因分可説、果分不可説と言うのはつまり、悟りは説けるか否かに掛かる話の事なんです。
仏性は、涅槃は、成仏は説けるか否かでも良いでしょう。
禅では核心を言葉で説きませんから、基本的に果分不可説なんです。
しかし、説く事が出来ないだけで伝える事は否定されてない。
この事実が禅問答や禅の修行の形になっていると言える訳です。

空海さんの視点は、上記も如来の直説だと観る訳で、やはり天才と言わざるを得ないと思われます。
箒で引っ叩かれるのも如来の直説、払子で引っ叩かれるのも如来の直説だと。