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キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/02/05(日) 15:09:44.92ID:pNngxdaq
0250老クリスチャン
垢版 |
2017/10/13(金) 12:21:00.93ID:yF0TfSeb
2011年(主日A年) 10月9日 年間第28主日
イザ 25:6〜10a  フィリ 4:12〜20  マタ 22:1〜14

「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタ v.10)

このテキストの小見出しに、“婚宴のたとえ” とあるように、これが “譬え” であることを認めることが先ず大切です。
聖書は教会をいろいろな譬えで描いています。
それらの中で婚宴にも、教会を花嫁に譬えるもの(黙 19:7-8,21:2,9、エフ ェ5:31)と客に譬えるもの(マコ 2:19、IIコリ 11:2、黙 19:9)があり、やや曖昧なもの(マタ 25:10、ヨハ 3:29)もあります。
聖書の中には、このように相互に矛盾する叙述が多くあって、教会の中には物知り顔に、 “どれが正しいのか” などという見当外れな議論を楽しむ人々を見かけますが、
そういう連中の多くは福音の核心に触れるような、つまり救いに直接関わる信仰の問題へと話題が進むと、途端にアテネ人たちのように(使 17:21,32)逃げ出してしまいます。

聖書の中の多くの “譬え” はむしろ、他の表現では説明不能な “信仰の神秘” を語るために用いられているのであって、私たち一人一人は、それを聞き分ける耳を持っているかどうかを問われているのです(マタ 13:9)。
0251老クリスチャン
垢版 |
2017/10/13(金) 12:22:07.12ID:yF0TfSeb
(つづき)
この譬え話が、初代教会の実際の有様を反映して、警告的な教えとして語られていることに注目しましょう。
ありのままの教会はいつの時代にも、「善人も悪人も」 混在している群れなのです(教会憲章 8)。
教会で先輩格に当たる信者には、自ら “信心のために自分を鍛える” ことと、後輩の信者に “よく教える” ことが期待されて来ました。
教会の歴史において、それが教導職の専管事項のように考えられる傾向がしばしば顕著であったとしても、それで信徒が “婚礼の礼服を着る必要がない”、つまり無責であるという訳ではありません(教会憲章 30)。

婚宴の客は主人が用意してくれた礼服を着なければならず(マタ v.11)、花嫁である教会は神が用意される清い衣を着せられるのです。(黙 19:8)
天のエルサレムに集まる将来の御国の民については、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(黙 7:14)と書かれています。

その日には明らかに同じ仲間の信者の中に、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」(マタ v.12)と言って外の暗闇に放り出される人がいる ・・・・・ 、あなたはそれを恐れなければならないと、私たちは今朝警告されているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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