クリシュナムルティ [無断転載禁止]©2ch.net
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生と覚醒のコメンタリー
クリシュナムルティの手帖より 現在は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。
いまの中に一切の時間があり、そしていまを理解することがすなわち、
時間から自由になることなのである。
何かになろうとすることは、時間を、悲嘆を持続させることである。 なることは、あることを含まない。
あることは、常に現在におけることであり、あることは、変容の至高形態である。
なることは、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに、
あることのうちにのみある。 人は、伝統や習慣、衝動や偏見、模倣や怠情を通じて、宗教的、
政治的にあれこれの集団と自分自身を一体化させる。
この一体化は、一切の創造的理解を終焉させ、そうなれば人は、
政党の首領や司祭、あるいは支持する指導者の意のままになる、
単なる道具にすぎなくなってしまうのだ。 愛は繊細で傷つきやすく、柔軟で、受身的なものである。 刻々に体験するには、一切の一体化が終わらなければならない。 誰か他人について好意的に、または悪意をこめて話すことは、
自分自身からの逃避であり、逃避が落ち着きのなさの原因である。 あるがままを理解するのは、即座の気づきが必要である
なぜならば、あるがままの実相は、決して静止してないからである。 思考自体が作り出した問題に対する不断の緊張は、
ただいたずらに精神を曇らせ、鈍感にし、疲れさせてしまうだけである。 思考は、その感情的で感傷的な中身ともども、愛ではない。
思考は常に、愛を否定する。
思考は記憶にもとづいている。
しかるに、愛は記憶ではない。 思考は、その本性上、分離的なものである。
時間と空間、分離と悲嘆の感覚は、思考過程から生まれる。
それゆえ、思考過程が終わるときに初めて、愛がありうるのである。 思考の正体に気づき、そしてそれを刻々に体験し抜かないかぎり、愛はありえない。 未知なるものがあるためには、知識を捨て去らねばならない。
しかし、それは何と困難なことか! 未知なるものは、未来でなく、現在である。
未来は、不安定な現在を突き抜けて進んでいく過去にすぎない。 名望は、災いである。
それは、精神と心とを腐敗させる「悪」である。 精神が経験するのをやめない限り、未知なるものの刻々の体験はありえない。 経験者なしに理解することは、一者ならびに多者から自由であることである。 一時期、ハマりました。
瞑想録と最初で最後の自由は、マハリシの本と合わせて読んでました。
坐禅に専念しようとまとめて売っちまったけどな。 >>19
坐禅に専念することはいいことですね。
わたしはどうも落ち着きがないです。 那智タケシって人が、クリシュナムルティの著作を読んで覚醒体験が起こった事を、
「悟り系で行こう―「私」が終わる時、「世界」が現れる」の中で、そういや書いてたな。
何か参考になるかもなー。
「キッチン日記」の中でクリシュナムルティがマイケル・クローネンに「私の言う事を理解した人はいなかった」と語ってたな。
そりゃそうだろうって話だな。山上に実がなっててクリシュナムルティがそれを味わってても、他の人に歩み方や経路を示してねえからな。
あらゆる宗教は欺瞞であり、真理は道なき道である。だったかな?
クリシュナムルティの体験自体が歩いてたら突然、辺り一面が歓喜に包まれたようなもんで偶発的だったから、そうなったんだろうね。
星の教団を解散したのを見て、本当に純粋な人なのは伝わって来たし、好きだけどな。
まぁ、そんだけ素晴らしい歓喜なら僕も頑張るぞ!って自身に発破かけるには読む分にいいと思う。
斎藤啓一って人もクリシュナムルティとグルジェフに影響を受けてて、良い事も書いてるから参考になるかもな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています