではないと軽く考えて、それ以上深く “聖書に耳を傾ける” 気がなかったのです。
しかし、この譬え話でいちばん理解しなければならない核心部分が、ここにあるのです。

善人か悪人かではなくて、礼服を着ているか否かが問われているのです。
ここで王子のための婚宴に譬えられていること、つまり招かれた私たちの国籍は天にある(フィリ 3:20/フランシスコ会訳)ということを本気で信じているかどうかが、礼服を着ているかどうかということの意味なのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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