玉城さん訳の現公案 ありとあらゆるものが仏法であるとみるときはには、迷いもあり悟りもあり、修行もあり.
生もあり.死もある。しかしありとあらゆるものが無くなったときには、惑いも悟りも無く.諸仏も衆生もなく
生も滅もない。一切は無である。仏道はもとよりこのような有無の境界をとび抜けているのであるから事実は事実
のとおり、生滅もあり、迷悟もあり、衆生も仏もある。しかしそうでありながら花がちればまことに惜しいし、くさ
が茂ればいやなものである。
自己が主体になって環境世界を実証するのが迷いである。逆に環境世界が深まって、そのなかで自己が実証される
のが悟りである。迷いを大悟するのが諸仏であり、悟りのなかにありながら迷っているのが衆生である。
さらに悟ったうえにも悟り抜いていく人もあり、迷いのなかに迷いを重ねていく人もある。諸仏がまさに諸仏
なるときは、自己は諸仏であるという意識は無い。しかしながら悟っていく仏である。だから仏を悟つていく
のである。身心をかたむけて色に身入り、身心をかたむけて声に聞きほれるときに、自分では良く会得しているの
だが、しかしそれは、鏡が影にやどり、また月が水にうっるようにはいかない。一方を実証するときは、ただ一方たけ
であって、他方は見えない。?我々はああ凡人でもまあ良いかゴン柄がつちゃつた
自分に熱田メガネかけないとよく見えない視界