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■無門関 第一則「趙州狗子」
【 本 則 】
趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無。
〔趙州にある僧が尋ねた、「犬にも仏性があるでしょうか」と。
趙州は「無」と答えた。〕

【無門禅師が言う】

無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし。
妙悟は心路を窮めて、絶せんことを要す。
祖関透らず、心路絶せずんば、尽くこれ依草附木の精霊ならん。

〔無門が言うには、禅の実践には、まず「祖師の関」を透らなければならない。
そして、悟りを得るには、心の状態を見窮めて妄想・煩悩を滅してしまうことが肝要である。
祖師の関も透らず、妄想・煩悩を滅する経験もないのに禅を云々するならば、それは中途半端な似非禅者に他ならない。〕
しばらく道え。如何なるかこれ祖師の関。
ただこの一個の無字、すなわち宗門の一関なり。
ついに之をなづけて禅宗無門関という。 

〔さあそれでは、祖師の関とは何か。
それは、この一個の「無」字である!これが、禅宗の第一の関門であり、名づけて「禅宗無門関」というのである。〕
透得過する者は、ただ親しく趙州にまみゆるのみに非ず。
すなわち歴代の祖師と手をとって共に行き、眉毛あい結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。
あに慶快ならざらんや。
透関を要する底あることなしや。
あるときは仏となり、またあるときは祖師となって良いの悪いの、好きだの嫌いだなどと、とらわれる事もなくなり、泣くも笑うも怒るも、何のこだわりもなく自由自在になる。
それでは、どのように拈提しなりきっていけばよいのか。
それには、平生の気力を尽くして、この「無」字を拈提するのだ。
もし間断なく拈提するならば、ついには法燭に灯がつくように、無字三昧の境涯が得られるだろう。〕
  頌に曰く・・・則に対する漢詩表現
狗子仏性、全提正令。
わずかに有無にわたれば、喪身失命せん。
頌に曰く
〔狗子仏性、全身全霊で「無」字を拈提せよ、そこに少しでも有だの無だのと思慮分別心がでたら、すべてが台無しになってしまう〕