2011年(主日A年) 9月25日 年間第26主日
エゼ 18:25〜28  フィリ 2:1〜11  マタ 21:28〜32

「聞け、イスラエルの家よ。 わたしの道が正しくないのか。 正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」(エゼ v.25)

現代だけではなくていつの時代にも、“神は正しくない” “神は当てにならない” と考えたり感じたりする人たちがいました。
口に出して言わないだけで、多くの信者が実際この種の疑問を心に抱いているのです。
なぜなら多くの人は、「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタ 16:23)、つまり結局は、自分を中心にして物事を判断するのが常だからです。

しかし、信仰は向こう側にいる神との取引(give and take)ではありません。
神が私たちの信心や善き業を評価して、救いや幸せを与えてくれるのが当然だと考えていると、しばしば当てが外れます。
私たちには神に “どうして世の中をこのように造ったのか” と抗議する権限がないのです(ロマ 9:20)。

しかし、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(エフェ 1:3)
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。 これは神の豊かな恵みによるものです。」(エフェ 1:7)

主の道は正しいのです。
ただし、「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
「栄光が神に永遠にありますように。」(ロマ 11:36)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より