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中山大亮が真柱となってからの天理教を予想するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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0001神も仏も名無しさん
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2017/01/12(木) 08:09:48.80ID:oZqUdLfD
どうなるでしょう?
0522基本。
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2018/11/24(土) 05:12:28.90ID:atQqxcqF
人のものかりたるならばりかいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり (3-28)

資源は、人が、陽気に暮らすための「人のもの」です。
技術も学問も、みんな「人のもの」。
その人のものを、高山はわがままにして、独占専横している。
その一例は、寡占の水利権、電波の使用権、鉱山の採掘権などなど。
それは、谷底の人々を債務奴隷に陥れて、宗教思想と政治軍事の権力にて支配すると言う、この世の泥海を生んでいます。

債務奴隷からの開放は、全資源の人類への解放を伴うものでなければならない。
0523基本。
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2018/11/24(土) 05:15:42.55ID:atQqxcqF
『12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになった。
彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた特権的武士であり、
天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができた。』

以前に「ザ掲示番」に、投稿しておいた事は、債務奴隷のルーツの問題でした。
現代社会は、資源のなかでも、特に「エネルギー資源」は、大社高山の独占寡占の下にある。
農業資源の支配においても、様々な悪行がある。
それを、悪事を除けるのは、親神の仕事としても、その悪事に加担するのでは、陽気くらしどころではないのに、
天理教団は、山名系を指導者に、戦争協力を積極的に行って、布教に利と使用とした。
いまだ反省の言葉も無い。

そして、真柱の理を、一番に軽く扱ってきた。
まさに、「たちもの」は、天理教団そのものであるという惨状でした。

真柱が、「しん」でないのなら、「地場」が「ぢば」でないのなら、
それで陽気くらしは、出来るべくもない。
世界は、陽気にならない。

天理教団は、生まれ変わるしかない。
126の旬が、今まさに、訪れようとしています。
0524基本。
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2018/11/24(土) 05:19:42.92ID:atQqxcqF
さて、おやさまがいるということは、「陽気暮らしができる」という、絶対に狂わない真実です。
そして、予言があると言う事は、「おやさまがおられるのですから」、予言は実現するという、絶対に狂わない天理です。

傍陽気さんは、どうして迷われたのでしょうか。
そして迷いながらも、教団批判においては、他の投稿などで、舌鋒鋭く語っておられた。

この矛盾は、後に「山名」と自ら名乗って、基本の説く基本教理の批判・観察と言う行為に連なりました。

おやさまの予言があると言う事は、必ずそうなるのだと言う、天理の当たり前が何で見えなくなるのでしょう。
それは、「祝う心」が無いからです。
おやさまは。「祝ってくだされ」と言われた。家こぼち。
貧に落ちきることを祝う心。
「祝ってくだされ」と、頼まれながら、それをともに祝えない。
この、自らの貧乏を楽しめないのは、「予言」を信じきっていない、正味のていたらくでした。
0525基本。
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2018/11/24(土) 05:22:26.89ID:atQqxcqF
おやさまは、「さあこれから世界の普請に取り掛かる。皆祝って下さい。」という一声で、
その先頭に立って実現に向けて、江戸の末期に社会的活動をお始めになりました。
その初めての社会的活動、行動は中山家と言う自らの家のこぼちを皆に祝ってもらうというものでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、社会的行動せよと言う意見がそのひとつであり、
同時に、天理教会と言う道中にそんな予言が在ったとして、
たとえ在ったとしてそんな事でどうして「世界の普請」ができるのか。まだ教えてもらってませんが。
と、質問がなされたように、
「予言があったとしても、そんな予言だけでは世界は普請できない」という、
実は、おやさまへの「不審・不信」そのものであるという、批判者の立場でもありました。
0526基本。
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2018/11/24(土) 14:28:33.83ID:atQqxcqF
予言は実現すると言う、当たり前は、間近には東北大震災にて、震災の数理で神様はきちんとお見せになりました。

それは、人間は陽気遊山できると言う、予言も必ずそうなると言うことを示す一例にすぎません。
そして、おやさまの予言は、「かんろだい」と「真柱」というしんを、基点としての数理でした。
世界は、おやさまのお働きで、ろくぢになります。
その時私たちは、まさか、宗教家業なんて、してますか?
それは、おやさまが、在世中に、一度も許さなかった事。

天理教中山みき派なら、誰でもわかることです。
0527基本。
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2018/11/24(土) 14:31:28.58ID:atQqxcqF
それならば、天理教会は必要ないのかと言う事になりますが、天理教会神一条は、
扉開かれたおやさまが、「応法」としてお許しのものですから、天理教会は必要です。
人間の因縁上も必要な天理教会であり、どうでも信心すると言う者にとっては、
講として、理の親支配制度の無い、素朴な信心の場となる教会は、なくばならないものと、それが基本です。

「お屋敷」には「おやさま」「真柱さま」がおられるのだから、国々に「国のしんはしら」がいるという、信心がある事は宜しいことです。

おふでさき第三号は、「門の内のたちもの」の掃除と、「しんの柱をいれる」と言う事と、
「大社高山に対しての掃除」と、そしてそれは、「3625の胸の掃除」と、
つまり、「異端信仰」の排除について知らされた予言です。
学会と言う異端、松下政経塾と言う異端。
キリスト教原理主義者も含めて、世は異端の時代です。
山名系も愛町系も、これが、おやさまの教えを、基にしていながら、
たちものとして存在している現代において、基本教理は、絶対に必要なのだと、
かっての傍陽気さんは熱く語ってくれましたが、
通らぬ道は道とは言わない。
貧のどん底に、難儀の底にて手を打って待つおやさまの、
「祝うてくだされ」を素直に通る道がないなら、それは道とは言わないのです。
0528基本。
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2018/11/24(土) 14:33:42.15ID:atQqxcqF
しかときけ三六二五のくれやいに 
むねのそふぢを神がするぞや (3-64)

しやんせよなんぼすんだる水やとて とろをいれたらにごる事なり (3-65)

にごり水はやくすまさん事にてわ しんのはしらのいれよふがない (3-66)

はしらさいはやくいれたる事ならば まつたいしかとをさまりがつく (3-67)

このよふをはじめた神のしんぢつを といてきかするうそとをもうな (3-68)

いまゝでもしんがくこふきあるけれど もとをしりたるものハないぞや (3-69)

そのはづやどろうみなかのみちすがら しりたるものハないはづの事 (3-70)

これまでハこのよはじめてない事を たん/\といてきかす事なり (3-71)

なにもかもない事はかりとくけれど これにまちごた事ハないぞや (3-72)

十一に九がなくなりてしんわすれ
正月廿六日をまつ (3-73)

このあいだしんもつきくるよくハすれ にんぢうそろふてつとめこしらゑ (3-74)

にち/\に神の心のせきこみハ ぢうよじざいをはやくみせたい (3-75)
0529基本。
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2018/11/24(土) 14:35:56.29ID:atQqxcqF
おやさまは、「こうき」という思想を提言されています。
おやさまの世界たすけは、「たすけ一条」とおやさま自らが定義をなされています。
おやさまの「たすけ一条」は、外観上のたすける立場の人と、たすけられる立場の人は、
二つ一つにひとつであり、ともにたすけ一条である。一つであるとされています。

 このたびハたすけ一ぢよをしえるも これもない事はしめかけるで 三号17
 いままでにない事はじめかけるのわ もとこしらえた神であるから 三号18
 にちにちに神のはなしがやまやまに つかえてあれどとくにとかれん 三号19
 何ににても説かれん事はないけれど 心すましてきくものハない 三号20
 すみやかに心すましてきくならば よろづのはなしみなとききかす 三号21
 このよふのたしかためしがかけてある これにまちがいないとをもえよ 三号22
 このためしすみやかみえた事ならば いかなはなしもみなまことやで 三号22
0530基本。
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2018/11/24(土) 14:38:24.04ID:atQqxcqF
おやさまが、たすけ一条のうえで、この世にかけた「ためし」が、間違いないと思うこと、
そして、そのためしが見える事が、何よりもの、大切な事です。

 はやはやとみへるはなしであるほどに これがたしかなしょこなるぞや 三号26
 これをみてなにをきいてもたのしめよ いかなはなしもみなこのどふり 三号27

おやさまが、確かに仕掛けたためし、の目的は、「このどうり」と示されています。

 人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

即ち、「債務奴隷社会」からの脱却と言うためしです。
0531基本。
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2018/11/24(土) 14:42:24.88ID:atQqxcqF
おやさまの、思想を知り、平野楢蔵は、「女郎屋」という債務奴隷の所有者であったが、女郎たちに、礼を述べて解放した。
明治18年のことである。

この事は二つの意味を示している。
明治五年の人身売買禁止令は、有名無実化し、法を免れる形で遊郭は経営されていたと言うことである。
平野楢蔵は、その経営者であり、暴力で支配していた博徒である。
もう一つは、その楢蔵の「奴隷解放」よりも先に、おみかという女性が、奴隷を解放していたという、先覚の存在である。
0532基本。
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2018/11/24(土) 14:45:08.06ID:atQqxcqF
> 明治5年に、江藤新平の尽力で、人身売買禁止令を出したとき、この頃、金剛院の妾として、
夫が在りながら屋根屋と言う女郎屋のおかみをしていた「おみか」は、この頃既におやさまを知っていたと言う。
> そのおみかは、女郎屋を廃業し、抱え女に旅費を持たせて国へ帰したと言う。(同)

> おみかの子と孫が、おやさまの前で三味と踊りを披露したともある。
「この話は、舞踏をやった当のおますから、筆者(高野友治氏)が、直接聞いた話である。
 当時おますは、七、八才であったようで、踊りが終わるとおやさまが、
 『また来て屋や、』と、仰せられ、お菓子を下されたという話しだ。』
                           (同)

この、明治五年の前年には、おやさまは、「春を売る女を舟で運ぶ」家業の男の、耳の不自由を、たすけている。
大阪の三軒屋の、博多市次郎さんである。
この時、おやさまは、自分の耳が不自由となることで、博多市次郎さんの耳の自由を叶えている。

人も我も隔て無しという、おやさまの思想が、「債務奴隷」解放の思想の、基本にある。
0533基本。
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2018/11/24(土) 20:49:47.40ID:atQqxcqF
人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八

おやさまは、明治7年に、このお筆先をもって、人の固有の精神と、それに神が貸し与えた肉体とを、
つまり「人のもの」を奴隷のように束縛し利用する「高山」に対して、決然と、その、「返済」即ち「奴隷解放」を迫ったが、
それは、明治6年に政府が、地租改正条例(太政官布告272号)を制定、明治7年から地租改正に着手した高山への、厳しい理の責めであった。

地租改正は明治14年に改正作業が完了した。
その間、お筆先は、この高山の意図のどこにあるかを、厳しく理を責めておられる。

 高山は世界いちれつをもうよう
 ままにすれどもさきはみえんで 三号四八
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、「博徒」が分教会筆頭という事実。
傍陽気さんには、その方法を直接に伝えて、参画頂いて、
「博徒」としての守護は、絶対にあるけれど、それは人間が得られるものでは無いとのコメントに至った事実経過がある。

その、秀司が、相場とばくちで失ったと言うひながたは、容易に解読できるものでは無い「ひながた」であるが、
「祝福」、「祝うて下され」。
天国の門は、モンテクリストの宝は、いつでも神の祝福と共にある。
0534基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 20:53:43.03ID:atQqxcqF
人身売買の盛んであった地での被災。
そこでは、エネルギー産業への身売りが、政官財で奨励されていた。
それは、タイでもありトルコでもあった。
数理の支配する、天災の原因を示す事実。
これを、変えていくには、おやさまは、三号の理にて、「異端の掃除」を示されている。

このはなし一寸の事やとをもうなよ 神がしんぢつみかねたるゆへ (3-82)

これからハ神のちからと上たるの ちからくらべをするとをもへよ (3-83)

いかほどのごふてきあらばだしてみよ
神のほふにもばいのちからを (3-84)

しんぢつの神がをもていでるからハ
いかなもよふもするとをもゑよ (3-85)

いまゝでハからがにほんをまゝにした 神のざんねんなんとしよやら (3-86)

このさきハにほんがからをまゝにする みな一れつハしよちしていよ (3-87)

をなじきのねへとゑだとの事ならバ ゑたハをれくるねハさかいでる (3-88)

いまゝでわからハゑらいとゆうたれど これからさきハをれるはかりや (3-89)

にほんみよちいさいよふにをもたれど ねがあらハればをそれいるぞや (3-90)

このちからにんけんハさとをもハれん
神のちからやこれハかなわん (3-91)
0535基本。
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2018/11/24(土) 20:57:19.24ID:atQqxcqF
人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八
おやさまは、明治7年に、このお筆先をもって、人の固有の精神と、
それに神が貸し与えた肉体とを、つまり「人のもの」を奴隷のように束縛し利用する「高山」に対して、
決然と、その、「返済」即ち「奴隷解放」を迫ったが、それは、明治6年に政府が、地租改正条例(太政官布告272号)を制定、
明治7年から地租改正に着手した高山への、厳しい理の責めであった。

地租改正は明治14年に改正作業が完了した。
その間、お筆先は、この高山の意図のどこにあるかを、厳しく理を責めておられる。
0536基本。
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2018/11/24(土) 21:03:17.03ID:atQqxcqF
 高山は世界いちれつをもうよう
 ままにすれどもさきはみえんで 三号四八

この地租改正は、日本の帝国主義の道に向けての、国家の財政基盤を固めて、国民を牛馬同等のみちにおとしめていく一大悪法であった。
女子の身売り、自作農の小作化、女工哀史、そうした直接的な「債務奴隷」を生み、国民を総奴隷化する道を開けた。
このことを、おやさまは見抜いていた。

明治7年四月、おやさまは、おふでさきに、
 このひがらいつのことやとをもている
 五月五日にたしかでてくる       四号三
 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや     四号四
と、日柄を予言した。
0537基本。
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2018/11/24(土) 21:06:12.25ID:atQqxcqF
明治政府が、地租改正で実行し意図した、国民総奴隷化計画は、日清・日露の戦争において、具現化していく。

おやさまの唯一の弟子、伊蔵は、日清・日露の戦争の件にて、「五月五日」とは、今の事情だと解説している。

「五月五日」
「端午の節句」
「大本営誕生の日」

預言者、おやさまは、奴隷を産む社会は、戦争国家であると、見抜き、理を責めていた。

地租改正、それは、高山が谷底をままにする、税制と言う奴隷制度であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これに対しての傍陽気さんの投稿を次に↓示しておきましょう。
0538基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 21:55:44.79ID:atQqxcqF
立毛、百姓をままにする高山は、今の事です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それならば、どう通るのか。
通らぬ事は、道とは言わん。
因縁上「博徒」ならば、博打で勝つ以外には「因縁きりは出来ない」。
それは、教理の基本ですが・・・。
0539基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 22:23:37.59ID:atQqxcqF
愛町系への批判に対して、愛町無双さんが、基本の傲慢な態度に反発されて、
基本に対して批判をなさいましたが、その批判として、「予言」が当たる、当たらないと言う論点からの批判がありました。

> 基本。がペテン師なのかどうかは、年限が来たら分かることだよな。
> 時間が解決する。「行ったとおりになるかならないか」それだけだ。
行ったとおりになるは、言ったとおりになるの誤字も知れません。
でも、教えがあったとして、「行い」がなければ、「言った」という言葉の予言のみでは、なるとは限らない。
教えが、履行されて、理が現れるわけですが、先にゆうて、それに賭けて、行わないとすれば、意味は成立しません。
つまり、基本さんそのものが、行うことが全く無いとしたら、「いったとおりになる」ものも、その意味、範囲は限定されますが、ならない状況を生むわけです。

愛町無双さんは、「言うておく」→「おうたら」→「成る」の順序において、
「おうたら」は、文字や言葉の意味だけではなく、「行為行動」も含まれると言う事をきちんとはご存じないわけでした。

現実的に「着手・行動」しなければ、予言も何も、理がないのですから、教えは、その範囲、発現しません。
0540基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 22:26:09.55ID:atQqxcqF
このはなしさとりばかりであるほどに
これさとりたらしよこだめしや (3-14)
このたびハたすけ一ちよにかゝるのも
わがみのためしかゝりたるうゑ (3-44)

わが身が試せない、わが身で試せないでは、たすけ一条の道は、その人においては発現しないと言う事です。
関根さんに出来たのだから、自分にも出来ると、
わが身で試さないと、「苗代という」「ガラパゴス」にて、朽ち果てるのみでしょう。
0541基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 22:29:04.39ID:atQqxcqF
山名系教義の誤解は、愛町系教理の誤解は、言うならばおやさまの教えに「泥」を入れたようなものでした。
それでは、「おうていない」から、「成る」わけがない。
宗教家業のテクニックで粉飾したり、豪華な建造物で目を奪ったりと、そういう手法で信者が増えたと言うのも、
お助けが上がったと言うのも、みな、泥水事情。
そういう、大きな理の間違いと言うものを、きちんと指摘するのは、基本の基本的実行に相当します。

いまのみち上のまゝやとをもている
心ちがうで神のまゝなり (3-120)

上たるハせかいぢううをまゝにする
神のざんねんこれをしらんか (3-121)

お筆先三号の解釈の問題です。
第3号 120

いまのみち上のまゝやとをもている
心ちがうで神のまゝなり
0542基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 22:32:04.46ID:atQqxcqF
この道を、上に立つ者が自由に出来るように思うて圧えようと思うが、
これはたすけ一条の道であるから、人間のままにならぬ。親神の意図通りになるのである。 上:高山

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この解釈は、「神の世界・神のまま」という一点が最も重大であります。
高山も、親神の手の平の上にいると言う、その認識は、山名系に最も欠落していて、
それだから、戦争協力という思考もまかり通ってしまったということです。

これまでハよろづせかいハ上のまゝ
もふこれからハもんくかハるぞ (3-122)
0543基本。
垢版 |
2018/11/24(土) 22:41:17.75ID:atQqxcqF
親神様は、「心違うで」と言われていて、
それは、道の者の心が違うと、言われているわけです。
英文おふでさきにて、それは、きちんと分かります。
You are thinking that the present path is at the mercy of the high places,
but you are mistaken. It will be as God pleases.

お前たちが間違っている。
心違うのは、山名系であり愛町系、お前たちであって、「高山」の問題とは、このお歌では示されていないわけです。

お筆先3号には、こうあります。
 だん/\とをふくよせたるこのたちき よふほくになるものハないぞや (3-49)
 いかなきもをふくよせてハあるけれど いがみかゞみハこれわかなハん (3-50)

教えをすっきりと受け止められないで、いがんだ、かがんだ受け止め方しか出来ない当時の「先生方」は、用木では無いと、そういう事でした。
0544基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 03:53:46.11ID:0nSR3rsW
既に、この世は陽気の旬になっている。
しかし、おやさまの教えを聞いた初代たちは、「道は神のまま」とは受け止めきれず、「道は上のまま」と理解した。
それは、元冶元年のつとめ場所の普請において、当時の高弟の本音として、心どうりに表に現された。
こういう「濁り」があっては、陽気の旬は来ていても、人の心が「昼の暗がり」を、心通りに出現させてしまう。
おやさまの教えは、「人類のもの」である貸し物借り物を「我がまま」にする大社高山の取り払いを説いているのに、
初期の信者の中の有力信者(高弟と言う高山)たちは、その天理の掃除の対象の高山に、媚を売るような態度ですらあった。

明治七年、明治政府は、国民を豊かにという「 pleases」として、富国強兵にまい進した。
0545基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 03:59:32.35ID:0nSR3rsW
人のもの借りたるならばりがいるで
 はやくへんさいれいをいうなり    三号二八
おやさまは、明治7年に、このお筆先をもって、人の固有の精神と、それに神が貸し与えた肉体とを、
つまり「人のもの」を奴隷のように束縛し利用する「高山」に対して、決然と、その、「返済」即ち「奴隷解放」を迫ったが、
それは、明治6年に政府が、地租改正条例(太政官布告272号)を制定、
明治7年から地租改正に着手した高山への、厳しい理の責めであった。

地租改正は明治14年に改正作業が完了した。
その間、お筆先は、この高山の意図のどこにあるかを、厳しく理を責めておられる。

 高山は世界いちれつをもうよう
 ままにすれどもさきはみえんで 三号四八

この地租改正は、日本の帝国主義の道に向けての、国家の財政基盤を固めて、国民を牛馬同等のみちにおとしめていく一大悪法であった。
女子の身売り、自作農の小作化、女工哀史、そうした直接的な「債務奴隷」を生み、国民を総奴隷化する道を開けた。
このことを、おやさまは見抜いていた。
0546基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:03:36.68ID:0nSR3rsW
明治7年四月、おやさまは、おふでさきに、
 このひがらいつのことやとをもている
 五月五日にたしかでてくる       四号三
 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや     四号四
と、日柄を予言した。

明治政府が、地租改正で実行し意図した、国民総奴隷化計画は、日清・日露の戦争において、具現化していく。

おやさまの唯一の弟子、伊蔵は、日清・日露の戦争の件にて、「五月五日」とは、今の事情だと解説している。

「五月五日」
「端午の節句」
「大本営誕生の日」
と、日柄を予言した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その、戦争協力の天理教団に組織を指導した山名系も又、
初期の高弟と同様の、理解しか出来ていなかったということだ。
0547基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:06:28.04ID:0nSR3rsW
おやさまの弟子たちは、上に従い、王政の「祭政一致」に媚びへつらい、
こともあろうに、おやさまの思想の対極にある明治政府に、公認の道を模索していました。
それは、当時の信者の民意であり、総意であり、それは「真柱」にゆだねられた、信者の要求でした。

弟子の中でも「仲田義三郎」は、「山本利三郎」とともに、公認運動に教団をリードした指導者でした。
彼らの模索したものは、稲荷講の発展に見られるような、

明治政府の政策に迎合しての、教団の「繁栄」でした。
しかしそれは、お稲荷さん信仰の歴史の示すように、もともとの信心とはかけ離れた、「天皇中心の神道からの天下りによる思想支配」でした。

「大教の詔」を宣布し、国家を一つの宗教で統一しようとする高山に、迎合しようとする弟子たちは、真柱を代表として、おやさまに問答しました。

1887年一月十三日(明治20年陰暦12月20日)、真柱の立場にある中山真之亮と控え柱の立場にある前川菊太郎は、
明治政府に迎合したいという趣旨で、おやさまに、おうかがいをします。

その時に言われたのが、

『ぜんもって つたえてある。むっつヶしきことをいいかける。ひとつのことにとって しあんせよ』

との、お言葉でした。
弟子たちは、
「前以って伝えてある。難しい事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、理解し解釈しました。
0548基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:10:33.52ID:0nSR3rsW
しかし、実は、
「「前以って伝えてある。六つが敷き事を言い掛ける。一つの事にとって思案せよ」
と、言う意味でした。

これが、おふでさき六号の事を示していた。わけです。
「お前たちの希望は、おふでさき六号の「元の理」の数理のままに実現するのだ。どんな事も、「元の理」の「一つ始まりに基づいて思案せよ」

事実歴史として、お筆先六号の元の理の数理のままに、天理教会神一条の道は、実現し、天理教は、一派独立しましたが、それは応法時代の、ことですが、
「ひながた」においても、元の理の数理のままに、歴史に刻まれているのです。
0549基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:15:22.24ID:0nSR3rsW
> 1861年 南北戦争 ←→ 元の理の数理に基づく「つとめ」の開始。

その開始は、【一寸身上に】逸話篇というもので始まりました。
『 文久元年、西田コトは、・・庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。
すると、夕方であったが、教祖は、

「よう帰って来たな。待っていたで。」
と、仰せられ、更に、
「一寸身上に知らせた。」

とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。
が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、

「身上に知らせたのやで。」
とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷の掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。』
おやさまの思想は、「命のやりとりは、おやさまが支配がする」という思想。身体そのものにおやさまが知らせるという思想。
0550基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:18:49.26ID:0nSR3rsW
大社高山の人間業では、絶対不可能な命題をつきつけて、命のやり取りの「理の世界」にて、人間のこころを掃除するという、思想であり、
それだからこそ、元の理を伝え、つとめの理にて、世界を普請するという、真実真心が、おやさまの思想には、満ち溢れています。

元の理の数理を歴史に残した「六つが敷き事」。
それは、西田ことさんからはじまつた。
ろくぢはまず女からという、おやさまの思想。

とふじんの干渉し、とふじんの支配する「日本」。

おやさまだけは、せかいろくぢに向けて、元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになっていたのでした。
すべては理の世界にあると歴史に示して、のことでした。
0551基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:22:57.65ID:0nSR3rsW
こうした天理教幹部の姿は、まさに、掃除となる対象の高山そのものですから、
「理の親」なる大教会高山のままにする支配の教団となりました。
これが、出直しとなる126 正月26日の旬の、意味は、
陽気暮らしの旬という意味であって、日本の根の国の力が出現すると言う、旬です。
0552基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:25:47.15ID:0nSR3rsW
第3号 90
にほんみよちいさいよふにをもたれど
ねがあらハればをそれいるぞや

旬は、来ています。
0553基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:29:57.32ID:0nSR3rsW
「旬は来ています」
この意味は、とても簡単であり、とても重大です。
旬は来ていても、旬に撒かなければ芽は生えないからです。
かって基本は、その旬の出来事の一例として、「白の基本」として、投稿をしました。
0554基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:32:25.51ID:0nSR3rsW
> 八十八夜は、1956年の陰暦1月から、1957年の陰暦1月までの期間です。
> 「教祖70年祭執行」
> 「1/26(12/24)より2/18(1/17)までを年祭期間とし、毎日つとめを、つとめる。」
> 天理市において、天理教が「おふかん道」に出たのは、「八十八夜」の旬でした。

二代真柱様の「八十八夜」は、今日の「おうかんみち」の到来であり、
七十年祭は、「なぜか」、陰暦を基準に、祭典日が定められ、かぐらつとめが、毎日つとめられたと記録されています。
0555基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:36:06.91ID:0nSR3rsW
それでは、初代真柱様の「八十八夜」は、どのようなものであったでしょうか。

明治二年(1869年)の陰暦1月、から、八十八夜は、1869年から、5夜を一年とと数えて、
5夜5夜と数えまして、八十八夜=17,6年ですから、きちんと整理しますと、
一夜から五夜は、
1869年の陰暦1月から1870年の陰暦1月までの期間。
六夜から十夜は、
1870年の陰暦1月から1871年の陰暦1月までの期間。
・・・このように、数えていきますと、
七十六夜から八十夜は、
1884年の陰暦1月から1885年の陰暦1月までの期間。
八十一夜から八十五夜は、
1885年の陰暦1月から1886年の陰暦1月までの期間。
八十六夜から八十八夜は、
1886年の陰暦1月から1886年の陰暦8月頃までの期間。

このように、「八十八夜」とは、1886年の陰暦1月から8月頃までの期間と分かります。

陰暦1月、心勇講の信者が、豆腐屋の二階にて十二下りてをどりつとめました。
その事から、櫟本の分署跡の今に残る監獄に、教祖、真柱の真之亮、桝井、仲田が拘引、留置されました。
教祖は、『「心勇講」は、一の筆』と言われています。

八十八夜のことは、年表には、こうあります。

「7/21(6/20)」
「教祖『四方暗くなりて分かりなきようになる。其のときつとめの手、曖昧になることにてはならんから、つとめの手稽古せよ』と仰せられる。」

このお言葉を書きとめた初代真柱様は、「つとめの稽古」に取りかかりました。
八十八夜の出来事と言うことになります。
0556基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:39:27.84ID:0nSR3rsW
それでは、八十八夜とは、なんなのか、歌が大好きなおやさまの、真骨頂です。

「夏も近づく八十八夜」→「茶摘み」です。

明治三年三月(陰暦1月)に、教祖は、お筆先を記されました。

 ちやつんであとかりとりてしもたなら
 あといでるのハよふきづとめや    二号 三

これは、茶摘み歌にあります、「八十八夜」の予言でありました。

一連を通して、拝読します。

 これからハをくハんみちをつけかける
 せかいの心みないさめるで      二号 一

 上たるハ心いさんでくるほとに
 なんどきにくるこくけんがきた    二号 二

 ちやつんであとかりとりてしもたなら
 あといでるのハよふきづとめや    二号 三
0557基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:43:06.69ID:0nSR3rsW
おはらいさんが降るという、操作で、民意をあげくだしした「高山」。
神仏の分離を命じた政府に対し、教祖は、厳しく、理を責めておられました。
その、経過です。
慶応3年
* お払いさんのええじゃないか ←→ 立って踊る十二下り。
* 神仏判然令。神と仏の分離政策。 ←→ 南無天理王命。一体に唱える。
明治2年
*           ←→ お筆先一号。「胸のわかりた者は無い」
*           ←→ お筆先二号。「唐人がにほんの地に入る」
明治3年
* 大教宣布の詔宣布  ←→ 神楽のだし「ちょとはなし」教えられる。
明治4年
* 伊勢神宮を頂点に神社制度。

この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、
教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。
0558基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:45:25.11ID:0nSR3rsW
この明治の御代の始まりに、帝国主義を意図的に邁進する、その「高山」の悪意を見抜いて、
教祖は、理の証拠として、お筆先二号においては、おうかんみちが到来する刻限を、茶摘みの「八十八夜」にて、予言していたのでした。

初代真柱においては、「八十八夜」にて、その準備を、
二代真柱においては「八十八夜」にて、現実の「往還道」が到来しています。

明治二年のお筆先に知らされた「高山」の掃除の問題は、我々ようぼくの、心に置くべき、大切な教えです。

明治2年に、教祖は38日間の断食をしています。
明治2年から、38年を経て、明治41年に天理教は一派独立しました。

明治5年に、教祖は75日間の断食をしています。
明治5年から75日を経て、立教111年。おしえの復元開始となりました。
0559基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:48:26.60ID:0nSR3rsW
このように、歴史に予言をきちんと刻まれたのは、疑い深い人間に、確かな証拠を遺し、「こわき危なき道」を、未然に防ぐようにと言う、親心からと悟らせていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高弟たちは、神の支配と思わないで、実は「上」の世界と思っていた。
何一つ、狂いの無い天理であるからこそ、
濁った天理教団幹部の「半信半疑の指導者」=「実はとふじん」がいては、濁りの水であり旬は来ていても、人に陽気が到来しない。

それが、諸井神学であり深谷教学であって、諸井は「天理神学」を説いて、深谷は「元の理=こふき」を説いた。

第3号 69
いまゝでもしんがくこふきあるけれど
もとをしりたるものハないぞや

このように知らされていて、それならばなぜ、「神のまま」という「この世の元」が研究できなかったのか。
それは、おやさまを、なめてたと、みなすより無い事です。
0560基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 04:52:05.80ID:0nSR3rsW
> 神一条のコミュニティー
この言葉の意味するものは、「陽気暮らし社会」と言う事であるとするならば、まず、天理教団内部においては、実現は不可能です。

天理教会組織というのは、普請現場の「普請用仮設事務所」と言うようなものです。
「地場と中山家」以外は、道具や用材、大工という存在であり、普請のためだけに設置されるものです。

その天理教会組織が、普請をするには、神の働きが無ければならない。
その意味で、おやさまの思想と、まるで違う向きの天理教信者の「陽気暮らし」は、「陽気遊山」とはまるで違うものといえます。
[413] 基本。 2007/03/16 03:21
天理教社会というのは、「陽気普請の職能・機能集団」です。
社会とは、一線を画した所に位置している。
それには、宗教社会という隠れ蓑は、宗教の因縁上からも、隠れ蓑として利用される事は、妥当です。

そして、世の中の「厄介者・廃れ者からたすける」。
これも、天理教組織の重大な役割です。

それに対して「講」というものは、「非天理教社会」です。
天理教会は、その意味で、「講」であるためには、職業を持ち家業をなさねばならない。
そして、社会の中の普通の経済体としての、存在に、戻る事しかない。
教会が講と言うのは、それだけの実践があった後の事です。
0561基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 05:03:09.08ID:0nSR3rsW
世の中そのものの中に、「講」としてあるというのが「講」です。
天理教系統信仰の、あり方の中では、それは、不可能です。
つまり、系統をばらしてしまう事は、幼稚園児が一列に手をつないで、
いる姿を批判するようなもので、成人の途中としての姿である以上、系統はばらせない。解体できない。
一人前になった時から、自立した。
自立したものが、結ぶのが「講」。
自立できない信者の、手をつなぐ姿そのものは、意味を成さない。
と、言う事です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで、より深い考察が大切です。
「にほんの根」の問題です。
0562基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 06:36:26.09ID:0nSR3rsW
�、元々おやさまは許さなかった。
�、弟子(信者・特に高弟たち)は、宗教組織になりたがった。
�、教祖に物を言わせなければ、公認を認めてやろうという条件を飲んだ。
�、教祖は、ものを言わなくなった。(お体冷たくなる) >扉開いた。
�、この世の泥海の中に、天理教会本部という「苗代」=地場ができた。
�、各地の講は、天理教会と公認を望み、地場の万分の一の理として、地域の「苗代」になろうとした。

と、このような、�から�までの経過を経ました。

ところが、各地の天理教大教会は、「苗代」であろうとするよりも「水田」であろうとた。
違いは、収穫をあげるという事です。
「苗代」は育てるだけて、役割を終えます。が、「水田」は、収穫をあげます。

基本的質問さんは、「講」と言う前提で、教会を論じようとしておられるけれど、それは理想ですが、現実の大教会は、「我が田思想」。
つまり、「苗代」に徹していない。
そしても「講」でもない。

欲と高慢のなれの果てです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現実の社会の中では、教団組織にいる状態の甘えた考えでは通用しません。

もうお分かりでしょうが、今もいつも、甘露は降っている。
その前提だからこそ、慎重さが大切なのです。
高弟や、山名や諸井や河原町や郡山や船場の、大間違いの教訓を、社会において、きちんと生かして、
講としてのありようへの、二十年三十年の道が、ある事、忘れない事です。
0563基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 06:39:34.98ID:0nSR3rsW
山名系教学、神学は、天理教は「人間完成の道」と定義付けして、「成人の道」だからと、
それは、信仰指導者・理の親への孝行で、成人した子供になれると、
お尽くしやお供えや、大教会・教団への自己犠牲を美徳と説くに至りました。

世間では、諸井慶徳氏の事は、例えば以下のように評価している。
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x11y4.html

諸井慶徳
0564基本。
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2018/11/25(日) 06:42:24.14ID:0nSR3rsW
諸井慶徳の試みは、神学研究とは一線を画す。彼は神学を、研究したのではない。神学を樹立しようとした。それは、天理教という一宗教内の出来事に留まらない。
教祖的な人物を別に、近代日本で神学と教義学の樹立を強く意思した宗教者がどれほどいただろう。
諸井慶徳の営みは、そのほとんど類例を見ない独創的な営みとして評価しなくてはならない。
 天理教内での位置とは別に、宗教学者としての彼も、学会内で広く注目を集めていた。36歳のとき、日本宗教学会の理事に選出された。博士論文を公にしていない、
一冊の著作もない人物を京都大学が招聘しようとしたという事実も、また、諸井慶徳の特異な才能の一端を物語っている。
 イスラーム神秘主義研究において、井筒俊彦が容易に追随を許さない業績を残しているのは事実だが、彼がほとんど単独でその分野を切り開いたかのような記述は事実にそぐわない。

井筒俊彦もこよなく愛したイスラームの神秘家アル・ハッラージュの研究において、
諸井慶徳は先駆的なだけでなく、今日も凌駕されない研究を残している。ハッラージュ研究の一点においては、井筒俊彦に比べても、諸井慶徳の業績は傑出している。
 諸井慶徳のイスラーム研究が、私たちに垣間見せる深みは、彼が天理教の信仰者であることと無関係ではないだろう。
絶対的普遍者としての一神教、啓示の介入と教祖の出現、聖典の誕生、さらに聖域 の認識、天理教とイスラームそれぞれの宗教生誕の経緯は、驚くほど似ている。
 二者の近似を、単に比較宗教学的に論じても、深みがそこを通じて現れてくるとは思えない。
(引用続きます)
0565基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 06:47:02.75ID:0nSR3rsW
苗代は、苗代として、世界の普請の人材を育て道具を育む。
けれど、苗代には、収穫は無い。
おやさまは、「東に種撒きゃ、西に生える」と言われました。
人間はその理を知らず、東に撒いて東に収穫しようと、
天理教団の繁栄という収穫を天理教団に種撒いて、結果として得ようとした。
恥ずかしいことです。

地場は苗代として、東。だと仮定しますと、各家庭は、西。
そこに収穫がある。陽気遊山がある。
収穫は、おのおのに、・・・
それがおやさまの、陽気遊山が見たいおやさまの、教えです。
0566基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 06:50:16.48ID:0nSR3rsW
「東に種撒きゃ、西に生える」は、神様に尽くしておけば、必ず自分に返ってくるという意味として説かれたりします。
それは、天よりのお与えとしての「甘露」とは違う次元のご守護です。
天が無条件に与えてくださるものと、心次第のものには理として大いに相違があります。
そして、心次第と言うのは、天理教に無関係な人も批判する人も他宗の信者も、一列です。
無条件にお与えくださる「甘露」とは、甘露台で、おやさまがお渡しになるものですから、それは、一列に渡すためのお与えですから、
特定の〇〇さんの受け取った独占物ではない。
どこどこまでも隔てない、おやさまのご配慮が、大前提となります。

魂の徳のある関根先生と言う表現は、「追従」であり、関根豊松さんは、おやさまの子にすぎません。

信仰上にままある、虚構。
嘘と追従。

諸井慶徳さんは、一度も客観的ではなかったと、指摘が評価としてありましたが、
客観的で無いと言う事は、「虚構」と言う事です。
0567基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 06:58:55.56ID:0nSR3rsW
おやさまの教えは、「客観的」であり、厳然とした数理で、客観的に予言は実現してある。
主観的な信仰と言う「嘘」の世界が、泥水の実態です。

山名系・愛町系という異端は、虚構ゆえに異端なのです。

戦時下では戦争協力教理を、指導し説いた諸井慶徳先生。
それは、「嘘」「追従」。
そして戦後は、人間完成の道を説く、嘘追従。

僕は何にも持っていないと言いながら、熱海に梅園をちゃんと持っていた関根豊松さん。
しまいには、自分が神だと言うような、嘘。
本部の直属にと勧められても、それには従わず。
弟子には関根式「理の親信仰」で、素直さを教え込む大嘘。
上級の為に、自分は部下であり続けると言う、それでいて下克上と言う関根式「嘘と追従」は、
まさに「遅れてきた初代」そのもの。
全国各地の大教会初代たちの「嘘追従物語」の、最終章の、末路でした。

おやさまは、そんなインチキな苗代を拵えたのではない。
拵えさせたのでもない。

ようやく、99年が経ち、100年になろうとしています。
皆、出直しです。
0568基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:09:50.12ID:0nSR3rsW
そこで、説いただけは通らなければならないという天理があります。

説いただけは、通る。
それが、おやさまのお楽しみです。
0569基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:34:13.75ID:0nSR3rsW
天理教の教会の土地や建物は、元々誰かが寄付したものです。
その資産価値は、土地代建物代、膨大なものであったりもします。
数千万はするでしょう。
それを継がせたいためにね後継者を「跡取り」として、「財産後継目的」で、育てているのが普通です。

家賃ただ、固定資産税の支払いは優遇の宗教法人。
そんな誰に供えたのか、寄付したのか分からないで、寄付で出来た教会だから、欲で子供に継がせようとする。
そして洗脳する。
見えている建物や土地、それを天理教として財産化して、子供を苦しめる。
恥ずかしい事です。

そんな天理教会は、欲の塊ですから、信じる必要もないし、離れてしまった方が、賢明です。
おやさまの、お心にもかないます。

ぶっ壊したい、賛成です。大賛成です。
0570基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:37:26.29ID:0nSR3rsW
ありもしないものを拝むのは馬鹿です。天理教の後継者だと言う育て方も以上であり狂っています。
洗脳が解けたことは、嬉しい事です。
0571基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:40:34.48ID:0nSR3rsW
3号 77才老女 明治7戌年1月ヨリ 

このたびハもんのうちよりたちものを
はやくいそいでとりはらいせよ (3-1)

天理教の一門の中に、私的財産として教会を経営している「理の親信仰」の掃除は、
神の望みです。
後継者さんには、それを壊してしまう役割があります。
壊してしまうと言うのは、建物破壊では無く、欲の心の破壊です。
教会を私物化させないで、ありもしない神の為ではなく、人のために活用する事です。
0572基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:43:27.72ID:0nSR3rsW
このたびハたすけ一ぢよをしゑるも これもない事はしめかけるで (3-17)

いまゝでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから (3-18)

にち/\に神のはなしがやま/\と つかゑてあれどとくにとかれん (3-19)

なにゝてもとかれん事ハないけれど 心すましてきくものハない (3-20)

すみやかに心すましてきくならば
よろづのはなしみなときゝかす (3-21)

このよふのたしかためしかかけてある
これにまちがいないとをもゑよ (3-22)
0573基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 07:46:17.31ID:0nSR3rsW
おやさまは、この世の中の「確かな証拠」として、「ためし」をかけました。
このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)

なにもかもいかなはなしもとくほどに
なにをゆうてもうそとをもうな (3-24)

めへにめん神のゆう事なす事わ
なにをするとも一寸にしれまい (3-25)

はや/\とみへるはなしであるほどに
これがたしかなしよこなるぞや (3-26)

これをみてなにをきいてもたのしめよ
いかなはなしもみなこのどふり (3-27)

人のものかりたるならばりかいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり (3-28)

このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)
0574基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 15:42:44.35ID:0nSR3rsW
ためしをかけたと言う事は、それを見せたら、

このためしすみやかみゑた事ならば
いかなはなしもみなまことやで (3-23)

ためしとは何であったのか。
それは、お筆先三号においては、基本的には、


しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや (3-64)
十一に九がなくなりてしんわすれ 正月廿六日をまつ (3-73)
いまゝでの事ハなんにもゆてくれな 廿六日にはじめかけるで (3-113)
二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす (3-147)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、3625の数理。0126の数理。22の2の5の数理。
これが、見えたときから、理の世界がきちんと見えて分かるようになると言うためし。
かけておかれた、おやさまでした。
0575基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 15:48:36.40ID:0nSR3rsW
八島秀雄さんが、八島教理の「教典」ともいうべき文書「私の教理勉強」を出版したのは、昭和51年3月26日でした。
 天理教教典・昭和24年10月26日公刊。それから、3625の、数理で、28年目は、
{数えて28年目}→昭和51年3月26日、「私の教理勉強」出版でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3625と222の5についても、確認しておきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 3625 > 22の2の5
天理教の目的は、「大社高山取り払い」にあります。
3625 とは、大社因縁の。
22の2の5 とは、高山因縁の。 と、簡単に理解されます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
0576基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 15:51:18.42ID:0nSR3rsW
お筆先には、三号の147にあります。
「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」
これですね。
 先ず、お筆先の前後を参照、考察しておきましょう。
「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」 三号147
「高山の説教聞いて 真実の神の話を聞いて思案せ」 三号148

つまり、「元の親神様のお話」と「高山の説教」との、対決宣言のような内容ですね。
 もう一つ、こういう見方も出来ます。
「今の道 埃だらけであるからに ほふけを持ちて掃除ふしたて」 第三号145
「後なるハ 道ハ広くでごもくなし 幾たりなどと連れて通れよ」 第三号146

「二二の二の五つに話しかけ 万づ因縁みな説き聞かす」 三号147
「高山の説教聞いて 真実の神の話を聞いて思案せ」 三号148

このように、セットにしてみますと、
「掃除する→大勢を連れて通れる」→→「教えの説き始め→高山の説教との対決」
と、このように見ますと意味が良く理解できると思います。
0577基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 15:55:33.69ID:0nSR3rsW
「22の2の五つ」と言う数字ですが、先ずひな型においては、夫善兵衛様の問題と言うように、理解するのが基本です。
それは、嘉永六年に、二月二十二日に出直しになっています。66歳です。
この数字の並び、「22の2」の数理として、ろくぢという、二が三つで6という意味に解しています。

ろくぢと言う教えに反していて、掃除されたと言うのが、基本的な見方です。

22年に出直しているという意味では、真柱に欲しいと望まれていて、親が承知しなかったので「迎えとられた」梶本亀造さんの例があります。
立教       天保九年 10月26日  西暦 1838年 12月12日 1年目
梶本亀造の出直し 西暦 1860年 2月20日 22年目  (1859年12月12日〜1860年12月11日 の間)

いずれの場合も、「谷底」に落ちると言うおやさまの方針に対して、各々地方の「高山」として、そむいたと言うことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
0578基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 15:58:24.49ID:0nSR3rsW
天理教は、きちんと「ためし」がかけてある、現実の神。実の神です。

ためしの中でも、えらいためしという教えがあります。
 このもとわ四十三ねんいせんから ゑらいためしがかけてあるぞや 第15号41

43年の数理は、
 又、43年の数理は、「天理2」天災の数理にて語られています。

 1993年(平成5年)1月15日午後8時06分07秒 釧路沖地震発生。
→43年以前とは、1950年1月が43年前で、その以前に当たる、前年10月26日。中山善衛を真柱後継者と選定。
 1994年(平成6年)10月4日22時22分57秒 北海道東方沖地震
→43年以前とは、1951年10月が43年前で、その以前に当たる、同年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。
 1994年(平成6年)12月28日21時19分21秒 三陸はるか沖地震
→43年以前とは、1951年12月が43年前で、その以前に当たる、同年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。
 1995年(平成7年)1月17日火曜日午前5時46分 1995年兵庫県南部地震
→43年以前とは、1952年1月が43年前で、その以前に当たる、前年4月27日。雛型かんろだい据えかえの儀。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、真柱様は、震災を知っていたという事は、歴然としています。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
まさに、おやさまは、実の神として、現実社会の親神として、えらいためしを、きちんと、予言し、実行し続けているのです。
0579基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 16:01:05.61ID:0nSR3rsW
予言の書としてのおふでさきは、音と文字の二通りにて告げられています。
文字としては、 この神の残念と発生の43年の数理は、以下の15号の和歌に書かれています。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
 けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12
 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13
0580基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 16:08:51.67ID:0nSR3rsW
紹介しました、15号のおふでさきには、
 10番のお歌で、「明日から働く」とありますね。
 13番のお歌で、「さあ今日は」とありますね。
これが、何時の事かと言いますと、これが書かれたのは、第十五号 明治13年1月より 90首 83歳 1880年の1月。
 あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
 いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
 けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12

つまり、10番と12番までの間に、43年がある。
そして、13番に、「さあけふハ月日のはらがはぢけたで」とありますから、
神は立腹なのだが「控えていた」「ぢいとしていた」1880年の、翌年1881年から一年、二年と数えて、
その43年後が、
 さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13
と、腹がはじける事態となるとの予言です。確認します。

1880年から、数えて43年、1923年。関東大震災。
関東大震災という、まさに月日のはらがはぢけた震災が、襲ったのは、キチガイ婆さんの予言の数理そのものでした。
0581基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 16:23:39.29ID:0nSR3rsW
>天理教
>人助けを、名目で多額の寄付を、つのる教会があります。
>全然人助けになってないし、相談にもならない
>それだったら共産党のほうが、よっぽど人助けしている。
>少なくとも共産党は、多額の寄付を要請しない
>少しは、共産党みならえ!

「地場は独り立ちしてある」と教えられていますが、それは、「天理教会は地場の万分の一の理」ですから、天理教会は自立自活していなくてはならない事の意味を含んでいます。
つまり、家業と言うものを持っていなければならないし、持っていれば「集金業務」はしなくて良いわけです。
中山家は、現実には家業をしています。百姓・寺子屋・お針子・・それらは、成立しているわけです。
各大教会も、福祉や教育の仕事を経営していたりしていますが、その余分に、信者からの献金を、生活費や贅沢費に集めていて、
大教会が集金した金の二割は、本部に届いていたとして、あとは、届いていないでしょう。
大教会の直属教会もその理の子だと自称していたほどですから、まず八割は、自分の教会にて使ってしまっていて、いやそれ以上を中間搾取していて、
神が怖くないわけで、
その分、色々と手入れ頂いていて、健康管理に必死なことでしょうが、親神様はとても怖いので、お気の毒です。
0582基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 16:32:16.63ID:0nSR3rsW
>「とうじん」とは親神様の教えを知らない人、信じていない人の
>他に、この資本主義経済社会をつくったユダヤ人という意味も
>あるのでしょうか?

とても難しいご質問です。
> この資本主義経済社会をつくったユダヤ人
これが、客観的事実としてそうなのかどうかという問題が先ず先にあります。
客観的事実としては、「産業革命」があり、「拡大再生産システム」が作られて、つまり工業生産においての「いつも豊年」の状態が出来たと言う事です。
それが、「資本家」においての膨大な資産形成を容易にして、「資本家と労働者」というような構図が格差としてこの世に生まれた。
その、資本家たちが市場を支配し、金融資本家として、「この資本主義」を作ったと言う事は、そのとおりでしょうが、
それは、「おやさま」の手の平の内であって、
欲の心から、利益独占のための大社高山がそのように振舞うことは、世界一列を放念にするための神の「ためし」であったと言うのが、基本的見解です。
0583神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/25(日) 20:00:08.07ID:IWxUDcf3
ユダヤ・イルミナティの話してんの?


奴隷船貿易のオーナーがすべてユダヤ人だったんでしょ?
0584神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/25(日) 20:07:30.27ID:IWxUDcf3
被害者のフリしてるのが一番都合がいいものな。
0585神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/11/25(日) 20:10:01.87ID:IWxUDcf3
奴隷船オーナー ユダヤ人




検索
0586基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 22:27:47.19ID:0nSR3rsW
> 明治2年、おふでさき二号にて とふぢんがにほんのぢいい いりこんでままにするのが かみのりいふく 二号32
 元冶元年の頃には「大和神社」は、拝して通れと、おやさまは、敬意をしめされています。
しかし、「大教の詔」の後の、「大和神社」には、決然と、理非を諭されています。
この相違点こそ、明治維新の裏の「高山」たちが、本来の「やまと=にほん」に介入したと言う、宗教事情をきちんと示しています。
 ほんらいは、おやさまの思想を「裏から教えていた」、「にほん」に、「とふじん」が、干渉し、支配を開始していたのです。

前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。
0587基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 22:34:42.59ID:0nSR3rsW
前年   ええじゃないか、(プロパガンダ)の世直し。
     王政復古。
明治1年、神仏判然令。
     排仏毀釈運動おこる。(プロパガンダ)の宗教統制。
明治3年 大教宣布の詔(みことのり)
明治4年 皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点に神社制度を設けた。

対して、おやさまは、明治2年、おふでさき二号にて
 とふぢんがにほんのぢいい いりこんで
 ままにするのが かみのりいふく     二号32

決然と、理を責めておられます。

おやさまと、たかやまのとふじんとの、たたかいは、一貫したものであったと言う事です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、ひながたの史実においては、「ユダヤ」ではなく「アメリカ」が、「とふじん」でした。
米国は、「割礼」を現行していて、処女マリアを処女で出産したと説く国、「説く大社」に支配された国です。
0588基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 22:47:03.09ID:0nSR3rsW
学問のススメにも、明治維新の「高山」の一部にも、大きな影響を与えていたものは、それは、アメリカの思想である。
・・キリスト教徒には、罪深き黒人を、救うと言うことと、奴隷にすると言うことは、けっして矛盾したものではなく、
アメリカの自由と独立は、そこに奴隷がいてのものであり、「とふじん」の思想そのものであった。
しかし、劣等国から先進国の仲間入りをめざした明治の「高山」には、その「とふじん」の思想が魅力的なものに見えていたと言うことである。
「米国」、「自由と独立」、その背景の強い武力に、あこがれを抱いた軍国主義者が、明治の高山の「とふじん」に大勢いた。
 おやさまは、その思想背景をきちんと見据えておられた。
0589基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 22:52:59.37ID:0nSR3rsW
> 実は、維新の幹部たちは、奴隷制に支えられた大農場を基盤とするアメリカの経済力と軍事力を、模倣すべく、
> 地租改正と徴兵制への準備に入っていて、
> それは、アメリカの思想の影響下にあったと言うことです。
日の本の、大和の庄屋敷の片田舎にいて、おやさまは、世界を動かす、帝国主義の覇権行動を、じっと見据えておられました。

 これからハからとにほんのはなしする
 なにをいうともハかりあるまい    二号31
 とふじんがにほんのぢいいいりこんで
 ままにするの神のりいふく      二号32

この時代、「唐人」と言えば、「唐人お吉」が有名です。
アメリカ人を「唐人」と呼んでいたのは、明治の社会の常識です。
0590基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 22:57:24.84ID:0nSR3rsW
米国の思想介入は、米国の大社・高山の思想背景が、聖書の原理主義であるとみなすのが基本です。

 1840年アヘン戦争。     ←→ この年「貧に落ちきれ」との神命。

 1853年ぺりーの軍艦威嚇。  ←→ この年「母屋のとりこぼち」。酒肴で祝う。

 1856年唐人ハリス下田に。  ←→ この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。

 世界中の、債務奴隷の難儀を、谷底からたすけあげようと言うおやさまの思想は、
こうして、「とふじん」がままにする姿に対して、自ら難儀の底に落ちて、吹き上がると言う、思想を示しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界が、植民地支配される中、米国は経済支配のみならず思想支配をリンクさせた奴隷国家に植民地を陥れていきます。
それが、「債務奴隷」による支配。「金融市場主義」のよる、「債務支配」です。
米国そのものも「国家」は「債務奴隷化」されてしまっています。
市場もまた、しかりです。

しかし、おやさまは、そうした「大社高山」の取り払いの道を、ひながたにきちんと残されています。
それは、奴隷経済では無い「自立経済」です。

この年、足達重助の四歳の娘、足立つ。たすけ開始。
足が立ったのではなく、おやさまのたすけの道が立ったと言う事です。

唐人は米国民の大多数も債務奴隷にしていて、
しかし、奴隷と感じさせないために、快楽もまた、宗教思想もまた、統治に用いられていると言う事です。
0591基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:05:05.14ID:0nSR3rsW
ひながたの史実を客観的に見つめれば、天理教指導者たちは、明治政府の意には従わず、素朴に谷底競り上げにまい進できたのですが、
高弟たちは、自分たちが宗教的権威権力になりたくて、逆に、明治政府に媚を売りました。
また、宗教家業の専務となり、寄付され寄付された宗教建造物の資産を、私的財産として扱い、
まさに理の親信仰と言う「奴隷住み込み人」までありという、真逆の謀反状態すら、見受けられて、
天理市の施設は軍部の協力に専心したほどです。

おやさまの教えに背いた彼らは、ことによったら、
ほんの昨日までの大教会や有力教会の実態かもしれません。
0592基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:15:25.15ID:0nSR3rsW
今日の現実の事ですが、神様から〇〇に手入れがあった、知らせがあったと、
基本に質問してくる場合に、会った知らせと言うもの全てではなく、一部を相談し、一部は相談しないと言う事があります。
それは、誰にもある事ですが、聞かなくても分かってるとか、どうせ言われることは一緒だとか言う判断がそうさせたりします。
又、本人に深くかかわることは、それだけは相談しないと言う場合もありました。
これも、客観的でない場合の一例になりますが、そういう場合には、「身の知らせ」そのものが、知らせとして「客観的には・成立」していません。

問われた瞬間に、「それ知らせですか?」と、疑問が湧く場合には、ほとんどそういう、恣意的な質問の場合です。
その場合でも、問われれば理の意味はお答えしますが、それは「重大なキーワード」の無い状態でパズルを解くように、見当違いに誘導されてしまう。

天理教の幹部が、おやさまの教えを客観的真実とみなさず、
「宗教的真理」とみなしたのは、自分に都合不都合が優先していたと、幹部の都合で、教理を曲げて説いたと言うべきでしょう。

それもこれも、実はみなおやさまの、手の平の上なのです。
高山が、そうであって、今もそうである様にです。
0593基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:27:08.58ID:0nSR3rsW
書くのが、遅くなりましたが、彼が寝起きするようになって数日したとき、長男の嫁さんが基本の奥さんに、
「何かあった?」と、
お知らせあったけど、覚えが無くて、そっちかなと思って、と聞いて来たとの事でした。
それで、今彼がいるよ、と、簡単に経過を話したら、
「仕事、手伝って欲しいな」と、
「神様から、知らせあったから、こっちに手伝った貰うよ」と、
・・
長男は基本とは完全独立していて、自営業していて、その仕事を頼みたいというのです。
・・
ま、長男夫婦のことは、何処までか、・・・
神様のお知らせだと、勝手に言っているわけですが、
今日は、基本の奥さんが案内して、どんな仕事か見てもらった。
本人は、やってみますと、そんな話のようです。
とりあえず、なる理に任せてみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神様の知らせだと勝手に言っている」と書いたように、都合で知らせの一部を利用していると、基本的には分かっていました。
彼は、基本よりは、長男の夫婦を選択し、私から離れ、社員になって仕事を始めました。
それから、どうなったか、・・、対偶の問題から対立し、今年一月には、離れていかれました。

身の知らせは、客観的でない場合には、つまり、天理の返しとして、本人に「嘘つき」という烙印を押したりします。
心得たい基本です。
0594基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:36:59.60ID:0nSR3rsW
つまり、おやさまは、「から」の思想の本質を、「から」と一言で諭しきっておられる。
「一に百姓助けたい」との、おやさまの思想。
「農業という業を営む」。これには、「から」は無い。

しかし、金融資本主義を見たらわかる。
尽くが「から」である。

株券が、電磁化された事は、まさに、「から」であることの自白である。
金融市場においては、実際の製造も製作も無い。
マネーゲームと呼ばれるが、元々、親神様が人間にお貸し下された無料の物を、
人間が価格をつけて付加価値として金銭に交換した貨幣経済においては、貨幣と対価の物品が存在した。
しかし、それには、限度がある。
人間がルールをこしらえて、株式の売買というゲームにおいて、無から有を生み出し、
世界中の経済は、そのゲームそのものに支配されている仕組みに見えている。
0595基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:43:01.22ID:0nSR3rsW
東京の不動産が高騰していて、バブルに向かっているという。
土地というものは、それ自体、親神様からの貸物借物である。

公地公民の時代には、天皇陛下からのお分けいただいた口分田であった。
少なくとも江戸幕府までは、土地は、公のものという認識が支配していた。

それを完全に崩壊させた、明治維新の唐人思想。
税制の改革で、土地は、マネーゲームの対象になった。
「需要と供給」という経済ゲームのルールは、土地に適用されて、
大都市の地価は高騰し。その信用力に、金融資本が投下されて、貸物借物の土地は、「大社高山」の基盤となった。
・・・
今は、情報が、マネーゲームの対象となり、大社高山は、そこに、今までに成功したノウハウを集約している。
・・・

それは、親神様の、手ひどい返しの、道具を自ら構築しているようなものである。

旬刻限の到来の意味は、そんなに単純なものではない。
現代社会とは、「神が表に現れた」、「現れた時代」という自白とも解する事が出来る。

すでに、天火は、人類をろくぢに向けて、降り注ぎつつつあると言う事だ。
0596基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:46:07.75ID:0nSR3rsW
恐竜の教訓があります。
高山が、強大で難攻不落のシステムを作り、構築する。
それは、滅亡の道。

親神様は、ヒットマンとしては、神です。
0597基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:49:32.47ID:0nSR3rsW
 アメリカ・テキサス州 干ばつによる水不足が深刻化、下水再生水を飲料水に利用
今回の新しい淡水資源を飲料水として利用することになるのは、テキサス州のビッグスプリングと周辺3市である。
この水道区の人口は約27,000人となる。供給の開始は2012年初頭を予定しており、設備の総工費は1300万ドルとなる。
 下水再利用水を飲料水とするために、逆浸透膜によるろ過が行われ、過酸化剤、紫外線による殺菌、汚物の処理が行われる。
これによって、1日あたり飲料水200万ガロン(756万リットル)の供給が可能となるという。
テキサス州では「トイレの水だから嫌だ」といっていられないという程に干ばつ被害が深刻であるとのことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お筆先13号です。水不足への理が知らされてあります。
 月日よりにち/\心せきこめど そばの心にわかりないので    100
 せきこみもなにの事やとをもうかな りゆけつくれば水がほしかろ 101
このはなしみな一れつの心にわ なんとをもふてしやんしている 102

月日にわ大一これをたすけたさ
そこでとのよな事もゆうのや    103

なにもかも月日いかほどくどいても
まことにきいてくれるものなし    104

それゆへに月日のざねんりいふくが
山/\つもりかさなりてある     105
0598基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:52:05.65ID:0nSR3rsW
親神さまの警告に耳を貸さなかったのは、天理教内の高弟と言う「高山」
それは、九十九年たって、皆出直すまでの、天理教団の姿。

このたびの月日ざねんとゆうものわ
よいなる事でないとをもゑよ (13-32)

月日にハこのしんぢつをせかへぢうゑ
どふしてなりとをしへたいから (13-33)

それしらず月日ゆう事みなけして
あとわにんけん心はびかる (13-34)

このさきハ月日のざねんりいふくを
みなはらすでなこれがしよちか (13-35)
0599基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:55:02.98ID:0nSR3rsW
ここからが、お筆先の本論というべき、理の責めが続きます。

月日よりあまくだりたる心な なんの事やらたれもしろまい (13-59)

 大一わりゆうけつくるをたすけたさ
 こゑ一ぢよふをしへたいから (13-60)

こゑてもなどふしてきくとをもうなよ こゝろを神がうけとりたなら (13-61)

 いまゝてハしんぢつ神がゆてあれど
 うちからしてもうたがうはかり (13-62)
 此のたびハなにをゆうてもうたがうな
 これうたがへば月日しりぞく (13-63)

この事ハあくどいほともゆうてをく これうたがへばまことこふくハい (13-64)
月日より一どふゆうてをいた事 いつになりてもちがう事なし (13-65)

 いまゝでわ月日なに事ゆうたとて
 みなうたごふてゆいけすばかり (13-66)

月日にハ大一これがざんねんな なんでもこれをしかときめるで (13-67)
これからハ月日ゆう事なに事も そむかんよふに神にもたれよ (13-68)
したるなら神のほふにもしんちつに たしかひきうけはたらきをする (13-69)

 月日にハこらほどくどきつめるから
 心ちがゑばすぐにしりぞく (13-70)
0600基本。
垢版 |
2018/11/25(日) 23:58:09.52ID:0nSR3rsW
つまり、天理教団神学も、愛町関根豊松も、
 いまゝでわ月日なに事ゆうたとて
 みなうたごふてゆいけすばかり (13-66)
そういう状態であって、親神さまの第一の目的である、「 大一わりゆうけつくるをたすけたさ
 こゑ一ぢよふをしへたいから (13-60)」を、言い消していたわけです。

↓次のお歌の理ばかり説いていた。
「しんちつに心にまことあるならば どんなたすけもちがう事なし (13-71)」

「こえ」について、「りうけ」について、これが神意の「第一」だと言う事は、打ち消すばかりであった。
自分たちの都合で、教えも知らせも、守護もおたすけも、自分たちの都合で、どこにも客観性が無い。
山名系教義、愛町系教理、では、親神さまを「残念立腹」状態に追い詰めていたと、そう言う事です。
0601基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 00:01:31.23ID:p3leMfcC
「正月こえのさずけ」と、御神楽歌にあります。
それは、「第一番」に出てきます。
「一に百姓たすけたい」と、おやさまは言われました。

おふでさきは、よろづよの八首部分の、すぐからこう続いています。
 だん/\と心いさんてくるならバ せかいよのなかところはんじよ (1-9)
 このさきハかくらづとめのてをつけて みんなそろふてつとめまつなり (1-10)
 みなそろてはやくつとめをするならバ そばがいさめバ神もいさむる (1-11)

いちれつに神の心がいづむなら
ものゝりうけかみないつむなり (1-12)

りうけいのいつむ心ハきのとくや
いづまんよふとはやくいさめよ (1-13)

りうけいがいさみでるよとをもうなら
かぐらつとめやてをとりをせよ (1-14)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このようにあります。
陽気遊山の土台は、「ところ繁盛」であり、それには、食糧問題こそ最重要だからこそ、
親神様は「こえ」を、教え、与えようとして、「立教」されたのです。

それを、きちんと伝えられないどころか、わが教会わが信者、わが理の親、わが理の子と、
恥も外聞も、お筆先も、全く無視の、かれら天理教と言う門内の「たちもの」。
これを掃除しなければ、親神さまの残念は、立腹は、収まらないと、
お筆先には、ちゃんと書かれています。
もう、皆様には、理が、見えたと思います。
0602基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 00:08:25.91ID:p3leMfcC
「とうじん」については
ありがとうございました。
とうじん思想はおやさまがお嫌いなのは理解しました。
イギリスがイランに対して報復すると発表しました。
すでに、イランの核施設に攻撃情報もあります。
ただでさえ、ヨーロッパ経済危機が騒がれているのに…
これから世界はえらいことになってきそうです。

ところで、「とめふで」本部未公認の本席さまなる
お言葉がありますが、信じていいものでしょうか?
まるで、世界終末の予言のようです。
0603基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 00:12:03.88ID:p3leMfcC
とめふでについては、以前にも述べた事があります。「異説」そのものです。
異説である根拠を、説明しますと、とめふでの文章の、矛盾です。

http://www.geocities.jp/kokugen3625/tomefude.html
「とめふで」・・・・・
さあ、これより一寸さとして日本中授けで響きわたらす。
神の話みな疑うている。
討つ者あれば討たれてみよ、向かって切る者あれば切られてみよ。
一人一名の心定めたら一人で千人助けするのや。
神がにをいかけて出すのや。一人でも人の助けさすのや。これ程大きな「こうのう」はない。
道の者は、神の授けたる借りものの理をわきまえたものは、心の因縁、道のものは田地はいらん。
田地は世界の信者のものがある。これも作ってあまりの心を運ぶ。これを結構と思わにゃならん。
また、席ずみのものは、見わけ聞き分け、この世の因縁の理を聞き分けて、財産を売り払い人を助け、これは因縁の理とす。
これにそむけば、命も財産も神が受け取る。
この事はいつの事やと思うなら、三六二五の暮合いに、これを百十五年限りとす。
この時は、小さい魂をこの世に返して牛馬と生き返す、これを承知せよ。
それ故に、今日一日を生涯の日とす。早く悟れよ。神がせき込む。さあ/\急いで働け。
わずかな日やで。今日一日を万日に向かうよう、聞いて悟らにゃならん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「道のものは田地はいらん。」これは、おやさまの教えには無いものです。
0604基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 03:59:36.88ID:D2bV2Iio
> 「道のものは田地はいらん。」これは、おやさまの教えには無いものです。
天理教の教えの上で、一番の基準は「みかぐらうた」ですが、みかぐらうたには、こうあります。
その、原典の御神楽歌には、七下り目にこのようにあります。

三ッ みなせかいのこゝろにハ でんぢのいらぬものハない
四ッ よきぢがあらバ一れつに たれもほしいであらうがな
五ッ いづれのかたもおなしこと わしもあのぢをもとめたい
六ッ むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい
七ッ なんでもでんぢがほしいから あたへハなにほどいるとても

おやさまの教えは「いつも豊年教えたい」のですから、「田地」が無かったら、豊年はないわけです。
その田地を、道の者はいらないと言う、そんな教えは、天理では無い。

「命も財産も神が受け取る」という文言にも明らかなように、
また、「席ずみのものは、見わけ聞き分け、この世の因縁の理を聞き分けて、財産を売り払い人を助け、これは因縁の理とす。」という文言でも明らかなように、
田地財産を、神に奉納せよと言う、投げ出せと言う意図が明白です。

天理教の異端が、おふでさきの言葉を混ぜて、言葉上手に組み合わせて、信者から財産を巻き上げる為に作文した、「偽おさしづ」ですね。
0605基本。
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2018/11/26(月) 04:02:02.47ID:D2bV2Iio
お指図は、お筆先とは共通の用語は、あまり用いられていません。
天理教の教理を悪利用して、脅して、「財産放棄」を信者の義務だと、洗脳するための、偽造原典。
内容が、過激だから本部が認めていないとか言う、口上は、詐欺師の常套社団です。

異端の作成した偽造お指図ですが、教団幹部が、『いや、実は門外不出の、「とめふで」があって、
田地や財産を売り払わないと因縁は切れないと、教えがあるのですよ。』
『今に、死人の山が・・・』『その時に、たすかるには、因縁を切ってないとたすけて頂けない・・』
こんな風に、脅し揚げていくのにも、利用された事でしょう。

情けない事に、教団幹部、山名系や愛町系には、
まことしやかに、そういう脅しの偽教理で集金していた「泥水」が混じっていると言う事も、忘れてはいけません。
0606基本。
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2018/11/26(月) 04:05:05.58ID:D2bV2Iio
> 本席様の後継者は上田ナライト様ですよね。

このご質問ですが、そうではありません。
「本席」と言う言葉は「別席」という言葉と対句のようなものです。
親神さまが座る席という、そんな風に理解したら分かると思います。

人は神というお言葉がありますように、誰の心にも「神の席」があるわけです。
そういう、隔ての無い思案の上では、本席様は特殊では無いと言う事です。
k指図では、
明治二十年三月二十五日 午前五時三十分
刻限御話
『一寸頼み置くと言うは、席と定めたるといえども、今一時にどうせいと言うでない。
三人五人十人同じ同席という。
その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。』

このようにありまして、「同席」の皆同列の中に、綾錦の上に絹と言う、その程度の差と言う事は明らかです。

本席様と言う立場を、「教祖の後継者」と定義するのは、重大な理の誤解です。
ですから、「教祖→本席→ナライト」という、天啓者の継続と言う組み立ても、大間違いです。
ぜんぜん物が違うという言い方が出来ます。

> あちこちの教会でもこんなことがあるんでしょうか?

私の近所の教会長さんは、入信したてのころ、赤衣のおやさまを見て、それで熱心な信仰をしています。
でも、お地場にて、赤衣のおやさまを見ても、その後信心は全くしなかった人の例も知っています。

重大な問題では無いと思います。

皆「同席」、一列ということですから。
0607基本。
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2018/11/26(月) 04:08:16.30ID:D2bV2Iio
授訓について(その一)
※みちのとも大正七年八月号に「授訓に就いて」という記事があります。これは‥

 大正7年7月11日 中山たまへ(初代真柱夫人)、授訓のお運びをする。(改訂6版 天理教史参考年表・高野友治編・養徳社・平成9.4)

という出来事に対する記事であります。冒頭を読みますと分かるのですが、
あきらかに上田ナライト様から中山たまへ様への授訓(おさづけ)のお運びの交代に対する、本部の公式な見解(あるいはそれに準ずるもの)と言えると思われます。
将来の参考になると信じまして、ここに紹介させて頂きます。(いつものように、旧仮名遣い等は適宜改めさせて頂きます)
0608基本。
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2018/11/26(月) 04:11:10.72ID:D2bV2Iio
 授 訓 に 就 い て

   一

 今回前管長夫人が上田奈良糸様の御病気御差支えに付授訓の運びをせらるゝに至りました。

そこでこの事情の経過を知らざる部下先々に於いては、多少の誤解が生じんとも限らぬので、
如何にして前管長夫人が授訓の運びをせらるゝに至ったか、
その事情の経過を明瞭にすると共に、本教の教義の上からも、
本教の歴史の上からも、これが当然の処置である事を説明しておきたいと思うのであります。
 そもそもこの問題は、本年の三月廿三日来の上田奈良糸様の病気が動機となり、遂に今回の結果になったのであるから、
この病気及びこれに対する本部員の協議から申し上げなければ分明(※1)せないのであります。
::::::::::::::::

資料は、↑、当時の事情を述べていますが、
お授けを渡すということについては、東京に教会本部が設立されたとき、「松村吉太郎さん」が、一時、渡していたという史実があります。
それは、おさしづにて、神意を受けてのものでした。
松村吉太郎東京に於てさづけの事に付伺
0609基本。
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2018/11/26(月) 04:18:33.56ID:D2bV2Iio
明治二十一年五月二十三日(陰暦四月十三日)

さあ/\尋ねる処、一寸分かるまい。一名一人さづけ処、内々しん/\処々、あちらこちらで違い、代として又一つ代理勤めさそう。

このように「代理勤め」として許されています。ナライトさんを引っ張り出すとか、していません。

誰が渡すのではない「おやさま」が渡すのです。
代理は、内内の「しん」がなさるようにということですから、その部者部者のしんが、代理するのは、きわめて自然な天理です。

代理が誰かということは、内内の事情ですから、考えすぎても意味はありません。
0610基本。
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2018/11/26(月) 04:25:03.46ID:D2bV2Iio
おやさまがご存命で、お屋敷はおやさまの、神屋敷です。
それが、いつになっても同じことだという、それを理解できていないと、意味のない考えすぎに陥ります。

医者が薬を渡した、それを受付の事務員が代理して渡した。
免許証を、受け取るときに、代理人はだれかと、問題にする人はいません。
当事者というのは、代理人に過ぎない。
誰が、代理人に選出されたとしても、渡すのは「おやさま」です。
0611基本。
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2018/11/26(月) 04:28:31.13ID:D2bV2Iio
おつとめは、基本は、「たすけのためのおつとめ」です。
自分の「ほこり」はおつとめで、払うということは、結果論的にくっつけるとそうなるかもしれませんが、
それは、食堂とトイレをくっつけた様な無理な論理です。

掃除用のバケツの水と、渇きを癒すための水を、一緒くたに思案するのは、味噌くそ一緒。暴論です。

埃を払うには、自分の精神そのものです。あるいは、行為そのものです。
何かに祈願して、自分の贖罪をするというのは、天理ではありません。
「信心するものの心得」で、一番大切なのは、「陽気遊び」が、基本です。
原典でいうところの「陽気づくめ」です。
0612基本。
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2018/11/26(月) 04:31:05.33ID:D2bV2Iio
ですから、「信心して、陽気になる」という、そういう思案は、原典にかみ合いません。
信心していても、いなくても「陽気づくめ」が、可能であり、大切なわけです。

では、どうして信心するのでしょうか?
それは、おやさまが恋しいからですね。そしてこの世の普請をおやさまとともに、したいからです。
だから、おたすけの為の「おさずけ」を頂くわけですね。

そして、よろず助けのおつとめの、学びをし、朝晩に、たすけを祈願する。
それが、信心のはじまりですね。
0613基本。
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2018/11/26(月) 04:34:06.88ID:D2bV2Iio
> ここ最近熱心に信仰していた方が、若くして病気で亡くなりました

先ず、この問題ですが、熱心な信仰というのは、「近道」、最短距離というものを求めがちです。
生きる事を急ぐと言う事は、密度を濃くする事ですから、濃い時間をすごして、生き急ぎ→死に急ぐ。
「薄きは誠」「薄きは天の理」と教えられています。
熱心が、急く事になりますと、それは、埃そのものですから、生きている事そのものの意味を失うことになります。

さて、大工さんが仕事をしている現場では、木屑、鉋屑はたくさんあります。
それは、正味となる「柱」や「板」が、出来ていくから、屑も出ます。

屑のまったく無い現場は、いわば死んでいる現場です。

埃の出ないような人生では、正味も、少ないということ、理として心得るべきです。
0614基本。
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2018/11/26(月) 04:37:05.98ID:D2bV2Iio
生き急がないで、つまり死に急がないで、埃の無い現場にしない。
そういうことの一例として、おやさまは、病んでいる手と健康な手を示されて、
やんでいて何もしない手は、きれいだと、働いている手は、そんなものではないと、示されたと、ありました。

旅行やお酒を飲んで歌うのも、働いているから、楽しい、楽しめる。
そういう陽気もあれば、じっとお月様を眺めていると言う陽気もあります。
「信仰の不熱心」が楽しめたら、「埃ばかりの現場」が楽しめたら、陽気づくめに、なれます。
「因縁の切れない事」が、親神様のお慈悲である事すら、楽しむ事です。
0615基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 04:41:04.78ID:D2bV2Iio
「たんのう」。
これが、因縁を切る唯一の道と教えられています。
「我慢、辛抱」も、たんのうのひとつですが、「たんのう」とは「堪能」と理解する事です。

「たんのう」とは「堪能」、つまり精通する事です。

大工仕事に堪能と言えば、精通していると言う事です。
お酒に堪能と言えば、お酒に精通していると言う事で、酒のみの因縁を切ろうとしたら、御酒に精通し、お酒の飲み方に精通し、お酒の肴に精通する事です。
精通しようとしたら、酔ってなんぞいられない。
利き酒の出来る人は、なめる程度しか召し上がりません。
酔いつぶれていたら、ソムリエにはなれません。
精通しないで、辛抱しないで、我慢しないでいたら、本当の味も飲み方も分からない。
ただ、酔っているだけと言うすがたが、因縁の切れていないすがたと言う事です。

酒の楽しみ方を知らない。
つまり、因縁が切れていないということは、酒で陽気になれない姿。
酒に精通し、うまい酒をうまく飲む事、楽しめることが出来たら、因縁は切れているのですが、
「断酒」していては、酒で楽しめないと言う、悪因縁は全く切れていないと、そういう事です。

陽気づくめに、酒を飲めたら、因縁が切れたということ、です。
0616基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 04:45:11.36ID:D2bV2Iio
精通するには、たんのう。「単能」です。
シンプルに、そのことにのみ能力を注がないと、精通は難しいものです。
「単能」の反対が「万能」です。
万事に精通すると言う事を、望むと、「欲」です。
「単能」ではなく、「万能」になったら、「玄人」として、無理があります。

人を助けたいとしても、万能はおやさまにお任せして、自分はたんのうであることです。

出来ない九千九百九十九の、己の無能を、「結構やなあ」と楽しめないと、たんのうは、成り立ちません。
0617基本。
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2018/11/26(月) 04:50:14.94ID:D2bV2Iio
> 「埃を払うには、自分の精神そのものです。あるいは、行為そのものです。」
> について具体的にお聞かせくださいませ。
> 精神は人をたすける心使いで行為はおたすけなのでしょうか?

具体的にいいますと、「正味=真の持ち味」と「正味でないもの=埃」との、精神においての「分別」であり、「仕分け」を、日常に常に行う精神力です。
例えば、人が誉めてくれたとしますと、これを、「正味」と受け取るのか「埃」と受け取るのか、心を澄ませて思案する、精神、精神力が、必要と言う事です。
奥さんが真心から、悪いと叱る行為を、「カス」と、いらん事してと、受け止めていては、埃の掃除は出来ません。
友人が、悪いことに誘うのに、とても親切で優しくても、「さすが友情」と受け止めていたら、埃の掃除は出来ないわけです。

それで、基本的には、おやさまにお願いして、「善悪」をお知らせ頂けば良いわけです。
それは、「左善・右悪」と、教えて頂いていますから、日日に、おやさまに教えてくださいと、頼んでおけば安心です。
知らせが何も無かったら、悪では無いわけですから、埃だと、神経質になる必要はありませんが、
右足をくじいたり、右手をはさんだり、右頬に出来物が出たら、基本的には埃ですから、すぐ、対処し、心を変えればよいのです。
0618基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 05:01:29.43ID:D2bV2Iio
行為そのものとしては、その知らせ、サインのようなものですが、サインに従うことです。
赤信号なら、止まり。青信号なら、進む。

サインの見落としは、しても、たいした問題ではありません。
神様が、またよこせばそれで、すみます。
サインの無視は、三回やったら、見捨てられる行為ですから、神の慈悲にすがっても、無理です。

精神とは、「精」「神」。
「精」とは、国語の意味は、
[1]生物の根元にあるもの。たましい。精霊。多く人間以外の霊魂についていう。スピリット。
[2]生命の根本にある力。心や体に備わる力。精力。
つまり、その人の根源ですから、全てにおいて、心の根源を、
「神」に置くと言う、状態が、精神そのもの。
おやさまに、お任せすることです。

そして行為とは、おやさまのお知らせや、なって来る理に、「理」に素直と言う行為です。
0619基本。
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2018/11/26(月) 05:05:21.00ID:D2bV2Iio
> 精神は人をたすける心使いで行為はおたすけなのでしょうか?

人をたすける心と言うものは、「誠真実」ですから、神に適っています。
しかし、それだから、「埃」は無いかと言えば、人をたすける心と言う心にも、「埃」は、それは必然的に生じます。
人をたすける行為だから、汗をかかないのかといえば、汗は出ます。
真心でしている行為でも、大工の仕事場なら、屑や埃は、それは、あるのが当然です。

つまり、真心の料理でも、台所には、生ゴミがでる。
おやさまは、「私でも台所に立ったら埃が出る」と仰せられたとの事です。

つまり、「埃の掃除の為に、人をたすける」というのは、「お座敷とトイレが一緒」なので、ちょうど、刑務所の中での生活のようなものです。

埃の掃除をしたかったら、それは、人たすけでは無い。
人をたすけたいという、その心だけが正味、真価であり、人をたすけてわが身助かるのは、教えられたところの「天理」ですが、
それも、全てをおやさまに、もたれきると言う、天理教徒なら、当然のことに、心は砕くべきです。
0620基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 05:11:54.96ID:D2bV2Iio
> つまり、「埃の掃除の為に、人をたすける」というのは、「お座敷とトイレが一緒」なので、ちょうど、刑務所の中での生活のようなものです。

↑ このように比ゆしましたのは、「因縁切る」ということを、「罪の償い」と、そのような認識があるから、
結局は、人をたすけることで、己を清めようと言う、言うなら贖罪の発想が、心に浮かぶと言う事を、お分かり頂きたかったからです。

人をたすけると言うのは、己の「神性」を生かしきる行為です。
しかし、それにも「埃は、必ずある」、ということは、「埃とは正味の本質を教えてくれるもの」です。
お魚の「アラ」を掃除して、お魚の真の美味を味わうのであり、
それを、仕分けし、分別しないと、人助けどころか、わが身への執着となり、一緒くたに、ゴミになってしまいかねないと言う事ですね。

お分かり、頂けたでしょうか。
0621基本。
垢版 |
2018/11/26(月) 05:15:04.17ID:D2bV2Iio
> 八つのほこりを使わないよう常に気をつけて
> 「陽気づくめ」なのでしょうか?
埃を余分には出さない配慮は、マナーかもしれませんが、埃を出さないということは、正味が生かされていないと言う事に成ります。
例えば、増井りん先生は、怒りっぽくて、一寸でも遠慮したりすると、すぐ、怒りつけたと、聞きました。
正味を出すとは、埃を積極的にバンバン出す、それくらいな気持ちだないと、真価は表れず、道は先に進みません。

おやさまは、この道は、と、限定されて、道の者の出してはならない「埃」を教えられていますから、それだけは、気をつけるべきです。
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