ショーペンハウアーは「世界は私の表象にすぎない」と述べています。カントと同様にショーペンハウアーは、「物自体」は表象
されえないと考えたのです。カントは先天的な直観の形式として時間と空間とをあげ、それらによって構成された現象は、因果性
の法則に支配されるとしました。ショーペンハウアーは時間、空間、因果性を「根拠の原理」と呼び、これらが表象を成立させる
形式とみなします。こうした「表象としての世界」の中では、物自体を理性によって認識することはできません。しかし、ショー
ペンハウアーはカントのいうところの物自体を意志と規定することによって、「意志としての世界」という新たな構想を生み出し
ました。この意志としての世界について、ショーペンハウアーは特に身体に注目します。身体運動は直接的に認識される意志であり
、逆にいえば意志の客体化でもあります。たとえば、物を食べようとする身体運動は私の意志の現れであり、両者は同じものでなの
です。こうして考えると、人間の意志は知性によって生じるのではなく、生を意欲する衝動の中にこそあると言えます。つまり、
意志とは「盲目的な生への意志」に他ならないのです。ここで盲目といわれるのは、意志自体が根拠のないものであり、認識を欠い
た存在であるからです。人間のみならず、植物も動物も、根源的な生への意志の発現に他なりません。そして万物の根源としての
意志を、ショーペンハウアーは「原意志」と名付けます。世界とは原意志の現象、客観化なのです。 生の苦悩と解脱 意志の肯定
はエゴイズムを追求する個体間の闘争を招き、また際限のない欲望は空虚を生み出します。それらは努力、崇拝、錯覚などによって
一時的に回避することは可能ですが、結局この苦しみから逃れるすべはありません。「一切の生は苦悩」なのです。
?哲学者は食う脳の正解を否定するけど私は苦悩の意味解らない不利