2008年(主日A年) 9月21日 年間第25主日
イザ 55:6〜9  フィリ 1:20〜24  マタ 20:1〜16

「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリ v.20)

“イエス・キリストは主である”(フィリ 2:11)という信仰宣言は、神であるキリストが、自分を無にして僕の身分になり、へりくだってわたしたちの罪のために死んだこと(Iコリ 15:3)、
わたしたちがその血によって贖われ、罪を赦されたこと(エフェ 1:7)への教会の信仰表明なのです。
このキリストを宣べ伝える(フィリ 1:15)ために、使徒パウロは 「生きるにも死ぬにも」 益となることを、自らの殉教の日の差し迫る中で願いました。

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。 呼び求めよ、近くにいますうちに。」(イザ v.6)

神はただ自らの栄光のために人の罪を取り除き、その気前の良い恵みによって救いを与え、御自分の民を贖われるのです。
キュロスによるバビロン征服とペルシア帝国成立(BC.539)に至る歴史の動きを、大きな期待と緊張の中に待ちつつ(イザ 41:1-5,45:1-8)、預言者は民に 「主に立ち帰る」(イザ v.7)信仰を訴えました。
その預言が、時代を超えて現代の教会に呼びかけています。
自分たちは御国を受け継ぐために、五時頃に雇われたこの最後の労働者たちであるという原始教会の信仰へと、私たちが立ち帰ることを。

「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザ v.7)

・・・・・ 以下、本文参照。
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