【イエス】無教会の人が集うスレ★2【キリスト】©2ch.net
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神は実際に存在する。《神は霊である》そして、神は《地上のものに心を引かれた者を全く信仰の無い者》とされた。
私は《栄華と権威をもっと得ようとする(野望のような)ものに従い、神と共に在る一切のものが安らぎに満ち・平安に満ち・一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無い・あなたがた
は何でもできる、できない事は何も無いが真実となる世界から、悪い心もある心を得た。全世界は悪しき者の配下であると知っている》
真理の御霊は、イエスを証明する。後々のことだが、迷っている私に、人格神が直接教えにきたのだから、キリスト教会が違うことを行っていれば、彼らは、神より悪しき人間
に従っていることになる。
【神の義と信仰は地上のものに心を一切引かれない、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを喜ぶ国】
そして、私たちは愛情深いような神はおらず、神の律法《からし種一粒ほどの信仰の無い者》となって、【ただ中にあるものに従って、肉である状態を制御して生きねばならな
い】 自分が生きていることだけを重視して、【世の富への貪欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇りへの貪りにあくせく仕え、悩み苦しみ思い煩い、金を得て、肉の欲、目の欲、持ち物の誇り
もある人間の生活活動を喜んでいても、神と永遠の命は無い、宗教的行為・人の手で作られた偶像・・・で救われる者は誰もおらず、人間の宗教を信じても滅びる者なのである】
人を甘やかす肉に対して善い神ではなく、全知全能の神は、悪しき者の配下である人間となっても知って、霊に従えば益をもたらす。 ----
† ルカによる福音書11.43-46
わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、
自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
原発は日本を不幸にするだけです。地震大国なのです。次はないのです。
† マタイ23.13
しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
---- まこと君
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救われたか? 神様の律法は【愛】
重荷を負うことの無い国に生まれることができる者は【地上のものに心を引かれず、イエスの神の栄光を信仰あり義と信じて、ただ衣食があれば足り、何事も思い煩わないよう信
仰のみに生きる者】
私たちのほとんどは天でも地でも、それができないために、《土に帰り、永久に生きるであろうか?》という運命。人間は【人間でいたいと叶えられ生きつづける】
それでもうあなたは【右か左か】により分けられた=神様
もう私たちは無(霊)にならなければ、神に本当に信仰ありとされない。
無→天体→太陽・月→地球→大自然【聖霊に満ちて荒野】世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わない者と自分自身に囚われない生命の慈しみが、神と永遠の命に近い
と物質界を創られた。 【聖霊に満ちて荒野】
《山へ逃げよ》人の手で造られたものは一切無い、教会が話さねばならないことなのだが、教会すらない。世の創めも終わりもそのとおりが義となる。
【全世界は悪しき者の配下】
神と共に何でもできるできない事は何も無い者から、罪を犯したため、栄華や権威をもっと得よう、拡大しよう、悪い心も一切無かったが、悪い心もある悪しき者に従い、人間の心
を得た。《必要なものはご存知》と書いてあるのは、無知なキリスト教会でも、全ての偶像礼拝者でも無く、神は【神には罪を犯しからし種一粒ほどの信仰の無い者となったが、神
は全ての生まれる人間を尊重されているからである】《罪に定めるな・さばくな・ゆるしてやれ》は、神がこの世の全ての人間を尊重しているとう意味でもあり、そこで私たち人間
が悪しき者に従い《目には目を》を可能にした人間の状態に従っても、神と永遠の命には遠い。 《主・この世の君》《悪しき者の配下=世と世にあるものと聖霊》
―人には〜神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆う者はゆるされるであろう〜しかし、聖霊に対して言い逆らう者
は、この世でも、きたるべき世でもゆるされることはない(マタイ)
神は地上のものに心を一切引かれない者を信仰あり義としている方。そんな信仰できるかと言う者もゆるされる。イエスが《地上で罪をゆるす権威》で、肉である者の悩み苦しみ思い
煩いを神のわざで取り除いてあげようとされた。
―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって(ガラテヤ)にいつも忠実でなくとも、ゆるされるであろう=永遠の命から離れる心が一時的にあ
っても、しかし、善い神と永遠の命のあわれみを非難する者は、この世でも、きたるべき世でもゆるされることはない。
大震災の時でも、衣食住の無い人々に衣食住を・・人間の先生(悪しき者の配下)は全ての国民に仕え、人間の医者も目の前の人の悩み苦しみ思い煩いの無い誠実な治療で先生であ
ったし、悪しきままのTVですら自制し、義捐金を募集したではないか=罪を犯した人類への全知全能の神の働きである。
そこで(神は苦しみもある地を放置して、いったい何者?)と疑念を抱いたとしよう。【地上のものに心を引かれぬ者が私への信仰である】と。
自然のままで、多くを失っても暴動や略奪などせず、耐え立派だとされた人々こそ、遠い私たちよりも、まだ近い。 キリスト教会や信者が人々に話さねばならないことは、誰かを悪に定めることでも無い。
全世界は悪しき者の配下、人間は天国で既に罪を犯したということを知っている。
その悪い者が人間の宗教で【知恵の無い者・心の汚れた者などを束縛する】聞いてもわからない者をそのままの状態で【天国に行けると捕る】
1)神様は霊で地上のものに心を一切引かれない国のみを信仰あり義とされる。
2)人の子で地上で罪をゆるす権威。イスラエル
神のわざであわれみの行い。何事も思い煩わないよう祈るあわれみや慈悲が、何でもできる天国につながる。また、世に打ちひしがれた人が、神を信じる時は、神の栄光のこ
の姿をいつも喜び、何事も思い煩わないようにしなさい。ただ衣食があれば足る暮らしで信仰により生きなさい。
3)からし種一粒ほどの無い律法と聖霊に満ちて荒野
大自然を喜ぶ心や生物への慈悲が、神様に近いと創造された。 4)全世界は悪しき者の配下
【あなたがたは他の者と同じ愚かな者】だれかれ関係なく「よい天気ですね」「こんにちわ」と挨拶しても、富に仕えることは善いことではない、自分自身のため他の人に負
担をかけても平気は悪で、労苦し働こうと心の中で思い働いても、一日の苦労はその日一日だけで十分に反し、あくせく働く過労は悪で、たとえ働けない人がいても天国と同じ
悪者と決め付けてはいけない。
天国での《公平とあわれみと忠実》をこの世で思い、格差是正や正しい者たちが、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し与えても、悪い言葉を言わないで自分で正当な働き
をしても、争わないで平和を喜んでいても・・・
神にとって【獣のような者からやっと心ある人間らしい者】となった程度で、「主よ、主よ、神よ、神よ」とあなたがたは言えるほどでも無い。神は霊であるということ
をよく知りなさい。【人々の富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕え、悩み苦しみ思い煩い、金を得て、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを得ても平気】
だとする者は、全て滅びの者なのだ】
豊かになった、なに不自由もない・・そういった暮らしこそ、神にとって【神と永遠の命に無い】滅びの者で、聖霊から来る言葉を善いと受け入れられる心、行動を
行っても、【やっと心ある人間になった】程度。 《父・子・聖霊》
―不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである〜彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造主の変わりに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造
主こそ永遠にほむべきものである(ローマ人への手紙)
■父
地上のものに心を引かれない霊を右にされ、神の栄光を与えた。人間は無にならないと神の栄光にはなれない。
聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ・生物 人間の状態でそれらを喜んだり・慈しんだりすることが、神と永遠の命につながると創られた。
■子
神の栄光の人格=イエス からし種一粒ほどの無い者と人間の律法。【土に帰る人間はただ中にあるものでつながる】人格はいつも天国の父と一緒・ひとつである。
人が【主よ、主よ、神よ、神よ】と言う者ほど忌み嫌われる。神の栄光を拝ませて、世に打ちひしがれた者などに真実の信仰をさせた。地上のものに心を一切引かれない霊である神
は、【愚かでからし種一粒ほどの信仰の無い者】だと受け入れねばいけない。
■聖霊
神のわざで、あわれみの行いをされた。あわれみ・慈悲・自制などの心が神と永遠の命につながる。
福音を述べて伝えよ。こういったことを人間が理解し生きる。それが宗教の役割だからである。神の言葉である。余計なことを信仰させて行っても神に一切通じない。 ※弟子が新約聖書を書き残す動機は真理の御霊 神様が肉を宿とし、神のわざであわれみの行いをされたとしても、信じれば自分自身を愛し神を信じる者となるだけかもしれない。
しかし、弟子は神様(イエスの姿)から真理の御霊を知らされ、自分自身を思うことより、神の言葉を残すために新約聖書を書き残したのである。
しかし、わたしは真理の御霊を知りながら、イエスや釈迦に興味を抱き、新約聖書を少し読んだだけである。何年か経ってから、東日本大震災の前、神様から直接言葉をいただい
た。【愛・良識・全ての人間の尊重】神は地上の生きる者に天罰を与えない方。真理の御霊を知り、むしろ神様はいるかもしれない?愛情深い善なる神として。「神様はどうして人
を助けて下さらないのですか?」そして神は言われた「あなたは右か左か」私は右とか左とか知らなかったので、(悪いことをしないならききのよい右と答えた)
神は言われた、【地上のものに心を一切引かれない者のみ、私への信仰がある】と。多くを失っても耐え、立派だとされる人々、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し与え、
【地のことで思い煩わないように耐え、また、彼らの悩み苦しみ思い煩いを取り除こうとする者】は神に良識ある者とされ、【肉の欲・目の欲・持ち物の誇りある世で人の幸せ
を喜び、神への思いを抱く者は何者か?】
私は神の怒りと、イエスの言葉をいい加減にして信じると、人間の身体を失った後も、神の責め立てに遭うことを知るために、忠告をするのである。 釈迦も神様であるイエス様に仕える者で、教会は信じられるか?がやっとではなく、神の義の理解と【全ての人間を尊重される】神の理解者でなければいけない。世と世にあるものと
妥協し、心が鈍って神から離れることを教える所ではあってはいけないし、肉の思い一切で神への信仰ありと思わせては決していけない。
現代の仏教は釈迦から逆のものとなり、2500年前の釈迦は神に仕える教えである。
―神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ(ブッダのことば)―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々〜信仰心あり、学び修めた賢明な人は〜食乞う人々に飲食
物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨を降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、
施しを与える人に、降り注ぐ―意識もある心もあるこの身体に即して〜世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない〜世界を知れる人。聡明な人、清らかな行
いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。かれは〜世界の終極を知り、この世もかの世をも望まない(神々との対話)
釈迦の教えは500年後のイエスキリストの予言のため、旧約もイエスキリストを現すため。
―貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない(エペソ)
神は神と実在され、しかし罪を犯した人類もあわれんで下さって、むなしい肉の姿で現れた。あわれみの心が神と何でもできる唯一の神につながり、地上で生きながらえる人類
の益をもたらす。かれは世の終わりも知っているのである。それはいつか、誰もわからない。だが、真理の言葉に目覚めている者だけが、神と永遠の命を得る。 前スレ>>727ろんさん
お気遣い下さいましてありがとうございます。実は色々ありましてご無沙汰してしまいました、
私の無教会キリスト教信仰は一貫して変わることはございません。
私のキリスト教信仰は自室で一人静かに聖書を読み、一人静かに祈ることです。
このような信仰でも聖霊様は私たちの心に宿って下さいます。
あと、聖書以外に副読本としてカール・ヒルテイの著書を読んでいます。
疑問や悩み、苦しみがある時はひたすら祈っていると聖霊様は必ず助けて下さいます。
真の教会は私たちの心の外でなく内に作るものだと思います。
「祈る時には一人部屋に閉じこもり、父なる神に祈りなさい。(マタイ6−6)
「その人の心にキリストの霊が宿ってないなら、その人はクリスチャンではありません」
(ロマ8−9)
「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7−7)
「実に神の国はあなた方の内にある」(ルカ17−21) >>16
ヒルテイにならいてさん。わたしも無教会ながら
聖書や参考になる本を読みながら信仰を深めたいと
思っています。返レスありがとうございました。 四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってるし、ダビンチコードの裏解説書にさえもあったように
キリストは自分の言動が悪くてそうなった上に磔などなっていません。
影武者おいて昔のドリフのヒゲダンスのように「はいちゃらバ〜イ」とトンズラしています。
それに阪神の地震はキリストが起こしています。後から表面上は自分の所へ勧誘するためだったのです。
昔からこいつは他、人にひどく苦労、働かせておいて自分のやった手柄にしたりなどと、このようにズル悪行
大量不正殺人を繰り返してきています。その上常にごまかしてきました、親の七光りで。
そしてロリコンでもあり、幼児にいたずらもした説もあります。
いつぞやキリストの顔の絵を画家が修復失敗して、原始ボノボみたくなってるのが話題を呼びましたが、
あれがむしろ正しかったのですwwもっと言えばフクロウのクソような悪霊です。
ヤーウエもキリストもミカエルもマリアも神仏界では長くひどい罪業がばれてもはや抹消対象となっています。
逆にガブリエルは本当に精進しているし、転生体だったジャンヌダルクはキリストと同じく「なかった」などという
でっち上げ本が出てますが誤りで、本当にみなのために犠牲を払って火あぶりにまでなっています。
だから、教会は今後キリスト、マリアやミカエルなどでもなくそれらは排除し、
それも偽者ではなく(ジュブナイルでもない)本物のガブリエル神を祈るべきです。
さらには、ガブリエルの転生体はもっとも崇め祈るべきです。
キリストが憑依してたやつがいたが、案の定ずるばかりやり他のひどく邪魔をして全てばれて最後はエイズになっています。
そんな奴を祈っていてはいけません。罰せられます。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? マタイ6.12の
「わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
と初期仏教の法句経の
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
はよく似ているな
法句経もキリスト教の補助に使用できるかもしれない ヒルテイにならいて さん
ブログを拝見させていただきました
ヒルティ著「眠られぬ夜のために」も第一部第二部ともに注文しました
届いたら読んでみます
これから先、生きる上で大きな助けになりそうです
この場をお借りして御礼申し上げます >>22さん
レスありがとうございます。私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人々のために」
を見て頂いてありがとうございます。
ヒルテイの読者が増えることは私にとって大きな喜びです。共にヒルテイの著書を通してキリストの教えを
学んで行きましょう。 最近感じたことを書いてみます。たまたま見た他のスレで、皇室とくに雅子妃殿下に対する非難、中傷の
ひどさに驚きあきれました。おそらく皇室を否定する勢力からのものでしょうが。
全く未知の世界である皇室へ嫁され、水槽の中の魚のように常に人の目にさらされるだけでなく、重箱の隅
をつつくようにあら捜しされ、非難、中傷と言う形で浴びせかけられ続ける。どんな人にも耐えられないこ
とでしょう。ここで思い出すのはヒルテイの次の言葉です。
「非常に高い地位にある人達は、幸福ではないのが通例である。彼らは苦しみを舐めて初めて目下の者とも
親しくなる。そうした苦しみこそ、彼らがおよそ手に入れうる最大の幸福であり、彼らにとって真に必要な
ものである。(ルカ17−25)
高い地位にありながらしかも真に気高い人であることは、多くの苦悩を経ずにはまったく不可能である。」
(「幸福論第二部」P.201)
僭越ながら、私は雅子妃殿下にヒルテイの著書を読まれることをお勧めしたいと思います。聡明な妃殿下は
必ずやヒルテイの神髄を理解され、最大の幸福を手中にされるでありましょう。それは皇室の、さらに国民
の幸福にもつながることでしょう。 前スレの最初のほうにいた者ですが、
なんか個性的なスレになってますね…
シュトーレン買いがてら、ちょっといくつか教会を巡ってきます。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? 先だってサインが示される。
それから1週間くらいかな。
速やかに呼んで脱出しないと。
残された物、人に未練と執着を残すな。
レフトビハインドされた人達は艱難に巻き込まれる。
セカンドチャンスはもう無い。 ここの皆様は以前は、以前は教会に通っていて、何らかの事情や考え方の違いを感じ教会通いを辞められたのでしょうか? >>29さん
私の場合はキリスト教に関心はあったものの教会に通ったのはほんの数カ月であり、洗礼も受けなかったので
キリスト教会の信者とは言えません。
私が教会に行かなくなったのは聖書は勿論のこと、平行して読み始めたカール・ヒルテイの言葉と世の教会の聖
職者達の言ってることに開きがありすぎることを感じたことが大きな理由と言えます。
「キリスト教は証明さるべき教義ではなく生活さるべき一つの生命である。」(ヒルテイ著「眠られぬ夜のた
めに第二部」より))
「神の傍らにあること。すなわち、人間の魂に神の霊が宿ることこそ本当に魂の幸福となるのである」(同著第一部より)
また、
「その人の心にキリストの霊が宿ってない人はクリスチャンではありません」(ロマ8−9)と聖書にもあります。
ところが私が出会った聖職者といわれる人たちのことごとくが知識偏重、形式主義、不毛の神学論に陥っており「キ
リストのの霊(聖霊)」が宿った人達とはとても思えなかったのです。その多くが偽善者としか思えない人たちでし
た。ヒルテイはまた「聖書は読むものではなく食らうべきものである」とも言っています。これは聖書は知的レベル
を超えて霊的レベルで理解すべきものだと言うことでしょう。
その後、私はやむを得ず(と言うのが正直なところでした)、>>16に書いたような無教会のキリスト教信仰をはじめました。
しかし、その道も容易ではなく、私が「心の中に神の霊(聖霊)の宿りを受けた」との確信を得るまでには長い年月を要
しました。今は信仰の喜びに溢れた日々を送っています。
その詳細は前スレ>>51以下の私のレスに書いていますので読んで頂ければ幸いです。また、私のブログ「ヒルテイになら
いてーすべての艱難辛苦の中にある人々のために」も併せて読んで頂ければと思います。(ちょっと読みにくいブログですが)
以上で答えになりましたでしょうか。 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? >>30 ヒルテイにならいて様
丁寧なお答えありがとうございます
なるほど、大変参考になりました
私は実は少し前に、ヒルテイにならいて様のブログを拝見し、ヒルティの著書を読み始める事にしたと御礼を書き込んだ者です
その節はあたたかいお返事の書き込みもいただき、ありがとうございました
私もこの先まずは聖書やヒルティの著書をよく読み、いろんな方からのお話を聞き、教会へ通うか否かをじっくり検討しようと思います
全く知らずにいたヒルティの思想との出会いを導いてくださった、ヒルテイにならいて様には感謝しております
重ねて御礼申しあげます 2 :本当にあった怖い名無し@無断転載は禁止:2016/12/15(木) 10:39:30.97 ID:xr/SzUf80
。。。。
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
。。。。
既得権益・拝金主義という欲望に支配され、原発が爆発しました。しかし悔い改めることができず、
ますます堕落しています。誰も責任をとらない社会。陰湿ないじめ、傲慢、裏切り、争い、ねたみ、
足のひっぱり合い、思いやりの欠如、無反省、冷笑、嘲り、散財、おざなり、空虚、諦観、金目
という偶像崇拝、生ぬるいラオデキヤの教会
・・・・しかし慎み、清貧、自制心は薄く、自慢、欲望、比較、優越感、欺瞞・・・・これらに打ち消される。
結局、自分がされて嫌なことは人にはしない、自分がしてもらいたいことを人にする、
この真理・知恵・原理が理解できていない・・・・ゆえに、
争い合う欲望に支配され、あらゆる欲が増大し、制御できず、悪魔の陥穽にはまる・・・・類は友を呼ぶ・・・・
身を切ることができない。ぬるま湯から出られない。出ようとしている者をも引きずり戻す・・・・
偽善は最も危険な悪の連鎖、永遠に続く地獄の苦しみに近づいてしまう・・・・
悔い改めなさい・・・・地獄の苦しみを知ると人はどんなことをしてもそこへ行かないように改心・回心すると
言われています・・・・それほど恐ろしいものなのです・・・・ 時間がありません・・・・気づいてください
。。。。 >>24
皇室は神道を信仰しているから
キリスト教は信仰できないのじゃないのかな
ヒルテイの著作はキリスト教を信じているのを前提に読むものだろうし >>33
前スレでも議論があったけど信仰の中身によっては
教会を通してしか神の恵みは得られない
キリスト教の信仰に教会は必須との考えもあるし
むしろそちらのほうが多数派なのでは
無教会の人は信仰を守るためにそれなりの理論武装もあったほうがいいかな >>35様
33です
書き込みありがとうございます
そうですね、大多数のキリスト教徒の方は教会へ通ってこそと考えておられるでしょうね
私はまだキリスト教を知って日が浅く、まずは教会通いをと思ったのですが
教会と言っても様々で、政治的な色に染まった教会や独特な信仰のルールがある教会、キリストの教えとは無関係の活動をしている教会などがあると知り
慎重に調べ、検討している最中です
こちらのスレッドの方達のお話も参考にさせていただきますね >>35
いい質問ですね。ヒルテイは神という存在を「超感覚的世界の存在」、「人間存在のあらゆ
る力に優ある大きな力」あるいは「全き叡智」とも表現しています。
それは彼がキリスト教世界で語られる神の概念をさらに超えたものとしてとらえているから
ではないかと思います。
アポロ9号の宇宙飛行士シュワッガード氏は宇宙空間での神秘的体験を語っています。その
時感じた不思議な力をライフフォース(生命の力)と呼んでいます。そして「地球も宇宙も
大きな生命体、その生命は地球を包み、地球に生息するすべての生命力に吹き込まれる」と
言っています。(遠藤周作氏の著書より)
キリスト教、仏教、回教、神道等究極的にはその根源をたどればこのライフフオースに行き
着くではないかと思うのです。そうとらえれば宗教の垣根などなくなります。キリスト教も、
仏教も神道もありません。日本人が自然のあらゆるものに神の存在を感じ、祭ってきたこと
を考えてみて下さい。
これまで何度も書いたように私たちの心の中に神の霊(聖霊)の宿りを受けるという回心体
験をすればこのことがよく理解できるます。「聖霊」とはライフフォースそのものだなと
実感できます。 >>36
無教会派のキリスト教に理論武装は不要と言わざるを得ません。。私たちが心の中に
キリストの霊(聖霊)の宿りを受けて真の回心に至ることこそ本当の無敵の武装だと
思います。>>30をもう一度読んで下さい。
それでも理論が必要と言うことであれば前スレ>>83の手島郁男氏の言葉がそれにあた
るかなと思います。 誠に誠にそのように感じます。
良きお言葉有難う御座います。 >>39
キリスト教の枠を超えた考え方では
イスラム教ではイエスは単なる預言者の一人なわけですし
>>40
聖霊派のカリスマ運動に近い考え方のような
その聖霊が宿っているかどうかはどのように判断されるのでしょうか
異言を話せるかどうかでしょうか >>37
キリスト教の教会もいろいろですからね
カトリックとプロテスタントで違いますし
プロテスタントはいろいろな考え方があるし
いい教会がみつかるといいですね
それなりのと書いたのは行き過ぎて理論がちがちになっても
どうなのかなという想いからです
ただキリスト教の信仰に教会は必須との考えを押しつけられるときには
抵抗できないといけないかと >>43さん
後の方の質問から答えましょう。聖霊の宿る過程は前スレおよびブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦
の中にある人々のために」で詳細に触れていますが、簡単に現在の私の心境を箇条書きにしてみると、
@心の中にこれまでとは全く異なる高貴な存在を感じる。そのために心が光で溢れ、平安で幸福な感情に包まれる
ことが多い。一人暮らしをしていても孤独感に襲われることがない。
Aあらゆる生命あるものに友愛、慈愛の心で接することができる。老人、子供、貧しい人、病人、弱い人から動植
物、昆虫に至るまで。
B仕事、家事等活力にあふれ積極的に取り組むことができる。
C人を恐れる気持ちが希薄になる。正邪の判断が迅速にできる。
D死への恐怖感が薄れる。「魂の永遠性」と言うものを感じる。(「復活」への真の理解)
E精神と肉体の健康に溢れていることを感じる。(現在、72才)
Fそれまで不可解だった聖書やヒルテイの言葉が理解できるようになる。
G真実の自分を感じる。
判断の基準はやはり聖書のキリストの言葉でしょうね。ヒルテイの言葉も基準になります。異言については語った
ことも聞いたこともないのでわかりません。悪霊による現象ではないでしょうか。
初めの質問ですが、キリスト教とイスラム教の関連については語る資格はありません。ただ、今日の隆盛をみると
どちらもその原始期においては巨大なエネルギーの働きがあったのだろうと推測できます。そのエネルギーこそ
ライフフォースそのものでありましょう。ただ、仏教も含めて破壊されてますね。そうしてしまったのは人間の利
己心に違いありません。利己心が人間にライフフォースを近ずけさせないのです。
今日はもう眠いのでこのへんで。 >>45補足
「聖霊派のカリスマ運動」は知らないのでコメントできません。悪しからず。 イエス様空中に即位してらっしゃいます。携挙も始まってます。
神の法と教えにとどまらないと挙げられないですよ絶対。 >>45
宇宙飛行士の体験は興味深いですね
その中でシュワッガード氏が20歳代でキリスト教から離れた
無神論者であることも興味深い
聖霊の宿りというのは悟りといわれるものに近いのかとも感じました 性処理について質問致します
文語訳聖書や口語訳聖書など幾つか翻訳がありますが
初心者ではどの翻訳から読み始めると良いでしょうか
よろしくお願いします 余裕があれば
『新共同訳略解』と
『新共同訳 聖書辞典』新教出版‥‥こちらは2800円と安価でハンディの割には
新共同訳に出て来る訳語がほぼ解説されていて便利。
特に人物に関しては網羅している >>51
私はリビングバイブルが分かりやすくて良かったです
現代の分かりやすい言葉と訳で書かれているので挫折せずに読めました 教会では司祭や牧師に否定されるような信仰であっても
無教会では認められる余地がある 311 :本当にあった怖い名無し@無断転載は禁止:2016/12/16(金) 16:13:30.30 ID:OY20DaX80
。。
みなさん、カトリックも正教も良いですが、
あまり敷居は高くない近所のプロテスタント教会に
日曜日にこっそり行かれてはどうですか?
普通の家みたいな単立も良いですが、歴史ある
日本キリスト教団とかなら安心でしょう。
合わなければまた他の教会を捜せばいいのです。
人は全世界を手に入れてもまことの命を損ねたら何の益がありましょう、という
聖書の教えには、人生の意味がすべて詰まっています。
世的な成功も、稼いだ富も、地位も、名誉も、死後なに一つ持っていけません。
神を知ると、心の傷が癒され、罪も弱さも失敗も赦され、まことの平安につつまれます。
いつか聖霊が入るとわからなかった事柄が一瞬で理解できるようになります。
たとえば空の鳥、樹木、風、太陽、星、月、季節、気温、体温、鼓動、心、音楽、感情、愛・・・・
これらすべてに神の介在があることが一瞬で見えるようになります。体得できるのです。被造物を見て
神がこんなものにも関わっておられる・・・・感動します・・・・電池がないのに私たちの心臓は動き、
やがて停止します。しかし新しい命も生まれます。いつか一切が過ぎてすべてがなくなっても、
まことのいのちは滅びないのです。神は然りと同時に否である方ではありません。神は唯一無二、
「わたしはアルファでありオメガである。最初であり最後である。初めであり終わりである」 † 黙示録22.13
みなさま、神を信じてください。救われます。修行も宿題も必要ないです。ただイエス・キリストを信じるだけでいいのです。
あなたもあなたの家族も救われます。もう、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです、アーメン、ハレルヤ
。。。。 >>54
リビングバイブルがよいなんて、しゅん伯さんだけですよ キリスト教の補助は、釈迦滅後に近い経典。釈迦は《言語表現だけのものとして仮に》つまり、誰でも書き残すことができた。《取り除いたり、付け加えてはいけない》は無い。
―全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている(ヨハネの第一)
―世間は妄執によって導かれる〜妄執という一つのものに、一切のものが従属した(神々との対話)
何者かが、人間のこころの状態をつくったのである。知力も無いキリスト教会・反駁仏教の大乗仏教にあなたがたが従うことで、神ならぬ悪しき人間に従うことになる。
■神は地上のものに心を一切引かれぬ国で存在されている。神とは《からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に抜け出して海に植われと言ったとしても、その言葉
どおりになるであろう》そういった関係があるだけだ。全てのキリスト教会は、神に対して知力が無いだけだ。
―煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜あなたは善悪の両者に汚されません(ブッダのことば)
―今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった(ローマ) >>57
すろさん
しゅん伯さんて誰か分からないのですか、リビングバイブルって訳が微妙なのですか?
とても読みやすいと感じたのですが…
おすすめの新共同訳のスタディバイブル今度読んでみます
私も初心者なので ■信じる者に自分の命を憎め
神は地上のものに心を一切引かれぬ霊であり、神の栄光=霊でないと、誰でも信仰あり義とされない方である。
―自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ)
―身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、自己を制した人である(ブッダのことば)
□いまだかって自分の命を憎む者はいなかった
―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興のことば)
―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
□□人間を人間でいたいと生まれた生命のみで信仰無く、全世界の全ての人間を尊重□□ されたのが神である。 >>59
元々は英語版で、誰でも理解できるように
中学クラスの英語ですべてを翻訳しようとした意欲作です。
日本語版もその精神を継いでいるわけで解りやすいわけですが
その分、微妙な訳でもあるのですね
大人が読む聖書ではないと思います。
子供向けにはよいかもです >>61
すろさん
成程そうだったのですか、道理で読みやすいけれど、その分訳としては不完全なのですね
やはり新共同訳に挑戦してみます
ありがとうございます □山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしたちは無に等しい
【土に帰る人間は無にならなければ、信仰ありの者とされない】これは決まりなのである。私たちには余計な思いは一切無く、無→天体・太陽・星→地球→父母から生まれた、
【人間でいたいと生まれた生命のみと尊重】がある。神にとって《いつごろ》というものは無い、《ただ中にある》―愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制で
あって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ)
―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高(ブッダのことば)
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話)
―学び修めた賢明な人は〜心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天が雨を降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、
施しを与える人に、降り注ぐ〜貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話)
―わたしが空腹のときに食べさせ〜旅人であったときに宿を貸し〜「主よ、いつ?(マタイ)〜貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい
(エペソ) □律法を持たない異邦人の自然のままでの律法
《イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない》【忍耐をもって見のがしてあられた神】
地上のものに心を引かれず、神の栄光のわざで、あわれみの行いをされた。それは悪しき滅びの世、土に帰る者の信仰でなく、神と永遠の命を教えるためであり、偶像なるものは
存在しないのである。
一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無い喜びが、人間の姿で《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》の律法となるのであって、
《しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない人間》―この身は泡沫のごとくと知り、陽炎のようなはかない本性(感興のことば)
永遠と善をみんな知っている。知らない人は誰もいない。全知全能の神のわざでもある。
【【そのまま】】
どんな信仰も通じる存在ではないが、《悩み苦しみ思い煩いが無い》がこの世であわれみとなって現れる。肉の思いで人間が宗教に頼ろうとしても何ひとつ通じないように
人間を造られたのである。 聖書の読み方についてのヒルテイのアドバイス。
「初心者にとっては聖書のかなり多くのものが無意味であったり、奇異な感じを与えることがあるかも知れない。
そこでまず、福音書から読み始めるがよい。そうすることはとりわけ大切であり、誠実な人ならば誰にでも間違
いなく深い感銘を与える。
その次には史書(創世記からエステル記までの諸編)を読むがいい。古代の他の歴史書でこれに匹敵するものは
一つもない。そのあとで、詩編とヨブ記を、それから予言書を読みなさい。
最後に使徒たちの手紙と使徒行伝、ヨハネの黙示録を読むがよい。ここから我々の歴史が始まることになる。
旧約の箴言も興味深いものである。
聖書の中のどの編を好むかは全く個人的な問題である。詩編37編、73編、90編、91編は今日でもなお、
新鮮で美しい。
ヨハネによる福音書は、キリスト教の内的本質を最もよくあらわしたものである。
とにかく、内容の豊かさと魂を揺り動かす力とにおいて聖書に比べうる書物は今も昔も存在しない。」
(「眠られぬ夜のために第一部12月3日」より) ■牧師や神父が無知なため、キリスト教は害 【律法を持たない異邦人が自然のままで】が神様
【地上のものに心を引かれぬ神様と一切のものが悩み苦しみ思い煩わないことを喜ぶことのみよし】としなかったため、神には罪を犯しからし種一粒ほどの信仰の無い者として、
人類を罪に定めず【人間でいたいという全人類を尊重された】
※神様は実在され、神を勝手にしたり、論じ合いまでゆるさず、怒っていらっしゃる※
【そこで無→天体→太陽・月→地球→《聖霊に満ち荒野・山へ逃げよ》大自然・生物への慈しみ→父母から生まれ人間でいたいと生まれた人間と尊重 に造られた】
■悪魔
―色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと〜これはわたしに属するものではない〜悪魔・悪しき者は「尊師はわたしのことを知っておられるのだ
(悪魔との対話)
―あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく〜かねて反キリストが来ると聞いていたように〜もし属する者であ
ったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう(ヨハネの第一)
神様にとってそれらを喜ぶ者は【獣である666】なのである。 旧約はイエスを現すもの
―聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた(ルカ)
□聖霊 【重要】
―森に住み、心静まり、清浄な行者〜未来のことにあくせくすることもなく(神々との対話)
―イエスは聖霊に満ちて〜荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされ(ルカ)―山へ逃げよ〜昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた
(ルカ)
神様にとって【聖霊に満ちて荒野】は神と永遠の命につながる最も重要なこと。神の子イエスの行いに学び、知力ある者となりなさい。人間キリスト教徒や無知な教会から
学ぶ者どもは、最後に世の者どもと一緒に滅ぼされます。神が大自然を創られたのは、唯一そこが神と永遠の命につながるからです。人の言に惑わされず、世や人一切から
離れ、《聖霊に満ちた状態・清浄な行者》が全く清浄な者の神様と永遠の命につながると創られたのである。
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(マタイ)
神のわざであわれみの行いをされた。地上のものに心を引かれず神の栄光の義を信じ何事も思い煩わないよう信仰させた。そのイエスにつまずいた教会は無知。
肉体を宿とした多くの人間が、重荷に耐え(耐え忍んで)あわれみをよしとして、道から外れないようにさせるためである。
こころのただ中にある《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》が、神と永遠の命につながるとわからせるため。
神様は【世と世にある物を必要とし喜びながら暮らす者は、他の者と同じ愚かな人間】決められ、あなたがたのただ中にある【愛・・・自制】が神と永遠の命につながる、
最も重要なこと。 □父【重要】
神様は地上のものに心を引かれない霊、神の栄光が天の父 しかし、私たちは《からし種一粒ほどの信仰の無いもの》として造られた。無にならないと、神の栄光の者とはなれ
ない。決して、人間の言に惑わされ、滅びの者となってはいけない。無知な教会に行ってはいけない。
無(信仰あり・義)→天体・太陽・月・地球→大自然・生物への慈しみ→父母から人間と尊重 を認め、
自分の命を憎めに反する《自分自身を憎んだ者は、いまだかってひとりもいない》ように人間を造られたのである。―自分の妻を自分自身のように愛しなさい〜あなたの父と
母とを敬え〜そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう。父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい
(エペソ)教会=宗教の役割と説かれたこと。
―正しい行いをなす人は〜法にしたがって生き、恥を知り、真実を語り、自分のなすべきことを行う人は、世人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のために
もよいことをするのである〜他人を訓戒せよ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上(感興のことば)
この世での信仰は聖霊に満ちた状態しかなく、私たちは善悪を知っている=善悪を知る者となった。そういったことを教えるのが宗教の役割だと、教会になさったこと。 この教会の牧師のメッセージが好きでたまに見る。
メッセージをクリックしてプレイで生で本日のメッセージが見れるよ。
興味のある方は見てみて。
http://www.newlifechristchurch.net/ みなさんの聖書の読み方や
翻訳の選び方が凄く参考になりました
ありがとうございました! >>67
>人間キリスト教徒や無知な教会から学ぶ者どもは、最後に世の者どもと一緒に滅ぼされます。
聖霊に関してはヒルテイにならいてさんと似ているようだが
ヒルテイから学ぶ者も、最後に世の者どもと一緒に滅ぼされるということを言わんとしているのか
ヒルテイ崇拝やライフフォース至上主義はどうかという課題はあるにせよ
学ぶことは許されるとはならないのか 私も真理の御霊を実体験しながら、いい加減な解釈により、人格神が直接現れ教えを説かれた。
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ)
【人間でいたいという人間の状態、全ての人間を尊重される神様】【愛・良識】(全世界は悪しき者の配下ですが、それが神様への信仰ですか?)【地上のものに心を引かれぬ
者が私への信仰ありの者だ!】神は怒り、神ひとりで地上のものに心を引かれず喜んで人類を支配しているのではなく、地上のものに心を引かれず神に愛されている霊の者まで
いることを私に示された。【《聖霊に満ち荒野・山へ逃げよ》とは、世と世にあるものから一切離れ、大自然で何事も思い煩わない心が、神様への信仰ありの者だと】神様と天
使と共に、大自然を喜んだ。
【お前は右か左か?】(右とか左とか言葉を知らなかった私は、悪いことをしなければ右だろう、そして右と答えてしまった)その私に神様が直接の説教をされた。
また、論じ合うことを一切ゆるさない神様でもある。神をして、論じ合う者は、神が怒っているのを私はよく知っている。
神への信仰は【地上のものに心を引かれぬ、完全】をこの世でもよしとしていらっしゃる。【世と世にある物を必要とし喜びながら、神への信仰は全く無い。他の者たちと同
じ愚かな者だ】(私は罪人の私をおゆるし下さい)と神様にゆるしを願った。 『カトリック教会破壊工作(侵入されたカトリック教会)』
工作員を聖職者制度の中へ送り込み、
司祭や司教といった地位に昇らせ、
人々の信仰を破壊すること目的。
似てはいるが本物でない宗教にする。
○ミカエルをミサ中であるか否かを問わず、すべての祈祷から完全に削除せよ。
○すべてのラテン語典礼、歌を止めさせよ。
○聖なるオルガン音楽を止めさせよ。ギター、太鼓、足踏みを持ち込め。
○ベールをかぶらぬよう、女たちを先導しろ。
○女性と平信徒に聖体を配らせろ。平信徒の時代なのだと言え。
○聖体拝領の時に、両手を合わせるのを止めさせよ。 ○聖体拝領の時に、跪きを止めさせよ。
○金曜日に肉食しないこと、断食のごとき四旬節中の償いの慣習を止めさせる。
○司教会議を設置し、教皇を弱体化させるようにせよ。
○司教不足を理由に、教会を閉鎖に追い込め。
○プロテスタントの牧師を結集し、ミサの改訂と非聖化を行え。
○女性侍者、女性司祭になるように女たちを動かせ。
○キリストは、すでに我々のために天国を勝ち得ているので、人間の努力は不要であると言え。
○完全に気を緩めるように仕向けよ。 悪魔崇拝者とは、イルミ○ティ、その配下フリーメ○ソン、
日本ではさらにその手下、創○学会、等。
心理作用悪用のガスライティング、組織ストーキング、
精神工学悪用の電磁波兵器悪用、等に十分警戒してください。
政治家、警察、有力者、聖職者にも、スパイ・工作員がいます。 人間の解釈のキリスト教は、全て神様にとって滅びということ。
【地上のものに心を引かれぬ姿で神の栄光と義と信仰】とを現し、【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】で悪しき者の配下である全ての人間状態から離れ、清くならなければ、神
と永遠の命はないことを現し、【世と世にある物とを必要とし喜ぶ者は他の者たちと同じ神にとって愚かな者】を現し、霊でない人間は【からし種一粒ほどの信仰の無い者】で
あると神の法律を現し、【世の富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕え悩み苦しみ思い煩い仕えても、神と永遠の命にない悪魔の子・滅びの子】として、
神の律法を直接私に説かれ、【一日の苦労は、その日一日だけで十分である に反し、あくせく仕えるあなたは神への信仰は全く無い】と神様が直接説かれ、【愛・あわれみ・
他者への配慮もある人間となっても、やっと良識ある心ある人間となった程度で、(神様に信仰ありました)と心でも思い、神様に義とされる者はひとりもいない。
神様にとって、【罪人は監獄の囚人で、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の律法を行っても、やっと心ある人間となった程度】
【世の富への貪欲に仕え、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕え、悩み苦しみ思い煩い、人間の喜びを得ている者は、神と永遠の命に無い、悪魔の子・地の奴隷と
決して喜ぶことは無い】
神様は、自然のままでもあり得るようにされた、全知全能の神と一つの方である。人間の言に神の言葉が妨害されぬための十字架でもある。
キリスト教徒やキリスト教会が自然のままでもある、全知全能の神に従わず、人間の言葉で、神を勝手にするから、【滅びの者ども】と神は天国で怒っていらっしゃる。
神を決して人が、何かの目的のために道具としてはならない。滅ぼされず、神の栄光の者となりたいなら。また、神より人間の言を認める者も神に喜ばれず滅びに至る
から、滅びのキリスト教会となってはいけないのである。 >>77
じゃあ聖書はどうなるの?これも人間の言葉なのかな。 天や神は人間を利用して自己愛を満たしている
他者を利用した自己愛
自己愛は止まらない
何かがしたい、何かをしたいが止まらない
自己愛は働き続ける
他者に苦痛を与え自己愛を満たすことは止めたいが
天や神がそうだからどうしようもないと観念するしかないのだろうか?
自己愛者は有利に生きている事実がある
何かあると他者のせいにしてまた己の自己愛を出そうとする
要するに、自己愛を強化することが悟りだろう 聖書は神の言葉で恐れねばならない。
地上のものに心を一切引かれない霊の国が神の義・信仰で、神に罪を犯したため、悪しき者の配下の人間となった。
しかし、それは、神にとってからし種一粒ほどの信仰の無い者=神への信仰は地上のものに心を引かれぬ霊 であり=神の言葉
人間でいたいという生命と尊重がある=神の言葉 目には目を、歯には歯をも可能な人間の状態にされたが=悪しき者の配下=地上
人間でいたいという生まれた人間の尊重のためで、世は法律をつくる=自然のまま
しかし、聖霊に満ち荒野の者・山へ逃げよ が最も神様に通じる心の状態。あなたがたも知っているとおり、神もまた、肉の思いや肉体が、神と永遠の命につながることは一切
無い。神様にとって、世と世にあるものを必要として喜ぶ人間が、神様にとって一切信仰は無く、愚かな人間だけで、たとえば、隣人への愛として、瀕死の人を助けても、それ
は当たり前の人間が行うことなのだ。あわれんで、他人の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようしても、心ある人間として当たり前。 >>80
この文の矛盾点を指摘すると、困った人を助けるのは人間としての当たり前の行為と言いながら人間とは罪なる存在でキリストの霊的な存在では無いと言っている点と思う。
困った人を助けるという行為は神の愛の体現であると思うけど、その行為自体は罪深き人間の罪を現す行為なの?
そして荒野というのは苦難や迫害の比喩なのであってキリスト者はキリストが十字架にかかったように同じように一度肉体的な死を迎えないといけない、ここまで説明しないと普通の人は理解できないよ。 神様が直接教えに来られた。
【地上のものに心を引かれぬ者のみ私への信仰である】と。―小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。
自分のために古びることのない財布をつくり(ルカ)
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
―あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わた
したちは、あなたが空腹であるのを見て〜あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイ)
―使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」〜「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉ど
おりになるであろう〜同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい(ルカ)
神への信仰は地上のものに心を引かれぬ神の栄光とわざだけで、地上でイエスのみが神を現した。信仰を増して下さいは無く、神様は地上のものに心を引かれず神様と一緒のみ
でいれば、あなたがたは信仰があった。罪人とは神様にとって監獄の囚人である。全世界は悪しき者の配下であるが、《正しい者たちは答えて言うであろう、主よ、いつ、わたし
たちは》 肉を宿とした限り、からし種一粒ほども信仰の無い監獄の囚人。しかし、心の中では、神様と喜んでいた状態があり、【働くことすら悪しき者の配下で得た人間の思い】であるが、
―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた(テサロニケ)《だれにも負担をかけまいと》という心が神と永遠の命につながっている。
『『主よ、いつ、わたしたちは』』というように【神様にしましたと言える人はいない】が、地上のことで思い煩いが無いように祈ったり、行いが神と永遠の命につながっている。
■人の子は地上で罪をゆるす権威
神様によると【世ははじめから罪】で、その人間に神のことがわかるように、神のわざで、悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげた。
■最も小さい者が信仰により救われるように創られた
―主にあっていつも喜びなさい〜主は近い。何事も思い煩ってはいけない(ピリピ)わたしたちの卑しいからだは、神様に信仰ありとされない。神の栄光の姿が、神への信仰である。
その栄光を義と受け入れ【ただ衣食があれば足り、何事も思い煩わないように努め、信仰のみに生きなさい】それが神様への信仰であると。
■そんな信仰はできません 否があなたなのである
世と世にあるものを必要とし喜びながら【神様が信仰をゆるさない】【いつ、わたしたちは】で無意識に貧しい人々に分け与えても、神様は人間として当然なのである。 >>83
あなたにしか聞こえない神の声があるのですね。
その声が消えるまで誰の声も聞こえないかと思います。
ただご注意ください。終末には偽預言者が現れます。あなたがそのようにならないことを。 何も信じなくとも、大震災の時に、『衣食住の無い人々に衣食住を』といって、人々が義捐金などをした。『主よ、いつ、わたしたちは』が人間で、信仰ができる人は最も小さい者な
のである。
■神様が忌み嫌う行為
―肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである〜子供たちよ、今は終わりの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていた
ように、今や多くの反キリストが現れてきた(ヨハネの第一の手紙)【神様はそれらがある世を幸せに思う心を、決して喜ばれない】
神の御旨 神の義は霊で、世に打ちひしがれた人々が何事も思い煩わないよう信仰に生きるなら、神に信仰ありとされる。
―重荷を負って苦しみもだえている〜肉体を宿としている間は主から離れることを、よく知っている(コリント)その他全ての人間は悪しき者の配下で、【重荷を負って苦しみもだ
えている、からし種一粒ほどの信仰の無い者と神様に言われた。神様と言える人は誰もいない】―耐え忍んで善を行って、光栄と朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられ
(ローマ)
神様に罪を犯し善悪を知れる者となった。愛・あわれみ・・・を行い、神様にしました・信仰ありしましたと言う者は蛇(悪しき者)神様にとって当然の人間となっただけ。
【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】神様が住んでいる所に近いように大自然を創られた。【世は悪しき者の配下・そこから離れ、大自然を喜ぶ心は神様と一緒にいる所に近い】と
創られた。 パウロの手紙は信仰に必要か
その他の手紙は信仰に必要か キリスト教会こそ、人間の解釈によりニセ預言者の役割とならないよう気をつけよ。
―聖書全体にわたり、ご自身にしるしてある事どもを、説きあかされた(ルカ) 教会よりも、イエスの言葉を受け入れる者は、神様の言葉を受け入れようとする。
決して、人間の勝手な解釈を信じて行ってはいけない。 神様であるイエスは、―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない
イエス「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」すると女は「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただ
きます」イエス「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心
にしるされていることを現し(ローマ)
それが神様が与えた人間の道である。 しかし、―人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである
―御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか〜あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間
でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか(ガラテヤ)
人間の道と神様を信じることは別なのである。地上のものに心を引かれぬ神の栄光のみ、神の義・信仰ありと神様はされているからである。善い行いによっても、
誰も神様に信仰ありとされる人はいない。
神を信じる者が間違いを犯す。善い神様とか、そういった偶像。地上のものに心を引かれる神の栄光のみ。 ―自分の命を愛する者はそれを失い。この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るのである(ヨハネ)
―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である〜いずれにしても、あなたがた
は、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい(エペソ)
―あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう。父たる者よ、子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
神の栄光から離れ、人間でいたいと生まれた者のあやまちをゆるし尊重される。そのように、人々のあやまちをゆるし、自分を愛するように、隣人を愛するように教育
することが宗教の役割だと、神様は人間に仕えられたのである。信仰は神の栄光のみで、後は、人間に仕えることが宗教の役割とはっきりさせた。 >>86
新約聖書は福音書だけで十分という事ですか? サタンはまだ来ていない。
全体救済は無理だが個人救済はまだある。
サタンが来たら、艱難が始まったら、個人救済も無くなる。
個人救済とは携挙。
預言書の中で聖書は半分。
聖書だけを読んでいても真理は解らない。 >>86
新約聖書がマルキオンへの対抗上編纂されたことから
それぞれの派の教会で教えるときは新約聖書の中から取捨選択していたのじゃないの
四福音書が入っているのも多数派形成のための妥協の産物のところもあったのでは
手紙が再注目されたのは宗教改革のときか >>86
コリントの信徒への手紙第一1.12がヒントとなるかもしれない
ユダヤ人中心の初代教会と思われるが
第二次伝道のパウロと入れ違いにアポロが入ってそして去った後
パウロ派アポロ派ペテロ派キリスト派の4派ができてしまったようだ
パウロのコリントでの一年半ほどの滞在時は十字架につけられたキリストを前面に押し出し
霊と力の証明により宣教していたが律法の否定が行き過ぎたのか混乱状態となり
第三次伝道のエフェソから手紙により律法に代わるパウロによる決まりが与えられた ■人間の幸せを捨てて神への信仰をよしとすること
―御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか〜あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間
でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか(ガラテヤ)
地上のものに心を引かれぬ国に入ることがどんなに素晴らしいかという、神への信仰を確実にさせるため。その国は在ると知って、神を信じ【肉の欲、目の欲、持ち物の
誇りを何も問題ないと享受することは神様は決してよしとされない】
□主なる神は言われた
―「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」(創世記) □全世界は悪しき者の配下
【栄華や権威をもっと得よう、富に仕え、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを得て楽しもう】そういった行為が、神ならぬ悪しき者の行う行為。善い者から、悪いことをしで
かすかもしれない人間の思いを得させ、《目には目を、歯には歯を》も可能な人間となった。【世は神に無い】《つるぎ》
―自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、(イエスは)おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ)
神に義とされるのは、地上のものに心を引かれぬ者だけで、私たちは他の者と同じ【自分の命を憎むことなく、人間になりたいと願い叶えられた者で、他の者たちと同
じ愚かな人間】神様は、人間をそのようにされたのである。神に信仰あり私は正しい者だと誰も言い張るようにできない神様なのである。
□天国の心を地上で判断できる良識ある者
―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。《一日の苦労は、その日一日だけで十分》を善いと受け入れ、過労はよいことではないとか、
女を情欲の対象物とせず、愛しよくしてあげようとか、争う目的で生まれたのでなく、あやまちをゆるしてあげようとか、悩み苦しみ思い煩っている人を助けることは善い、
とか・・・そういった良識ある人間を永遠の命ある人間と造られたのである。 □善悪を知る者となった人間
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心
にしるされていることを現し(ローマ)
論じ合い・迷うことも一切ゆるさない神様。神を信じればよいという勝手な解釈の教会でも、信じれば罪がゆるされるという教会でもない。
人間の状態もありとゆるされ造られた神様は、御言葉を自然のままでも、神様の―『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の
御旨を行う者がはいるのである(マタイ)
御言葉を善いと受け入れられる良識ある者を人間として造ったのだから、命じられたことを全て行ってしまったとしても、当たり前の人間なのである。受け入れること
ができない人を受け入れるようにするのが、キリスト教会の役割。
『主よ、主よ』と言ってはならないのは、神様は一切重荷を負わない完全な国を喜んでいらっしゃるから。神を信じて論じ合ったり、迷ったりしてはいけないので
ある。 >>94
取捨選択していたというのは興味深いですね コリントの初代教会にパウロ派アポロ派ペテロ派キリスト派の4派ができたのが
アポロがコリントにいた時かコリントを離れた後かはコリントの信徒への手紙第一からは不明
コリントの信徒への手紙第一16.12でパウロはアポロに
再度コリントへ行くことを勧めたがアポロは拒否している コリントの信徒への手紙第一を送ったがその優れた言葉や知恵によるパウロの新しい教えは
コリントの初代教会の人には響かなかったようだ
霊と力の証明による宣教を信じていたパウロ派のうち一部の人は新しい教えになじめなかったかもしれない
キリスト派の詳細は不明だがパウロが新たな律法的なものを定めたのではと感じたかもしれない
コリントの信徒への手紙第二の執筆までにパウロはコリントの2度目の訪問をしたが
ペテロ派が伸長していたようでパウロが12使徒ではないことから使徒の適格性が問題となっていた
面と向かっては弱腰 実際に会ってみると弱々しい人 話もつまらない と思われ
自身でも話しぶりは素人と書くほどで短期間の滞在に終わったようである ペテロ派の強みはイエスの生前の言葉を信仰の糧とできること
福音書はまだ未執筆だっただろうが同じような中身を語っていただろう
パウロ派は十字架のキリストを強調
イエスの弟のヤコブを頭とするヤコブ派はガラテヤ地方には来て
非ユダヤ人に割礼をせまっていたようだが
コリントまでは来ていなかったのかそれは問題となっていない ―神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに
成るであろう〜なんでも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい〜だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあな
たがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう(マルコ)
人格神である神様信仰は、
―御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか〜あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間
でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか(ガラテヤ)
地上のものに心を引かれず、《あなたがたは何でもできるできない事は何もない》状態になることを信仰あり義としていらっしゃる。 しかし、この世の君でもある主イエス様=神様が、
使徒たちは主に、「わたしたちの信仰を増して下さい」「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して〜』〜命じられたことを皆してしまったと
き、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい(ルカ)
天国で【地上のものに心を引かれず、重荷を負うことなく、神様といつも一緒で、一切のものが悩み苦しみ思い煩い無く喜んで、何でもできる者としていた】が、【人間で
いたいと生まれた】神様は、そのあやまちをゆるし、【自分の命を憎むことのない、人間でいたいと生まれた生命と尊重】世界を造られた。
そこで、《あなたがたは何でもできるできない事は無い》が真実となる国=神の義 をよしとして神様として人間を認めるであろうか?認めない。
―「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない(創世記) ―同様にあなたがたも、命じられたことを【皆してしまったとき】、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい(ルカ)
《御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》 耐え忍んで、ただ中にあるものに従って、肉だけの獣とならず【心ある人間】と認められ、地上のも
のに心を引かれない霊=神の義での者ではないから《主よ、主よ》とも言えない。
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ)
健康的な言葉、御言葉を人間の状態で受け入れ、【神より富に仕え、一日の苦労はその日一日に反し、人々の肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕え悩み苦しみ思い
煩い、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを満たす、神様の地の奴隷・悪魔の子・滅びの者】を喜んで永遠の命のある者だと思わず、肉を失ってから神に信仰あり義とされる者
となり喜ばれる者となる。
その道が、神様に与えたれた道であり、《あのわざの世界を知ること 御霊》を多くの人間が知れないのはそのためだ。
人間の状態で、【愛、喜び、平和、寛容。慈愛、善意、忠実、柔和、自制】が神と永遠の命につながると、造られたのである。 ネット依存のまことでは
救われるはずがない
ただの自己満足 コリントの信徒への手紙第二は複数の手紙から構成されているとの説が有力
エルサレム教会への献金についての箇所
コリントの信徒への手紙第一の続きでパウロの新たな教えを述べている箇所
ペテロ派への対抗のため自らをさらけだす箇所
コリント初代教会からのテトスの報告を喜ぶ箇所
コリントの信徒への手紙第二2.5の悲しみの原因となった人は
急先鋒となったペテロ派の信者だろう
この後パウロがコリントを訪問したかどうかは手紙からは不明 遡ればガラテヤの信徒への手紙2.1の
ペテロのもとに15日間滞在した後14年たってからエルサレムへ再び行った時
エルサレム教会代表ヤコブ 同席者ペテロヨハネ
アンティオキア教会代表バルナバ 同席者パウロの協議では
実は割礼については何も取りきめられていなかったのかもしれない
ギリシア人のテトスが割礼を強制されなかったことをもって
パウロは異邦人は割礼不要と解釈しているようだが
ヤコブは同行者のテトスには関心がなかっただけかもしれない
そうであるとするとガラテア地方でヤコブ派が
異邦人に割礼を要求するのもつじつまがあうし
使徒であるかどうかは問題となっていないのも
ヤコブは使徒ではないから理解できる 教会なくして信仰を保つことは不可能【神様】
―あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである〜神の御旨を行う者は、永遠にながらえる
〜あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた〜彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属するもので
はなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう(ヨハネの第一の手紙)
―あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い〜
また、隣人の愛のたとえとして《瀕死の人を助ける》
そういったことは、【天に通じる心もある人間】と人間を造られたのだから、私利私欲のみで生きる獣のような人間でない限りある。 ―自分は富んでいる。豊かになった。なんの不自由もないと言っているが(ヨハネの黙示録)
昔と違い、(わたしたちは今は豊かになった、なんの不自由もない、幸せな時代だ)
瀕死の人を助けたり、貧しい人々への配慮もある心と行為・・・思い上がらない程度のあわれみの行い・・・
―あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい(コロサイ人)
―この世と妥協してはならない〜何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえて知るべきである〜思うべき限度を越えて思いあがる
ことなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである(ローマ)
【あわれみの心を身につけ、私利私欲の獣のような者から、神と永遠の命の者となろうとしたのに、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを何も問題無いとすることにより、滅びに至る】
神様にとって、自制は大事なことで、人間の喜びそうなことから信じる者を守る役割を果たさないといけない。
神を信じる と同時に、それら肉の欲など問題無いとする人々を天国で怒っていらっしゃる。無信仰で滅びの者がすることなのである。肉の欲、目の欲・・・が満ち溢れた時
代にあわれみの心ある者が惑わされないようにするためには、強い意志が必要か、地上のものに心を引かれない神への強い信仰が必要。 教会は必要。そのとうりです。しかし真の教会は心の外にではなく、心の内に作るものです。
イエス・キリストの言葉をよく考えるべきです。
「実に神の国はあなた方の内にあるのだ」(ルカ17−21) 生涯、無教会主義を貫いた手島郁男氏の言葉を再度載せます。
「イエスは『神殿を壊しても三日の内にそれを起こす』(ヨハネ3−18〜22)
と言われました。
人の手で作った神殿なんかに神は住み給わない。だから壊してしまったらいい。
私は全く違った宗教を起こすと言われたのです。
神は私たちの内奥を至聖所として住み給うのであって、私たちの内奥に拝せられるべきです。
イエス・キリストにとっての宮はこの地上にある建物でなく、ご自身の心でありました。
心こそは神の住み給う神の宮である。
イエス・キリストこそ無教会主義の創始者です。私は教会に行く人を止めません。しかし、
形だけの儀式や教理の説教がなされる所に行ったって救われるだろうかと思います。」
(続きます) キリストの幕屋創立者の手島郁男さんについては見知らぬ人から時々送られてくる
幕屋の小冊子を読むだけですが、よいことが書いてありますね。読む限りでは危な
いという印象はありません。
ただ、手島さんが亡くなられてからは幕屋も様変わりしたということですが、どう
でしょうか。 ネット家庭礼拝を提供します。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/379-382n
この讃美歌をネットを通して共に歌い
この聖書箇所を共に朗読し
この主の祈りを共に唱え
この頌栄の讃美歌をささげ
一日の終わりに「神に感謝」と心に唱え
死後に父なる神のもとで
平和に暮らせる事を夢見るものです。
キリスト教の教理の読書とか
ネット家庭礼拝を通して主の祈りをしながら
聖書勉強や讃美歌による勇気づけで
心の平安を求めていきたいと思っています。
ハイデルベルク信仰問答ほか
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470630478/375-378n >>115
キリストの幕屋についてはこの板に専用のスレがあるから
そちらで聞いたほうがいいかも
手島郁郎氏については
無教会と一言で言っても
1.内村鑑三の系譜をひく集会のある無教会(いわゆる無教会主義)
2.内村鑑三の系譜とは無縁の集会のある無教会
3.集会にも行かない無教会
があって手島郁郎氏は聖霊の満たしには異言のしるしがともなうという
ペンテコステ運動的なものを採用して1→2になったのじゃないかな
異言を語る無教会という新たな方向性を開いたのだとしたら画期的 様がキリスト教会が必要と言われたのは、君たちの解釈ではない。むしろあなたがたから、神と永遠の命を得ようとする者を護るためにある。
君たちは、動物と同じ獣だ。今、あなたがたが、素直にイエスキリスト=神様の言葉に、ハイ・ハイか、否でそれはできないがこれならできる と求めれば神様と永遠の命への可
性はある。新約聖書のみが、神様と永遠の命を現そうとする書物で、【付け加えたり、取り除いてはいけない】神様の書物に対して、付け加えたり、取り除く者は、滅びの者以上
に、
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
地獄行きの悪い教会の解釈では一切無い。
【神は言われた、地上のものに心を引かれない、神と共に一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無い国を、神への信仰・義として現すため】―盲人は見え〜死人は生きかえり、貧し
い人々は福音を聞かされている、わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
【人間の解釈を一切拒否される神】様である。【地上のものに心を一切引かれず、神の義と信仰である、永遠の命である霊の国を現すため】である。
だから、教会でも、人間の解釈に従い、枉げてイエス=神様を伝える者は、地獄行きなのである。 ■神を信じるだけて罪がゆるされ、後は適当と言う教会も、決して永遠の命の者をつくれない
天国で【神様と共に地上のものに心を引かれず、敵意や憎しみ・怒り・怨み・争いも一切無く平安に満ち、快楽や情欲、その他人間の欲で喜ぶことも無く安らぎに満ち、一切の
ものが悩み苦しみ思い煩いも無く、神様と共に喜びに満ち、あなたがたは何でもできる・できない状態で神に信仰あり義とされていた】ところが、【人間になりたいと心に疑わ
ず信じたため】人間となったのである=【神様の言 失楽・苦しみ悶えた地】
そして神様は《人間には様々な状態・地上は様々な状態である》が、【全員、からし種一粒ほどの信仰の無い者として、誰も自分の命を憎むことなく生まれたように、全人類
一切を尊重されている=神様の直接の言葉】
だから大震災の時でも、暴動や略奪をせず耐え立派で、悩み苦しみ思い煩いの無いことをよしとし、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し与えても、他人に負担をかけ
まいとして働き、一日の苦労はその日一日だけに反し、過労は悪いと思っても、公平とあわれみと忠実を思い格差是正や、全ての国民に仕えず富に仕え、金や財(必要以上の
蓄財)を思わせ、国が大借金となることも、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りをまるで善いことのように貪り地球環境破壊となることも、
あなたがたは、天に従えば益があり、地の貪りに従えば悪くなる という『神様が創られた構造』なのである。人格神様は、人類に危害を与えることは一切なさらない。
しかし、霊に従えば益があり、肉に従えば益がないどころか、永遠の命の者ともなれない。そのような創造=構造になされたのである。 神様は人間の解釈でなく、【してしまう 良識ある人間 を人間として造られた】
たとえば《他人に負担をかけまいと労苦して働いた者》がいて、漫画喫茶で泊まり、子育てもできない人がいたとしよう。しかし、それらに対して不満を抱かない人が天に通じ、
また他の或る者が、自分の状態を量りにして、(働いているのに満足な住居がない。厳しい状態の中で子育てもできない)者をあわれんで、何とかしようと思ったとしよう。
それが、【人間として生まれることをゆるされた、神様の良識ある行為と心】で、神に従わない世は悪か と言えば、【地上のものに心を引かれず、何事も思い煩わない】
者が神様で、自然のままで、大震災など多くを失っても耐え、暴動や略奪をせず、立派だとされる者のように、天国の神様を受け入れているのである。
そして、そのような世で、富に仕え、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを喜び何も問題無いとする者は、信じて神の怒りの者=反キリスト であり、無信仰で永遠の命も無い
滅びの者と同様の扱いにされる。
神様にとって、この世の苦難に耐え、自分を量りにして【他者への配慮もある人間・愛・良識】ある人間となったとしても、良識あるものが【してしまう】ように造られ
人として当たり前。後は、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りなどが一切無い国の神様を善いと受け入れ、それらから離れることも神と永遠の命につながると、【神様】を受け
入れることしかない。
人間の言の勝手な解釈に従うことによって、神の怒りがその人々にあり、信じても滅びに至らせるのである。神に忠実な教会のみが、神の教会なのである。
つまり、地上のものに心を引かれないのが神様への信仰で、愛、あわれみ、耐え忍び、自制・・・の心と行為があっても、人間として当たり前。私利私欲で肉の欲・・
を喜んでいる者は、決して神と永遠の命は無い。 【【【神の怒りの者】】 主なるイエス・キリストの怒り
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
《盲人は見え〜死人は生きかえり、貧しい人々は福音をきかされている。わたしにつまづかない者はさいわいである》
【地上のものに心を引かれぬ霊が、神様であり、一切のものが悩み苦しみ思い煩わないようにされ、そこで皆、神の喜びに満ちる、神の義の霊の者となる】
キリスト教徒であれ、勝手な解釈で信じるな。神様は天国で怒っていらっしゃる。神を適当に信じる者は、地獄行きにされるであろう。
【からし種一粒ほどの信仰の無い つるぎ】と【誰も自分の命を憎むように造られた、全ての人間の尊重】
【地上のものに心を引かれず、主にあっていつも喜び、何事も思い煩わないよう、熱心に信仰に生きる者のみ信仰ありの者】と【神様は決めていらっしゃる】
神様を適当に扱い信じる者は神様にとって【罪でしかない】その罪人は、神様にとって最も悪い者なのだ。神の怒りの者は、地獄行きになるであろう。
【あなたがたは、他の者と同じ、愚かな人間なのだ】【あなたがたは、神の義から離れ、人間でいたいと願い生まれた人間である】
神に対する適当な解釈をして、神の怒りの者となってはいけない。 からし種一粒ほどの信仰の無い者としてつるぎを投げ入れた神様
―「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない(創世記)
―同様にあなたがたも、命じられたことを【皆してしまったとき】、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と言いなさい(ルカ)
―神の国はいつ来るのか〜イエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などともいえない。神の国
は、実にあなたがたのただ中にあるのだ(ルカ)
【言葉を受け入れたあたり前の人間】
《情欲をいだいて女を見る者は 悪人に手向かうな 兄弟だけにあいさつをしたからとて 一日の苦労はその日一日だけで十分 空腹のときに食べさせ旅人で
ったときに宿を貸し
情欲をいだくこと、悪人に手向かうこと、過労は悪い・・・だれかれなしに「こんにちは」「よい天気ですね」衣食住のない人々に衣食住を、困り悩み
苦しんでいる人を助けることは善いことだ・・・善悪を知り、してしまう良識ある人間に造られた。《霊でないから主よ、主よと言わず》 【御言葉を受け入れられる良識ある人間となった者は、世と世にあるもの、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを得て平気としてはならない】
―あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである〜神の御旨を行う者は、永遠にながらえる
〜あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた〜彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属するもので
はなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう(ヨハネの第一の手紙)
人間の解釈は全く必要無い。【神様は肉の欲、目の欲、持ち物の誇り無い国を義とされ、神と永遠の命の者は、それらが無い国を喜ばねばならない】
その神様に全く反し【人々の富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りにあくせく仕え、悩み、苦しみ思い煩う 地の奴隷・悪魔の子・滅びの者ども】が多く現れてきた。
そして、その世で【あくせく仕え、悩み、苦しみ、金を得て、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを喜ぶ者は、神様と永遠の命に無い】
全く信仰の無い滅びの者がすること。神と永遠の命の者は、それらの無い国を義として喜ばねばならない、人間の解釈は全く必要ない。
軽々しく神様と言える者はいない。その者についていって、或いは世と世にあるものを問題ないと思い、神を信じようとする者も滅ぼす神の怒りの者となるからだ。
神はただひとり、地上のものに心を引かれず、悩み苦しみ思い煩いを取り除かれる方で、私たちもその神を義とし受け入れねば、地上のものも無く、神と共に喜ぶ
永遠の命の者とはなれない。人間が一切解釈をしてはいけない。
はいか否かだけであって、パソコンを使う以上、【神様にとって、からし種一粒ほどの信仰の無い 愚かな人間と決められている】 コリントの信徒への手紙第一16.3-4では
エルサレム教会への募金はパウロ本人は
必ずしもエルサレムに行かなくてよいと楽観していたが
ローマの信徒への手紙15.30-32ではユダヤにいる不信の者たちに気づき
危機を感じつつも自らが行かざるを得ない境遇となっている
コリントの信徒への手紙第一第二ローマの信徒への手紙で述べられている
募金する理由以上のものがローマの信徒への手紙執筆時にはパウロに発生していたようだ パウロはガラテヤの信徒への手紙2.11-14でペテロやバルナバと縁を切ったことを
自分は自分の道をゆくだけで自らの布教には無影響と気にしていなかったようだが
実際にはこの頃までに大問題となっていたようだ
ローマの信徒への手紙15.23にはもうこの地方に働く場所がなくとあるが
ガラテヤ地方やエフェソ教会コリント教会の多数派は
バルナバやペテロのアンティオキア教会の影響下となったのかもしれない ■神様は地上のものに心を引かれぬ霊の者を義
―自分を義人だと自任して他人を見下げている人に対して〜パリサイ人は、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者〜わたしは一週に二度断食をしており、全収入の
十分の一をささげています」
―あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この収税人であって〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ(ルカ)
【神様は地上のものに心を引かれない神の栄光のみを義とされている。罪を犯したため、全世界は悪しき者の配下=地 の人間となった】
神様は【その人間が生活活動もしなければならない世で、少しだけ天国に近いことをしても、神様に信仰ありましたと言えないようにされた】
□イスラエルよ聞け
―心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ―自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ―すべての燔祭や犠牲よりも大事なこと
です―「あなたは神の国から遠くはない」(マルコ) ■地上のものに心を引かれない朽ちない神の栄光
―すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効に
するのであるか、断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである(ローマ)
【地上のものに心を引かれない霊、神の栄光のみが神への信仰 盲人は見え〜死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、
さいわいである】
神様は―人の子は地上で罪をゆるす権威―で人の姿で現れたが、人間でも無く神の栄光と一つでそのわざで、人々をいやされた。一切のものが神様と共に
悩み苦しみ思い煩わないことを喜ばねばならないからである。その神ただひとりなのである。
■【土に帰る人間と自分を愛する人間を神様は造られ、全ての人間を尊重されている】
【主よ、主よと言える人はいない】ように神様は造られ、誰でも自分を愛するということを賢い人が理解できるようにされた。別の人もそのように神様は造られたのであ
る。そのように隣人を愛せよの戒めを守ること、遠くはない人間の姿。 ■神様は自然のままでの律法
―律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである〜律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たと
い律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し
―主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ(創世記)
心の中で神につながる霊を宿し 【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】を【してしまう】ように人間を造られた。
■【捕る】
―人の子が雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう(マルコ)
神様に素直に従えない知恵のないような者もいるし、迷い、悩み苦しんですがろうとする者もいるし、御利益を望む汚れた心の者もいると知っておられる。
そういった人々がいつかわかるように、それが十字架。だから善い教会は、―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
一切の宗教的行為が通じないと理解させ、ただ【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】を善いと受け入れられるよう人を育てる、
それで、神様を信仰できました は誰もおらず、【行ってしまったとしても、ふつつかな僕です、すべきことをしたにすぎない】人間を理解させる。
健康的な者となって、医者はいらない者とならないといけない。 ローマの信徒への手紙の後パウロがどうなったかはパウロ自身の書からはわからない
口述筆記などの方法でも手紙を残すことのできない境遇にあったのだろうと推測できるだけだ
イエスの死と復活を福音書のような生前の言葉に頼らず構成したパウロ神学が
新約聖書のかなりの部分を占めているのは確か
しかしマルキオンと異なり他の福音書や書簡も新約聖書におさめられたことは
他の流派も存在していて無視できない存在だったいうことだろう 神様は医者で、
■神様はただひとり
あなたがたは【地上のものに心を引かれぬ者なら神の栄光と共に在った。そして、その神様しか私たちにはいない。盲人は見え〜死人は生き返り、貧しい人々は福音
を聞かされている。私につますかない者はさいわいである】
地上のものに心を一切引かれないなら、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを何よりも、神様と共に喜んでいた。卑しい肉の姿は悪しき者からで、あな
たがたも神の栄光の者となっていた。行いによって誰も義とされず、《主にあっていつも喜び、何事も思い煩わないよう信仰に生きる者は神様に喜ばれる》
世と世にあるものより、《心をつくし思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ》この世の者ではない、神の栄光と共にあるのが、神様への信仰とわかれ。
神様はどういう方、何を信仰あり義とされているか、理解できない人々が多い世では苦労をしたということでしょう。 >>132
あなたは熱心な投稿者で内容的にはもっともだと思うことが多いのですが、読むたびに
何かが足りないと感じることも事実です。率直に言わせてもらえれば生きた言葉になっ
てないという印象ですね。かつて聞いた教会の神父の説教みたいです。
ヒルテイは言っています。
「人は神を説明したり、証明したりすることはできない。ただ、神を体験によって知ることができるだけである。」
「精神と自己の体験を欠いた、単に教会で教え込まれただけの形式的信仰は有害なだけである。」
「真の信仰は全く個人的な体験に根差すものである。」
あなたもキリスト教を信じ、語るならあなたの信仰体験を語り、体験を通して得た信仰の喜びを語るべきです。その
時、初めて人の心にあなたの言葉が響くようになるでしょう。 ■御霊 から神様が存在するかもしれない
迷っている私に
■人格神が直接語られた
【愛・良識】全世界は悪しき者の配下であることを知っているからである。仏教書や新約聖書を読んだ。仏教では妄執を乗り越える修行・新約聖書では愛情深い神様の
イメージを抱いていた。
宗教とは、妄執・悪しき者の配下以外の状態である 慈悲やあわれみを説こうとしただけ。そういったことを、2chでも書いていた時に、神様が現れた。 釈迦の修行完成者 無量の慈しみ・一切の生きとし生けるものをあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。決して死を味わうことの無いその境地はある。
しかし、その逆で『人の子』を私は理解できず、かえって、『地上を創られた善い神様』のようなイメージを抱いてしまった。それが、神様にとって偶像礼拝なのである。
御霊では、私は宗教に興味を持つが、簡単に思い、ファンダ君やあずみなどと一緒に遊んだいた。しかし、神様が現れたのは、東日本大震災の少し前である。【神様は、人
間に危害を与えない】と直接聞いたため、「東日本大震災は神の天罰」というレスで神様は何もしないとレスをしていたのは、キリスト教徒でなく神様から直接聞いた私だ
けである(たぶん)。
そして、如何なる偶像を抱いてはならず、『神のカ、信仰のシ】でもあれば、【聖霊に満ち荒野の者・山へ逃げよ】のたとえのように、【聖霊に満ちて荒野で断食】の者が
神様に人間の状態で最も信仰ありと喜ばれ、人の世で暮らす限り【からし種一粒ほどの信仰の無い者】となり、(私に味方になってくれる者・同胞)など思わず『よい天気
ですね』と挨拶したり・・・『愛など他者への配慮もある人間』が人間の状態で、愚かな人間であるが、神様につながる。
その後、神と善悪が結びついて、理想的な国とならない者たちへの反撃が起きたではないか テロ。 だから、『神様は地上のものに心を引かれず霊の人格のひとりだけ』であり、『からし種一粒ほどの信仰の無い者となった人類と、自分を命を憎むことなく造られた人類とそ
の全人類を尊重される神様ひとりだけ』なのである。その神様=イエス様が戒めと教える 御言葉のみが神様の言葉なのである。
神様イエス様は実在され、自然のままでも、【愛や他者への配慮もある人間と良識】【世の欲得や富にあくせく仕え・悩み苦しみ思い煩い・金を得て肉の欲・・・を貪る】
ことで滅びる者が、地球環境破壊をもたらすよう創られたし、貪り悩むことが永遠の命に無いと自然のままでも、わからねばならなかったのである。
■神様は完全 □完全な国から少し離れ、ただ人間でいたいと心に願い叶えられた人間 をからし種一粒ほどの信仰の無いが、永遠の命を内に宿す人間【命じられたことをし
てしまう その人の量りにより良心に従いしてしまう】良識ある人間 か
悪しき者の配下の肉のまま、世の富に仕え、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに仕え
《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》を無にして、滅びに至る人々
とに分かれる。神様は霊で完全な方であり、この世では『その実』でわかる者が良識ある人間であるが、人の姿で神のわざであわれみの行いをされ、その神様を善い
と信じることで、『その実』をつけさせる、神様の狙いである宗教の役割。私利私欲に今まで生きてしまった者まで、滅びないで救うためにイエスの言葉はある。
注意しなければならないのは、善いことを言う神様は存在せず、地上のものに心を引かれず霊の人格が神様と永遠の命の信仰で、内に霊を宿した者は、肉の状態で
神と永遠の命を知り、してしまうのである。 >>137
「神が直接私に語られた」というあなたの経験はある意味危険な面があります。なぜなら、カルト教祖や
時として犯罪者でさえ口にするセリフだからです。聖霊の言葉か悪霊の言葉かよく見極める必要があり
ます。特に悪霊は90%もっともらしいことを言い、後の10%で裏切って人を地獄へ引きずり込む
のです。このことは私が散々経験してきたことです。
本当の信仰は聖書の言葉に裏ずけられたものであるべきです。
「その人の心にキリストの霊が宿ってない人はクリスチャンではない」(ロマ8−9)
「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。」
(ガラテヤ2−20)
私たちの心にキリストの霊(聖霊)が宿ることこそ最も感動的で心を打ち震わせる真の回心体験です。
「神の近くにあるという喜びは、あらゆる人間的感情の中でとりわけ、強烈なものである。つまりこの
感情はそれが人の心を完全に満足せしめるだけでなく、またあらゆる制限から精神を開放し、昂揚する
効果の点で友情やその他の感情とはとうてい比べ物にならないほど強いのである。」
(「眠られぬ夜のために第一部」5月11日より)
あなたに欠けているのはこの信仰の喜びのように感じますね。
また、聖霊とともにあれば、謙遜の心と言うものも現れます。というのはそれは私のような者にでも
この世で最大、最強の方(聖霊)が傍近くにいて下さるという畏敬、感謝の気持ちから来るものです。
ところが、あなたの言葉は常に上からの目線に終始し、傲慢な印象さえあります。文章も時とし
て乱暴で意味不明、謙遜や謙虚さは感じられません。神とともにある人の言葉とは思えません。 パウロの書簡によればパウロの人生は苦難に満ちたものであった
コリントの信徒への手紙二1.8にあるように
生きる望みさえ失ったこともある
新約聖書の中でパウロをどう位置付けるか パウロのキリスト信仰はそれ自体で完結しているとパウロは考えていたはずで
現在のような新約聖書の一部となった姿をパウロがみたら
アンティオキアでペテロに注意して決別したように烈火のごとく怒りそうである
新約聖書の正典に四福音書を定めたのはエイレナイオス(130年頃 - 202年)が最初とされる
プロテスタントは聖書のみを強調するとされるが
パウロは失われた書簡も含めてパウロ書簡のみを主張するだろう ■神様は自然のままでの律法の方
―律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである〜律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たと
い律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し(ローマ)
■神様は地上のものに心を引かれぬ国のみを義とされて実在されている《この世の者ではない》
【真理の御霊】―わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである(ヨハネ)
―真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう(ヨハネ)
人間ではとうてい知ることのできない慈悲に満ち溢れた、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを喜び、今までの自分は重荷を背負っていると感じられる。決して
死を味わうことも無かったし、あなたがたは何でもできる・できない事は何も無いがどういう状態であるかわかり、平安に満ち・快楽や情欲その他諸々の肉の思いも無く、
安らぎに満ちていた・・・後【それが私である(神様)】 人の生活を喜びながら、《真理の御霊》を知り、神様はいるかもしれない?《全世界は悪しき者の配下》で、人間の心を得たことをよく知っている。しかし、人の幸せを喜
びながら、神様の存在を信じた。【人の生活を喜びながら、神様を信じることは一切ゆるさない・・・地上のものに・・】悪しき者の配下であることを知りながら、神様は
存在する=人類に対して愛情深い方かなあ?という偶像を抱いてしまった。
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)このことは最も重要なことなのである。神様は直接、【主
にあっていつも喜び、何事も思い煩わないなら、神様に近い】 新約聖書を軽んじて、『人間の幸せを喜びながら、神様に私は信仰あり』という者たちに怒っていらっし
ゃる。
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
【神様は人間の幸せを喜びながら 信仰を退けられた】【世と世にあるものより、何事も思い煩わないで信仰のみに生きる者を信仰あり】と言われ、世のことを捨てら
れない私が、罪人の私をおゆるし下さいと心で願うと、【愚か者、あなたは人である】と告げられた。【私は、自分の命を憎むことのない、自分を愛して生まれた全て
の人間を尊重している】 神様はこの世の者ではないことを、修行などで求めることなく、全ての人間を尊重していると言われた。 そのイエスを信じる者は、もう神様を知っている。この世のことよりも、その神を愛する者は、人間でありながら、神に近く、人間のため、愚かな人間として誇れない。
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
―イスラエルよ、聞け 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ(マルコ)悪しき者の配下で人間の幸せを喜びながら、神
の信仰をゆるさないが、信じる全ての国民が慈悲深い・あわれみ深い神を心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、愛するなら、人間の状態で神様を知
っている。
―第二〜『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』これよりも大事ないましめはない(マルコ)
地上のものに心を引かれない神の義から、《人間でいたいと心で願い叶えられた。【そのあやまちをゆるし、かえって尊重してあげることは、神様の命令である】》
神様はつるぎを投げ入れた。耐え忍んで《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》を信仰しても、自然のままでも【良識ある人間】
【世の富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りへの貪欲にあくせく仕え、悩み、苦しみ、思い煩い、金を得て、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを喜ぶ者だけの者
は地の奴隷・悪魔の子・滅びの者として神と永遠の命の者ではない】それらのことよりも、【愛・・・】が獣のような者でなく、神様によると【良識ある人間】となった
程度。それを維持し、【地上のものに心を引かれない霊の者】となってはじめて、神様に信仰ありと喜ばれる。滅びない者は、人知では知れない素晴らしい国に入ること
ができる。 >>139
パウロの生きざまは真の回心に至る道は言語に絶する艱難辛苦の中からこそ初めて開か
れていくことを教えてくれますね。
「彼がそれを学んだのは『極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みを失い、
心の内で死を覚悟した』時であった。それは自分自身を頼みとしないで、死人をよみが
えらせて下さる神を頼みとするためである。神は死から私たちを救い出してくださった。
なお、日々救い出してくださる。だから、私たちは神が今後も救い出してくださること
を望んでいる。」(「幸福論第三部」135頁ヒルテイによる「コリント人への第二の
手紙の解説)
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」あるいは「断崖に身を翻してのちに蘇る」との言葉も
あるようにパウロは絶体絶命の闇の中で自己のすべてを放棄し、神へ委ねたことによっ
て「永遠の神の愛」に目覚めたのです。その時、彼の心の中にはキリストの霊(聖霊、
真理の御霊)で満たされたことでしょう。
「人間の生活の最高の段階は人間がただ神の御心と励ましを受け入れるだけの器となって
しまうまでに完全な自己放棄の境地である。」(「幸福論第二部」)
それは厳しい修行の後に「心身脱落」、「自己放擲」によって悟りに至るという禅の精神
にも通じるものです。言葉というものを超越した世界です。
艱難辛苦を通してこそ真のキリスト教信仰に至ると言うことであり、教義や形式、神学等の
学習・研究からはけしてたどり着くことのできない境地です。多くの教会の多くの神父や牧
師が陥っている自己矛盾です。そこに「偽善」が生じます。 ■神様を勝手にする者の神様の怒り
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
神様であるイエスを信じようとする者・教会の中には、神様と言いながら、人間が勝手にする者どもがいる。最後に滅ぼされるであろう、神の怒りの者どもである
から、地獄行きの者になるかもしれない。彼らに近づいてはいけない、彼らの言葉を信じてはいけない。
【地上のものに心を引かれない神の栄光と悩み苦しみ思い煩いを取り除く神様】のみが神様で、その他の人間の言論は全て悪しき者だから。
キリストの十字架は、彼らの言論を封じるため。神様を勝手にしないようにするため。 ■神様信仰
【地上のものに心を引かれぬ神の栄光のみが神様への信仰】【神の栄光の主にあっていつも喜び、世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わないようさせるため】
―今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエス
を信じる者を義とされるのである〜信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのか。断じてそうではない(ローマ)
―あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい〜主は近い。何事も思い煩ってはならない(ピリピ)
卑しいからだより、神の栄光の姿が神様にとって善い姿であり、寛容で感謝し何事も思い煩わないよう信仰に生きる者でなくてはいけない。愚かな人間ではな
く地上のものに心を引かれない者を喜ばねばならない。
神様の法律。 ■自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない
使徒「わたしたちの信仰を増してください」主「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら・・・」【神の栄光にない愚かな人間と認めよ】同様にあなたがたも、命じら
れたことを皆してしまったとき、『わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません』と言いなさい(ルカ)
人知では知ることのできない慈悲に満ち、一切のものが悩み苦しみ思い煩いことを喜び、敵意・憎しみ・怨みなど無く平安で、快楽や情欲も無く安らぎに満ち、何でも
できる状態【それが私である(神様)】
―神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い〜なんでも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい(マルコ)
【心の中で神の霊を宿し、自分を愛する人間】が人間と 神様が決められたこと。地上で御言葉を聞いて善いと受け入れられるのが人間で、それ以外を言う者どもは
悪からきている。
神を信じながら、滅びに導く悪魔は多い。決して彼らの言動に惑わされてはいけない。イエス様の言葉・御言葉を善いと受け入れられる者は、決して滅びること
はない。 ■神様は完全 まず、汚れた者が信じる しかし、悩み苦しみ頼る者を信仰で癒す
神様は全人類に完全。汚れた者の口を封じなければいけない。悩み苦しんで神様に頼ろうとする人々を彼らから護り、また、神様の喜びに満ちるために創られた地上の者を
彼らから護らねばならない。神の怒りの者・決して死後善い国に生まれない者の信仰から、健康な者を護らねばならない。
神様は無にならなければならないほど人間には知れぬ存在。しかし、《神を信じなさい、誰でも・・・》
そのため神様は無から天体・星・月や太陽・地球を創られ、大自然や生物を創られた。
■■全知全能の神は、汚れた者も神に群がる■■ようにも創られた。それが、神様の意思でもある。滅びの者まで、彼らの口を封じ、健全な神の言葉を受け入れさせ、
永遠の命を得させよう。 ■真理を行っている者は光に来る
―御子によって、この世が救われるためである〜真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである〜
神は聖霊を限りなく賜うからである〜御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである
(ヨハネ)
神様は【地上のものに心を引かれぬ霊のみが、神への信仰である】だけとされず、【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わない
者がこの世で神様に最も近く、《きたるべき世》で身体の悩み苦しみ思い煩いを、神様が神のわざでも、神様の喜びに満ちる世の人間がすることであっても、神と永遠
の命につながる。
完全な神様は、宗教あるなしにかかわらず『よい天気ですね』『こんにちは』と世の欲得・生活のこころづかいから離れ、何事も思い煩わない心と行為を健康として
人を造られたし、大震災でも多くを失っても暴動や略奪などせず耐え立派な者だとされるよう造られたし、衣食住の無い人々に衣食住をといって義捐金などで助けよう
としても《主よ、いつ、わたしたちは》という者に造られた。神の喜びが満ちるために、苦難に耐え、そういったことを行えるよう創られた。 ■全知全能の神様は、自然のままでも、律法の命じる事を行えるよう人を造られた
―律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである〜律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たと
い律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し(ローマ)
■全知全能の神様は、汚れた者が神に群がり・迷う者・悩み苦しみ思い煩い神に頼ろうとすることさえ知っておられる
だから、神様の健康的な言葉、《異邦人の見あげた信仰であれ》《健康な人は医者はいらないいるのは病人》であれ、全部全知全能の神様の言葉であり、
むしろ、汚れた者も神に群がるように造られた神様だが、悔い改め、神様の健康的な言葉を『善いことである』と受け入れねばならない。
■神様が最も怒る者ども
人に危害を与えて平気だとする者を悪だと思ってしまう人間は人間でもあり、少々のあやまちを責め立てることを善いとしない人間。【あやまちをゆるしてあげるなら善
い神様に従う】 しかし、神様を信じようとする者が、御言葉を善いことであると受け入れようとせず、人間の言葉と思いを神様と信じさせること、これは、神様でも決
して許さない、死後善い国に入れるどころか、滅びか地獄行きなのである。 パウロ書簡とは別にひとまとまりとして新約聖書中にあるのが
ヨハネによる福音書 ヨハネの手紙一二三
ヨハネ共同体による著作とされる ヒルテイにならいてさん。思慮さん。スレの皆さん。
今年は、どうも有り難うございました。
来年も、よいお年を。E-mail欄 sage 入れで失礼します。 なぜイエス・キリストに興味を抱いたか?
■御霊
決して死を味わうことの無い国、あなたがたは何でもできるできない事は何も無いということが真実であると知る国、この世の者では決して知ることのできないよう
な慈悲に満ち溢れ、一切のものが悩み苦しみ思い煩いの無いことを喜び、人間の状態は重荷を背負っていたと思えるほど、苦しみを解き放たれた国が在る。はっきり
言って―わたしの願いと言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなた
がたのためには、さらに必要である〜キリストによる勧め、愛の励まし、御霊との交わり、熱愛とあわれみとが〜何事にも党派心や虚栄からするのではなく、へりく
だった心をもって互いに人よりすくれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことをも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているの
と同じ思いを、あなたたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであらわれたが、神と等しくあることを固持すべき事とは思わず、かえって、おのれ
をむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた(ピリピ) ろんさん、明けましておめでとうございます。今年も一人きりの正月ですが、孤独感は
全くありません。友達いなくても、お酒を飲まなくても心は幸福に満ちています。
なぜなら聖霊と共にあるという喜びは友情や恋愛やその他の感情とは到底比べ物にならな
いほど強いからです。
老い先短い私ですが今年もヒルテイの思想を紹介することによって真のキリスト教信仰
の喜びを皆さまとともに分かち合えるよう努めて参りたく思います。
ところで、思慮さん、ろんさんが新年のあいさつをしているのに無視するなんて失礼で
はないか?
あなたは今年も謙遜の心を欠き、傲慢な上から目線でキリスト教を語るつもりなのか?
それはキリストの教えとは逆行するものではありませんか?
「キリストが示した高貴の典型は小さなものや貧しい人、虐げられたものや罪あるもの
に対するこよなく優しい愛情であった。」(「幸福論第二部」より) まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
自分を救いたければ
今年こそ
死ぬ気で働け 書いている時に用事ができました。
■神様が重要とされていること
【人が皆、自分の命を憎むことではない】【キリストによる勧め 天国では一切の重荷を負うことも無いが、人間でいたいと心に疑わないでいたため人間の状態もあ
りと神様は無から天体・太陽や月・地球・大自然・生物・男女・霊に無いものを恥ずかしいとする人間を、あなたがたのために創られた】
【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】
神様が神様に最も近い所として創られたということです。汚れた者も神様を信じようとするようにもされ、決して信じる者では無く、神を現そうとされたイエスの
言葉のみを受け入れて下さい。
【慈悲・あわれみ】
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
【神様は地上のものに心を引かれない国のみを義としていらっしゃる=実在されている】そこで神様の慈悲に満ち溢れた世界で、全ての者が悩み苦しみ思い煩わない
ことを何よりも喜んでいる=を地上で現そうとされた。 書いている時に用事ができました。
■神様が重要とされていること
【人が皆、自分の命を憎むことではない】【キリストによる勧め 天国では一切の重荷を負うことも無いが、人間でいたいと心に疑わないでいたため人間の状態もあ
りと神様は無から天体・太陽や月・地球・大自然・生物・男女・霊に無いものを恥ずかしいとする人間を、あなたがたのために創られた】
【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】
神様が神様に最も近い所として創られたということです。汚れた者も神様を信じようとするようにもされ、決して信じる者では無く、神を現そうとされたイエスの
言葉のみを受け入れて下さい。
【慈悲・あわれみ】
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
【神様は地上のものに心を引かれない国のみを義としていらっしゃる=実在されている】そこで神様の慈悲に満ち溢れた世界で、全ての者が悩み苦しみ思い煩わない
ことを何よりも喜んでいる=を地上で現そうとされた。 二重になってしまいましたが、
■正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは』(マタイ)
『天国の心を持つようにも造られた』悩み苦しみ思い煩い、或いは困っている人々に施し与えたり、助けてあげたり・ 《そういったことをしてしまった》良識ある
人間にも造られ、教えでは―思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである(ロー
マ)
世と世にあるもの、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの無い神様と慈悲やあわれみに満ちた神様の肢体なのだ。あなたがたは地上のものに心を引かれぬ神の義から、
《神を信じなさい誰でも》《しばしの間たちまち現れて消え行く霧にすぎない》人間となっただけで、
《愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制》をよしとして心のただ中にあるのは、当然の【良識ある人間』なのだ。
神様は人間の言に従ってはいけない方。神を現そうとされたイエスの言葉や新約聖書そのものが神を現す言葉で、人間の言から学ぶ者は、全て悪。 □キリストによる勧め
―愛の励まし、御霊との交わり、熱愛とあわれみとが〜へりくだった心をもって互いに人よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことをも
考えなさい(ピリピ)
この世には無い、慈悲に満ち溢れた国が在ることを知っている。それを失わせたのは、栄華と権威をもっと得ようとする悪しき者の霊による。それで敵意や憎しみもあ
る、様々な思いもある人間となった、ということを知っている。
そこで、慈悲やあわれみがとても大切なことを知らされたが、(ところで神様は何をされているのか?という偶像を抱いてしまった) ■偶像を抱いたから、神様が説かれた
地上のものに心を引かれず、この世に無い慈悲に満ちた、一切のものが悩み苦しみ思い煩いことを何よりも喜んで、あなたがたは何でもできるを知ることが【神様は私で
ある】
神様は論じ合うことすら一切喜ばれず、迷うことも一切喜ばれない。―今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばない
もののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである〜この世の有様は過ぎ去るからである〜思いわずらわ
ないようにしていてほしい(コリント)
【神様は既に天国の者を喜ばれるからである】神様にとって人や世より、思いわずらわないことが一番大切で大事なこと。
【神様を信じることとは、神様によると、地上のものに心を引かれず、人や世のことより、何事も思い煩わないように熱心に努めること】
《だれかれ関係なく よい天気ですね》《こんにちは》と思い煩わない心で挨拶しても、それが神様の現れ》
【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】のように、大自然は神様が天国に最も近いように創られ、そこで楽しんでも、健康的なことを思われる神様に近い。 □あやまちをゆるし、他人のことをも考える者
《あやまちをゆるしてあげよう、富への貪りや金のことをあまり考えないようにしよう、あすのことを思い煩わないようにし自制に努め過労はしないようにしよう、快楽や
情欲は神様が決して喜ばないことだから避けよう、空腹のときに食べさせ〜者のように、この世で悩み苦しみ思い煩い迷っている人々への配慮ある行為は、良識ある人であ
るから、行っても当たり前としよう、公平とあわれみと忠実は天国の思いであるから、人々に負担をかけまいとして働いても貧しい人々がいる、そういった人々への配慮あ
る行為も、良識ある人であると知る。神に願い求めたことはすでにかなえられたことを知って、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを貪ろうとせず【足る】ことを知る》
完全な国は天国に在り、《すぐきて食卓につきなさい》では無く、また、神様に従い【論じ合ってはならず】そういった言葉、御言葉を善いと受け入れて行ってしまった
とき《わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません》という者【良識ある人間】とならないといけない。
決して、【神様を信じて人間の言葉に惑わされて従おうという者になってはならず】神様の言葉、御言葉を受け入れられるよう、熱心にならないといけない。
悪い教会は、御言葉を受け入れようとせず、人間の指導に従わせようとする。善い教会は、神様の健康的な言葉を受け入れさせようとする教会で、天国に行ってから喜
ばれ、悪い教会の指導者に従うなら、天国どころか滅びの者となるのである。その実によって彼らを見わけないと、決して善い国に入ることはできない。
イエス様の言葉を取り除くこと無く、受け入れさせる教会が善い教会であると知ること。 ヒルテイにならいてさん。
163さん。思慮さん。レスの皆さん。
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
各レスのカキコ聖書勉強の励みになります。
毎回お返事ありがとう御座います。 教会に通ってる親手伝いの兄が今だに無職だから。
神はいない 教会に通っても
精神病、ハゲ、虫歯は治りません。
医療がなければ虫歯一つ治せない神 キリスト教の神は、ユダヤの、旧約聖書の神です。
どういう神か旧約聖書(ユダヤ聖書)を読めばわかります。
たとえば、
関わらないほうがいい人、
関わらないほうがいい国、
関わらないほうがいい民族、など
こういうたいぷだとおもいます。 あらためて、皆さま明けましておめでとうございます。
今朝、NHKで春日大社の特別番組をやってましたね。その映像を見ていると千数百年にもわたって
日本人の精神的支柱となってきた神道はまさしくスワッガード氏の言うライフフォースに対する信仰
に違いないと感じさせられます。ライフフォースとは大宇宙の支配者、万物の創造主そのものであり
ましょう。
それはヒルテイの言う、「超感覚的世界の存在」あるいは「人間生来のあらゆる力に優るある大きな力」
に通じるものでしょう。キリスト教では聖霊、キリストの霊、真理の御霊と称され、艱難辛苦を通して
私たちの心に宿る時はじめて真理として実感できるものです。 >>173
キリスト教の神もユダヤ教の神もイスラム教の神も
捉え方の違いがあるだけで同一でしょうね
ただ預言者は人ですがイエスは神の子であるので
旧約聖書の預言が実現してイエスにより
新しい契約が与えられたものを人が著したものが
新約聖書といえるかもしれません >>175
イエスはユダヤ教徒であったので、
イエスが父または神とよんでいたのは、ユダヤ教の旧約聖書の神。
> ただ預言者は人ですがイエスは神の子であるので
イエスも預言者でしょう。
イエスは自分のことを神とは言わなかったとおもう。ユダヤ教徒だから。
> 旧約聖書の預言が実現してイエスにより
> 新しい契約が与えられたものを人が著したものが
> 新約聖書といえるかもしれません
旧約の預言が実現したようにみせるために、旧約聖書から適当なところを探してきて、
イエスにより新しい契約が与えられたことにしたのが、新約聖書。
約2000年にわたり 来る来る詐欺を続けている。 >>176
>イエスも預言者でしょう。
これはイスラム教もそういう考えですね >>173は>>171さんの内容に関してのレスでした。
>>171
> 教会に通っても
>
> 精神病、ハゲ、虫歯は治りません。
>
> 医療がなければ虫歯一つ治せない神
キリスト教の神は旧約聖書の神であるので、
教会に通っても、精神病、ハゲ、虫歯は治らないでしょう。
精神病に関しては、よけいに悪化するということがよくあるようです。
旧約聖書に、ハゲが治せないようなことを証明するような記述もありました。
それより、キリスト教会は、人間であるイエスを神格化しているので、
十戒の第一戒を破っています。
恐ろしいです。 キリカスって日曜日は神様の日だから働かないってドヤ顔で言うけどさ。
それを言うなら、日曜日にサービス業を利用するの辞めろよって思う。
キリカスは自分さえ良ければいいから ■神は霊を義とされている 対する人間は 『自分を愛する生命 と からし種一粒ほどの信仰の無い』者となった
【土に帰る人間であり無】―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしたちは無に等しい(コリント) この世の者ではない、決して死を味わうこと
の無い神様は、無にならなければ信仰あり義とされない=神は霊=信じる者は皆罪を犯した=地上のものに心を引かれない霊で神様といつも一緒が神への信仰
しかし、人間は
―神を信じなさい〜だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い〜なんでも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい(マルコ)
【自分の命を憎むことなく生まれた生命であり、全ての人間を神様は尊重されている】
■神様はその理由で
無→天体→太陽・月→地球→大自然と生物→人間の男女→霊に無い汚い所を恥ずかしいと賢くなった人間と神様といつも一緒の善しか無いもののように、悩み苦しみ思い煩
いを取り除いてあげることは善い・他人に悩み苦しみ思い煩いを与えることは平気とすることは悪い 善悪を知れる人間【良識ある人間】の状態で叶えられるようにされた。 □あなたがたは霊でないのでからし種一粒ほどの信仰の無い者となったが
創世記のたとえは、【その実でわかる人間】と神様への知識
【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】が神様に最も近い。トレッキングなど大自然の中で楽しんでいる者が知らぬ人に挨拶するように、子供がゲームに耽溺するより外で元気
に遊ぶ子のほうが健康的とされるように、【人間の手で作られたものを喜ぶより、天国に近いものを喜ぶほうが健康的】と【その実でわかる】ように造られた。
【地上のものに一切囚われない、ただ何事も思い煩わない者への努め】が神様への信仰と造られた《神の栄光(神のわざ)と何事も煩ってはいけない》が信仰で一番大事
なこと。どんな人でも、神に罪を犯さない状態、神の栄光と何事も煩わない信仰の熱心さで、最も健康な者として神様に救われる。
■善い国はこの世では知れることのできない慈悲に満ちた国
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)世に打ちひしがれた者はそのまま何事も思い煩わないよう信仰に
努めれば近いが、【慈悲やあわれみの心で他者への配慮もある人間】が何でもできる、できない事は何も無い神様につながる。【世の中で自分の状態に思い煩うことが無く、
目の前の人が悩み苦しみ思い煩いがあって自分なりに思い上がらない程度に取り除いてあげよう】が【神様の良識ある人間】につながる。
肉の思いで自分を愛する宗教は無く、他者への配慮もある人間を育てることにより、この世に益をもたらすよう創られた。 ■神様といっても霊で自分の状態を含むこの世一切に思い煩うことの無い のみで地上のものに心を引かれない
あなたがたは慈悲やあわれみに満ちたものであった。敵意や憎しみ・怨みなど決して無く平安に満ち、快楽や情欲も無く安らぎに満ち、何でもできる神と一つであった。
悪しき者の配下、悪しき霊の力に従い、人間の心を得た、【土に帰るからし種一粒ほどの信仰の無い者】となったが、善い状態を現す御言葉を受け入れさようとされたイエス
しか、私たちには主はいない。
悪しき霊の力に従い、人間の心を得ず、善い状態なら、御言葉を善いと受け入れて死を味わうこと無く、この世の者ではない状態だったからである。 全能の神なんだから、やる気になりさえすれば、ハゲぐらい治せるだろう >>182
【トレッキングを楽しんでいる人が見知らぬ人に挨拶する姿を称え】ながら、一方で、あなたは
新年の挨拶をしている人を無視している。このような偽善的としか思えないものがこれまで
のあなたの言葉の中に散見されます。
改めて聞きたいのはあなたがかくも熱心にキリスト教のことを書き込む目的は何かと
言うことです。キリスト教に近ずく人の多くは人生苦を負って、救いを求めているは
ずです。ならば、あなたは苦悩というものの正体を説明し、苦悩からいかにして解
放されるべきかについて語るべきです。ただし、借り物の言葉でなくあなたの信仰
体験から学んだあなた自身の言葉で語るべきです。でないと相手の心に響かないと思います
単なる知識自慢が目的なら論外ですが。 よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいなら
死ぬ気で働け ■全知全能の神 と 律法【神様の決まり】
自分の言葉では、決して神様を語ることはできない。神様に対して不法なことを語るからだ。
この世のものではない、慈悲に満ちた国・一切のものが悩み苦しみ思い煩わない国があるが、悪しき者の配下の霊で人間の心を得た。
そこで、神様は何をされているのだろう?【地上のものに心を引かれない者のみ、私への信仰である。何事も思い煩わないよう、熱心に努めなさい】
―人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために(マタイ)
《断食と祈り》
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください(マタイ)
【ただ衣食があれば足れりとべきである。思い煩わないように祈ること】地上のものに心を引かれず、目の前の人が思い煩わないように祈ることが、神様に通じ、
神様を勝手にする者どもは、【神の怒り、敵の者】だから。 ■神の怒り、滅びの者ども
―やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ)
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
一番恐れねばならないのは、人間の口で神様を勝手にする者どもである。【日ごとの食物あり、地の者も何事も思い煩わないよう祈る心が、全能の神に通じる】
神様は神様といつも一緒の者のみ愛され、《あなたがたは何でもできる、できない事は何も無い》ようにされた。だから、人の子として神の怒り不法の者に従わない
ように、【信じる者が、ただ衣食があれば足り、思い煩わないような地となりますよう 祈るようにされた】《断食と祈り 目の前の人が身体の悩み苦しみ思い煩いを取り除
いてよくなりますように が 身体の状態で何でもできる神に通じる とわからせた》
―あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない(ヤコブ)―この世の有様は過ぎ去るからである(コリント)
何事も思い煩わないよう、熱心に信仰に生きること、それが神様に通じる唯一のこと。 □つるぎ
そういった存在が神様だと認めて―使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増して下さい」主「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』
と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)
その他の者は【全く信仰の無い者】と神は造られた。【あなたがたは善い国天国では、敵意・憎しみ・・自分を偉い者ともせず、何事も思い煩わない健康的な者であった】
―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜自分の妻を自分自身のように愛しなさい〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
神様に言われずとも、何も信じなければ【自分自身を愛する人間】として造られた。【そのように他者への配慮もある良識ある人間】が良識ある人間。信仰もなければ【重荷を
背負い苦しみ悶えた地】を知っているし、善い国のもののように、争うことも、欲得に仕える過労も避け、誰かれなく「よい天気ですね」と挨拶するような健康的な者となりな
さい。また、衣食住の無い人々に衣食住を与えて、正しい者が「いつ行った?」としているでしょう。
邪な心は不法。信じる者は【信仰のみに生き、何事も思い煩わないよう】にさせ、その他の人々は【天にあるものを善いと受け入れられる、良識ある人間】を人間とされた。
【新約聖書が神様の言葉であり、人間が勝手に神を言ってはならない】 質問に答えてないし、キリスト教そのものが分かっていませんね。真の回心体験に至れば奇跡的ともいえる
内的進化がその人の心に現れます。そして、一人住まいの老人でも孤独感に襲われることはないし、如何な
る艱難辛苦も喜びに変えることができ、健康に溢れ、幸福感に満ちて死さえも克服することができる。
このような言葉こそ「キリストの霊がその人の心に宿るという体験から学んだその人自身の言葉」です。
人間が勝手に行ってる言葉ではありません。
あなたも真の臨在体験をした時にわかるでしょう。(続きます) >>192
×行ってる
〇言ってる
×真の臨在体験
〇真の神の臨在体験 ヒルテイの言葉もそうです。彼の言葉はすべて彼の人生の中で艱難辛苦を通してキリストの霊(聖霊)
が宿るという信仰体験から語られるものです。勝手に言っているのではありませんよ。
「苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみ我々は神の傍近くにいることに慣れ、感じることができる、
というところにある。」(「幸福論二部」より)
「神なしに生き、まして神なしに苦しむよりも、神とともにあって苦しむ方が遥かに優った運命である。」
(「幸福論第三部」)
「つらい試練や意気消沈はいつもより大きな浄福と、神の力が加えられるための入り口である」(「幸福論第三部」)
これらの言葉も神の宿りを受けてこそのヒルテイ自身の言葉です。彼が勝手に言ってる言葉ではありません。
長々ともっともらしい説教を続けても人を救いに導くどころかかえって苦しめる結果につながっていることは
教会の現実が証明しています。あなたはこのことを良く考えるべきです。 ■わたしの願いと言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり
それは、御霊を神様により知らされたからである。 適当に聖書に興味を抱いた、私に神様が直接説かれた。
―わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない。女 「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いた
だきます」。イエス「女よ、あなたの信仰は見あげたものである(マタイ)
神様は一個人の意見や団体の行為無く存在されている。
《わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずらせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる》
―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまづかない者は、さいわいである(マタイ)
神様は直接、世に打ちひしがれた者に対して、神の栄光と《主にあっていつも喜び、何事も思い煩わない》神様への信仰で救われようとされた。 ■神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた
それが人間なのである。神様は言われた【罪人とは、監獄の囚人】のことである。世に打ちひしがれた人が、かえって、イエス様への信仰に生きようとする者となり、朽ちない
永遠の命の者となって神様に喜ばれる者となるし、その他の者は世と世にあるものを必要とし、かつ、喜び【罪人=監獄の囚人として生きながらえるかもしれない】状態なので
ある。
■取り除いてはいけない
―あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである〜神の御旨を行う者は、永遠に生きなが
らえる。子供たちよ〜あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように(ヨハネの第一の手紙)
神様から直接聞いたので、この言葉を削除してはならない。神様にとって、あけましておめでとうなどと言える時代ではないのである。【聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ】
が神に近く、世のこころづかいより、『信じても・信じなくても よい天気ですね』と挨拶できるような者が神様の良識で、地上のものに心を引かれぬ霊の者となれれば。
神様に褒められる、おめでとうと言われる、人間は罪人なのである。『よい天気ですね』は神につながるが、『あけましておめでとう』は『手洗い』であり、することはす
るが、神と永遠の命につながらない。また、外に行かなくとも、部屋の中で、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りから離れ、何事も思い煩わないよう祈れば、神につながるのであ
る。 ■明確に分けられた神様
《わたしの願いと言えば、この世を去って》それは、イエス様=唯一の神の義 を信じて、世と世にあるものから離れ、何事も思い煩わないよう信仰に生きる者
この世で打ちひしがれた者が、かえって、信仰に生き、朽ちない神の栄光と共にある神への信仰と、
―神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった〜神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
〜しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである(ヨハネ)
神様は実在されている。よくよく言っておく。パソコンあり【私は神様に信仰あってその国に生まれることができる者】では一切無い。神の怒りの者よ、滅びの者よ、【地上のも
のに心を引かれず何事も思い煩わない者】のみが神様への信仰であると。神様は中途半端な信仰を最も嫌い、【ぬるい者として忌み嫌われる】
だから、その他の人間は、神の栄光を義と受け入れ、御言葉を善いと受け入れ、あれもしよう、これもしようとして、救われるしかないのだ。
【人々の富への貪欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇りにあくせく仕え、悩み苦しみ煩う者】は地の奴隷、悪魔の子、滅びの者と明確にされた。
今の世で暮らす人々はわからないかもしれないが、【聖霊に満ち荒野・山へ逃げよ】は神様にとって永遠の命につながる、最も重要なことだ。『よい天気ですね』と誰かれかまわ
ず挨拶できるような心の状態、世と世にあるものにあくせくして思い煩い苦しみ悩まない心の状態は、神と永遠の命につながると造られたのである。(この世で神様に喜ばれる心
ある者)
「この世を去ってキリストとともにいる」ですか?それはちとおかしいのでは?生き
ている今、キリストの霊と共にいなければ死後の救いはないというのがキリストの
教えではなかったでしょうか?真の神様はそんなこと言わないはずです。
あなたは聖書の言葉を引用し、一見もっともらしいことをいってますが、結局教会で
語られる説教の域から出てない印象です。私がかつて飛び出した教会の神父の話とそ
っくりです。話が支離滅裂で傲慢、礼儀に欠けるところも似ています。 それぞれの人の神に対する像が違うから難しいな
自分の神に対する像が他人の神に対する像より優れていると考えても
本当にそれが正しいかは言い切れないかもしれないし
証明することも難しい 神様の法律に反する不法者の神信者は、神の怒りの者で、決して信じても神様に逢うことはできない。
教会が新約聖書に忠実なら、神様に従っているし、人間が勝手に解釈をするなら、神の怒りの者であり、決して永遠の命の者とはなれない。
ただ、それだけだ。 ヒルテイは無教会派ではないし、私も頑迷な無教会派ではないつもりです。立派な神父が
いることも知っています(希少ですが)。禅寺では大悟徹底した老師が雲水に公案を通して
悟りへの道へと案内してくれます。教会もキリストの霊に溢れた神父や牧師が神と信者の
仲立ち役として信者を魂の平安へと導くというのであれば一番いいわけです。
ところが現実はそうではない。聖職者自体に問題がある。欧米では教会はとんでもない事
態になっています。神父による児童虐待が荒れ狂い、そのため無教会派の人が増えてるそ
うです。打開策はあるのでしょうか?日本も今のままでは無教会の人が増えていくでしょう。
カール・ヒルテイは百数十年にわたって、多くの人々を絶望から救い、希望と祝福を与え
てきました。ヒルテイの教えの中にキリスト教再興のヒントがあるように思いますね。 悟り話と同じく
まことのキリスト教話は
信者から見たら
タワゴトなんだろうなww >>201
基本的な質問ですけど
聖霊って人の体や心に入るものなのでしょうか
イエスの奇跡も外から働きかけた形ですし
三位一体に基づくなら神が人の体や心に入ることになるのは
ギリシアの神の像と同じくそれこそ神はそんな所には
お住まいになりませんということになりませんか
もう一つ仏教というのはゴータマシッダールタという
人間の教えを吟味してならっていこうという考えで
無神論が前提なので例に出すのは不適当なように思えるのですが
どうなのでしょうか キリストの幕屋って、どうなの?
いい感じなのかな? >>203
質問ありがとうございます。私は神学者でも研究者でもないので自分の体験からしか語ることはできませんが、
私は若い時から心の病(神経症)に苦しんできました。医者にも見放され、宗教にすがっても救われません。
その後還暦半ばまで悲しみと絶望の中、酒に浸る日々でした。ただ「救われたい」との気持ちだけは変わらず
祈りだけは続けていました。そういう中、ある日私の心の中にこれまでとは全く異なる高貴な存在の宿りを
を感じたのです。その後、その体験は大きな喜びと化し、不安や恐怖感等の負の感情を凌駕していったのです。
そして、それまで読んできた聖書やヒルテイの著書に書いてある「聖霊の宿り」に相違ないと確信するようにな
りました。その根拠ですか?やはり「長年の苦しみからやっと救われた」との実感と喜び、>>45にも書いた私の
内的進化でしょうね。また、パウロの信仰体験(>144)には共感を深くし、自分の信仰を確信させるものでした。
聖霊の宿りについては言葉では説明が困難で、自分で体験して初めて理解できるものと言うしかありません。
よかったら私のブログ「ヒルテイにならいてー艱難辛苦の中にある人々のために」も覗いていただければ幸いです。
読みにくいブログですが。
後の質問ですが、曹洞宗の籠仙(ろうせ漢字が間違ってるかもしれない)老師と言う人は「如何なる人にも潜在的に
秘蔵している宝玉の如き心があり、修行によってそれを掘り出すのが悟りである」と言っています。この「宝玉の
如き心」というものはキリスト教で言う「聖霊」に通じるものあるいはまったく同じものではないかと思うのです。
まさかと思うかもしれませんが、前にも話したライフフォースの考えに立てば納得できるのではないでしょうか?
これもやはり、回心体験を経なければ真の理解は困難と言わざるを得ません。
以上で答えになったでしょうか?納得することはすぐには困難かもしれませんが、人生体験を重ねる中で学んで行っ
てほしいと思います。この件に関してはまた書きましょう。 >>205補足
「ライフフォース」に関しては>>39に書いてるので併せて読んで頂ければ幸いです。 >>205
ありがとうございます
消化を試みてみます
ただパウロやヒルテイは人間なので絶対視するのはだめですよね
また仏教の方に悟りとは聖霊の宿りであるというのは受け入れられがたいと思います
そこに神が入りこむからです
まだ消化できておらずすみません >>204
ウチの地域に小冊子「生命之光」を大量にバス停留所に吊るし置く人がいるので
それを時々もらって読んだことがあります
配布元である国道沿いのご自宅をチラ見すると、山谷娘のポスターが貼ってありました
お住まいの老夫婦は、冊子の内容みたいに真面目で堅苦しそうな風貌でした
ただ、なかなか出来ない活動をされている点は立派だと思っています
インチキ教会案内スレで大きな顔をしてる慈円クズなどとは、全然レベルの違う人たちではないかと・・・ >>203
横から失礼
一番最初に浮かんだのは使徒言行録の聖霊が12使徒に降ってくるところだが
「一人一人の上にとどまった」
という表現だな
聖霊を強調するのはパウロと
その手紙は読んでいないがパウロの思想の影響を受けたであろうルカ福音書の著者
マルコとマタイの筆者はほとんど聖霊は意識していないのでは 使徒言行録の続きでは
「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」
とある
質問からずれるがルカの筆者は聖霊の働きはほかの外部の人からみえるという理解だろう
そのあとペテロが洗礼を受ければ聖霊を受けると語ったとある 使徒言行録は筆者の信仰と目的に従っているようなので
パウロの手紙との矛盾点もあることを留意した上で読むとして
ほかには10章でペテロが異邦人に話し続けていると聖霊の賜物が注がれ
異言を話したり神を賛美する場面
19章でパウロがヨハネの洗礼だけを受けた人に聖霊による洗礼をして
異言を話したり預言したりする場面
は聖霊の働きがほかの外部の人からもみえる
8章のペテロとヨハネがサマリアの人々の上に手を置いた場面は
聖霊を受けたとあるだけで特に記述はないが
シモンがその力を授けてくれと言っているので外的にみえるものがあったかもしれない
もしくはシモンも聖霊を受け満たされているにもかかわらず
その力を授けてくれと言った訳のわからない結論の可能性もある 興味深いのは8章でフィリポが主イエスの名で洗礼していても聖霊は下らず
ペテロとヨハネが人々の上に手を置くと聖霊を受けたところ
フィリポはすばらしいしるしと奇跡を行うことができたが
手を置いて聖霊を受けさせる力は授からなかったようだ
8章19章で主イエスの名によって洗礼とあって
マタイ福音書28章の父と子と聖霊の名において洗礼
と異なるのもルカの教団とマタイの教団の違いだろうか >>203へのお答え続き
真の聖霊の宿りについては、聖書のここかしこに書いてあります。
「もし、その人の内にキリストの霊が宿っていなければクリスチャンではありません」(ロマ8−9)
「私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えられていく。これは内で働いて下さる主の霊
のお働きによるものである」(コリント第二3−18)
「もし、確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのである。(へブル3−6)
「神の国はあなたがたの内にある」(ルカ17−21)
「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。」(ガラテヤ2−20)
「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5−22)
「私たちの内に住まわれる聖霊は神様が約束のものを全部与えて下さるという保証です」(エフェソ1−14)
「私達に与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれている」(ロマ5−5)
「イエスは自分の体である神殿のことを言われたのである」(ヨハネ2−21)
ヒルテイは「キリストの内にはおよそ考えられうる得る限りの最高度に神が宿り給うたのである」(「幸福論第二部」より)
と言っています。キリストほどではないにしてもわずかならでも良いから聖霊の宿りを頂くことこそ真のキリスト教信仰の道と言え
ましょう。 >>203後の質問へのご返事補足
欧米には日本の禅宗のお寺があるそうです。キリスト教信仰に行きった詰まったような神父、
牧師,一般市民などが参禅に励んでいるそうです。
彼らは禅と聖書の間にはその究極においては共有の世界があると感じているのではないで
しょうか?少なくとも私は仏教(禅)とキリスト教の比較を持ち出すことが不適当とは感じ
ません。
行き詰まって児童虐待に走る神父等よりははるかに柔軟性があって真摯でよいと思います。
「禅とキリスト教」で検索してみてください。勉強しがいのあるテーマだと思いますけどね。 >>213
>ヒルテイは「キリストの内にはおよそ考えられうる得る限りの最高度に神が宿り給うたのである」(「幸福論第二部」より)
と言っています。
前後の分脈がわからないがこの文章からはヒルテイはイエスの神性を否定したユニテリアンの考えに
およそ考えられうる得る限りの最高度に近いだろう
>キリストほどではないにしてもわずかならでも良いから聖霊の宿りを頂くことこそ真のキリスト教信仰の道
「キリストほどではない」という表現は神に対して言う言葉ではないのではないか
こちらは真のキリスト教どころか明らかにキリスト教から外れているのでは >>215
ヒルテイが神性を否定してると言いたいのかな?ヒルテイ自身はユニテリアンを否定しているのだが。
「前後の文脈が分からない」のに軽々しく言うべきではないだろう。ヒルテイを語るならその著
書を読むべきだ。
ヒルテイは「近代スイス建国の父」と称され今日もスイス国民から尊敬される偉人だ。先人の
言葉に対しては疑問を感じても「そんなものかな?」と謙虚に受け取るべきだと思うけどな。で
ないと進歩しないよ。
「聖霊の宿りを頂く」という体験は心の中に「神の光」を頂くと言うことです。偉そうなこと
を言ってるが、私の回心体験というものはまだまだで、その光は良くてろうそく、線香くらいで、今にも消えそ
うになる時もあります。いつかはヒルテイの言葉のように「最高度に神が宿り給うたキリスト」の足元にとても及
ばない(あたりまえだが)がいつかはその心境に達したい」と願うのは当然です。「キリストほどでもない」が
傲慢な表現と言うのであればこのように表現を変えてもいいが精神は同じです。
禅者が大悟徹底をめざすように。
いずれにしても聖書の言葉は「読むものではなく食らうべきものである」とヒルテイも言ってい
るように体験を経ないと真の理解は困難と言わざるを得ません。
(追伸)
ロマ書8−9、第一コリント1−30・6−11には私だけの努力ではキリストのように生きる
のは不可能だが、私たちの心に宿って下さるキリストの御霊に支配されれば可能になるという意
味だと思う。 科学的な接近法の持つ一つの方向は、事物が存在する仕方を連続的に研究することである。しかし実験を完了した後に、
科学者とどごで自分たちの仮説を見つけるのだろうか。典型的にそれに関連した他の科学者の研究を厳密に評価する。
この「コミュニケーションの二段階の流れ」two-step flow of communication は、いかにして説得され新しい教育を
するようになるかという研究において例証されたのであるが、ほとんどの宗教者は自ら進んで刷新者にはならなかったが、
むしろ、彼らは、自分達の教会仲間の中のオピニオン・リーダーに説得されることを待っていたし、危険を冒して教理を
形成する最初の人に進んでなろうとする宗教開拓者は、セールスマンの「宣伝口上」pitchに影響されなかった大多数の
非常に興味ある「不明確な」変容の測度が、以前使われていた士官による報告書よりもずっと良いことをその研究は持って
居る社会的・個人的態度を算定するという問題における重大な欠点を指摘する場合、もっとも良くない種類の証拠である、
等々であった。スタウファー陸軍省、情報・教育家の研究部門 the Research Branch,Information and Education Divisio-
n of the War Department 科学的な接近法の持つ一つの方向は、事物が存在する仕方を連続的に研究することである。しかし実験を完了した後に、
科学者とどごで自分たちの仮説を見つけるのだろうか。典型的にそれに関連した他の科学者の研究を厳密に評価する。
この「コミュニケーションの二段階の流れ」two-step flow of communication は、いかにして説得され新しい教育を
するようになるかという研究において例証されたのであるが、ほとんどの宗教者は自ら進んで刷新者にはならなかったが、
むしろ、彼らは、自分達の教会仲間の中のオピニオン・リーダーに説得されることを待っていたし、危険を冒して教理を
形成する最初の人に進んでなろうとする宗教開拓者は、セールスマンの「宣伝口上」pitchに影響されなかった大多数の
非常に興味ある「不明確な」変容の測度が、以前使われていた士官による報告書よりもずっと良いことをその研究は持って
居る社会的・個人的態度を算定するという問題における重大な欠点を指摘する場合、もっとも良くない種類の証拠である、
等々であった。スタウファー陸軍省、情報・教育家の研究部門 the Research Branch,Information and Education Divisio-
n of the War Department 無教会主義は最近の研究において明らかに一層重要な聴衆に関する他の結びは、むしろある特定の仕方でコミュニケーション
状況に反応することの結果として万人司祭というメッセージに自分をさらすのか、その立場への言質、選択の知覚(人間の自
由にかせられた制限に対する「心理的反発」reactance)、ある権威・権力を採用することに対してその人が持っている正当化
の量と質、交霊するときに含まれる努力、そして自分の立場とは逆の立場の教会を復唱する機会などを含んでいる。そのことは、
コミュニケーションの媒体としての新聞や雑誌の役割を評価するラディカルとして生きた情報live data を読んだ後にそれら
に対する会衆派教会の反応を測定する簡単な回答をすることとなる。その後で、各異端に対してコミュニケーションを好意的
に作り変えたものと非好意的に世造られたものを用意する。すなわちそれらは、各歴史的平和教会に関して、低い信憑性の
源泉に帰せられる唯一のドグマ問題であり、あたかも抗ヒスタミン剤の処方箋の利用の是非の問いであった。信用できる交霊
の場合の正味の変容の平均と信用できない交霊の場合の正味の変容の平均との差異が14.1%あったことをこれらの結果は示し
ている。それが信用できない交霊から発せられたと思うときのほうが一層その交通の方向にリフォメーションさせやすいのである。 >>216
聖書の言葉は「読むものではなく食らうもの」の掲載された本がわからないけど
そうであるならなおさら
聖書で使っている言葉を厳密に解釈し咀嚼しその使い方の違いの意味についても
解釈し咀嚼しないといけないのでは
読み流すのでなく食べるように噛み砕いて自分のものにするということではないの
また疑問なのは聖書について特殊な日本語訳を使用されているのではないかということ 内村鑑三、無教会主義に関しては、どのようにしてわれわれをクエーカーの世界や無限の行動に連れ戻してくれるのか。
または自分の変化した地位を支持するために按手的な支持を探し求めることができる。彼からのコミュニケーションの内容
を歪曲するか、またはその含みを誤解させることができる。人々に聖変化をさせたいということが不道徳だろうか。
われわれが信じるところによると、この失せにし聖者は大宗教団体のために計画される広告の根拠になつている。その広告では
まず最初に精神科医が健常者への衛生学的処置に関して恐怖を刺激し、その後でそれに代わるものとして、その教団の理念を
使うというあまり恐ろしくない提案がなされる。見出しは「権威・権力を克服する」と明言しておいた。したがってリッカートは、
尺度で使用される各表明分が同じ態度次元上にあって、線型的関数にあると仮定する。この仮定は終末的な態度得点を得るのに
ある人々の交霊の個々の得点をたし合わせる(または、もっと形式的に言うならば異端の評定を合計する)という操作のソースとなって
いる。しかしながら、このような宣教に与えられる注意や努力や技術とは無関係に、会衆派教会は彼らが提供できる結びの種類に強い
制限を加えられている。相関的宣教は、内在する因果関係の性質について明確な理念を導き出すことができないのである。 >>216
「最高度に神が宿り給うたキリスト」
その部分からはイエスが人間であることを前提に神が例えば90%宿ったと解釈できるからあのように書いた
イエスの神性を否定したユニテリアンの考えそのものではないが本質はそれに近い
人間が死んだということなら十字架での死の意味は変わってしまう
>ヒルテイの言葉のように「最高度に神が宿り給うたキリスト」の足元にとても及
ばない(あたりまえだが)がいつかはその心境に達したい」
「 」の位置が不明瞭だが最後までヒルテイの言葉なの?
>「キリストほどでもない」が傲慢な表現
その通り 無教会主義、内村鑑三と金教臣のモデルの最後の段階では、無教会主義とはちがう送り手を知覚すると、ヒルティ、内村鑑三
の立場と極端に食い違うコミュニケーションは実際以上に相違しているとみられるだろう(対比される)。他方、無洗礼、無聖餐、
と無洗礼、無按手による有聖餐のモデルの最後の段階では、結果として送り手の立場の拒絶と、態度変容が起こらないか、それ
とも「ブーメラン」boomerang 効果(唱導される方向とは逆の方向への態度変容)のいずれかが起こる。金教臣は近代韓国が生んだ
民族的キリスト教理念を唱導し日本が誤った道を歩んでいくときには、それについて厳格に批判し、反省を要求することこそ
「わが愛国心」だという信念を実践し真空の状態で学習するという信念を実行する。例えば、これらの関係が期待通りになる
条件を学習するのであるし、人々は状況や刺激や出来事を弁別するとき、刺激条件が異なれば、ある程度状況を汎化することもでき
る。人は、ほとんどすべての「万民司祭」が彼らがブタと呼んだ人々をこん棒で打つと言う。例えば、牢獄の中の一人の殺人犯
を見るときは、拷問、国外追放という聖書朝鮮で同じ殺人者を見るときよりも、少しの情緒的覚醒しかおこらないであろう。 私が始めたスレではないが、無教会主義、ヒルテイ等について活発な意見が出されてうれしい限りです。
中には難解そうな書き込みもありますね。ゆっくり読ませてもらいます。
>>222は質問ですか?たとえ2ちゃんであろうと質問するときは礼儀と言うものがあるはずです? >>224
>2ちゃんであろうと質問するときは礼儀と言うものがあるはずです
ヒルテイにならいてさんへ
「最高度に神が宿り給うたキリスト」
その部分からはイエスが人間であることを前提に神が例えば90%宿ったと解釈できるからあのように書いた
イエスの神性を否定したユニテリアンの考えそのものではないが本質はそれに近い
人間が死んだということなら十字架での死の意味は変わってしまうが
そういう理解でいいのですか?
「いつかはヒルテイの言葉のように『最高度に神が宿り給うたキリスト』の足元にとても及ばない
(あたりまえだが)がいつかはその心境に達したい」と願うのは当然です。
「キリストほどでもない」が傲慢な表現と言うのであればこのように表現を変えてもいいが精神は同じです。
としてヒルテイにならいてさんがそう願っているということなのですか?
キリストは人間だからほかの人もそこに達することができるという理解ですか? >>216
ヒルテイにならいてさんへ
聖書の言葉は「読むものではなく食らうもの」の言葉が掲載された本の名前は何ですか?(1)
「読むものではなく食らうもの」であるならなおさら
聖書で使っている言葉を厳密に解釈し咀嚼しその使い方の違いの意味についても
解釈し咀嚼して読み流すのでなく食べるように噛み砕いて呑み込んで
自分のものにするということではないのですか?(2)
聖書について特殊な日本語訳を使用されているのではないかと思うが
引用されている聖書の言葉は何訳ですか?(3) >>225
@先ず質問の意図がよくわかりません。私は浅学でユニテリアンについては殆ど知らないので
まず、その概要でも教えてもらわないと。
とりあえず、イエスの死について私の考えと言うよりヒルテイの思想を述べてみると、人間と
いうものは肉体と魂が合体したものである。肉体が死んでも魂は生き続けるのでその人間は死
んだとは言えない。肉体の死後、聖霊の宿った魂は全く新たな高貴な人
生をしかも永遠に送ることができる(復活、永遠の魂)。対して聖霊の宿ってない魂は煉獄、
地獄の中で、厳しい修行をさせられることになる。
イエスの死というものはありえません。死どころか、
「復活は『イエスの死はこの地上の外的生活に対する死にすぎなくて、本当は新生であった』
ということの神の側よりする証明である。」(「ヒルテイ著作集9」白水社刊より)
Aキリストは人間としてこの世に生を得られた方ですが、神が選ばれた不世出で特別の存在
であり、神の霊が100%隅々まで宿った方と言えましょう。
キリスト教徒も聖書の教えに従って生きて行けば聖霊の宿りを受けられますが、キリストの
境地へたどり着くのはまず不可能でしょう。しかし、100%の回心を目指すべきです。
でないと1%の回心もできないかもしれません、
禅の修行者も同じで仏陀の境地(大悟徹底)を目指して修行するはずです。最初から小悟を
目指して修行する人などいません。
B「聖書の言葉は読むものではなく食らうべきものだ」の言葉は「キリストの福音」ヒル
テイ著作集第9巻(白水社)」の中にあります。しかし、この全集はすでに絶版になってい
るようです。
ただ、あなたの解釈には異議があります。それは後程書きます。
C今私が読んでいる聖書は新共同訳、ホテルでもらったギデオン協会訳、またかつて教会
の聖書学習会のときの記録(このときの聖書は紛失してしまいましたが)
あと、ヒルテイの著書の中に引用された聖書の言葉などですね。一つの聖書に止まらず、
種々の訳に接触した方がよいと思っています。べつに特殊なことはやってません。 ヒルテイにならいてさんへ
>>227
Cについて
>>213
真の聖霊の宿りについては、聖書のここかしこに書いてあります。
「もし、その人の内にキリストの霊が宿っていなければクリスチャンではありません」(ロマ8−9)
「私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えられていく。これは内で働いて下さる主の霊
のお働きによるものである」(コリント第二3−18)
「もし、確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのである。(へブル3−6)
「神の国はあなたがたの内にある」(ルカ17−21)
「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。」(ガラテヤ2−20)
「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5−22)
「私たちの内に住まわれる聖霊は神様が約束のものを全部与えて下さるという保証です」(エフェソ1−14)
「私達に与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれている」(ロマ5−5)
「イエスは自分の体である神殿のことを言われたのである」(ヨハネ2−21)
この上記の文章は口語訳 新共同訳 新改訳いずれにも該当しません
(ロマ8−9)は「内」と新共同訳もなっていますが
その他の文章ところは口語訳 新共同訳 新改訳どれも「内」は使っていません
また「内で働いて下さる」「私たちの内に住まわれる」の文言もどの訳にもありません
この訳は口語訳 新共同訳 新改訳以外のどこから引用されたものですか?(1)
聖霊=キリストの霊=神の家=神の国=キリストという理解をされているということですか?(2) ヒルテイにならいてさんへ
>>227
Bについて
ありがとうございます
ヒルテイ自身も新約聖書旧約聖書に精通して著書に自由自在に挿入引用されていることは存じています
Aについて
キリストは神の子であって受肉されたということは受け入れられないということですか?(3)
@について
人間が死んだということなら十字架での死の意味は変わる
というのがわからないということですが
神の子が死ぬことで人類の罪が贖われたというキリスト教の
根幹を採用しないということですか(4)
>>216でヒルテイ自身はユニテリアンを否定している
と書かれているのに浅学でユニテリアンについては殆ど知らないというのは矛盾している
ヒルテイ自身がユニテリアンについて書いているかそれを匂わせる言葉があるから
そう書かれたのではないですか
また現にネットにつながって2chして書き込みしているのだからいくらでも調べられるはずです
>イエスの死はこの地上の外的生活に対する死にすぎなくて
やはり死んでいるのではないですか
それともイエスもほかの人間と同じく肉体が死んでも魂は生き続けたので
死んでいないということですか?(5) >>228>>229
新共同訳、新改訳のものでないことはわかっています。>>227下から4、3行目に書いたように
昔の聖書学習ノートに記入したものからの転用なので多少の表現の違いはあります。
しかし、聖書の神髄から逸脱したものではありませんし、私の中では全く問題ありません。
「教外別伝不立文字」という禅宗の言葉があります。これは悟りは文字・言説をもって伝えることが
出来ず、心から心へ伝えるものだという意味です。
キリスト教においても同様で、言葉にばかりとらわれると肝心の回心(聖霊の宿り)が遠のいていく
でしょう。
欧米のキリスト教会を見て下さい。長年、教義の研究や学習に明け暮れてきたにもかかわらず、多くの
知性も教養も豊かな聖職者たちがその利己心が障壁となって回心にたどり着けないことから焦燥感、あ
るいは懐疑に陥っているという教会の現実をヒルテイは嘆いています。
その結果、形式主義、偽善、空理をもてあそぶ神学論争等に陥る実態は現在もあまり変わりはないでし
ょう。近年、聖職者による児童虐待が荒れ狂っているという現実は問題がより深刻化していることを知
らされます。
「教理を知らないでもクリスチャンであるものが少なくない。キリスト教は証明さるべき教義ではなくて、
生活さるべき一つの生命である」(「眠られぬ夜のために第二部」より)
そのとうり、言葉はむしろ必要でないどころか邪魔になる時さえあります。 在日韓国人や帰化人が多いのはキリストの幕屋とかですか? ヒルテイにならいてさんへ
ありがとうございます
>>230
>>>227下から4、3行目に書いた
>>かつて教会の聖書学習会のときの記録(このときの聖書は紛失してしまいましたが)
>ように昔の聖書学習ノートに記入したものからの転用
詳細がわかりませんが教会に行かれていたときの牧師さんの一個人の私訳か
教会の聖書学習会の構成員の共同の成果物としての私訳か
聖書学習会の学習の結果導き出したヒルテイにならいてさんの私訳
のいずれかということですね
>>228 >>229
の質問2〜質問5の御返事もお待ちしています >>232
質問がいっぱいありますね。
Aは聖霊=キリストの霊が宿るところが神の家=神の国、霊になる前のキリストはちょっと離れるかな?
BCは>>227に書いたとおりです。
Dはヒルテイの言葉の通リです。
(CDに関してはヒルテイの良い見解がどこかにあったと思いますが、探していますが)
私は神学には全くの門外漢です。。満足のいく神学的答えにはなってないでしょう。神学論争をしたけ
れば神学校か大学の神学部に行くべきです。不毛の神学論争に私を引きずり込もうとしても無意味です。
私のあなたへの本当の返事は>>230に明確に書いています。よく読んで下さい。これがすべてです。
あなたは余りに言葉にとらわれすぎて、真のキリスト教信仰から逸脱しているように思いますね。
迷妄の中にある欧米の神父、牧師たちと大差ありません。
私からも質問@人生の苦しみはどんな意味を持っているのでしょうか?A苦しみから解放される
にはどうしたらよいのでしょうか? >>233
@人生の苦しみはどんな意味を持っているのでしょうか?
A苦しみから解放されるにはどうしたらよいのでしょうか?
両方とも根源的な疑問である
これは「苦しみ」とは何かを定義づけないと
議論がかみあわないでしょう
「解放される」というのは「苦しみ」を否定的なものと
認識しておられるのが前提でしょうし
さらに人生はどんな意味を持っているのでしょうか
という質問であれば
意味はないでしょうむしろ人生は意義のあるものにしていくもの
ということで「意味」というのをどう定義づけるかに
よっても議論は変わってくるでしょう
言葉というものはないがしろにしてはならない
言は神であったのですから
いわゆる神学論争といわれるものは聖書に直接かかわりなく
どちらの結論でも何も変わることのないものを
ああでもないこうでもないという論争することを言うのではないですか?
もちろん神学それ自体には敬意を持っていますよ >>233
>BCは>>227に書いたとおりです。
>Dはヒルテイの言葉の通リです。
答えることが容易なように質問したつもりですが
明確に御返答いただけないようで残念です
BCDともYESと答えられたと判断せざるを得ません
またヒルテイの考えではなく
ヒルテイの考えを理解した上でのヒルテイにならいてさんの意見が
ほとんどないのも残念です
ヒルテイの考えは食らうものであって
それをもとに自分の考えがあるのではないのですか?(E)
ヒルテイは聖書を重要なものとは考えていないのですか?(F)
聖書に書かれていることを理解しようとするのは必要ないという考えを
ヒルテイが持っているとは思えませんが >>235
>Eヒルテイの考えを理解した上でのあなたの考えがない。
そんなことありませんよ。>>230を読んでないのですか?反応がありませんね。それこそ理解が容易な
ように書いたつもりですが。また、私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある
人々のために」ではヒルテイの言葉に添えて私の考えも書いています。
Fヒルテイはキリストを敬っているからこそ著書の中であれほどの引用をおこなっているのです。当た
り前のことです。
>>234
>>233@Aに明確な答えを頂いてませんね。残念です。「苦しみ」とは生老病死から来る人生苦のことです。
『「解放される」というのは「苦しみ」を否定的なものとして認識しておられる』?全く逆ですね。ヒルテ
イが「苦しみを否定している」言葉は一つもありませんよ。ヒルテイの言う「苦しみからの解放」と言う意味は
苦しみを消滅させるという意味ではありません。
苦しみこそ浄福へ至る道である。苦しみの時こそ神の力が加えられるための入り口であると言っています。
あなたはこの重要な問いに口を濁して答えていませんね。よく考えてみてください。
私は神学は否定しているわけではありません。神学だけ言葉だけでは問題は解決しないと>>230で言っているのです。
ヒルテイの考えをも理解した上でね。
聖職者が神学や教義と言う言葉だけに偏ってそれを乗り越えられないから児童虐待のような悲劇が起こるのです。
「聖書の言葉は食らうべきものだ」の意味は「聖書の言葉は知的レベルでなく、霊的レベルで理解すべきものだ」と
言う意味だと思いますけどね。この問題に関わる言葉でもあります。 まことのキリスト教話なんか
信者から見たら
尻以下じゃないか! ヒルテイにならいてさんへ
ご指摘ありがとうございます
>>230の5課題を積み残していますが
まず>>233について
「苦しみ」とは生老病死から来る人生苦ということですので
@人生の苦しみはどんな意味を持っているのでしょうか?
人間であればだれひとりとして逃れることのできない
生きること、老いること、病気になること、死ぬことの4つの
人生の苦しみに意味はありません
ただ一瞬一瞬を生きることです
これは無教会やキリスト教の方に限らず
心と宗教板の方全般も対象とした回答 >>233
A生老病死から来る苦しみから解放されるにはどうしたらよいのでしょうか?
こちらはまさに人生のテーマであって
救済宗教のキリスト教を含む宗教全般や無宗教の方をも含むテーマでもあります
こちらAは苦しみを分類して分析するかまとめて分析するかしてみます
原因があるもので解決可能性があるものはそれをするとして
解決可能性がないというものがあるだろうがそれをどうするのか
ヨブ記とコリント第2の12章の7以降の記述
「祈り」と「聖書を読むこと」が念頭に今あるが
まだまとまって書けません。
熊本地震や東日本大震災で残された人
シリアのアレッポで苦しんでいた人
がんに苦しむ人やその家族
老いて介護される人と介護する家族も浮かべています
これは無教会の方だけかキリスト教の方だけか
心と宗教板の方全般も対象とした回答になるか
全く着地点はまだ見えません >>230
3段目4段目
>欧米のキリスト教会を見て下さい。長年、教義の研究や学習に明け暮れてきたにもかかわらず、
>多くの知性も教養も豊かな聖職者たちがその利己心が障壁となって回心にたどり着けないことから
>焦燥感、あるいは懐疑に陥っているという教会の現実をヒルテイは嘆いています。
>その結果、形式主義、偽善、空理をもてあそぶ神学論争等に陥る実態は
>現在もあまり変わりはないでしょう。
>近年、聖職者による児童虐待が荒れ狂っているという現実は問題が
>より深刻化していることを知らされます。
ヒルテイは1909年に亡くなられたので100年以上前ですね
ヒルテイは教会の形式化を指摘しただけで教会改革派であって
教会に行くのは前提な方ではないのですか(9)
また欧米の状態は少ししか知りませんが
今の日本でも下段のような状態なのでしょうか?(10) ひろってきたが
改めて観ても声も出ない…
(リンク先の映像グロ注意)
トルコ駐在のロシア大使が演説中にボディーガードに銃撃され死亡
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1482173275/1 >>240
「苦しみは神に選ばれた証である」とヒルテイは言ってますが、それは如何なる苦悩も
神の救いに通じる入口だということでしょうね。
キリストの「山上の垂訓」(マタイ5−3〜10)こそそのことを示しています。
(9)仰る通り >>242書き込みの操作を誤って失礼しました。続きます。
(9)仰る通りヒルテイは無教会主義者ではなく教会の存在価値と言うものは認めていました。しかし、
しかし、「教会は創始者の思想に完全に適合したことが一度もない」(「眠られぬ夜のために第一部」)
とし、また聖職者たちが教条主義、形式主義果ては偽善に陥っている教会の実態に警鐘を鳴らしています。
その様な教会に頼る必要はないとさえ言っています。(「眠られぬ夜のために第一部」)
ヒルテイは当時の教会の現実を憂えて無教会派やむなしの考えがあったのかもしれません。
(10)欧米の教会での「児童虐待」の凄惨さ、おぞましさは「キリスト教会の児童虐待」で検索するとよく
わかります。日本の教会でそのような事実があるとはあまり聞きませんが、日本のキリスト教の低調ぶりを
みると日本の聖職者にも>>230に書いたような心の迷妄があるに違いありません。
>>239[まだまとまって書けません][全く着地点はみえません。]
あなたは私よりずっと若いのでしょう。(私は72才)私は聖霊の宿りを頂いたとの確信を得るまでに、
50年半世紀近くかかりました。求道者には迷妄の時期が不可欠です。何ら恥じることはありません。
今は見えなくて当然です。
何年、何十年かかろうと必ず回心にたどり着くのだという決意と勇気そして神への祈りがあれば大丈夫です。
何十年など永遠の生命を考えればほんの一瞬にすぎないはずです。 ヒルティもいいですが、盲信してるように見えます。
このスレはあなたのヒルティ宣教スレではない。 少し節度をわきまえてください
異様なのでだんだんと多くの人がスレを遠巻きに見るようになり足が離れていることに気付きましょう
残るのはいつの間にかあなたとあなたの取り巻きだけになりますよ
教会へ赴かないクリスチャンたちの貴重なスレを期せずして占有し台無しにしかけていることが分かりませんか? ヒルティか
同じヘブル人への手紙のすばらしい第11章には、信仰の先駆者や貫徹者のことが挙げられているが、しかし、そのような人びとはいつわずかしかいなかった。
いくらか弱くなってきたわれわれ改革主義の信仰を更新するためには、このような精神的強者(この世は彼らに値いするものではないが)を、いまや大勢持たなければなるまい。
必要なのは、長老会や委員会やまたは宗務会などではない。これらのものは、「堅い食物」には不向きである。
(「眠られぬ夜のために第二部」)
ヒルティの言わんとしてるのは政府の行政組織や会社の内部組織の改革のように教会の内部組織の改革をして長老会や委員会やまたは宗務会をなくしてすっきりさせようということだろ >>246
ここにある「われわれ改革主義の信仰」というのがスイスの改革派のことでカルヴァン派と合流してカルヴァン主義を採用しているグループ
そこで採用しているドルト信仰基準
ドルト信仰基準
1.全的堕落- 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
2.無条件的選び- 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
3.制限的・限定的贖罪- キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
4.不可抵抗的恩恵- 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
5.聖徒の堅忍- いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
ヒルティはこれを信仰基準とした上で著書を書いてることは忘れたらだめだろ 四国八十八箇所のお遍路とかは宗教団体に所属せずやっている人がほとんどじゃないですかね
ある意味無教会に似ているな
神社や寺のようにキリスト教も建物の中に入らなくてもお祈りできるようにすれば
日本での普及にはいいんじゃない ゆるすということが分からない…
他人が何をしてもそれを咎めたり制圧したりしちゃいけないんですか >>250
>>250さんが仏教の人かキリスト教の人か
どういう境遇のもとでの質問かで答え方が変わるから
みんなその質問だけでは答えにくいのじゃないの 境遇で変わるんですか。
聖書が説いてる「赦し」の具体的な形や精神性は
相手によって説明の仕方が変わるような性質のものなんですか?
強いて言えば、標準的な宗教的感覚の日本人で、ここ一年ほどキリスト教に触れ、祈りの場所を借りるためだけのつもりで時々カトリックの教会へ行きます。洗礼は受けていません。
目の前で人が殺され続けてて世界中涙と血に満ちるとしても
それを人が止めたり罰したりすることは神に委ねていないし
ましてや憤怒の気持ちに駆られているのであれば相手をゆるしていないわけだから
看過すべきなのですか。
どなたか神父さんがゆるしについて説いてくださった話を知っているのなら、教えてほしいです。 聖書において 「赦す」 とはどういう意味なのかを理解するには、先ず 「何を」 「誰が」 という視点をもって読む必要があります。
ヒントに、マルコ福音書 2:5〜7 をご紹介します。 >>252
どういう境遇のもとでと書いたのは
例えば自分は他人からひどい仕打ちを受けているのだが恨まずに赦すのかという内容と
目の前で人が殺され続けてて世界中涙と血に満ちる状況という
戦争やテロや虐殺を想起させる内容では返答の仕方が違うでしょうということ
国際紛争とキリスト教の関係について「赦し」という言葉で
神父さんのたちの言葉で説明してという壮大な疑問ですかね 境遇っていうと質問者個人の生い立ちと現状に焦点当たってるよね
それを言うなら境遇じゃなく状況だよね なんか突発的に悪意向けられて嫌な気分になったとか
そういうケースなら許せ許せ言うのは納得できるけど
社会的正義に悖るような行状に対する裁きを神に委ねるのかとか
悪人に優しくすることは被害者に対する冒涜じゃないかとか
色々思うよね >>250
難しい質問ですね。わたしは神父でも牧師でもないですが、
自分が我慢できる範囲内、自分の許容量の範囲内であれば赦したいです。
それは主観的なものでもあり、物質的な余裕にも依存しています。
許容量は人によって違うので、一律の線引きは不可能だろうと思います。
それに人間は、目の前の状況ですら正確に判断できないのが普通です。
周囲への思いやりを持ち、その都度その都度精一杯生きれば、
それでその人の責任を、十分果たしたと言ってもいいように思いますが。 >>244>>245
「盲信」というのは「わけもわからずに信じ込むこと」(広辞苑より)です。ヒルテイは「スイス建国の父」と称され今もなお
スイス国民をはじめ世界中の人々から尊敬されている偉人です。ヒルテイはいずれも最高の聖書の解説書です。
私はそのヒルテイの思想を紹介しているにすぎません。
私はこのスレを独壇場にしているわけではありません。日本は言論の自由と言うものが保障されています。私が何を書こうがあなたが私の言論
を封じる権利はありません。私のレスが盲信と感じ、また占有していると思うなら、なぜ堂々と反論しない?そんなこともできないで、わけの
分からないことを言うのはやめなさい。
それにあなたのレス以後私の書き込みが一時ストップされたが。私のレスを快く思わない人がいるのは間違いない。以前にもそ
ういうことがありました。今後、また私の書き込みが途絶えたら、誰かの策略なので皆さんそう思って下さい。私が沈黙したり、
屈服することはありません。 >>252
憤怒の気持ちに駆られているのが>>252さんなのか殺された人の親族のことなのか
>>252さんが原罪を信じていているかどうかでも説明は変わるよね
神父さんではないが
去年の7月にイスラム国に傾倒する若者にフランスの教会の司祭が殺された事件で
ローマ法王がコメント出してるが犯人を責めるようなことは言っていないようだ
イスラム教も非難していないしむしろ擁護しているかのようであるよう >>259
それにあなたのレス以後私の書き込みが一時ストップされたが。私のレスを快く思わない人がいるのは間違いない。以前にもそ
ういうことがありました。今後、また私の書き込みが途絶えたら、誰かの策略なので皆さんそう思って下さい。私が沈黙したり、
屈服することはありません。
こんなことあるのかな
怖すぎる 何で「無教会のスレ」やら「カトリックスレ」で、
元・日基牧師のマムシ徘徊老人が、説教くらわしてんだよ!
白内障でスレタイ読めんのか? 嫌がらせ老人去れ! 内村鑑三の教えに基ずいた無教会派の人達の集いがあるそうですね。その人達がいたら、ぜひ
内村鑑三のことについて教えていただけませんか?
またキリストの幕屋の方。このスレで幕屋のことを紹介して下さいませんか?私は皆さんがこ
のスレで話して頂けるのではとずっと期待しているのですが。
私ばかり話すのでやっかみからかどうかわかりませんが、わけの分からないことを言いだす人
も出てくるのです。
私のヒルテイの思想の紹介は>>243で一応の区切りがついています。今度はどなたかが主役にな
って下さい。但し、議論には参加させてもらいますよ。 キリストの幕屋さんははこちらでしょ
キリストの幕屋 ★ 生命の光 ★ 原始福音
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1385395665
このスレは宗教団体に所属していない人用でしょ >>264
見知らぬ人から送られてくる「生命の光」にある「われらの信条」の中の一つとして
「我らは、無教会主義に立つ。したがっていかなる協会、教派にも属さず作らず」とあ
りますよね。そこのところも含めて幕屋の人の話を聞きたいですね。
261>>こんなことあるのかな,怖すぎる。
あるのです。特にスレ「ニユース速報+」ではある政党に対する疑問を書き込んだ時、
何度もやられました。特に選挙期間中は全く書き込みをストップされ続けましたね。
その政党名ですか?共産党と言ったら納得いくでしょう。
書き込み規制は個人的な誹謗中傷ならともかくまともな意見までストップかけるのは
やめてほしい。Aチャンでは言論の自由は絶対守ってほしい。 よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいなら
死ぬ気で働け >>254
そんな「ゆるし」の説明に神父ということに限らなくても
>>253氏の言うように聖書から説明してもいいし別に聖霊から説明しても何からでもいいんじゃないの
>>252氏の「ゆるし」の理解のヒントになればいいんだから >>253氏が言っている「誰が」というのは
神が赦す 直接の当事者が許す 直接の当事者でない第三者が許す
というのを分けて考えてみなさいという示唆だろう
「何を」というのは
人を赦す許す 罪を赦す許す 行為を赦す許す
というのを分けて考えてみなさいという示唆だろう
宗教の力借りなくても「罪を憎んで人を憎まず」は理解する人もいるはず 第三者がゆるすということ
その場合の話を聞きたいです。
一体どうすることを聖書は示しているんですか
よくある例は生温い話ばかりで食傷気味です。
そりゃ許せるだろうし許したほうが諸々のコストも低いだろう、と。
しかし極限のケースがこの世界には溢れています。目に見える戦争に限りません。
この現実に対する、私やこのスレの皆さんを含めた人間たちを、聖書が導いてくださることを望み、ここで私の不勉強を補っていただこうと質問しました。 >>260
ありがとうございます。
原罪については真摯に向き合う姿勢をとっています。個人としては。 【赦しについての一考察 @】
「赦し」 という主題が、人間の道徳や美徳のような意味で語られるのをよく聞きます。
当然、立派な道徳的行為や美徳は、その人の功績として評価されるわけです。
そしてさらに、それを神からの赦しを受けるための交換条件のように、・ ・ ・ いわば脅し文句として説明されると、私たちは逃げ出せない罠にかかってしまうことになります。
主の祈りの中の 「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く」 という言葉が、まるで呪縛のように信仰者を悩ませることになります。
マタ 6:15 や 18:35 が、追い打ちを掛けて来ます。 【赦しについての一考察 A】
しかし、真面目に考えてみると、私たちがだれかを 「赦す」 という場合、それは具体的にはどういう行動を意味しているのでしょうか。
例えば私もここ 2ch で、ある特定の論客からひどい悪口をしつこく受けていますが、「これを無視すること」、「無理難題に屈すること」、「ニコニコしていてあげること」 のどれかが赦すことになるのでしょうか。
他に何か具体的に、まだ方法があるのかどうか、私にはどうも思いつかないのです。 【赦しについての一考察 B】
浅学な私がこれまでに何とか到達した答を二つ、皆様のご参考に紹介してみます。
先ず、ルカ 17:3-4 を読んでみましょう。
3節で 「赦してやりなさい」 と言われた直ぐその後に、その説明として4節があるのです。
「『悔い改めます』 と言ってなたのところに来るなら ・ ・ ・ 」
これなら、誰でも十分に理解出来るのではないでしょうか。
相手が反省したり、心を入れ替えて、「悔い改めます」 と言って来るのなら、私たちだって頑張って、「七の七十倍までも赦す」(マタ 18:22) ことさえ可能です。
しかし、実際にはそんなことが起こることは、世の中には滅多にありません。
それなら、相手が悔い改めないのに、何も私が悩むことはないではありませんか。 【赦しについての一考察 C】
前回の話は、しかし深く考えてみると、実は私たちが聖書を正しく読んでいないから、「赦しなさい」 という聖書の中の用語にただ振り回されていただけではなかったかという疑問がわいて来ます。
私たちは 「自分を正当化しようとして」(ルカ 10:29)、自分には甘く、他人には厳しく、「赦しなさい」 という言葉を解釈する傾向があるのです。
旧約聖書以来、神の愛はいつも無条件の赦しとして語られて来ました。
「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ロマ 10:21 ← イザ 64:1-2)
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ロマ 5:8)
人間に、この神の真似が出来ると思って、聖書の中の 「赦しなさい」 という言葉を解釈することから、すべての混乱が起こっているのです。
人間に出来ることは、憎むべき敵や相手に対して、せいぜい 「無視する」 「黙認する」 「こちらからは攻撃しない」 ことぐらいだからです。 【赦しについての一考察 D】
そこで、私の見つけた第二の答に、話を進めます。
主の祈りの言葉使いには二種類あって、マタイでは 「わたしたちも自分に負い目のある人を “赦しました” ように」(6:12) となっていますが、ルカは違います。
「わたしたちも自分に負い目のある人を皆 “赦します” から」(11:4) となっています。
教会で祈るときの日本語の主の祈りでは、昔も今も、「負い目」 を使わずに、「罪」 に統一しています。
そしてプロテスタントの教会で一般に使用されている文語の主の祈りでも、またカトリックと聖公会で現在使用されている口語の主の祈りでも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」 「わたしたちも人をゆるします」 となっています。
しかし、プロテスタントの一部の教会では、「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから」 という翻訳も使われています。
皆さんは、これをどう考えますか ? 【赦しについての一考察 E】
もしかしたら、ある教会の説教では、「先ずあなたが赦さないなら、天の父もあなたを赦してはくださらない」 と、牧師が声を張り上げているかも知れません。
しかし、私は先に述べたように、人間に神の真似が出来るなどと考えるのは間違っていると思っているのです。
一足飛びに、結論へ進みます。
天の父の “赦し” と、私たちが “赦します” “赦しました” と告白するのとでは、全く内容が違うのです。
天の父の赦しは最終的な “赦し” ですが、私たちのささやかな “赦し” はほんの “決心”、いや、ほんの “そのつもり” 程度のものでしかあり得ないのです。
決して根本的な “赦し” ではありませんし、それは人間には不可能なことなのです。
でも、そのような心の持ち方を ・ ・ ・ “願いとして” “感謝の表現として” 示すことを、主は求めておられるのだと私は理解しています。
「だれが (罪人であるを) わたしを救ってくれるでしょうか。
(しかし) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」(ロマ 7:24-25)
少しは、気持ちが楽になっていただけたでしょうか。 >>272-277
自分が被害者なら、相手の罪を簡単には許さないだろう。
加害者はまず、その被害を弁償する必要がある。
許すか、許さないかのテーマを考える場合、
許さなかったらどうなるのかも考えないといけない。
神は、加害者を許さないからと言って、被害者を罰するのだろうか。
そんな神は神ではない、ような気もするがどうだろう? 被害者は加害者を許すべきだ、という教えは、
許すべきかどうかで被害者を悩ませ、被害者を二重に苦しめ、
被害者を冒涜することにならないだろうか。
そんな教えがあるなら、キリスト教は邪教としか言えない。 >>279
神が望み、お許しにならない限り何事も起こりません。
神が、霊魂の利益になる試練をお送りになることもありますから、
神の御旨に従わなければなりません。
神がお送りになる試練は、罪のつぐないをし、徳を実践する助けになります。
キリストの光栄にあずかりたいのなら、その苦しみにもあずかるべきです。
苦難は神の恩寵でありますから、感謝して受けなければなりません。
それが苦しいとおもったり、それで精神病になるとしたら、
信仰が足りない証拠です。
それで薬漬けの廃人になったとしても
神のみ旨でありますから感謝して受けなければいけません。
死ぬほど苦しむということは、
主イエス・キリストに倣う生き方であり
喜ぶべきことです。 ただし、キリスト教徒はイエスによってすでに救われたのだから、
イエスの教えに従い、他人から被害を受けても全部許さなければならない。
そうしないキリスト教徒は、キリスト教徒を名乗っても、
名前だけの偽善者だと言うことになる。
悪いことは言わない。即刻、キリスト教から離れてください。 >>273
>例えば私もここ 2ch で、ある特定の論客からひどい悪口をしつこく受けていますが、
>「これを無視すること」、「無理難題に屈すること」、「ニコニコしていてあげること」
>のどれかが赦すことになるのでしょうか。
悪口にすり替えないように。おまえが悪い。
おまえを「赦す」のは周りの方だよ。「よそ者」扱いする者の方が悪いのではなく
事実「よそ者」であるおまえが悪い。
不審者のかっこうで、歩いて、不審者であると疑う者の方を「悪人」に仕立て
ないように。
>>272-277
考察は浅い。神の赦しと個人の赦しは違うがな、と一番最初の投稿を読んだ時点で
キリスト者は考えながら読む。 >>280
神は善であり、全知全能のはずです。
その神から悪いものがやって来るはずがありません。
神の試練と称し、
悪いことに感謝し喜ぶのは悪魔の子だからです。
キリスト教は人々を惑わす邪教です。 >>280
苦しいと思っている人。苦しみの中にいる人。精神病の人に対するおまえの眼差しは
どのようなものになっているのだろう。
ダニエルという固定ハンドルがうつ病の神父様を卑下してたようだけど。
>>281
許す方向性を心に持っているだけでも、それを持たない人よりはましだよ。 >>284
精神病、薬漬け廃人やらの部分以外は
公教要理から引用した部分が多い。
カトリックとはそういう教えである。
長崎の原爆で被害をうけたカトリック信徒の中にも、
原爆は神の恩寵であるから感謝して受けなければいけない、
聖母マリアがここ(長崎)に原爆を落としなさいと言った
そういうことをいう人がいた。
信仰とはいのちよりも大切なものである。 >>284
>許す方向性を心に持っているだけでも、それを持たない人よりはましだよ。
確かに。いろいろな人がいるから、
キリスト教徒だからと言って一括りにはできないのだろうね。 よお
統合失調感情障害
自分を救いたければ
死ぬ気で働け 本当は教会に属することは大事なんですよね!
でも、やっぱり、人間関係とか、批判とか出てきます。。。
なによりも、年次行事がいっぱいあり、事務、お茶出し、食事作りで
追われて、疲れ切って・・・ごめんなさい。今は教会に属していません。 旧約聖書の神のイメージと新約聖書の神のイメージがかなり違うからな
でも同じ神の違う側面の一部が現わされているだけで同一
人間はどこまでいっても神を完全に理解することはできないが探求はしていくのかな
>>288
三位一体の信仰を持つ
独自の経典は持たない
この2つがあれば異端だとか別の新宗教だとかは言われることは
とりあえずないんじゃないか
教会に否定的な人もいるけど
そこはどちらでも考え方の違いでどちらもキリスト教という人もいるよ >>270
第三者がゆるす
極限のケース
目に見える戦争に限らない→ということは戦争も含まれる
第一感かなり高尚な悩みのように感じる
ISに処刑された日本人2人について第三者である一人の日本人が
処刑した人に憎しみを感じているのでゆるすべきかどうか
というのを一例としてあげていいのか? 違いの中身は違いそうだが
違っていることは共通
>>282
神の赦しと個人の赦しは違うがな
>>277
一足飛びに、結論へ進みます。
天の父の “赦し” と、私たちが “赦します” “赦しました” と告白するのとでは、全く内容が違うのです。 許す許さないを具体的な事例で考えよう
H.24.6月、大阪心斎橋で起きた通り魔殺人事件(被害者2名、男性42歳、
女性66歳)の控訴審が大阪高裁で行われた。加害者磯飛守之(現在41歳)
は、一審で死刑判決を受けたが、まだ死にたくないという理由で控訴した。
被害者の男性には妻と子供三人がいる。男性の父は死刑が相当だと訴えた。
男性の妻も死刑が当然だと訴えた。
被害者の女性には息子がいる。その男性も加害者の死刑を訴えている。
磯飛被告が控訴した理由は、「刺せ」という覚醒剤の幻覚にある。
今は、毎日手を合わせ、謝罪文を書いているという。
さて、第三者のあなたは、被害者の立場に立った時、犯人を許せるのか否か。
犯人の死刑を望むのか減刑を望むのか。いたいどっちなんだ? 不幸にして加害者と被害者に分かれた場合、
われわれ第三者は、いったいどちらの側に共感すればいいのか。
その答えは簡単だ。
被害者>加害者が正義であり、これが神の意志だろう。
加害者が応じた場合のみ、被害者が許される。
通常、そういう順序だよね。
それが法だ。
被害者に譲歩を迫るのは法ではないし、
ましてや宗教ではない。
そんな宗教があるとしたら邪教として否定しなければならない。 >>292
思い違いしているみたいだけど
キリスト教は原則政教分離だから
やってしまった行動に対してどういう刑罰を下すのかは法律を定める政治の範囲だよ
そこもイスラム法で定めるイスラム教とは発想が異なる
仏教や神道がどう処理するのかは知らない
国語辞典の許しとキリスト教の赦しは違うものだろうし
神の赦しと人による赦しは別というのが今までの議論の成果 >>294
>思い違いしているみたいだけど
>キリスト教は原則政教分離だから
政教分離の根拠はどこにありますか。
キリスト教の歴史は絶えず、政教一体ではないでしょうか。 >>293 の訂正
× 加害者が応じた場合のみ、被害者が許される。
↓
○ 被害者が応じた場合のみ、加害者が許される。 >>295
マタイ福音書22章15以降の記述が
政教分離をも言ったものと説明される
ここの文はいろいろ解釈の仕方もあるみたいだけどね
歴史はそれこそ教会の関係のあるスレに聞いたほうがいいだろうけど
政治がキリスト教を利用したり教皇が政治に関与したことはあっただろうが
それと聖書がどういっているかは別の話
>>295さんは神と言っているから仏教徒ではないみたいだけど
何教の信仰かな
可能ならその宗教の思想も知った上で答えたほうが下手なりになんとか説明できるかも 朴クネが慰安婦問題は千年の恨みとか息巻いていたが、
慰安婦が単なる売春婦であったことはすでに暴露されている。
慰安婦という呼称は、日本人の温情であり、
売春婦ではかわいそうだから慰安婦という名前にしただけらしい。
その証拠に売春宿の経営者は韓国人だった。
韓国人だから韓国語で韓国人女性をだまして集めることができたのだ。
韓国語が話せない日本人にはまったく無理な話である。
(韓国人、韓国語 → 当時は、朝鮮人、朝鮮語)
韓国人は、被害者でもないのに被害者だと言い張って日本を非難し、
慰安婦像を建て、日本をひたすら侮辱している。
これは恩を仇で返し、日本を冒涜しようという悪意である。
韓国人、在日韓国人は悔い改めてください。 >>297
うわっ、その個所が現世での政教一致を宣言しているんじゃない。
キリスト教の歴史をもっと勉強してくださいね。
キリスト教の歴史は年表を見れば一目瞭然ですよ。
十字軍、異端裁判、魔女裁判、黒人奴隷、新大陸での先住民虐殺、
アヘン戦争、アジアの植民地化、オーストラリアなどの先住民大虐殺、
ハワイ併合、フィリピン占領、インド侵略、日本への侵略など、
政教一致だからこその悪行の数々。
これら悪行にキリスト教が深く関わったことが明らかにされてます。
アメリカの大統領宣誓式は聖書に誓って行われるのです。 「赦し」の議論は私のレスを気にせず続けてください
聖書からだけでなく
聖霊からの赦しの理解も聞いてみたいし
>>299
>>299さんの信仰している宗教の神の勉強をしてみたいですよ
>>298はスレチで政治板についてだろうし
無教会のスレで>>299を書いても響かないでしょう
カトリックやほかのプロテスタントのスレなら反応あるかもだけど わたしは、ヒルティも読んでるし、内村鑑三も読んでるし、
エマソンやソローも読んでるし、ルソーやパスカルも読んでるし、
スエデンボルグもヘレンケラーなども読んでます。
もちろん全部ではないですが、
読んでいる時はけっこう燃えて熱くなりました。
今ではキリスト教を卒業しましたが、
宗教板では無教会派が一番しっくりするかもしれないですね。
わたしの神はイエスではなく「命」です。 >>300
慰安婦のパンフレットが、韓国人神父の教会で配布されているという。
だから慰安婦問題はスレチなのではなく、
いま実際に進行している教会内の真実だと言っていいだろう。
知らぬ間に、慰安婦問題は宗教板の問題と化している。
日本人は加害者でもないのに加害者にされつつある。
それを必死で宣伝しているのが韓国人。
黙っていると韓国人のウソが本当になってしまう。 イエスとキリスト教会=洗脳は別
私たちは、悪も無く・敵意・怒り・憎しみ・・・など全く無い善い状態。
【全世界は悪しき者の配下】
神は霊で、そこから離れた者を『全世界は悪しき者の配下』 敵意や憎しみもあるそのままの人間とされた。
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら〜彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、
そのことを彼らの良心と共にあかしをして(ローマ)
それが、神様の意図。『自分の命を憎め→いまだかって自分の命を憎む者はいない』からし種一粒ほどの信仰の無い者となって、ただ、【自分を愛しいとして生まれた人間】
のみを人間として造られた。他人を害することを平気とする者を悪・悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげよう とすることを善い 善悪を知る者として造られた。
それは、人間のもので、神のものでない。神は霊で、ひとつも信仰の無い者として人間を造られたのである。 ■あやまちを責め立てない善い者であった
地上では、『全世界は悪しき者の配下』として敵意や憎しみ・怒りなどもある人間の状態とされた。しかし、それは、心のただ中に住まわせた霊が
―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じることを行うなら〜彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、
そのことを彼らの良心と共にあかしをして(ローマ)
この世のことのために、他人を害することを平気とする者を悪・・・・・をわかり自然のままで法律などをつくって世を治めさせるためであり、
■宗教のあり方
地上のものに心を引かれず何事も思い煩わない神への信仰 と、自分の命を憎んだ者はいまだかってひとりもいない=からし種一粒ほどの信仰の無い者=神には人間の宗教は
一切無い の説得と(苦しい信仰・ましてや御利益・・・自分の命を憎め=人間が如何なる宗教的行為・行事を行っても神には全く通じない) 神様から直接聞いて2chで書き続けたことが騒がれているように
―あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずわうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ)
【その言葉を軽んじて、人々の富への貪欲、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りへの貪欲にあくせく仕え、悩み、苦しみ、思い煩い神を信じるあなたは何者か?地の奴隷・悪魔の子
滅びの者だ!悔い改めよ】
東日本大震災少し前に、【人類に天罰を与えない】ことを言われた神様。人類が熱心に宗教的行為に励んでも御利益の無い方。また、神をして善悪を押し付ける方では無い。
人間には、『いまだかって自分の命を憎んだ者はひとりもいない』ように、生命とその尊重があるだけだ。また、自制は大事で、肉欲を神のものとしては決していけない。
人類に宗教的行為の御利益など、全く存在しないのだ。
―自分の命を愛する者はそれを失い。この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るのである(ヨハネ)
―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である〜いずれにしても、あなたがた
は、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい(エペソ)からし種一粒ほどの信仰の無い愚か者と認め、隣人愛を大切な戒めとすること、これが宗教の役割だと、
教会になさったこと。神は物やその他の人間の貪りよりも、人間を尊重することが、良識ある人間とされた方である。
だから、人間の言に惑わされ毒されること無く、イエスの言葉に熱心になることが、人々を救う鍵となる。 >>301
その程度の読書でお前は偉そうにキリスト教を卒業したと言うのか。 [慰安婦像の横に椅子が置いてある本当の理由] で検索
何だよこれ、元々慰安婦像には二人バージョンがあって、
2002年の米軍装甲車女子中学生轢死事件の女学生二人がモデル。
日本とは全く関係なし。製作者も親北団体に所属する反米活動家夫婦。
それを反日慰安婦に流用すると大ヒット。今ではいいビジネス。
こんなデタラメ放置しないで、TVでしっかり報道したらいいのに。 >>298>>302
なぜ日本は中国・韓国・北朝鮮ごときに舐められ続けるのか?その答えは簡単。日本が弱い国だからだ。
ではどうすれば良いのか?その答えも簡単。日本が強い国になれば良いだけのことだ。
具体的には、
@憲法を改正し、再軍備を達成する。原潜、原子力空母の配備。徴兵制、核武装も。
A愛国心、道徳心を育てるような教育の実施。「教育勅語」の復活
Bスパイ防止法、国家反逆罪の立法化。
C日米安保を破棄し、あらたに日米軍事同盟締結。
以上の達成で日本はやっと一人前の国となり連中になめられなくなる。このようなこと
を言うと必ず「軍国主義の復活だ」とわめき出す輩がいるが、考えてもみよ。連中が
上記の多くを手中にしているのに対し、日本には何もないのだぞ。これでは舐められて
当然だ。今のままではいつまでたっても、領土問題も拉致問題も慰安婦問題も解決しない。
とりあえず、憲法改正再軍備だけでも達成すべきだ。
それどころか国家の存亡にかかわる事態になりかねない。 第三者に対するゆるしという概念があるかどうかも疑わしいけど
あるとすれば
感情とか怒りがあるのが前提だろうから
その感情や怒りの原因をたどっていけば
その感情や怒りを根こそぎなくすもしくは減らせるのでは >>306
あなたはどんな本を読みましたか?
読書量ではなく、どんな本を読めるかが重要なのです。 >>309
人間は、自分中心に生きるから、生きていられるのです。
もちろん、まったくのエゴから、アガペーに近いあり方まで千差万別です。
が、自分のことをまったく考えない、完全なるアガペーは、
神の領域だといってよいでしょう。
冷静に判断し、自分の命を相手のために捨てられる人は神です。
しかしさすがに、そこまでは神も要求しないでしょう。
だから、その場の状況や経緯を無視し、なぜ相手を許さないのかと
非難することは許されないと思います。
人間は人間らしく考え、行動すればそれで十分なのです。
神の如く振舞う必要はまったくありません。 >>45
ヒルティに倣いてさん
はじめまして。2001年より宗教板に棲息しています、すろと申します。
子供の時に聖霊派教会に通っていたことがあります。
今は、聖書を一人で読んでおります。
さて、あなたは「異言は悪霊の現象」だと、誰もが閲覧可能な場所で
中傷されておられます。
公の場で、他教会の信仰の事柄を中傷されるのはいかがなものでありましょうか
大変、憤慨しております。発言を撤回した上で
聖霊派に対して謝罪をしてください。宜しくお願い致します。 マルコによる福音書2章17節に
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
というイエスの言葉があるがここがキリスト教の入り口なのではないか
自分は健康だと思っている人は病院へ行かないわけで
自分は正しいと思っている人はキリスト教には入らずほかのところにいる
自分は罪人と思っている人の中にはキリスト教に入る人もいる わたしは「ヒルテイにならいて」さんに同感です。
意味不明な異言など死者の口寄せと同じレベル。すろさんに異言が
できるのは、成仏できない地縛霊の呪いだろうと思われます。
現在は耳なし芳一状態なのです。悪いことは言わない。
悪霊と早急に縁を切りなさい。そして心からの悔い改めをしなさい。 マルコによる福音書3章29節30節に
しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、
「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
とあるので神を冒涜するとキリスト教に留まることができなくなるだろう >>316
the Counselor(弁護者、助け主) 自分に負い目のある「人」にそもそも第三者が想定されているのか疑問
第三者が赦すなんて発想がないのでは >>317
弁護者とはいったい何ですか。助け主とはいったいなんですか。
そもそも三位一体なんだから、聖霊=神ですよね。
あなたは聖霊を体験してますか。
もっとわかりやすい説明はできませんか。 >>321
>弁護者とはいったい何ですか。助け主とはいったいなんですか。
まさか聖書の中の言葉と理解していない上での質問なのか
>三位一体なんだから、聖霊=神
この「=」が三位一体の理解として妥当かはわからない
聖霊についてはうかつなことは言えない
キリスト教から追い出されてはたまらないから
逆にもっとわかりやすい説明をお聞きしたい >>322
>キリスト教から追い出されてはたまらないから・・・
無教会派であれば教会から追い出される心配はないでしょう。
人間は神をどうやって知ることができますか。
聖霊に出会う以外に方法がないのです。
だから、聖霊を体験するとは、神に出会うことを意味します。
聖霊は、弁護者でも助け主でもなく、神そのものなのです。 イエスはどうやって神に出会ったのでしょうか。
マタイ3:16にある「洗礼」ではなく、
マタイ4:17にある「悔い改め」によってです。 >>323
ヨハネによる福音書16章7節
しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。
わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。
わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
>聖霊は、弁護者でも助け主でもなく
イエスの言葉の否定だろうし聖霊の冒涜にあたるかもしれない >>325
ヨハネ16章は作り話ですよ。
イエスがこんなに長い説教をしたはずがありません。
神である聖霊を弁護者とか助け主などと言うことの方がよっぽど
聖霊を冒涜していると思いますよ。
それよりマタイ3〜4章に注目しましょう。
イエスが洗礼を受けて聖霊体験をしたということが事実なら、
イエスは神ではなく単なる人間だったことになります。
三位一体を福音書自体が否定しているのです。 ■あなたがた全ては一切悪が無い
たとえば、自動車を運転して不注意で子供をひき殺した。あなたがたは、悪も怨みも憎しみも敵意も怒りも何も無かった、死んだ子供はこの世の重荷を負うこと無く、神と共に
喜びに満ちて、自動車を運転した者も子供の親も、皆喜んだ。
そういったことは絶対無いように神はされたのである。親は怨み、世は法律をつくって運転者を裁く。
―神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに
成るであろう〜なんでも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい〜だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあな
たがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう(マルコ)
神といつも一緒で足ることのなかったあなたは、恨みや憎しみを抱いて争うことの無いものから、ただ、人間でいたいと生まれ叶えられた【神様による失楽】【重荷を負い苦し
み悶えた地】だから、神を信じる者が重荷を負うことなくゆるしてあげることは神様にとって当然のことなのだ。神の右をよしとしていなさい。
■信じる者を神は憎んだ・・地上のものに心を引かれぬ霊・神の栄光のみ神への信仰
―イエスは彼をいやして、物を言い・・・「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」人には、その犯す全ての罪も神を汚す言葉も、
ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世で
も、きたるべき世でも、ゆるされることはない(マタイ)
神様は神の栄光から離れた人間をからし種一粒ほどの信仰の無い者として造られたが、天と地ほど違うような人間の状態とされた。信じる者はなおさらその罪は大きい。
《人の子は地上で罪をゆるす権威》イエス・キリストの癒しに学びなさい。
地上は苦しみ悶えた地であるが、悪しき者の配下(悪霊)でない善い国のあなたがたは、一切のものが悩み苦しみ思い煩うことの無いことを喜んでおり(聖霊)、地上で
悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげる行為を悪霊とか言って汚す者は、この世でもきたるべき世でも、決してゆるされることはない。
地上のものに心を引かれぬ神の栄光のみが神への信仰で、全世界は悪しき者の配下とされた神を汚す言葉も、人にはゆるされる。しかし、内に住まわせた霊に逆らい、悩み苦し
み思い煩いを取り除いてあげる行為を、悪霊だとか悪い者だとか罵る者は、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 >>326
>ヨハネ16章は作り話ですよ。
>イエスがこんなに長い説教をしたはずがありません。
誰だよお前、何勝手に決めつけてんの?
>神である聖霊
聖霊が神なら、イエスは神か否か?
イエスも神ならキリスト教は多神教かね? ■人間は全て【土に帰る】偶像なるものは存在しない
■父とは
―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしたちは無に等しい(コリント) 無となり山を移すほどの力=神の栄光=イエス
しかし、《だれでもこの山に動き出して》で【人間でいたいと生まれた生命と尊重】世界に生まれた。他人のことをも考えられる人間は【神様に通じる良識ある人間】なのである。
■子
一方では神の栄光と癒し、一方ではからし種一粒ほどの信仰の無い者として、【いまだかって自分自身を憎んだ者はいない】と【隣人への愛の戒め】宗教の役割・教会になさった
こと。
■聖霊
聖霊に満ちて荒野・山へ逃げよ 神のわざで悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげた。それをよしとする心のただ中にある霊。それが神と永遠の命に通じるものだと教えたイエス。
偶像なるものは、実際は世に存在しないのである。人間の言葉に惑わされず、イエスの言葉を大切な言葉と受け入れること。たとえ、健康な者は医者はいらない という言葉
があっても、それは神様の言葉であり、取り除いてはいけない。 >>326
ああなるほど、お前はイエスの神性を否定する反キリストか
ペテロとヨハネとヤコブが見たイエスの栄光と何か、お前には分からずじまいのようだな >>312さん
質問ありがとうございます。私がお答えしなくても>>314さんが的確な答えを下さいましたね。
かつて私が若いころ、入っていた教団は異言をはじめとする奇跡を売り物にしていました。
教祖は神の声だといって、威厳(洒落にもなりませんが)ある声でそれも聞いたこともない
ような異国の言葉で話したりするので信者はまんまと騙されてしまうのです。
そのあげくは家や財産をなくした人、離婚した人、仕事をなくした人など不幸な人達が続出
しました。
今日も、韓国の新興宗教などでも異言をおこなっている映像を見たことがあります。異様な
光景です。
異言を行う教祖、神父たちは「聖霊、聖霊」と言いますが、彼らの背後にいるのは聖霊では
なく悪霊です。悪霊は90%もっともらしいことをいって信用させ、後の10%で裏切って
信者を地獄へと引きずり込むのです。
「聖霊は疾風怒涛あるいは壊滅の苦悩を経ることによってのみ、人の心に宿るのである」
(「眠られぬ夜のために第二部」)。とある通りです。真の聖霊は異言など語らず、人を見て
その人の心に宿るのです。
「発言を撤回した上で謝罪をして下さい」??あなたもおかしなことをおっしゃいますね。
私は批判はしても中傷などしてませんよ。
ここは日本、言論の自由が保障されています。他の教団を批判するたびに謝罪をしなくて
はならないなら宗教版の多くの批判を繰り返している人たちはどうなるんですか?
私が何を発言しようとあなたが私の言論を封じる権利はありませんよ。 >>332
>「聖霊は疾風怒涛あるいは壊滅の苦悩を経ることによってのみ、
>人の心に宿るのである」 (「眠られぬ夜のために第二部」)。
>とある通りです。真の聖霊は異言など語らず、人を見て
> その人の心に宿るのです。
これはその通りだと思います。
神を信じない者が、ある日突然、聖霊を体験したのですから。
それが神であることはすぐにわかりました。 >>329
>誰だよお前、何勝手に決めつけてんの?
自分の思いを語っただけで、
誰にも強制してませんので安心してください。 >>329
>聖霊が神なら、イエスは神か否か?
>イエスも神ならキリスト教は多神教かね?
マタイ3:13-17には、イエスが天から聖霊を受けたことが書かれています。
聖霊を受けた者が神であるはずがありません。
イエスが神なら、新約聖書もキリスト教の教義も矛盾してしまいますね。
それゆえ、聖霊は神だが、イエスは神ではないということです。 >>331
>ああなるほど、お前はイエスの神性を否定する反キリストか
>ペテロとヨハネとヤコブが見たイエスの栄光と何か、
>お前には分からずじまいのようだな
イエスが人間であって神でなければ、
イエスを神だと思っている人たちがやっていることは何でしょうか。
神を冒涜し、聖霊を冒涜することになりませんか。
よくよく考えてほしいですね。 >>331
>ペテロとヨハネとヤコブが見たイエスの栄光と何か、
モーセとエリアは死者の霊です。
イエスがかれらと一緒にいたということは、イエスがかれらの霊と
近いことを意味します。つまりイエスも人間だということです。
イエスが神であることの証明にはなりません。 >>332
あなたが傲慢な方であることがわかりました。
お返事をありがとうございました。
あなたの論理ですと、キリスト教会の一つが悪いことをすれば
すべてのキリスト教が悪いことになります。
とても短絡的なお考えであり、72歳の経験に相応しいものではありません。
だからあなたは一人暮らしなんだと思います。
そんなあなたを昼亭は慰めてくれるわけですね。
よくわかりました。ありがとうございます。 日本の無教会主義の流れの中にはインテリと異言が大きくかかわっています。
インテリと異言。その実例をひとつご紹介します。
私市 元宏著 新教出版社
『聖霊に導かれて聖書を読む―今、日本人として聖書をどう読むか』 ちなみに私市元宏さんは
内村鑑三の無教会の流れから出た小池辰雄の流れに属されています。
小池辰雄さんは阿蘇山で聖霊体験をされた方です >>329
> イエスも神ならキリスト教は多神教かね?
イエスも神ならキリスト教は多神教。
しかし、キリスト教は一神教。絶対に。
そこで、考え出されたのが、三位一体。華麗なアクロバット。
だから、三位一体は深く考えてはいけないのです。
人が知ることのできない神秘なので触れてはいけないのです。www 異言については、それを聞いた者にとって意味不明でも、
酒に酔っているのではないというペトロの弁解が使徒言行録にある。
すろさんにお聞きしたい。
@あなたは異言そのものを聖霊だと考えていますか。
Aそれとも、心の中で聖霊体験をし、その体験の結果が
異言という現象になっていると考えていますか。
BかりにAであれば、心の中で体験した聖霊はどんなでしたか? >>343
異言で祈ることもできるパウロが、異言を知らない人が、異言を
見ると狂っているように見えるとして、公の場では控えるように
指導していますし、多くの流れを産んだ小池辰雄さん自身も
内村鑑三の無教会の流れの中でさえ、熱狂主義と距離を置かれたりも
していますので、昼亭さんが異言はきっと悪霊の仕業だと思い違いされるのも
理解できます。
50年前の異言はまさにそんな状態で、同じキリスト教会からおかしな連中と
思われていたものです。
@私は、異言で祈る時、「ハレルヤ、主よ感謝します。主の御名をあがめます」
と祈っていたりします。異言の中身は、感謝であり、賛美であり、祈りです。
A聖霊というのは特別な現象ではなく、ありきたりな現象です。
マリア像にすら働き、大病を患った私に再び聖書を与えてくださいましたし
野菜が収穫できるのも、異言でいのるのも、普通の言葉で祈るのも
すべてそこに聖霊が働いているからです。
キリスト教の小難しい神学ではノンクリに働く聖霊を一般恩恵
クリスチャンにだけ特別に働く聖霊を特別恩恵と特別扱いしていますが
聖霊は、善人も悪人も等しく降り注ぐ太陽の光のように深い愛なのです。
Bありふれた日常の中に聖霊を感得でき主に感謝できるのが
信仰の醍醐味であると考えております。 異言は悪霊によるものか聖霊によるものか
イエスはあくまで人間であるのか
異端無教会や別宗教無教会であるのかそうでないのかにもかかわる問題
異端と別宗教の境目が何かはしらないが >>344
ていねいな御回答ありがとうございます。
すろさんの異言は、心が感動し喜びに満ちた時に自然と生じる、
神さまへの感謝や賛美や祈りであるということですね。
幸せそうなので何も言うことはありません。
ただ、聖霊を体験したかと言えばそうは思えません。
聖霊との出会いはいろいろ表現できますが、それはまず自分とは
別の存在であり、心の中に直に落ちて来る神の雫です。
それは永遠であり完璧な叡智です。その恩恵は罪の赦しです。
その意味で聖霊は愛でありアガペーです。聖霊と出会ってすぐに
罪が赦され、自分が救われたことを即座に理解します。
それが聖霊体験か否かの基準は、
罪の赦しがあるかどうかだろうと思います。
そんなにすごい体験があるんですね。→ マタイ7:7 求めなさい >>339
すろよ。
だからあなたは一人暮らしなんだと思います、はないだろう。
まず、この一行でどれだけ考えが浅いかわかってしまう。
信仰も大したことはないぞ。
俺は昼亭氏が一人暮らしをされてるということで、ますます好感を持ったわけで。 >>346
異端なのか別宗教なのかと考えない方がいいです。
つまるところ「真理とは何か」です。
たったひとつしかない、ほんとに短い人生なんだから、
枠から離れ、自由に考えましょう。 「アタナシオス信条」 は、名前だけ知っていて、読んだことのない方が多いと思いますので、その一部をご紹介します。
1.すべて救われたいと願う者は、何よりもカトリック (当時の用語法では、正統的という意味です) の信仰を保つことが必要である。
3.カトリックの信仰とはこれである。 我らが一つなる神を三位において、三位を一体において、礼拝することである。
− − − − −
28.それ故に、救われたいと願う者は、三位一体をこのように考えなければならない。
− − − − −
44.これがカトリックの信仰である。 これを忠実に確実に信じる者でなければ、救われることは出来ないのである。
これは、現代ではもうお払い箱になった “古い未開な時代の” 論理だと、浅はかに考えてはなりません。
正直に言ってしまえば、2ch で議論をしている多くの現代のキリスト教信者も無教会人も、信条成立当時の教父たちとは比べものにならないほど、思考のレベルが低いということです。 >>350
レベルが低いのはお前だよ。
「いけにえも信仰」を人に要求して罪に問う大馬鹿者だ。 >>351 訂正
×いけにえも信仰
◯いけにえの信仰 老クリスチャンさんは、本物。
現代のイエス。
老クリ・キリスト 万歳 \(^o^)/ >>350
>これは、現代ではもうお払い箱になった “古い未開な時代の”
>論理だと、浅はかに考えてはなりません。
その理由を示さないと。
>正直に言ってしまえば、2ch で議論をしている多くの現代のキリスト
>教信者も無教会人も、信条成立当時の教父たちとは比べものに
>ならないほど、思考のレベルが低いということです。
↑
理由も示さず、こういったことを主張するから嫌われるのです。 >>349
「真理とは何か」は哲学の目指すところで
キリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も他の宗教の人も無神論の人も
宗教の区別や有無はなしに納得できるのが真理だろうからここで議論するのは違う
「真理とは何か」を議論するなら神を語ったら無神論の人ははじめから拒絶するだろう >>356
何が言いたいか意味不明です。
あなたは宗教をどういうものだと思ってますか? >>339
>あなたが傲慢な方であることが分かりました。
返答に窮して苦し紛れの一言のように思えますね。異言は悪霊の専売特許ではなく
悪霊に利用されやすい霊能力の一つだと思います。
聖書でも、ヒルテイの著書でも神の言葉が異言から出てくるなどとは言ってません。
ほとんど無視されています、
奇跡や霊的現象を見ないで信じる者をキリストは重んじてます(ヨハネ)
異言信仰はいい加減捨てるべきです。聖霊とは全く異なるものです。真の信仰
「神の臨在」とは無縁のものです。
私はこの年になってはじめて自分は永遠の生命に至るとの確信に至っています。
すろさん、あなたは永遠の魂そして、復活について語ることができますか? >>350
老クリスチャンさん
つづきをどうぞ。
老クリ・キリストさま 異言が悪霊の仕業ということは聖書には書かれていないのでは
むしろ使徒言行録2.1-で12使徒が聖霊に満たされてほかの国々の言葉を話しだしたとか
コリントの手紙14.14-でパウロが霊で祈り理性でも祈るところは霊で祈る=異言で祈ると読めるとか
異言が聖霊によるものである例は書かれている
隅々まで読まないと言いきれないんだがとりあえず気のついたところを掲げてみた
>>358
>奇跡や霊的現象を見ないで信じる者をキリストは重んじてます(ヨハネ)
ヨハネ福音書かヨハネの手紙のどの箇所でしょうか >>362そういうことは聖書に書いてありませんが、異言については>>358に書いた通りです。
善霊に使われたことはあったかもしれません。異言はむしろ悪霊に使われやすい危険なものだ
と言っているのです。今日、そういう例が多すぎるのです。
「あなた方はしるしや不思議な技を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4−48)
とあります。これは奇跡を見ないで信じる者こそ命の光を持つものであるということでしょう。
私達はイエス・キリストの直接の言葉のみに従うべきでしょう。 >>358
聖書には異言が説かれています。
望めば誰にでも可能なごくごくありふれた霊の賜物の一つです。 >>363
むしろ、昼亭さんが傲慢という誤謬に陥られていて危険です。 イエスが十字架にかかるまでは12使徒にも聖霊は来ていないようだ
>>363
該当箇所ありがとうございます
ただイエスのなされた奇跡やしるしと今議論している信徒やパウロの異言は異なるものではないですか
>私達はイエス・キリストの直接の言葉のみに従うべき
聖書全体をどうとらえるかは別として
のみということはほかの部分には従わないんですね
これはかなり問題となる記述かもしれません >>363
さらにイエス・キリストの直接の言葉としても
使徒言行録の1.7-によると聖霊が降ると12使徒が力を受けるというイエスの言葉の成就の一つが
使徒言行録2.1-で12使徒が聖霊に満たされてほかの国々の言葉を話しだした
ということであるのが話の流れでしょう >>358
永遠のいのち。
私が教会に出会った小学五年生の頃、あなたと同じく
永遠のいのちを知って私は死の恐怖を克服しました。
私は、霊的に私の家が神の国で縄張りされているのを見ましたし、
私の本籍が神の国にあることを実感致しました。
さてしかし
今のわたしは、「永遠のいのち」を仮設された教え、
私達を神の愛へと導くための必要な手立てだったと考えています。
つまり私は霊的に大人になりました。 異言も永遠のいのちと同じく、人を神の愛へと導くための
手立ての一つです。
釈尊は、河を渡った後、筏を担ぐのはバカだと捨てましたが、
私達は、救われた後も異言や永遠のいのちなどの筏を担ぎ続けます。
それが聖霊派のライフスタイルです >>366
もう一か所ありました。
「私を見ないから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20−29)
これも同じ意味だと思います。
無知な人はどちらも同じ霊的現象と思うのではないでしょうか?
「イエスの直接の言葉のみに従うべき」これは誤解を受けやすい言葉ですが、ヒルテイの思想
の神髄とも言えます。ヒルテイの著書を熟読し、何より神の臨在体験をしないとなかなか理解
できないと思います。 異言は悪霊の仕業としか思えない
@ 試しに異言の動画を見たが、ひどく気持ち悪い。
A わざわざ理解できないような言葉を使う理由が不明。
B 集団祈祷なのに、心を一つにできなくなる。
C 神は願う前から人の願いをご存知なのに。マタ6:8
D 神の怒りで散らされたバベルの塔を思わせる。創11:1-9
E 過去世の人格が出現? キリスト教は輪廻を認めないはず。
F 輪廻を認めても過去の記憶は蘇るものなのか。
G 極度に興奮、言語機能に異常が生じているようにしか見えない。
H 異言体験者はなぜか、異言時の心理状態を何も語らない。
I 異言にはよいものを何も感じない。気持ち悪いだけ。 >>370
異言が悪霊の仕業とすると
神の臨在体験も悪霊の仕業かもですよ。
昼亭を熟読して臨在体験をしても、聖霊体験を悪霊の仕業と中傷している
わけですし。 >>371
@変な教会の動画なのでは?
Aラララと歌っても意味が理解できませんよね
B戦前からある伝統的な聖霊派教会では集団祈祷では異言で祈りません
Cでも人は祈ります
D誤解です
Eそんなことをちゃんとした聖霊派は言いません
F同上
Gたぶん音楽を司る脳が機能しているのです
Hいいえ、私はお聞きしたことも語ったこともあります
Iそれはあなたの偏見です。 >>373
それでは、Hについて再度質問させてください。
異言を語っている時、自分の声や言葉を理解して語っているのですか。
それとも、何も理解できず意識できず、自然に口から出てしまうのですか。
それを自分で聞いていて、頭が変になったとか思わないのですか。
祈っても話をしても、周囲には通じない言葉ですよね。 >>368
>私は、霊的に私の家が神の国で縄張りされているのを見ましたし、
あなたはあの世を見たのですか。
かりに見たとしても、あなたの家があの世にあり、それが縄張り?
残念ですが、具体的にイメージできません。
もう少し説明してください。 コリントの手紙第一の12から14に異言の扱いについて詳しく書かれている
12-39には異言を語ることを禁じてはなりません
ともある
>>370
ヨハネ20-29は復活したイエスが
姿がみえるから信じるのではなく姿がみえなくても信じなさいということでしょう
無知な人はとあるので御承知のようですが霊的現象とは関係ありません
イエスの奇跡やしるしや復活のことと今している異言の議論は無関係です 聖霊体験は、異言体験の真逆ですよ。
いまではすっかりダメですが、聖霊体験をした直後は、
人格が一変、頭が冴えに冴え渡り、
いままで読めなかった本がスラスラ読めるようになりました。
聖書もヒルティ(眠られぬ夜のために)もその頃読みました。
もちろん異言とは無関係、自分の体験したことは他人に何も話さず、
ひたすら読書三昧の日々でした。
わけわからないことを話して周囲に訴えるのではなく、
何にも話さなかったのですね。 >>374
あなたはラララ♪とかフフフ♪とか意味のある言葉ではない音で
鼻歌を唄われたことがありますか?
その時、悲しかったり、嬉しかったりするとします。
するとラララ♪とかフフフ♪という音に意味が無くても
全体の雰囲気で気持ちはわかったりしますし、声を大きくしたり
小さくしたりコントロールができたりするのではないでしょうか。
異言は、初心の頃は「ハレルヤ、主よ感謝します」など普通の祈りから
始め、ある瞬間から異言が始まります。
慣れれば最初から異言で祈れたりしますし、突然湧き上がることもあります。
だけどもコントロールできますから、人前で抑えたりもできるわけです。
意味不明な言葉ですが、とはいえ身体が熱くなったり、優しい気持ちに包まれたり
その時々で色んな身体の変化がありますので全体として聖霊が働いている
ことが実感できるものです。
また礼拝後、異言で激しい祈り(泣き叫び、身体を激しく動かして)を
されておられる方を見かけたことがありますが、こども心に
この方は何か知らないが困難を持たれていて祈られているということは
伝わりましたし、激しく祈られた後は別人のようにすっきりされて
さわやかな笑顔でした。重荷を異言での祈りでおろされたのでしょう。 >>375
あの世ではなくて、神の国です。天国です。
縄張りというのは、私の住む家の区画に縄が張られて
ここが、すろさんの区画ですよと示されたということです。
小5の時に観た霊的なビジョンでは家はまだ建てられていず
土台が据えられ、柱が立てられ、建設中でした。 >>376
パウロは十二使徒ではなく、逆にキリスト教徒を迫害した張本人です。
それを割り引く必要がありますね。使徒言行録を書いたルカは、
パウロに従った医者です。それを割り引く必要があります。
要するに新約聖書は、素直に信じることのできない眉唾ものなのです。 >>381
>新約聖書は、素直に信じることのできない眉唾もの
そうなるとキリスト教を信じない
別の宗教からの意見ということですね >>382
聖書は、新約も旧約もウソと真実との混ぜ物でしょう。
キリスト教を信じる、信じないではなく、
前にも言ったように「真理とは何か」ということでしょうね。
固定観念に拘っていたら必ず不幸になります。 >>383
>キリスト教を信じる、信じないではなく
キリスト教を信じないということの告白ですね すべてをご存知の神さまの前で、異言と称し、
わけのわからない言葉でムニャムニャ祈り、話すことは
正しいことなのでしょうか。
自分の願いを手短に明確に祈り、話すことと比べ、
いったいどちらが正しいのでしょうか。
それほど難しい問題ではないのですが、
各自の人生なので各自が自由に判断すればよろしいかと思います。
すべてはいずれ、自業自得の鞘に納まることでしょう。 >>385
祈っている本人がわからなくても神様はおわかりなのです。 むしろ私が思いますのに
何の権限があって他人の祈りを裁かれるのでしょうか?
あなたの祈りが裁かれるためですか? >>387
裁いてませんが。自分の好きにすればいいのです。 >>379
>>意味不明な言葉ですが、とはいえ身体が熱くなったり、優しい気持ちに包まれたり
>>その時々で色んな身体の変化がありますので全体として聖霊が働いている
>>ことが実感できるものです。
とんだオカルト爺だよな
. >>379
>>異言で激しい祈り(泣き叫び、身体を激しく動かして)を
>>されておられる方を見かけたことがありますが、こども心に
>>この方は何か知らないが困難を持たれていて祈られているということは
>>伝わりましたし、
精神病の人だったのではあるまいか
. >>384
>キリスト教を信じないということの告白ですね
あなたにはまず、>>356 ← >>357の質問に答えてほしいですね。
宗教とは何ですか。あなたはカン違いしてそう。 >>391
このスレは無教会のスレですが非キリスト教のスレではありません ヨハネスさん歓迎 〜 ♪
すろさんも、このスレのほうが生き生きしている。
それらしい面子が集まって来たね ^^ ここはキリストにあっての交わりの場です。
品格を持った発言をお願いいたします。 .
>>無教会の人が集うスレ
聖霊派教会を売り込んでいて矛盾感じないあたりがコワイわ >>395
. >>396
聖霊派無教会というのもあるでしょうから
キリスト教の枠内で度を超えないならいいのではないですか
キリスト教の枠外にいる人は違うでしょう
一例としてあげればイエスは預言者の一人で福音書は尊重するイスラム教の人が
このスレにいるのはおかしいでしょう
板にはいるのが普通ですが >>397
>>1
>>教会に【行かない 】
>>もしくは【行かなくなった】が
>>イエスキリストを信じる人の集うスレです
聖霊派教会へ「行っている」と自慢してましたよ。
毎回千円も席上献金したいると豪語してました。
教会婦人会の作る安っぽいカレーランスが極上な美味だと、のぼせ上っていました。
.
. たった千円。大人の礼儀でしょ
教会の愛餐会はもっと多彩で豪華だよ
持ちよりだから
カレーライスって何の話だね >>399
相変わらず調子のイイ人だね それでこそ我らの暇さんだ!
. キリスト教グノーシス派君は、
カトリック教会から弾き飛ばされて教会に通ってないが
イエスキリストを信じていないではないか。
それに女装しているし、ズラだし >>400
更に、断れないほどに誘われたら、仕方ないので主日にお邪魔したりも
するんだけども基本的に日曜は畑だよ >>401-402
暇さんの場合は「今、実存する愛=神(イエス)」の人だから、ぶっちゃけ無神論だよね。
人間の情念である愛を神と呼び変える必要は見当たりません。愛は愛でよろしかろ。
グノーシス派では、イエスは存在者と認識しているのであって、イエスは救済者キリストなのです。
イエス復活の可能性とは、自己の可能性を信ずることに他なりません。
. 御子を信じるとしょうして、一方では聖母を冒涜する。
キリ難 すろ 2017.1/9 13:37 (>496)
マリアさんは婚前えっちをしてイエスを出産しました。
キリ難 すろ 2017. 1/9 13:43 (>498)
三位一体の神とエッチ大好き子沢山なマリア像さん。
矛盾つまりうそということだよ。
かくして彼等は彼(御子)を売春婦の子と呼び、彼の母マリアを売春婦とよぶ。
彼女は御子を鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。
まことに不本意な事ではあるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。
彼等が単なる憎悪と我儘でこうした嘘をつくのは、ただ彼等の哀れで単純な僑朋信者たちが御子の教義
(それを彼等は否定できない)を受け入れてしまわぬよう、我等の主に対する偏見を彼等に抱かせるためなのである。
韓国は、チェ・スンシルなどのようにムダンという霊媒師が多くて、
韓国のキリスト教は純粋なキリスト教ではなく、
キリスト教とシャーマニズムが合体した邪教だそうですよ。
「けがる」と「よごる」の違いは、「よごる」が一時的・表面的な汚れであり、
洗浄の行為等で除去できるのに対し、
「けがる」は永続的・内面的汚れであり、「清め」などの「儀式」執行により除去される汚れである
主観的不潔感。
けがれが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し、災いをもたらすと考えられた。
けがれは、みそぎ、はらえ、によって浄化できる。 >>403
聖書に書いてある通り、私は「神が愛である」と信じているのです。
神を偶像化して崇拝しないだけです。 >>411 すろ 神
前提中の二か所に使われている単語が別の意味となっている。
議論は無茶苦茶になります。
この場合は、単語は「神」と「愛」と「聖霊」三つが、それぞれ一般的なものと別な意味です。
はい、論破。 >>396
君ね、日本の無教会というと内村鑑三というビッグネームが
あって、一つの流れを形成しているのだけども、その流れに
阿蘇山で聖霊体験をされた小池辰雄さんがいて、
小池辰雄さんの流れは無教会+インテリ聖書主義+聖霊体験なんです。
市川喜一さん、私市元宏さん、久野晋良さんとかね。
聖霊体験に基づく聖書信仰と正確で学問的な聖書原典研究の両立を
人生を賭けてトライされた方たちです。 >>412
論破になってないぞ。
1.第一に私の>>411の文章中に「聖霊」の言葉が無い
2.第二に私の「神」と「愛」と「聖霊」との三つの単語の意味と
一般的な「神」と「愛」と「聖霊」との三単語の意味とを示し
比較検討し違いを論証しないとダメですね
やりなおしですね >>411
>>「神が愛である」
本質に「神」を認識しないなら、そういう言い回しに何の意味があるだろうか。
問う。
矮小化された愛があるのは何故か?
妬み嫉み恨み辛みは矮小化された愛に他ならない。
愛ゆえに傷付け合い、愛ゆえに憎しみ合う。愛ゆえに執着し、そして苦しむ。 なぜか?
. 聖霊派の教義は、ペンテコステ派の流れをもとに、教祖金保(在日韓国人自称パウロ永田、現在服役中)が
独自に聖書を理解したもの。
自らの言葉を神の言葉とし、「教えに従わなければ地獄に落ちる(ある種の呪詛)」などと救いに対する
畏れを信者に抱かせていた。
「これは祝福だ。拒否すると地獄に落ちる」と言い、信者婦女子100名以上に定常的に性的虐待を行っていた。
すろの神は金保。 >>415
1.多くの人を導くために聖書は神を人格神として仮設した。
2.そして神を愛し、神を愛するように隣人を愛することを教えた
3.愛とは抽象てきなものではなく、隣人を愛するという実践なのです。 すろの「愛」とはセックスのこと。
聖霊とは、韓国霊媒による悪霊のこと。
>>416
教祖金保を摘発して、被害者救済をしたのも
聖霊派の牧師の村上密さんですよ。 村 上 蜜 氏 へ の ネ ッ ト で の 攻 撃 は 未 だ 多 い 。
>>418
愛とは、「憐れみ」ですよ。慈悲です。
けが人がいれば通り過ぎず立ち止まってケアすることです。
私は留学生さんが自転車で自損事故された際に、通りがかった
人たちと共にケアし大学に連絡し感謝状を頂きましたよ >>417
>>神を人格神として仮設した。
仮設された神ならば文字通り「仮設存在」なのであって、本質ではない。
愛を現実存在としたところで、神が現実存在であることは否定されてしまうではないか。
人間存在を前提とした愛ならば、その人間の死(消滅)に対しては無意味(無力)になる。
問う。
その「仮設された神」は、人間存在抜きに語り得るだろうか?
人間の死後存在について何かを語り得るだろうか?
.
. >>422
よく言った。
おまえの舌の根が乾かないうちに質問しよう。
おまえがケアした時に心の中にカルケドン信条や
あのくだらないマムシの長文が思い浮かんだか?
おまえらがマムシの毒を持つ者であるという
自覚が少しでも芽生えていればと願うよ。 .
すろ暇さんの語る愛(=神)は、人間存在と世界存在が何故存在するのかという問いに目を向けることをしない。
その人にとって、その人は何者であって、その人の救いとは何であるかに答えられる「神」ではない。
所詮は、存在それ自体への問いは、唯物無神論でしかない。
. >>424
君はなぜ、「神が愛である」という事実を受け入れられないのだね。
「仮設された神」は、人を導く手立てとして仮設されたのです。
死後のことは死人に任せなさい。
我々は生きている。生きているいのちが我々にとっての問題です
>>426
愛は唯物無神論では読み解けないですよ。神秘であり奇跡なのです。 >>427
愛は愛だろう。だから「愛」と呼ぶ。
その愛を神と言い換える理由がない。
-----
>>君はなぜ、「神が愛である」という事実を受け入れられないのだね。
それは事実ではなく、暇さん、あなたならではの「詭弁」です。
. .
動物が我が子を守るために、命懸けで外的と戦い、ときに事実として命を落とす。
誰しもがそこに「愛」を感じ取り感動するだろうが、それが「神」と呼ぶのは、すろ暇さんだけだろう。
神秘でも奇跡でもなく、その動物の本能として、そうある。
事実、その一方に動物によっては「子殺し」もある。なぜその動物は「子殺し」するのか?
すろ暇さんにとっては、やはり「>>神秘であり奇跡」なのだろうか?
. .
>>君はなぜ、「神が愛である」という事実を受け入れられないのだね。
「神【が】愛である」 ・・・何だよ、この【が】は?
「は」でも「の」でもなく、わざとらしく【が】て。
変な日本語で誑かさないで、かみ砕いて説明してください >>すろ暇さん
. >>428
いいえ。私は現実を語っている
奥義を言えば「神は人格的存在として仮設されているだけで
本体は愛なのだ」と。
なぜ人が神を仮設したのかは別の話だ。
私とあなたにとって目下の問題ではない
>>429
子殺しがなぜ神秘なのだね。 君は馬鹿か?
君は犠牲的な愛に感動するのだろう。そこに神秘と奇跡があるから
君も感動するのだ。 >>431
>>いいえ。私は現実を語っている
>>奥義を言えば「神は人格的存在として仮設されているだけで
>>本体は愛なのだ」と。
その「愛」は、人間存在を前提するものだと何度も言っている。
つまり、人間の愛であり、それは人間の情念だろう。神と言い換える理由がない。
「>>仮設された愛」は、この世界に生きている人間存在抜きに語り得ないのではないですか?
. .
存在の神秘と人の救済を示せないキリスト教なんてあるだろうか?
キリスト教聖霊派は、邪教なのではないのか?
. >>372
「実に神の国はあなたがたの内にあるのです」(ルカ17−21)
「キリストの霊を持たない者はキリストに属していない」(ロマ8−9)
この二つの言葉は真理の御霊(キリストの霊)がその人の心に宿ることこそまことの救いであり、
すべてのキリスト教が最終目的とすべきであることを教えています。
>神の臨在体験も悪霊の仕業かも
そんな迷い事を言ってる限り、あなたに神の光が訪れることはないでしょう。ネット情報では多く
のカルト教会で異言を売り物にしているそうです。かつての私のように、異言信仰は不幸な人を生
むだけです。異言は悪魔の業。異言信仰は捨てるべきです。
あなたは私の質問>>358を無視して勝手なことばかり言ってますね。先ず質問に答えなさい。 >>432 訂正
「>>仮設された愛」は、この世界に生きている人間存在抜きに語り得ないのではないですか?
. ↓
「>>仮設された神」は、この世界に生きている人間存在抜きに語り得ないのではないですか?
. >>428
愛を神と言い換えるというよりも神を表現しようとしたら愛しかないって話だろう
神は完全無欠の愛 >>434
×すべてのキリスト教が
〇すべてのキリスト教徒が >>436
俺は、なにも難しい屁理屈をこねているわけできないよ。
例えば
「神は愛である」or「愛の神である」というなら、それはそれで一つの立場として認めるよ。(真偽は別として)
その立場は「本質存在としての神は、その属性としての愛を、人間によって此の世に具現化される。」と解釈できるからね。
しかし、すろ暇さんは「今、実存する愛が神である。」と論陣を張った。( ここがスタートライン
今夜、微妙に言い方を変えて「神が愛である。」とした。
そして更には「神は人格的存在として仮設されているだけで本体は愛なのだ」と、表現を修正して来た。
ここに来て、ようやく「神は愛である(愛の神である)」という言い方に近付いたわけです。
今夜の議論では、以前のすろ暇さんの主張(スタートライン)である「今、実存する愛が神である。」が抜けているから、
今夜のやりとりした分だけに目を通した人には奇妙に写るだろう。
(そこが暇さんのズルいところ
--------------------
トランプ大統領の就任式を見ていたけど、就任したからにはトランプ大統領に期待したい。
日米同盟の一層の強化と深化に向けて。 オバマはさんはチャイナに擦り寄ってショボかったから。
.
. >>434
ヒルティ「キリスト教の外に救いなし」
カトリック教会「(カトリック)教会の外に救いなし」
結局、ヒルティも宗教的排他主義 だった。 >>414 立証責任はあなたにあるのです。非常に汚い手です。
あなたの三点を立証するのは極めて簡単ですが。
>>434
>>368で返答済みです
世迷いごとを仰せなのがあなたです。
聖霊の賜物である異言を悪霊の仕業と誤解されたままです。
たまたまあなたがであった教会が変であったために。
あなたが変な教会に出会ってしまったのはあなたにセンスがないからです。 >>438
たぶん、スタートラインをあなたの解釈で改変されておられるから
スターラインのすろ発言をそのまま、アップしてみて >>439たしかにヒルテイはそういっていますが、キリスト教の究極にあるものは排他的なものではありません。
それは全宇宙に普遍的にあまねく存在する全き叡智。
宇宙飛行士がいみじくもライフフォースと名ずけたものこそ聖霊なのではないかと思っています。そういう
意味ではヒルテイの思想=キリストの教えを排他主義と決めつけるのはどうかと思いますね。 すろさんの決定的な誤りは、神は愛だと主張する点にあります。
なぜなら、愛は関係概念であって実体がないからです。
愛は、AさんとBさんの関係の中にしかないのです。
二人が身近になれば生じるが、疎遠になれば消滅します。
この理解のなかに危険なものが隠されています。
神を否定する隙き間があるのです。
疎遠になって愛を感じなくなれば、神は消滅してしまいます。
だから、老いぼれて誰からも愛されなくなれば、
無神論者に落ちぶれます。神そのものを知らないからです。
ヨハネの手紙一が「神は愛だ」と言ってますね。
しかし、同じ理由で、この手紙が未熟であることがわかります。
残念ですが、長老ヨハネには虚妄が混じっています。 ajgndtpgさん
2013/11/1320:42:46
キリスト教会で異言の祈りとか言って「レロレロレロ〜」とか「シャンバラララララ〜」
とか数十人が一斉に祈り出して気味が悪かったです。
あれはどういう状態なんですか?
クリスチャンはみんなあんな風に祈るんですか?
岐阜純福音教会
補足岐阜純福音教会はほとんどカルトに近いですね。
異言の祈りなんて自己陶酔、自己満足に過ぎないと感じました。
異言なんて出てこないのに無理に祈らされたこともあり辛かった。
ベストアンサーに選ばれた回答
oshirisutanukiさん
2013/11/1510:06:07
集団精神異常でしょう。
後で精神科に行かなければ、ならない羽目になる人が多いようです、気を付けてください
自己陶酔の忘我状態後年に精神科の世話に成る人が多い。
異言については、キリスト教徒の心理学者、精神科医たち、
例えば、E.マンセル・パティソン、ジョン・キルダール、ポール・クォールベン、
ジョン・F・マッカーサーJr.らの研究もあるが、みなこれらに揃って批判的である。
最も弾劾的な立場からは「異常心理学=Abnormal Psychology」とさえいわれる。
大勢の信者が、精神科の お世話になる。
憑依と脳
異言を話しているときは前頭葉に血液の流れが少なく,活動が不活性化していることがわかりました」と言う。
被験者が讃美歌を歌っているときには,画像に変化は認められなかった。
ここに見られる脳の活動のちがいは,異言を話す人々の訴えを裏づけているようである。
「<自分が乗っ取られている>という感覚を起こしているのは,神か悪魔か,
それとも脳の他の部分かはわかりません」とニューバーグ博士は述べている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13116439813 異言は否定されるべきです。
そんなものがなくても話し、祈ることができるからです。
ムニャムニャと理解不能な、怪しげな言葉を語る必要などありません。
そんなものを神の賜物などと言ってるようでは禁止すべきです。
神に対する冒涜です。
それを認めたペテロやパウロも批判されるべきでしょう。
異言の根本的誤りは、神の怒りに触れたバベルの塔だということです。
言葉が話せなくなり散らされたのです。創11:1-9
それは聖霊の賜物どころか、悪霊の賜物だということです。
高ぶった人間の愚劣さが異言の本質なのです。 (続きです)
>>39でも書いたことですが、宇宙飛行士スワッガード氏は宇宙空間で感じた不思議な力をライフフォース(生命の力)
と呼んでいます。そして、その力は地球に生息するすべての生命力に吹き込まれると言っています。
私はキリスト教、仏教、イスラム教、神道等その根源をたどればこのライフフォースにたどり着くのではないかと考え
ています。
神の臨在体験をすればこのことが理解できます。聖霊とはライフフォースそのものに違いないということが。 >>443
昼亭は、聖書を大切にし、聖書原典に直接あたる人でした。
あなたはなぜ聖書原典に直接あたらないのですか? >>444
愛は関係概念ではなくて、関係の中で表出する実践行為です。
ルカ17:21後半 神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ
と言われていますが
関係の中にあるかにといって「神の国」を否定するものではありません。 パウロ、ペテロ、長老ヨハネたちが言ってるから正しい、
などという時代はもう終わりました。
自分の理性でキリスト教の真偽を見極めましょう。
全部捨ててしまうことはない。真理だと思えばそれを残せばいい。
それともあなたがたは、盲信するだけの無頭人間ですか。 異言が聖霊の賜物か、悪霊の仕業か、両方のケースがあるだろう
だがそんなものに頼るべきではない
人は「パンのみではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって」、生きねばならないのであり、
「私を愛する者は、私の言葉を守る」 これをきちんと伝えない教会は全部出鱈目だ
神の言葉、すなわちイエスが語られたことばの解き明かしは全くお留守で、
最初から聖霊だの異言だの振りかざすばかりで、聖霊とは何かを御言葉から探求することは一切せず
まるで聖霊を独立神のごとく扱ってイエスはまるでその子分みたいになってるのはどこの邪教かね?
頭の中は少女強姦のことばっかの獣が、聖霊でも御言葉でも自己の悪行正当化のためのみに悪用し、
なぜかいつの間にやら己が神になってしまう教会とは?
こういう連中こそ、パンは食い漁るが、みことばについてはしらんぷりで、
都合のいいとこしか目に入らない、ま俺も人のことは言えないがな。。
だからあの馬鹿者のように、マタイ3:16ばかり振りかざして、イエスは神に非ずなどとおぞましいことをほざく
それこそ最悪の聖霊冒涜であることも知らずに・・
馬鹿の聖書にはマタイ3:16しか載ってないのだろう(笑)
「これらのことを、私はあなたたちに譬えで話したが、もはや譬えではなく、父についてはっきりと告げる時が来る」
これをちゃんと読める人間がどれほどいるのか
もうその時はとうに至っていることを
どのスレも結局イエスのこともイエスの語ったことばもほったらかし
パンは石に変わることはないのな >>449
>愛は関係概念ではなくて、関係の中で表出する実践行為です。
その関係の中の、どこに神がいるのですか。
どこにいるのか知覚できません。 >>441
あれが返答?永遠の命を体験したはずの人が「神の臨在体験は悪霊の仕業」ですか?
あなたの異言信仰はもはや破たん状態ですね。お里が知れますよ。 聖書の言葉だと言って盲信したら失敗します。
言葉はウソをつくことができるからです。
それでなくても作り話が含まれているのに、
いまの聖書はしばしば改ざんされてきたと言われています。
そのうえ各国語に翻訳されています。
そんな本を絶対の真理だと思って盲信するわけにはいかないのです。
もっと頭を使いましょうよ。 434 : ヒルテイにならいて2017/01/21(土) 00:53:07.01 ID:3Fjk6o69
>>372
「実に神の国はあなたがたの内にあるのです」(ルカ17−21)
「キリストの霊を持たない者はキリストに属していない」(ロマ8−9)
↑
さてキリストの霊を持っていれば、こういうことが起こるのです
ロマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、
御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、
わたしたちのためにとりなして下さるからである。
ἀλλ’ αὐτὸ τὸ πνεῦμα
ὑπερεντυγχάνει στεναγμοῖς ἀλαλήτοις·
ἀλλ’ 反意接続詞 しかし
αὐτὸ 自身が
τὸ πνεῦμα プネウマ(霊)が
ὑπερεντυγχάνει 執り成すからだ
στεναγμοῖς 呻きをもって
ἀλαλήτοις·言い尽しがたい
この「呻き」こそが、キリストの霊が為す異言です >>454
神の言葉は譬えであっても作り話ではない
各国語の字義の上では多少の差違はあっても
御言葉の本質を読み解く妨げにはならない
ペテロは彼の第2書簡1:16で何と語っているのか?
聖書自体が出鱈目で真理で無いと主張するなら好きにするがいい
だから己が真理だとでも言いたいのかね(笑) >>452
あなたが他人を思いやる心の中に神はまします。
そしてあなたが他人様から受ける親切の中に神はおわします。
>>453
あなたは聖霊の賜物を悪霊の仕業と侮辱されました。
しかし自分体験が同じ侮辱されるとどうなんですか?と
切り返しますと顔色を変え取り乱されます。
72歳とは思えないほどの未熟さです >>454
いいえ、聖書は真実の宝庫です。
ただその価値を解らない人は踏みつぶしたりできます。 >>448
聖書原典?そこまで読まなくてもヒルテイの全著書を読めば十分です。
本質にたどり着けます。 >>455
横からだけど、マタイ6:8-13に「彼らのまねをしてはならない。
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知
なのだ。だからこう祈りなさい。」とありますね。
あれっ、イエスは異言を否定してるじゃないですかw >>459
昼亭はギリシア語原典に直接あたりました。
そして個々人が直接神と向き合うべきと指導しました。
あなたは昼亭の指導を守らず、なぜ昼亭を偶像化するのですか?
昼亭は自分を妄信しろとは教えていません
>>460
それ、「人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈る」
人たちを偽善者と批判しているわけで、異言批判ではありません >>453
私は異言の賜物のおかけで、
新約ギリシア語に直接当たれるように
なりましたですよ。ありがたいことです すろさんは朝から幸せ者ですね。
二人の聖霊体験者、ヒルテイにならいてさんと、わたしめに迎撃
されるなんて。このこの〜幸せ者〜 ^^w >>457
回心の体験の中で最も感動的で心を打ち震わせるものは自分の中にこれまでとは全く
異なる高貴な存在の宿りを感ずる時です。神の宿りの体験は精神的には光りあふれる
安心立命感を肉体的には慈愛に満ちた行動力を与えます。
ヒルテイは老齢になってもこの霊的生命力は活力を増していくと言います。さらに
「老年期をも遥かに越えてついに新しい生命に入るまで、力を高めていくのである」
それこそ死をも超える「永遠の生命」に入るということです。
それは新たな人生の始まりと言うことであり、キリストが示した「復活」にもつな
がるものです。
ヒルテイは死について言葉を変えて説明してくれます。
「生命の存続の希望を持ちうる場合のみ、死は優しくて厳粛な使者であって、疲れた
旅人にその旅路の終わったことを告げ、登ってきた山頂から、やがてまもなく新しい
世界を展望しうる時が近いことを知らせてくれる。」
私が高齢で一人暮らしになっても幸福で孤独感を感じないのは主がすぐそばにいてずっとお守り下
さり、そして永遠の生命をもお約束下さるからですよ。だから私はいつも冷静、顔色を変えたり取
り乱したりはしません。
私の信仰が未熟だと思うなら勝手にそう思いなさい。 363 :ヒルテイにならいて 2017/01/20(金) 14:34:52.65
(途中略)
私達はイエス・キリストの直接の言葉のみに従うべきでしょう。
とあるからヒルテイさんはイエス・キリストの直接の言葉のみを語るはずで
その他を自説の根拠にするのは自己矛盾にあたるだろう
パウロのローマ書やヒルティの著作や宇宙飛行士でなく
イエス・キリストの直接の言葉のみで語る
これなら論旨は通っている >>443
> >>439たしかにヒルテイはそういっていますが、キリスト教の究極にあるものは排他的なものではありません。
> それは全宇宙に普遍的にあまねく存在する全き叡智。
キリスト教がどうしてそんなことになるのか、私には理解できません。
いずれにしても、私は、ヒルティで救われることはないと思います。
強い拒絶感で、1ページも読めません。
ありがとうございました。 >>464
それは、ヒルティにならいてさんが、特別に神に選ばれた方だからです。 >>463
きみ、誰や?
>>464
あなたの評価は、あなたご自身ではなくて、世間がするのです。
あなたはあなたの言動によって、まず私から「未熟者」の烙印を押されたのです。
あなたは、昼亭に倣いてではなくて、昼亭を泣かせてに改名すべきです。
神の臨在を昼亭は重視しましたが、
主があなたのそばにいたならば、異言をあなたに攻撃させたりしませんし
私から謝罪を求められたら、反発せずに謝罪されたことでありましょう。
ところがあなたが傲慢になられました。
それでもなお実は主はあなたの側においでなのですが、あなたには主が
見えていません。
霊の先輩として、昼亭を泣かせてさんにひとつ、指導をして差し上げます。
「永遠のいのち」には先があります。
まずはあなたのように「永遠のいのち」をありがてっいるstageです。
次には、「永遠のいのち」を必要としなくなるステージがあります。
本当に救われると「救い」を必要としなくなるのです。
それが「筏」であったと気づいてこそです。 それと回心というのは、10歳の子供が信仰に立つスタートとして体験する
ものです。
かくいう私も小5の時に
キリスト教という巨大な体系と戦い、敗北し打ち砕かれ
大いなる神に包まれている実感を得て圧倒されましたが、
そんなのはごくごくありふれた体験です。
問題はそこからどう歩むかです。
あなたはヒルティをぱくっているだけで、あなたご自身の歩みがありません
だから72歳にもなって、孤独で大人になれないのです 昼亭はひろくギリシア語文化を学習したから
ギリシア的な単純な霊肉二元論に立って、肉体は滅ぶが
Geist(プネウマ 霊)は、永遠に生きると考えたのですよ。
んでGeistは
「老年期をも遥かに越えてついに新しい生命に入るまで、力を高めていくのである」
と信じ、来世も妻と結婚出来たらいいなぁと夢想したのです >>468
すろさんもう必死ですな。こうなると頑張りなさいというしかありません。
私の答えは>>464にすべて含まれています。
異言については言った通りです。他の方>>444>>445>>44>>451も見事に論破
して下さっててますね。
後半は意味不明。明らかに取り乱してますね。私の願いはあなたが正しい
信仰に目覚めることです。 イゲンて、後ろに支える人がいるのを確かめた上泡吹きながら倒れるアレのことか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>471
363 :ヒルテイにならいて 2017/01/20(金)
(途中略)
私達はイエス・キリストの直接の言葉のみに従うべきでしょう。
とあるからヒルテイさんはイエス・キリストの直接の言葉のみを語るはずで
その他を自説の根拠にするのは自己矛盾にあたるのではないですか
パウロのローマ書やヒルティの著作や宇宙飛行士でなく
イエス・キリストの直接の言葉のみで語る
これなら論旨は通っている >>474
なるほど鋭い質問ですが、イエスの直接の言葉のみを信じていると、柔軟性と言うか
色々なものに寛大になって行くんですね。これは不思議なことですが。
今、良い表現が浮かばなくて申し訳ありません。 >>474
なるほど鋭い質問ですが、イエスの直接の言葉のみを信じていると、柔軟性と言うか
色々なものに寛大になって行くんですね。これは不思議なことですが。
今、良い表現が浮かばなくて申し訳ありません。 イゲンは一回で十分だ。wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>471
昼亭を泣かせてさん、なるほど思考停止ですか。
カルトのありがちな手法ですね。
あなたが魔境から抜け出て、謝罪されるようにお祈りいたします。 小指が出てきたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww mVBip0wa
毎日、楽しそうだな。
君には昼亭を泣かせて君と同じGeistがついてそうだな そして日本語でおながいしますwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww mVBip0waのGeistは神を否定します。
昼亭を泣かせて君のGeistは、聖霊の賜物である異言を否定します。
神を否定し、聖霊を否定するGeistは、悪しきGeistだと思います。 うらやましいんだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
妬くなよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>483
私のGeistは悪しきGeist。
自分にとって、キリストは、アレルゲンだから。www アレルゲンだとは知らずに、長期にわたって接触したため、
脳がボロボロになりました。
悪しきGeistというものがあって、安心しました。www
すろさんに感謝。 >>483
異言を正しいとするならあなたはなぜ>>444>>445>>446>>451に対し反論しない?
黙っていることは異言は間違っていることをあなたが認めていることになると思うが?
そういうことやらないで八つ当たりばかりして(そう見える)いるのは見苦しいよ。 もし、十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、
それは神を愚か者かの如くに扱う詐欺かペテン師以外の何者でもない。
それは、あたかも悪魔の統領が、、祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、
その様な方々すべての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。
しかしながらその様な精神面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵、冒涜者が居り、
福音も十戒も、ともにふみにじり、呪いそして非難しているのである。
神の御前でそれは何と素晴らしい聖人ではないか。
>>450 >パウロ、ペテロ、長老ヨハネたちが言ってるから正しい、などという時代はもう終わりました。
啓蒙主義から始まった近代人の聖書理解、教会理解、そしてキリスト教理解のことですね。
でも、カトリック、プロテスタントを問わず、そのように主張している 「教会」 は存在しないと思います。
日本の無教会主義も同様ではないでしょうか。
聖書を、パウロやペトロ、長老ヨハネたちの 「個人的な教えや主張」 を集めた論文集のように考えるのは、聖書学を知らない人の 「素人考え」 にしか過ぎません。
代々の時代の教父たちが、新約聖書正典を 「使徒たちが伝えたこと」 と呼んだとき、それは 「正統的な教会の教え」 という意味であって、単なる先人たちの個人的な教えの単なる集成と考えたのではありませんでした。 キリスト教徒は現状に満足し、悪魔たちと論争してはならない。
しかし、もしあなた方が彼らと話さざるをえなくなったり、
話したくなったときには、以下のこと以外には言うべきではない。
「聖霊派よ、あなたがたの会堂及び牧師たちとともに、あなたたちの王国は、
2006年に破壊それているという事をを知らないのか。
正確には2006.3/8 京都府地方裁判所、聖神中央教会事件、創設者は懲役20年の刑が確定した。
と。
また、「あなたは非栗である。」と。
この小さいクルミをウリスト教徒に与えて彼ら同士の間で好きなだけそれにかみつかせ議論させると良いのだ。
>>488
十戒を遵守する、ということは、律法の一字一句全く違えずに守り通すということだ。当たり前だなwwwwwwwwwwwwwwwww
ということは、今すぐエルサレムへ行ってまず神殿立て直さないとダメだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
岩のドームは爆破するか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww さすが現代のイエス、老クリさん。
聖書とは、聖霊の神感によって、天主の御言葉を書きしるした書物であります。
聖霊の神感とは、天主の超自然の御助によって、一、聖書記者に筆をとる心を起させ、
二,内容を示し、三,書く時に誤りがないように導くことであります。 >>487
あなた、72歳にもなって、粗忽者すぎますよ。
>>444に対しては>>449
>>445は、私に対する問いかけではありません。
>>446は「ペテロやパウロも批判されるべきでしょう。」という
誰も支持しないだろう意見だから敢えて否定する必要はありません
>>451は、「馬鹿の聖書にはマタイ3:16しか載ってないのだろう(笑) 」
という論評に値しないコメントですね
さて昼亭を泣かせてさん、魑魅魍魎の名無しさんたちを味方につけても
「異言は悪霊の仕業である」と中傷した非を謝罪したくないのですか?
あなたはとても恥ずかしい72歳ですね。孤独になるはずです >>489 老クリ
前提に多少の変化を加えて前提を言い換えただけ。
はい、論破。 >>494
また、落第。
そういいたければ
1.前提がなにで
2.言い換えられたものが何で
3.前提と言い換えられたものが同意反復になっている
と証明しないと話になりません >>493
異言について、旧約聖書に出てくる箇所はありますか? 精神病の臨床では、「悪魔付き」というのが実際に確認されている。
科学では説明の出来ない点が幾つかある。
知るはずのない人の弱点や情報を言い当てることができる。
全く知るはずのない言語をあやつることが出来る。
精神病ではなく超能力である。
必ずしも神の清い霊でなくてもいわゆる異言を使うことが確認されています。
異言がすべて聖霊であるとするのは間違いです。
したがってあなたの論理は根底から間違っています。
はい、論破。 論破って、まことの書き込みは会話ではく
自演じゃないか! >>496 すろ
別の話題や枝葉の問題、言葉じりなどを持ち出してそらそうとしています。
そんなことをしても猟犬の嗅覚を狂わせることはムリ。
「異言は悪霊の仕業である」
これは、いいですね。
聖母マリアの像が血の涙を流して、恐ろしいお告げをする。
さらにおそろしいことに公認されることもある。
これも悪霊ということにしてほしいwww
コワイコワイコワイ >>497
詩編
114:1イスラエルがエジプトをいで、
ヤコブの家が異言の民を離れたとき、
114:2ユダは主の聖所となり、
イスラエルは主の所領となった。 すろさんへ
2chでカルトの布教は辞めてください。
何度も繰り返して、頭ごなしにおさえつけるようにして、徐々に洗脳して行こうとするのは辞めてください。
知るはずのない人の弱点や情報を言い当てることができる。
そうだね、しかしこうも言える。
陥れたい感情に埋没し、
知らないのに、知っているかのように他者の弱点や情報やらを
捏造宣伝することをやめられない精神疾患者は超能力者とは言わない。 すろさんって、カルトだったのですか。
とても残念です。 >>505 あなたは誰について言っていますか ?
もし私でしたら勝手な思い込みを前提としています。
議論がめちゃくちゃになりました。
>>503
ありがとう。
つまり、異言というのは、異邦人、異教、異言語、異なる意識や思想
既成の生活領域に属さないことをして「異」ではないだろうか。
すると、新約はその「異」がキーワードとなっており
異なる神との出会い、異なる祈り方(動物を犠牲にしない等)
安息日に活動し、娼婦の譬えで問い直し、神殿を破壊し立て直す
イエスの言葉は「異」で満ちいていた。 イエス・キリストというのは外国で流行している宗教の神々がモデルだからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 使徒のペンテも外国語。
異言には
1.外国語
2.意味不明な言葉
という二つの意味があります。
ちなみに私は新約ギリシア語が読めます。
異言の賜物がありますから 外国語ですね。
外国語を話す者は、異邦の者、異教、異人種、異思想です。
イエスがなさったことは、「異」そのものです。 >>510
> イエス・キリストというのは外国で流行している宗教の神々がモデルだからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そうでしょうねえ。
自分の血を飲みなさいというのは、
ユダヤ人ではないですよねえ。 カルトについて
カール・ヒルティと昼亭を泣かせてさんとを比較してみましょう
■所属教会
Carl Hilty …正統なスイス改革派教会の信徒
昼亭を泣かせて…異言と奇跡を売り物にするカルト教会
財産をなくした人、離婚した人、仕事をなくした人など不幸な人達が続出
■聖書に対する向かい方
Carl Hilty …原典購読した上で、神の臨在を体験
昼亭を泣かせて…原典には当たらず昼亭を偶像崇拝して、神秘体験を絶対化
■生きざま
Carl Hilty …何が最も賢い処置であるかを問う代りに、
何が最も深い愛の仕方であるかを問うたので多くの人から尊敬される
昼亭を泣かせ…傲慢さゆえに、72歳になって孤独な人生。 >>497
>>503
>ヤコブの家が異言の民を離れたとき、
は口語訳で
新共同訳の文言は
>ヤコブの家が異なる言葉の民のもとを去り
だから他の民族の言葉という意味で「異言」を口語訳が使っただけで
旧約聖書にはパウロのいう「異言」の記述はないのだろう
ルカによる福音書の執筆者のいう「異言」は外国語をその言語を知らない人が話すことかもしれず詳細の説明はありません 彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
川川::::::::ー◎-◎-)
川(6|:::::::: ( 。。))
._川川;;;::∴ ノ 3 ノ
/;;;:::::::::::::::\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
/:::: /:::::::::::: |::::|
(:::::::: (ミ: ・ ノ:::・/:::| ちんちん爆弾どっかーーーーーーん!
\::::: \::::::: (::: | (⌒ ⌒ヽ
/:::\::::: \::: ヽ| (´⌒ ⌒ ⌒ヾ
/:::: \::::: \::: ヽ ) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ )
|::: \::  ̄ ̄⊇)__ (´ ) ::: )
|::::::: \;;;;;;;;;;;(__(;;;・)≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; )
\:::::::::: ミ(;;; );; ) (⌒:: :: ::⌒ )
\:::::::::::: ) ) ( ゝ ヾ 丶 ソ
)::::: // ヽ ヾ ノノ ノ
/::::::::: //
/::::: (_(_ >>493
全く反論になっていない。それではだれも納得しないよ。
私が謝罪することはありえないからいい加減あきらめなさい。
謝罪しないから私は恥ずかしい72才?で粗忽者?昼亭を泣かせてさん?そんな大人げない言葉でいくら貶
めようとしても無駄だよ。
あなたは>>468でもおかしなことを言っているね。
「あなたの評価はあなた自身でなく、世間がする」???その人の信仰の評価は最後の審判で神様がする
のですよ。もっと勉強して出直してきなさい。 >>513
神話の神が実在するはずがないわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>517
神様は、昼亭を泣かせてさんの評価を既にされてます。
それがあなたの「72歳の孤独」です。
いいえ、あなたが2chにいる限り私はあなたに悔い改めを促します。
ありがたくチャンスを生かしなさい 昼亭を泣かせてさんは、そもそもセンスがないから
カルト教会の牧師を「威厳ある方」だと崇拝してしまったわけです。
それはあなたがカルト的な性格をしていているからです。
Carl Hiltyは、プロテスタント正統主義、本流で育ち、
ドイツの有名大学(プロテスタントの牧師が留学する大学)で学び
当然のこととして原典研究をしました。
ところが昼亭を泣かせてさんは、翻訳聖書のちら読みです。
同じ神の臨在を言ってもCarl Hiltyとあなたでは雲泥のクオリティ差が
あるのです。恥ずかしくないのですか? 72歳の孤独
新約聖書に、独身でいる方がよいと書いてあります。
もうすぐ終末が来るのに、結婚して 子づくりしている場合ではありません。
自分もずっと独身ですよ。
しかし、いまでは、2000年来の来る来る詐欺にあったとおもっています。 マリア像でインスピを得、聖書の原点を知ることを促された
それが聖霊の働きとしてギリシャ語聖書に取り組むこととなる。
ギリシャ語聖書を読むことが異言ではない。
促す異なる力、聖霊の促す働きが通常ない異なる何かを受けた。
その結果、ギリシャ語を習得する。
そこを勘違いすると、外国語を学ぶ人、習得した人々
全部が異言を現した、になるな。 問題は習得のレベルだわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 欲ボケすろ爺さん、見苦しいですw
ここは個人攻撃をして言い争いする場所ではありません。
あなたは愛の人ではなかったのですか。
他者への中傷や悪口、屁理屈を悔い改めてくださいwww 何をもってカルトなのか
異端であってカルトでもあるというのも存在するし
異端でなくてもカルトではあるというのも存在する すろ爺さんは、子供の頃、異言で祈ったらしいですが、
子供は純粋で素直だから、大人のやることを単にマネしただけでしょう。
しかしそのツケが現在の、欲ボケ、異常なしつこさ、屁理屈、性格上の歪み、
他者への中傷や悪口につながっているとしたら恐ろしいことです。
異言は悪霊の仕業だと、身をもって証明しているとは・・・ >>525
簡単な話だ。ローマ帝国の政経運営上都合の悪いことを言ったものが異端だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
それを決めたのが1-7の公会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0 >>527
今カルトというのがレスに出ていたので気になりました
日常生活が崩壊するのがカルトなのか
極端な異端のことをカルトと言っているのか >>529
答えは一つ。宗教=カルト。これだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww カルトとはウリスト教のようなものをいいます。
ウリスト教はカルトそのものです。
だからカルトとはウリスト教そのものです。∞ すろ爺さんがヒルテイをならいてさんに闘争心を燃やすのは、
嫉妬心からです。気の毒な人だと思ってやってください。 内村鑑三先生の無教会主義とは、無洗礼・無聖餐・無按手です。
万人が司祭さまです。
とても敬虔なものであり、開拓当初の北海道にはマッチしていましたのかもしれません。
どちらかの淫祀邪教が、洗礼が無いのとは正反対です。
>>529
キリスト教はカルト。
イエスの言うとおりにしたら、
ほぼ確実に日常生活崩壊します。
人間も崩壊します。
手を切り落としたりする人続出で、働けなくなり障害者だらけになります。
イエスの脅迫のことばで、難民を受け入れている欧州は、
国が崩壊しかかっています。 アウグスティノが止めるまではキリスト教では自殺推奨だったんだぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
殉教して天国へ逝きたければ自殺すれば即直行だったわけだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99 内村鑑三先生の本をよんだんだけど、結局なんでキリスト信徒になったのか書いてなかった。
>>525
キリスト教はカルト
> > 踏み絵を踏むだけで許してもらえるなんて、なんという寛容な国日本。こんな国世界中で日本だけだぞ。
> > 処刑になったのは死ねば天国に行けると洗脳された人たち、自分が天国に行ければ親兄弟がどうなろうが
> > お構いなしというのがこの宗教の基本スタンス。 隣人愛を解きながら、異教徒は地獄送り。
>
>
> 日本の殉教者 20〜30万人
> ↑
> キリスト教会がころした数。
>
>
> しかし、キリスト教会側は、自分たちは弾圧されたと主張し続け、
> 殉教者の多さを自慢し、
> 殉教を美化して、殉教者を聖人として神格化する、
>
> どこかの国の何かに似ている。 >>537
>処刑になったのは死ねば天国に行けると洗脳された人たち
死後の利益を優先して死にたいと望むのなら、それは自殺だわな。
矛盾ゼロにはなり得ない。カルトだからだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 聖オウガヌティヌスの懺悔録は好きでした。
過去のキリスト教バリバリの偉い人が、冒頭で深刻に罪悪感に責めさいなまれている記述は、
深い感動を受けました。
後は何をした人なのか私には解りません。
アラン・ジットの告白録などは、つわものそのものです。
まったくやらかしてくださいます。
キリスト教で名前を語り継がれてる人物は全部極悪人だからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 聖フランシスコは、洗礼を受けてから40日間断食したそうですが、よっぽど真面目だったのですね。
現代でそんな事をやれば、精神病院にぶち込まれるかもしれません。
そんな生真面目な聖フランシスコが好きでした。
ほとんど知らないのですが、言っていることがとても純粋で、感受性に満ちています。
でもどうして頭のてっぺんをハゲにするのでしょうか。 >>543
聖人の伝説なんてのは、ほぼ猥雑な民話と同じだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
てっぺんをハゲにするのは、上から降りてくる神たまの恩寵が髪の毛で薄れてしまわないため(マジwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まあ、迷信だわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キリシタン殉教マニュアル
「マルチリオの鑑」
「マルチリオの勧め」
「マルチリオの心得」
カトリック中央協議会(日本)
殉教者 絶賛美化中wwwwww
カトリック教会に入ったら、
そうだ!自分も殉教してみよう!
いつも殉教したくなります。
だから、日本の有事が楽しみで仕方ありません。 たとえどの様なけしからぬ事をしても人の道にはずれない。
悪事をしようとしても、罪から浄められた者は、悪を犯すことはできません。
人間だから、ののしったり、憎んだり、セクロスもします。
でも決して人の道をはずれることがありません。
それが本当に修行を積んだ人だと思います。
そういう人でないと御側では暮らせないのではないでしょうか。
卑しい人達だけですよ、あれが罪これが悪と制限されて青白く生きるのは。
>>544
確かにそのほとんどは伝説だろうと思いますが、そういう人が実際に居たのは事実なんだよ。 >>547
言ってることが滅茶苦茶wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>539
> 聖オウガヌティヌスの懺悔録は好きでした。
> 過去のキリスト教バリバリの偉い人が、冒頭で深刻に罪悪感に責めさいなまれている記述は、
太宰治は、それで、結局帰らぬ人となりました。
芥川龍之介も聖書を読む前に睡眠薬を大量に服用。
有島武郎は、内村鑑三に傾倒した人でしたが、救われることはなかったようです。(-人-)チーン
芥川も太宰も有島も、キリスト教の偉い人にはなれませんでした。 >キリスト教の偉い人
常識世界でいえば極悪人だぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 西洋文学の名作といわれるものは、少数の例外を除きほとんど同じ終わり方をしていると私は思いました。
名作と言われるものは、だいたいは聖書からの転用なので、聖書一冊を読めば全部済むのではないかと思いました。
ハリウッド映画などもエンディングはほとんどワンパターンです。
でも聖書以外にももっとおもしろいものが一杯あります。
私の師は四書五経を読めと言っていましたけど、そもそも四書五経って何なのか私には良くわかりません。
間延びしたような孔子のつぶやきも飽きました。
師匠の考えには反対で、菜根抄とか葉隠れとか五輪の書とかが、実用的だなあと思いました。 >>551
>聖書一冊を読めば全部済むのではないかと思いました。
そんなこたあねーよ。バカwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 芥川龍之介の蜘蛛の糸は本当に感銘深く、まるで本当に見てきたのではないかと思うほどです。
蜘蛛の糸をたれていたのは、遠い未来の芥川なのではないのでしょうか。
あれを読んで、小さな虫をなるべく殺してはいけないと思うようになったのは、私だけではないと思います。
それにしても、芥川の写真は子供ながらに見て、怖かったです。
聖書しか読まないなんてかわいそうです。
でも肉は食らうんだろ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ある時、自分の街を歩いてふと気づいたのですが、
本当の歴史は、学校で伝えられている歴史とはまるきり違いました。
自分の街に関しても、決してまったく表面には出ない多くの勇者たちの犠牲や思いがあって
今日に続いています。
本当の歴史を垣間見てしまうと、自分の育った街というものに深い敬愛の心がおきました。
まったく荒唐無稽ともいうべき驚くべきものです。
>>542
マザーテレサの場合
>診療環境が十分でなかったのは、彼女が「苦しみと死に対する独特の信念」を持っていたからだという。
>「キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。
>世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています」
>キリスト教では忍耐を神聖視しているとはいっても、どんなひねくれた考え方をしたら、そんな考え方になるのだろう。
――――――――――――――
マザーテレサの場合、いろいろ言われているが、
50年前のカトリック教会なら、
それが標準的な考えだったと思います。
私は独特の信念だとは思わないし、
何がひねくれているのかわかりませんね。
「キリストに倣う」 ということは、キリストのように最も惨めな死にかたをすることです。
それは、最高の喜びであります。 554 あなただって肉は食うじゃないですか。
はい、論破。
>>553
> 芥川龍之介
35歳。あまりにも若すぎる。
惜しい。 >>557
食うよ。ゴキブリも殺すwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww マザーテレサのことを批判するならば、
まずあなたも16才ぐらいで何も持たず単身でインドへ行って、
貧しい者達のために一生を捧げてください。
それでもしテレサよりも良くできたら、その時初めて非難すべきです。
恵まれた環境でネットとかしてぬくぬくとしている人が何を言っているのでしょうか。
そう世間の人は解釈するだけです。
>>556
宗教信者としてはそういう反応するしかないよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>560
解釈してるんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww やはりグラハム・ハンコックの神々の指紋には、深い感銘を受けました。
彼の何が優れているかと言うと、考え方の基本的な尺度を解りやすく丁寧に教えてくれることではないでしょうか。
彼の教えてくれた事は、あらゆる事に繋がっていきました。
もちろん科学的に、聖書にもです。
ダヴィンチ・コードにもぴったりあっていました。
でも彼は、解明できない情報量が多すぎて、ときどき狂うんですよね。
>>561
そういう反応というか、
うちはカトリックだったので、「キリスト教徒は、それが常識」だとおもっていました。
いのちより信仰が大事だと教えられました。
まあ、そういう信仰でありましたので、私も知らない間に、
脳内は破壊されてしまって、信仰はできなくなりましたwwwwww
もうキリスト教大嫌いです。
ああ胃が痛いwwwwwwwww
マザーテレサは超人的に心身丈夫だったのでしょう。
心は闇、救われてはいなかったようです。 皆さんのおかげですろさんのことが色々分かってきました。異常な執着心、屁理屈、性格上の歪み、
嫉妬心、他者への中傷と悪口等々。その通りですね。へ―、75才本当ですか?私より年上なんて
驚きです。ヒルテイは嫉妬心は人間の最も醜い心だと言っています。
しかし、ヒルテイはどんなに敵対してくる人も神の器であるとも言っています。つまり、「神の恩寵
によって高められるときはいつも間違いなく、人間による屈辱か侮辱がそれに先立つ」(「眠られぬ
夜のために第一部」より)からです。すろさんは私に内的進化をもたらしてくれてるのかもしれません。
他方、私もこの人はかわいそうな人と言う点では同感です。
それにしても、私への敵愾心は異常です。おそらく彼の力だけでなく背後に悪霊の存在があるかもしれ
ません。これはすろさんにとってとても不幸な事態です。 >>564
カミカミ詐欺に掛かると悪人を聖人、悪行を善行と「解釈」するようになるわけだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>566
> >>564
> カミカミ詐欺に掛かると悪人を聖人、悪行を善行と「解釈」するようになるわけだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
私なんか、すっかり洗脳済みですから、
「聖書は一言一句、聖霊の神感によって書かれた」ものではない。
と、どんなに証拠を持ってこられても、納得できないんですよ。どれだけ証拠があっても。
こんなことをネットに書いているのは、冒涜で大罪ですから、
いまも一歩一歩、永遠の火に投げ込まれる道にむかっているようで正直怖いです。www
カトリック教会はひじょうに優れた洗脳技術がありますね。
ユネスコに登録するべきでしょう。 >>567
それは人間の能力、理解する力だからな、不足していると自覚するのならそれ以上どうしようもないわなwwwwwwwwwwwww >>567 ご先祖様が仏教徒だからでしょ。
そんなのージョーシーキー♪ >>570
お前の先祖は縄文時代からキリスト教徒か?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アンダだちはヤソさまでもいいけどな、
オラだちは、やっぱり仏さまでねえどヤンダんでがす。
>>570
> >>567 ご先祖様が仏教徒だからでしょ。
はい、そうです。代々キリスト教徒ではないです。 >>574
DNAが先祖のひきこもごもの積み重ねであるのと同じ。
何百年も仏さまでやってきたのに、急にしゅうし変えしたから、
潜在意識のつなぎ合わせが上手くいかないんだよ。
ことにチミは二代目だからね。
三代目はもっと大変だよ。 何事も中庸がたいせつじゃ。
先祖も子孫も互いに妥協するのじゃ。
仏壇ぐらいちゃんと置いてください。
置けば解るから。
般若心経ぐらいちゃんとそらんじておきなされや。
w すろさんはそろそろ自分のスレに戻ってください。
ここは菜園や料理やギリシャ語のスレではありません。
いくつスレを潰せば気が済むんですか。
今後は意地悪すろ爺さんにレスをつけるのをやめましょう。
そうしないとこのスレも潰れます。 581 :本当にあった怖い名無し@無断転載は禁止:2017/01/18(水) 16:16:35.07 ID:V3JAgpV60
【悲報】2017年5月15日人類滅亡!? 「ダニエル書」の預言“メネメネ・テケル・ウパルシン”と“62週”
http://tocana.jp/2017/01/post_11975_entry.html 野獣は野獣を知る。同じ羽毛の鳥は、おのずから一緒に集まる。
アリストテレス .
>>442
756 : 素浪重鎖 2016/07/23(土) 22:22:50.65 ID:fQUunouD
ズラとギプスよ
神は存在ではない。
愛を人格化した概念だ、ボケ。
. .
>>584 の補足として
510 : Johannes ◆ZoK7CkoQlk 2016/07/27(水) 18:12:25.78 ID:d2H2VRn9
※ 俺の立場:キリスト教グノーシス派
人の心と記憶、そして、あらゆる生物と全ての質量存在も、
超越存在者としての神から出でて神に帰される運動である。
ゆえに、神は超越人格者としての真実在であって、存在そのものである。
-----
※ 暇人の立場:キリスト教実存主義聖霊派
人格的存在者としての神は存在しない。しかし、愛は存在する。
神は、人間にとって実存する個々の体験による愛の概念に還元される。
ゆえに、人間存在にとっての神は、愛として存在している。
----- .
>>584 の補足として
266 : 神も仏も名無しさん2016/12/12(月) 11:03:03.41 ID:0ewYWLHZ (注:すろ暇さんの書き込み
>>256
愛とは、個人的な情念ではなくて、超個人的な共感なのです。
現代人の知性に照らすならば、神を実体的存在者と考えるのでなく
象徴的に把握するのはごく自然な理性の働きです。
. ヨハネスさんは評価してますが、ズラ絡みの質問には答えません。
わたしは「ヒルテイにならいて」さんのファンです。
それにズラは悪霊に憑かれてます。そんな老人の相手は嫌です。 自らの家を据えながら仏壇を持とうとしないバカ者がこのごろ多いな。
なぜこれを据えると落ち着くのかは、まったくもって非論理的ではあるが、
仏壇の無い家など何の意味があるのかと思えるほどだ。
>>577
そういうものなんですか。
前の時代のカトリック教会は徹底した排他主義でしたから、
宗旨がえもなにも、先祖の宗教全否定ですからね。
それはたいへんなことです。
さいわい3代目はないです。
いろいろありがとうございます。 仏壇を持つにあたり、宗旨もみたまいれもほとんど関係ないのではないだろうか。
中がからっぽでもいいんだよ、極端な話。
先祖の御霊の宿る場所だよ。 >>581
すろさんの菜園や料理はありがたいです。 www 一番安い三万円くらいの仏壇に、はりつけ獄門のご本尊でもぶちこんでおけば。
3600円からあるぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://kongodo.co.jp/products/detail.php?product_id=110&source=GS&gclid=CjwKEAiAqozEBRDJrPem0fPKtX0SJAD5sAyH0_M-XqHdDun41uIWXBXvl4fO0CBXEz4Pqz-ZD2qShxoCE1zw_wcB .
>>584-586 まとめ ( すろ暇さんが主張する「神」のポイント
@神は存在ではない。 愛を人格化した概念だ
A神を実体的存在者と考えるのでなく象徴的に把握する
-------------------
.
>>431 再掲
431 :すろ:2017/01/21(土) 00:40:08.45 ID:2Ded1jKm
>>428
いいえ。私は現実を語っている
奥義を言えば「神は人格的存在として仮設されているだけで
本体は愛なのだ」と。
-----
>>本体は愛なのだ
さて「>>本体」とは何でしょうね?
. >>565
すろさんの過去スレを読めばわかります。それはもうひどいもんです。
どうしても仕方ない場合を除いて、相手にすると必ず損をします。
まず時間のムダですね。まあ屁理屈に応戦するので少しは学びますが。
でも基本的にはスルーがいいです。
これがスロさんを相手にした者の正直な感想ですね。
とにかくうっとうしい ^^w >>595
他の雑魚ドモとの差がよくわからんのだがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>595
ギプスさん、おめでとう。
傲慢な友達ができたね(笑)
>>594
やつとスタート地点だね >>593 素晴らしい !
これに青銅の蛇かアロンの杖でもぶち込んでおけば、先祖も納得 ! >>598
創価用みたいだけどなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>596
>>他の雑魚ドモとの差
教えてやろう
狡猾な嘘吐きなのだよ
.
----------
>>595
確かにその通りですね
以前、ギプスさんも「愛」と「神」の解釈を巡って、すろ暇さんと激論を交わしたことでありましたが、
すろ暇さんの狡猾な詭弁(嘘)ばかりが目立って、得るものは何もない不毛な結果でしかありませんでした。
私は、よく覚えておりますよ。 >>600
記憶にないぞ 再掲してごらんなさい
ギプス君が変なのがわかるから。
私のギプス君に対してのレスは間違いの訂正ばかりで
議論なんぞしたことはない 奥義を言えば「神は人格的存在として仮設されているだけで
本体は愛なのだ」と。
↑
普通に読めば
仮の姿…人格的存在者
本当の姿…愛。
なんで読解力がないの? >>601
すろ暇さんの説くところの「本体としての愛」は、神を源とすることを、暇さん自身が否定している。
であるならば、何故その愛は存在しているのか?
. >>565
この世とか世間に対する透明感のある姿勢がほしいですね。
欲ボケしてるような本はできるだけ読みたくない。
わたしの本選びはこれですね。
ヒルティは『眠られぬ夜のために』1部2部を読みました。
エマソンもソローも読みました。ルソーもパスカルも読みました。
どれもすっきりした透明感がありよかったです。
ごちゃごちゃ、どろどろしてるのは基本的に苦手ですね。
ニーチェは買ったけどついに読めなかった。 .
>>暇さん
あなた、論理として破綻しているのだわ。 だぶらかして遊ぶのもほどほどにしたら。
聖霊とやらを汚していることになるのでないの ( 聖霊派の暇さんw >>600
僅差wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>607
見づらくなるから、あんまり草を生やさないでほしいなwww
一つか三つぐらいにしてねw >>608
見なけりゃいいんじゃね?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>602
すろさん
>>411
「神が愛である」
というときの「愛」は下記のどれに該当するのでしょうか
>>603
キリスト教グノーシス派さん
キリスト教グノーシス派さんの「愛」は下記のどれに該当するのでしょうか
エロス έρως érōs
フィーリア φιλία
ストルゲー στοργή
アガペー αγάπη >>606
破綻しているのは君の脳みそだ。
神という概念はなぜ生まれたのか
換言すれば、何ゆえに神は存在するのか
それは、人に絶対的な人格的存在を教えて
絶対的な人格的存在を敬うことを通じて
「愛」を知るためなのです。
最初からあるのは「愛」。
「愛」を「人格的な神」と仮設して
人を導いた。
>>605
ほら、そこで龍神の背中にも乗りました。
聖霊体験したんですと、
謝罪ができない72歳孤独の人に近づかなきゃ。 リアルチャーチでも、そういう皮肉や嫌がらせはよく聞くわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ヨハネによる福音書
言(ことば)は神であった
ヨハネの手紙一
神は愛です >>610
聖書で言うと
アガペー αγάπη
フィーリア φιλία >>614
ありがとうございます
「聖書で言うと」というのはすろさんは別に考えているとは取らなくていいと思っておきます ストルゲー στοργήも神愛のうちだと思いますけど、
聖書に用例がありませんからわたしの守備範囲外です 「キリスト教グノーシス派」というのはよくわからないのですが
聖書の中でもヨハネによる福音書やヨハネの手紙にどちらかというと重きを置く派か
ヨハネの手紙二で上記の派から離れた派のことか
どちらかだろうとイメージします 昨日(21日)、すろはやけに多弁だったな。
ヒルテイにならいて氏に不必要かつ品格のない人格攻撃をくり返す。
他のいろいろなスレッドで
とんちんかんなことを口走っては走り去る。
そうかと思えば実践できていない麗しい話をとうとうと口先だけ語る。
いったいこれはなんなのかね。
サタンが入ったかな?
信仰の基(もとい)の一部が削られつつあり動揺しているのかな?
そう思ってじっと観てました。 >>444
神は愛
神に実体なんかない
あったとして三次元の人間の目で見たり理解できるような存在なんかじゃない
すろって人の異言なんかどうでもいいが、神の愛を否定するのは良くない
神の愛に疎遠なんかない
家出息子の話を思い出すべきだ
神の愛は子どもを溺愛する母親のそれよりも慈悲深い >>466
>ヒルテイで救われることはないと思います。強い拒絶感で1ページも読めませんー
返事遅れて失礼しました。あなたはまだお若いのでしょう。私が若い時も全く同様で
した。神の御導きによっていつかまた読む機会がくるかもしれません。ヒルテイは艱
難辛苦の人生経験を積まねば理解できません。 >>595
>相手にすると必ず損をします。基本的にスルーがいいです。<
良きアドバイス有難うございます。参考にさせていただきます。 >>466
カール・ヒルティは19cの人ですから、今の時代からすると
古い部分や間違った点は多々あります。
「キリスト教の他に救い無し」という表明もその一つです。
ただし現代のメインラインのキリスト教はカトリックであれ
プロテスタントであれ、その種の認識を改めています。
あなたが強い拒絶観で読めないとしたら、おそらく何かにMCされて
おられるからだと思います。
私も若い頃、マルクス主義に深く感動していた頃は、拒絶観を持つ
対象が色々あり、講義を飛び出し事が幾度かあります。
私はそういう自分を「まずい」と感じました。
中学や高校の普通の旧級と会っても、主義を同じくしないと話が
まったく合わず楽しくないからです。
危機感を感じた私は、いろんなものを積極的に読むようにしました。
自分の拒絶感の原因を探り克服されるようにとアドバイスさせて頂きます >>618
カトリック系スレで執拗に老栗さんを攻撃されておられる方ですね。
老栗さんの知識、神学、信条に嫉妬されておられるようですが、
カトリックの信徒さんなのですか?
福音派あたりからの流入組ですか? コピペは知識では無いwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>620
>ヒルテイは艱難辛苦の人生経験を積まねば理解できません。
そんなことありません。普通の恵まれた人生を送っていても理解できます。
あなたが
異言と奇跡を売り物にするカルト教会で信仰生活を送り
財産をなくした人、離婚した人、仕事をなくした人など不幸な人達が続出する
のを見たからと言って、そんなのは艱難辛苦でもなんでもありませんよ。
あなたが霊的にバカだったし、今も霊的に馬鹿なだけです 仕事もしないで一日中ダラダラネットに皮肉書き込んでブクブク太ってるのは「恵まれた生活」とは言わない。
「爛れた生活」というんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>45
Aあらゆる生命あるものに友愛、慈愛の心で接することができる。
老人、子供、貧しい人、病人、弱い人から動植物、昆虫に至るまで。
↑
こういうのは、畑仕事をしたことが言える道楽者のたわごとですよ
あなた一度畑仕事をして野菜を育てて御覧なさい。
芋虫毛虫を駆除し、バッタを踏みつぶし、コオロギを引きちぎり
アブラムシや羽虫を水で洗い流し、絵描き虫を潰し、カメムシをコロシと
命ある昆虫を無慈悲に条件反射で大量に殺戮し
雑草のいのちを踏みにじり、収穫した野菜のいのちを頂いています。
72歳にもなって現実を知らなさすぎです。恥ずかしい人です おぃおぃ。コオロギ引きちぎるのかよ。随分手間のかかる農作業だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>628
夏ごろから、小さいのがひょんびょん跳ねるね
小さいと被害はまったくたいしとないのだが、大きくなる頃に
キャベツや白菜など秋野菜を植えつける。
幼苗をコオロギにやられるとジ・エンドだから、見つけ次第、
引きちぎりますね。最盛期は日に10匹以上ころしますね アブラムシや羽虫は水で洗い流せば死ぬのか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいなら
死ぬ気で働け >>613
イエスはたとえを多く使ったんだからほかの新約聖書の部分を含めて
字句どおりかたとえか何か別の意味を示唆しているか吟味しないと
いつでも字句どおり読んでいたら間違えて読むことになるぞ 譬え話をしたからと言って、全体が暗号文だというわけではないwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>631
作物によるが、洗い流せばほぼ大丈夫だよ。
空豆は、アブラムシの好きな新芽を切り、実の充実を同時にはかる。
そして水と絵筆で洗い流す。洗い流すたびに半減していき
そのうちいなくなる。 >>636
嘘つき虫はどうやって駆除すればいいのかなぁwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 綺麗か汚いか本人次第じゃ
本人が綺麗と思えば綺麗なのじゃ >>638
本人が可愛くいとおしい虫だと愛でても
ダイコンサルハムシは冬も大活躍してコカブや大根や菜の花や
アブラナ科の野菜の葉をむしゃむしゃ食い尽くすぞ お前、あわてるなよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
注意しといたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/ それでは誤魔化せないなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>623
すろよ。
おまえのことを精神年齢30代だと思って観ていたが75歳なのだろう?
「霊的にバカ>>625」とは自分自身のことだと思った方がいい。
ここ数日、
ヒルテイにならいて氏を卑しめたところで、落ち着いた対応をする氏は
ますます株をあげることになった。
反対にすろは、老クリスチャンと同じ「歪みの信仰のまむし族」として独善的
頑迷な者という印象を濃くした。
二人とも「嫉妬」されていると自惚れてるようだ。それは先に「自慢」の
つもりでソレ(長文コピペやギリシア語訳など)をするから、周りが
自分たちを嫉妬していると「邪推」することになる。
だれもおまえら「歪みの信仰のまむし族」のまねはしない。 >>620 >>627
艱難辛苦の人生経験を積まねば理解できません
Aあらゆる生命あるものに友愛、慈愛の心で接する
このあたりは仏教にも関係する課題設定だろうから比較は可能
仏教も宗派によって違うか >>644
いいや、霊的な人は今回のことで
昼亭を泣かせて氏が傲慢の罪という地獄に現在おられることが
よくわかったはずだ。
それゆえ昼亭さんは、72歳で孤独なのです。傲慢故です。 >>627
コオロギは最近食材として注目されています。
ネットにレシピがあるとおもいます。
コオロギの唐揚げは激ウマだそうです。
もし、お召し上がりになったら感想を、報告ヨロシク。 >>629
> >>628
> 夏ごろから、小さいのがひょんびょん跳ねるね
かわいい。
青い小さいバッタ好きw >>646
佛教だと、他のいのちを頂いて自分のいのちがあるという
罪深さに慄いて、自分の罪深さを認識した上で
可能な限りにおいて、「いのち」を大切にするという
「懺悔」を経るのであるが、72歳の独居老人さんは、
俺はやさしいんだぜーという反省なしのアピールだけなので
恥ずかしすぎです。 >>648
栄養価からすると昆虫食が、最高に合理的で
美味しいともお聞きしますが、私は野菜を食べたいです。
>>649
確かに可愛いですが、バッタを追うカエルも可愛いですよ。
ツチガエルがほとんどですが、アマガエルも増えてきました。
アマガエルは宝石の様です >>647
「正しい信仰」を持っていれば、キリスト者に「孤独の不幸」はないけどね。
だから、そのような「孤独」の使い方をしない。 >>636
> >>631
> 作物によるが、洗い流せばほぼ大丈夫だよ。
私が、菜っ葉は虫がついているから面倒だと言ったら、
京都市内にお住まいのおばさん、
「そんなん、ゆがいたらしぬやんか」
都会に住んでいる人でもこれだから。www
ということで、
虫ごとゆがいたりはなさらないんですか? 正しい人だから「孤独」となることがある。とくにこの国はキリスト者は少ない。
それを「傲慢だから孤独なのだ」と、ただ人を嫌がらせる目的だけで言い切るのは
善くないね。俺にとっては罪だが、すろにとっては罪にならないのかな。 一人暮らしを、72歳独居老人と嘲弄する。
イエスや釈迦はどうだったろうか。
妻と同時に死ぬわけでもなし、何を恐れているのだ。
妻を持ったことに後ろめたさがあるのだろうか。 サロメは根性が腐っとるからな。何から何まで嘲弄されても仕方がないわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>655
事実は不明だが
「傲慢だから孤独なのだ」ではなくて
傲慢と孤独は分けて考えるべき >>655
悪意から生み出された感情と行為は罪になる すろは異言を語り、自分には聖霊が下っていると自惚れているわりには、言っている
こととやってることのギャップがある。
「嫉妬」という言葉を使った投稿もそうだが、明らかに正しい
ことを語ろうとするのではなく、誤魔化しや相手への嫌がらせを意図した投稿
「しっぽ」が、たまに出てくる。
そんなことでは、やはり遺言は悪霊憑きの仕業だな、と周りが思うことになるよ。 正体はサロメだからな。バカは仕方ないよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>652
いいですねえ。
小さいカマキリもかわいいです♪
他の昆虫って、幼虫のときはかわいくないのが多いのに、
バッタとかカマキリとかカタツムリとかは、そのままミニチュアにした形だからかわいいです♪
まあ、カブトムシの幼虫はぷりぷりしておいしそうですが。
エビチリをカブトムシの幼虫だとおもっておいしくいただいています。
アマガエル、めちゃかわいいですね。
うちは、子どものころは、回りにはまだ田んぼがあったので、
夜はカエルのBGMで過ごしていたんですよ。
当時はあたりまえで気にもしていなかったのですが、
いまおもえば夢のようです。 >>647
新約聖書に忠実な人は結婚しないとおもいます。
だから、独身はあたりまえで、
イエスが、天国に入るものは人から嫌われてなんぼ
みたいな言い方をしているので、孤独であるのも当然だと思います。 「傲慢」という用語は
>>137までのコテハン名思慮氏に対する
>>138のコテハン名ヒルテイにならいて氏の下の文章が
がこのスレでの始まりか
>ところが、あなたの言葉は常に上からの目線に終始し、傲慢な印象さえあります。
>文章も時として乱暴で意味不明、謙遜や謙虚さは感じられません。
>神とともにある人の言葉とは思えません。 >イエスが、天国に入るものは人から嫌われてなんぼ
違う。財産捨ててなんぼ、だ。勝手に都合よく改ざんするな。バカwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>668
旧約でもエレミアだったかな。神様に妻をもたないように言われる。
この日本という神無き呪われた国には子供を残すな。と読めなくもない。 洗礼と聖霊の考察 〜 マタイ3章
@ 洗礼者ヨハネ、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と叫ぶ。
A イエス、ヨハネから洗礼を受けるためヨルダン川へ。
B ヨハネは、自分こそイエスから洗礼を受けるべきだと応じる。
C イエスは正しいことを行うべきだと答える。
D イエス洗礼を受ける
E すると天がイエスにむかって開き、
F イエスは神の霊が自分の上に降って来るのを
G イエスは見た。
@から、洗礼が「悔い改め」を意味していることがわかる。
A〜Dから、洗礼が「形式的なもの」であることがわかる。
Eから、実際の大空ではなく、「心の中の話である」ことがわかる。
Fから、聖霊が「上から下へと落ちてくる」ことがわかる。
Gから、さらに聖霊を「心眼で見ている」ことがわかる。 洗礼と聖霊の考察 〜 マタイ3章
洗礼が形式的なものだというA〜Dに従えば、
@と直接つながるのは、E〜Gではないかと考えられないだろうか。
実際の聖霊体験は、洗礼とはまったく関係なく、
悔い改めから聖霊体験へと直行する。
これはけっこう重要な話である。洗礼を受けなければ聖霊体験は不可能、
というのがキリスト教界の主張だからである。
つまり彼らは、無洗礼者は聖霊体験ができないと言ってるからだ。
ところがマタイ3章では、洗礼体験と聖霊体験を微妙に切り離している。 「傲慢」という用語の
その後の思慮氏に対するヒルテイにならいて氏の使用例
>>156
>あなたは今年も謙遜の心を欠き、傲慢な上から目線でキリスト教を語るつもりなのか?
>それはキリストの教えとは逆行するものではありませんか?
>>198
>私がかつて飛び出した教会の神父の話とそっくりです。
>話が支離滅裂で傲慢、礼儀に欠けるところも似ています。
その後>>312でコテハン名すろ氏が
「異言は悪霊の現象」のヒルテイにならいて氏の発言を問題視し
発言を撤回した上で聖霊派に対しての謝罪を求めた 国教化のときに、ミトラ教徒が自分たちの習慣の「洗礼」をキリスト教に継承させるために福音書に書き加えた部分だ。
旧約聖書に無い習慣は全部異教の習慣なんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 洗礼と聖霊の考察 〜 マタイ3章
無教会派が無洗礼の立場にあるなら、
マタイ3章からその正しさが証明されるだろう。
それにイエスが、弟子たちに洗礼を施したという記述が聖書にないのも、
洗礼体験が聖霊体験に直結しない証拠だと言ってよい。
キリスト教は洗礼を何よりも重視するが、その洗礼を受けた直後に
聖霊体験をした人はいるのだろうか。
そんな人はかって一人もいないだろうと断言できる。
聖霊体験はそんなに簡単なものではない。
むしろ、洗礼とは無関係の無洗礼者から聖霊体験者が生まれるだろう。
なぜなら、心が砕け散るまで聖霊体験はできないからだ。 在日韓国人はクリスチャンが多いと聞く。
結婚を考えたら、お互いに戸籍謄本を見せ合うこと。在日韓国人と結婚すると悲惨だよ。
殺人犯の講談社社員も在日。エリートでも油断出来ない、 心配しなくてもお前にも半分ぐらい朝鮮の血が流れてるよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>674つづき
それに対するヒルテイにならいて氏の>>332の回答に対し
すろ氏が>>339で傲慢と一人暮らしに触れた返答が下の文章
この時点では
短絡的な考えと72歳の経験を一人暮らしと関連づけているようで
傲慢と孤独は関連付けていないのか
>332
あなたが傲慢な方であることがわかりました。
お返事をありがとうございました。
あなたの論理ですと、キリスト教会の一つが悪いことをすれば
すべてのキリスト教が悪いことになります。
とても短絡的なお考えであり、72歳の経験に相応しいものではありません。
だからあなたは一人暮らしなんだと思います。
そんなあなたを昼亭は慰めてくれるわけですね。
よくわかりました。ありがとうございます。 >>654
しないです。
極力調理前に、洗い流します。
とはいえ、今の季節、ほうれん草のお浸しをしますと
無農薬ですので、あふらむしなどの微細な虫が浮いたりはしますね、
そういうのは網玉ですべて掬います。
面倒くさいです 韓国がキリスト教でこれから100年。
日本が今のまま100年経つと精神年齢は明らかに韓国が上になるのでは
ないかと心配してる。
今、韓国人は単純で直情型だが、次第に練れてくるだろう。 >>656
イエスは女性たちに囲まれていたし
釈尊には付き人のアナンダが常に側にいた。
孤独なのは、謝罪することを知らない傲慢な72歳老人だけ >>667
今でもカエルの合唱が聞けますよ
野良猫のぎゃーぎゃーという声も
カマキリはいてほしいですが庭には多いが畑には少ないですね。
カエルと巣を張らない蜘蛛の王国ですね。庭はカマキリと巣を張る蜘蛛の大国です 在日をカミングアウトした草君か
韓国人の場合は、火病を起こすことでわかるように、
聖霊体験は非常に困難だろう。自分を主張することではなく、
その反対、自分を砕くことが聖霊体験だから。 >>664
思うのは構わないのだよ。
んで実は仲間内で言うのもOK
問題はキリスト教の交わの場という公の場で責任のある大人が
「異言は悪霊の仕業だ」と中傷するのはダメだという常識の話。 >>683
くだらない話はよせw 自分の巣でやれwww サロメに常識求めても無理wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>685
最初に異言は悪霊の仕業だと言ったのはわたしだよw
消えろ、悪霊すろwww
すっかりスレアラシになってるじゃないか >>686
くだるお話です。
自然は宗教の基本です。 >>689
下痢か?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>688
君は責任の取れない大人、つまり荒らしなので自由に発言してくれたまえ
誰も相手にしないから。
問題は君のような荒らしと同じクオリティの72歳同居老人さん。
これについて厳しく追及しないといけない。 >>691
相手が女性コテだとみるや、つきまとってセクハラを繰り返す。
板違いの、菜園ネタや食い物ネタやギリシャ語ネタでスレアラシをする。
しつこく屁理屈を捏ねまわして意地悪をしようとする。
異言がアイデンティティーになり、聖霊体験だとカン違いしている。
こういった数々の性格の歪みは全部、
子供の時に、異言という悪霊体験をした後遺症なんだよね。
悪霊すろは自分の巣に帰りなさいw
ここでスレアラシをやってもいいことはないよ。 考え杉w 老ホモだからwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>692
> >>691
> 相手が女性コテだとみるや、つきまとってセクハラを繰り返す。
川*'-') あたし、女性コテよ♪ >>679つづき
>>365で
聖霊派の人による
ヒルテイにならいて氏の一連のレスに向けてのものらしい意見がある
>363
むしろ、昼亭さんが傲慢という誤謬に陥られていて危険です。
>>468で
すろ氏によるヒルテイにならいて氏へのレスがある
ヒルテイにならいて氏に神の臨在がないことが
傲慢であることからわかると言いたいのか
>神の臨在を昼亭は重視しましたが、
>主があなたのそばにいたならば、異言をあなたに攻撃させたりしませんし
>私から謝罪を求められたら、反発せずに謝罪されたことでありましょう。
>ところがあなたが傲慢になられました。 ★ なぜイエスはわざわざ聖霊を受けたのか?
さて、マタイ3章はもう一つ重大なことを語ってます。
それはイエスが神から聖霊を受けたことです。
イエスが神なら、神から聖霊を受ける必要はないですよね?
それならば、なぜイエスは聖霊を受けたのか。
考えられる唯一の答えは、イエスは神ではなく人間だったから。
それ以外に考えられないですよね。
聖霊=神です。人間は聖霊によって神を知るのです。
イエスも福音書の冒頭で聖霊を受けたのです。
だったら、イエスも人間だったのではないでしょうか。
みなさんはどう思いますか? それでもいいが、そうなると、なぜ神と聖霊を分けて表現するのか、ということになってくるなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ヒルテイにならいて氏とすろ氏の共通点らしきものを見つけた
神とともにないのに神とともにあるように語ること
神の臨在がないのに神の臨在があるように語ること
を「傲慢」と呼ぶこと
>>138
>神とともにある人の言葉とは思えません。
>>468
>神の臨在を昼亭は重視しましたが、
>主があなたのそばにいたならば、
>異言をあなたに攻撃させたりしませんし
>私から謝罪を求められたら、反発せずに謝罪されたことでありましょう。
>ところがあなたが傲慢になられました。 >>697
イエスは人間です。
イエスは神ではありません。 >>696
まだやってるのか。何も得ることがないから、もうやめませんか。
欲ボケすろの異言体験を、悪霊の仕業だと言ったのはわたしだ。
ヒルテイにならいてさんではなく、わたしに聞けばいいではないか。
わたしなら、それは中傷ではなく事実だと、欲ボケに言ってやるけどね。
欲ボケは、子供の頃、異言の悪霊に憑かれた後遺症なんだよ。 >>698
旧約が神を語っているからではないでしょうか。
聖霊は、旧約の創造神とはまったくイメージが違うのです。
イエスでさえ、同じものとは思わなかったでしょう。
>>700
その通りです。わたしも大賛成です。 がっかりな答えだったなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 。。。。
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
。。。。 貝谷文かわいい貝谷文かわいい貝谷文かわいい貝谷文かわいい貝谷文様かわいい >>696つづき
>>514の
すろ氏によるヒルテイにならいて氏へのレスで
ここで初めて明確に
傲慢と孤独な人生を関連づけている
■生きざま
Carl Hilty …何が最も賢い処置であるかを問う代りに、
何が最も深い愛の仕方であるかを問うたので多くの人から尊敬される
昼亭を泣かせ…傲慢さゆえに、72歳になって孤独な人生。 .
この際、俺もはっきり言っておく。
すろ暇の異言は悪霊の仕業である。 すろ暇氏の日頃の書き込みがそれを証明している。 頭がイカレテいるではないか。
. まず、文章として意味が通ってないわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>708
ヨハネスさんにそう言ってもらえると心強いです。
普通に考えれば、なんで意味不明な言葉を口走るのか不思議ですよね。
周囲から見れば気持ち悪くて、悪霊の仕業としか思えない。
欲望を根こそぎにすれば聖霊体験ができるのに、
すろ爺さんは欲ボケしているから欲望がそのまま放置されている。
それどころか聖霊体験したなどとカン違いしているから、
むしろ欲望が強化されている。いずれにしろ、すろ爺さんの異言は、
聖霊によるものでないことになりますね。 マタイ5:8「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、
あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい。」
とある。これを指摘されたら、異言は聖霊によるものだという自説を反省
すべきだと思いますよね。
ところがすろ爺さんは逆、それは偽善者や異邦人に対するものであり、
異言の話じゃないと言い訳する。自分は異言という聖霊体験をしたんだと
驕り高ぶって、聖書をきちんと読めなくなっているように思う。
偽善者や異邦人の話は「例示」なのに。 >>709
草君のレスは、草を取って読むとずいぶん迫力がなくなるね。
迫力のなさを草でごまかしてるな。 異言については個々の人の異言がどうかは別として
パウロも異言は誰よりも話せて異言について詳しく書いているから
完全な否定は聖書のパウロの書いた手紙の否定につながるおそれ >>713
パウロを肯定してイエスを否定したらダメだろう。
まずイエスであり、イエス優先だよ。 パウロも異言を解釈する人がいないときは黙っておけと言っている
一人で祈る時や複数で祈る時で解釈する人がいないときは黙っておくことになるから
集会型の無教会で解釈する人がいるときでなければ異言は問題にならないか >>715
そうすると異言を言ってる人は、自分が何を言ってるかわかって
ないことになるね。それではやはり悪霊の仕業だろう。
本人の意志ではなく、悪霊に支配されてムニャムニャ言うわけだ。
やっぱしまずいよ、相当気持ち悪い。 >>697
まだそんな阿呆な事をほざいてるのかサタン
お前は神性の遍在が、不可分離性がまるで分かっていない
時間を超越した存在者が、時間の内に受肉されるということが
夫ヨセフを迎えていなかったマリアが何故身ごもったのか?
マリアは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と言われたのではないのか?
「わたしは彼の上にわたしの霊をおく」
「神が遣わす方は神の言葉を語る。神が御霊を無限に与えられるからである」
ただの人間がどうやって御霊を無限に受けることができる、ああ??
お前みたいな塵芥と一緒にすんなよ
アブラハムが生まれる前から存在し、
万物を創造し、
世界が存在する前に持っていたその栄光は、
イザヤがまさに正しくそれはイエスの栄光であったと証言し(ヨハネ12:41)、
父の持っているものをすべてもっておられ
十字架から復活後ご自分で弟子達に聖霊を授け
天においても地においても一切の権威を与えられている方
このような方が唯一の神、唯一の主で無いとしたら何だというのかね?
お前がヨハネ16章が大嫌いなようだが、
それはイエスが聖霊の唯一の発し主だと自分が聖霊だと言い張れないからだろw
悪霊はことごとく、狂おしいまでに聖霊になりたがっているからな(藁)
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
コリント第一12:3
主の神性を否定するお前も聖霊になりたがっている火病民族と変わるところは何一つない >>717
それでは、神であるイエスが、神から聖霊を受けなければならない理由を
わかりやすく御説明ください。理解できれば宗旨替えします。
できるだけ短めにお願いしますね。 今のところ、
異言を悪霊と中傷するのは、
1.龍神の背中に乗ったことオカルト体験を聖霊体験と勘違いしているギプス君
2.カルト教会で青春を送った傲慢72歳老人の昼亭
3.カトリックを脱落してグノーシスを標榜する女装老人
可哀想な人たちだけだ >>718
神であるイエズス様は本気で人間にもなられてみた、そういう理解ではだめ? >>719
異言でも何でも良いけど、他人を中傷する人が神の愛を語るのは矛盾してるよ 異言とは何か 〜 その1
現象的には、本人にもわからない意味不明な言葉をしゃべることである。
それは言語機能の崩壊であり、人間失格にも到る重大な出来事なのに、
当の本人は異言ができることを逆に誇っている。
言語機能に異常をきたす代表例は脳梗塞や脳溢血である。この場合は、脳の
言語機能が破壊されたときに生じる。しかし異言はこれには該当しない。
では良心に由来するのか悪心に由来するのか。本人の明確な自覚がないので、
どちらとも断定できない。ではいったいなんだろう。
この謎を解く鍵は異言をしゃべりだす状況の中にある。ペンテコステでは、
死の危険に怯えながら神の臨在を必死に祈っている時に起きている。
いまの時代は、異言が神の賜物だと信じ込んでいる人々の間で起きている。
そこには、異言ができることはよいことだ信じ込んでいる集団がいる。 >>722
事実指摘で中傷はどこにもないですよ
中傷しているのは下の三人ですよ。
たとえばカトリックのミサのホスチアの聖変化を悪霊の仕業と
評価すれば、それは中傷なのです。
下の三人は、聖霊派の霊的文化を中傷したのです。
反省を促しております
719 : すろ2017/01/22(日) 23:21:22.99 ID:Lq0cHNXE
今のところ、
異言を悪霊と中傷するのは、
1.龍神の背中に乗ったことオカルト体験を聖霊体験と勘違いしているギプス君
2.カルト教会で青春を送った傲慢72歳老人の昼亭
3.カトリックを脱落してグノーシスを標榜する女装老人
可哀想な人たちだけだ ちなみにカール・ヒルティの『幸福論』によると
「偽の信徒や途中で脱落したキリスト教徒は滅びる」そうです。
つまり、カール・ヒルティによると異言を悪霊と中傷する
1.龍神の背中に乗ったことオカルト体験を聖霊体験と勘違いしているギプス君は贋キリスト教徒
2.カルト教会で青春を送った傲慢72歳老人の昼亭も贋キリスト教徒
3.カトリックを脱落してグノーシスを標榜する女装老人は脱落したキリスト教徒
なので三人とも滅びるそうです 異言とは何か 〜 その2
以上から二つの原因が考えられるだろう。
@ 集団ヒステリー ・・・ 社会や教団などから、心理的な圧力を強く
受けている。その結果、心が歪みやすい緊張状態に置かれている。
A 神との関係 ・・・ その出口は神しかない。 ← これが重要だ!
もともと聖霊体験は、深い悔い改めによってもたらされる。
ところが異言の場合は、悔い改めが省略され、ただひたすら神に助けを
求める中で生じる。この意味はいったい何だろう。
思い当たるものがひとつある。それは神の「冒涜」だwww
冒涜、それは悔い改めをしないで神に近づこうとすることである。
それは、神の怒りによって散らされたバベルの塔である。創11:1-9
異言には何かよくないものがあると直感してはいたが、冒涜とは恐ろしい。
冒涜、まさにすろ爺さんを象徴する言葉ではないか。 >>724
分析力がないですね。
聖書に拠れば、「酔っぱらいようだ」と第三者は見ていたとあります。
酔っぱらいも意味不明な言葉を喋ります。
脳が一時的に麻痺状態になっているので呂律が回らないわけですが
初段階のほろ酔い状態では麻痺が気分をリラックスさせたり良い方向に
働くのに対し、二段階目の酩酊状態ともなると、足をふらつかせ、呂律を
回らなくさせる。
異言とは酒なしで、霊的に麻痺状態を作り出すことで、言語機能を
聖霊に委ね、聖霊に代弁者として祈って頂いているのかもしれない >>726
> ちなみにカール・ヒルティの『幸福論』によると
> 「偽の信徒や途中で脱落したキリスト教徒は滅びる」そうです。
やはりそうですか。
ありがとうございます。
たすかりました。
ヒルティは、「読んだら危険」の注意書が必要ですね。
特に、精神科の病院には置かないこと。 >>727
使徒のペンテコステは、最初第三者は酔っぱらいかと驚いたのであるが
その後、各地の言葉で喋っていることが確認されたので集団ヒステリー
ではない。
歴史のある聖霊派では集団で異言にて祈ったりしないが
最近のカリスマ派など変な連中の間で集団異言の祈りがあるのであれば
それは集団ヒステリーかもしれないが私の知るところでない
悔改めが省略された異言など聞いたこともない。
聖霊体験の中の一つが、異言体験なのです。
しかもごくごくありふれた、悔改めてイエスを主と受け入れた者
が望めば誰でも可能な聖霊体験です。 すろ爺さんのやってきたことは、
冒涜という観点で見ると一貫していることがわかる。
相手が女性コテだとみるや、つきまとってセクハラを繰り返す。
板違いの、菜園ネタや食い物ネタやギリシャ語ネタでスレアラシをする。
しつこく屁理屈を捏ねまわして意地悪をしようとする。
異言がアイデンティティーになり、聖霊体験だとカン違いしている。
すろ爺さん、神を冒涜するのはやめなさいwww >>729
パウロの昔から体験派、知性派があります。
(1コリ 1:22ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。)
カール・ヒルティは、19cの知識人として聖霊体験を重視した方です。
(「神の近さ」を体験)
つまり、体験と知識との両方を兼ね備えていたわけですが、
我々現代人が読むとき「」付で読むべきで、
(例えば改革派ですので異言をしりません。19Cの人なので古い部分があります)
智慧なしに聖霊体験だけでカール・ヒルティを絶対視すると危険です。
とある72歳の独居老人さんは、智慧なしで自分の60年間の体験のみで
カール・ヒルティを読まれていますが、それゆえ傲慢の罪に陥ってしまわれました。
残念なことです。 >>731
ギプス君。
そーいえば君は執拗に私のギリシア語異言能力に嫉妬していたね(笑)
それと君がなるみから叩かれているのは私のせいではない。
君が龍神体験などスレチガイをキリスト板で繰り返すからだ。
自業自得なのだ。(笑)
菜園と食べ物ネタは、坊主憎けりゃ袈裟までの類だな(笑) >>729
ご隠居さんですか。久しぶり。
ここはまじめなスレなので荒らさないでください。 >>732
さっそくありがとうございます。
> ちなみにカール・ヒルティの『幸福論』によると
> 「偽の信徒や途中で脱落したキリスト教徒は滅びる」そうです。
私は、途中で脱落したキリスト教徒なので、
ヒルティを読むと、罪悪感や絶望感が強くなってしまうところでしたw
キリスト教やめた人は、キリスト教でうつ病など
精神的に病んでしまった人が多いですから、
ヒルティを読むと悪化してしまいますね。
『幸福論』というわけにはいきません。
大事なことを教えてくださってありがとうございました。
いろいろ勉強になります。 >>736
途中で脱落したキリスト教徒ってどういう人のことでしょうか。 >>737
ヒルティのいう「途中で脱落したキリスト教徒」の正確な意味はわかりませんが。
「最後まで堪え忍ぶものは救われる」
私に関しては、堪え忍べなくて脱落しました。
信仰も棄てて、アンチキリスト教になりました。 キリスト教でうつ病になり、
キリスト教を離れたが、キリスト教の事を気にかけているので
ヒルティを読んでさらに罪悪感、絶望感が強められていく。
だが、ヒルティの途中で脱落は、そういった話なのだろうか。
人が他人を悪く言ううために、
切り取って張り付け用いたヒルティの言葉の断片を
ありがたがって判断するような事をやめなければね。
うつ病の原因はなんなんだろうね。、 >>738
例えば、十字架を愚劣だと中傷するような人のことです。
カール・ヒルティ「心の病を癒す生活術」
「十字架」の言葉は今日再び、過去のいずれの時期よりも堕落した者にとっては愚劣である反面、
救われる者にとっては依然として常に神の力である。
後者はまず不安と苦悩の世界から、ついで厳しい罪と死の法則から救われるのだ >>740
> >>738
> 例えば、十字架を愚劣だと中傷するような人のことです。
「十字架」は大嫌いです。 よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいなら
死ぬ気で働け [真の救いとは何か?]パート1
救いについてのもっとも本質的なところを考えましょう。イエス・キリストが山上の垂訓で述べられたように
真実救われて天国に行ける者は心貧しいもの、悲しむ者、義に飢え乾く人など、運命に打ちひしがれ、打ち砕
かれ続けて常に意気消沈に喘ぐような人達です。
ヒルテイは「ただ、艱難辛苦によってのみ我々の頑なに閉ざされた心がすっかり開かれてより高い世界観の尊
い種子を受け入れるようになる」と言います。(「幸福論第二部」より)
回心とは神の臨在あるいは主の宿り、聖霊の宿り等呼ばれます。さらに聖霊派とキリストの霊の宿り、真理
の御霊とも呼ばれますがすべて同一のものと言って良いと思います。回心は稀有なもの、特別なものと思わ
れがちですが、けしてそうではないことをいくつかの例を挙げて説明したいと思います。
次はネットに載っていたある不治の病に侵された若者の言葉です。
「僕は重い心臓病のため、主治医から余命あと五年と宣告を受けている者です。初めは取り乱しましたが、
今は死ぬのが楽しみです。毎日充実した日々を送っています。皆さんも与えられた人生を普通に全うしま
しょう。
余命が分かると人生観がガラリと変わります。他人の人生が自分の幸せのように感じます。」
「死ぬのが楽しみ」等と言う言葉はめったに言えるものではありません。「奇跡の言葉」と言えます。
この若者はおそらく、死の恐怖との戦いと言う煩悶地獄の時期を乗り越えて、ついには死をも超越し、その
結果ついには聖霊の宿りを受けて、魂の平安に至ったのではないかと思われます。
それは新たな人生の始まりであり、彼は「生命の永遠性」の確信に至ったのではないでしょうか。
それはイエス・キリストが示した「復活」につながるものでしょう。 >>745訂正です
×さらに聖霊派とキリストの霊の宿り、真理の御霊とも呼ばれますが、
〇さらに聖霊はキリストの霊、真理の御霊とも呼ばれますが、 >>746
>>745は私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦の中にある人々のために」
の中からの引用です。良かったら覗いて下さい。見にくいブログですが。 >>748
貴方は切り取った断片で書き込まれていません。
一方何を目的としているのか知らないが、
嫉妬だとか謝罪だとかまったくわけわからぬ自分勝手の
印象だけをばらまくことを憚らない者がいる。
他者の悪口のために切り取った断片を用いて
周辺に影響を及ぼすことしている。
謝罪しなければならないのはどちらだ。
嫉妬しているのはどちらだ。 >>745
363 :ヒルテイにならいて 2017/01/20(金)
(途中略)
私達はイエス・キリストの直接の言葉のみに従うべきでしょう。
とあるからヒルテイさんはイエス・キリストの直接の言葉のみを語るはずで
その他を自説の根拠にするのは自己矛盾にあたるのではないですか
ヒルティの著作や若者の言葉でなく
イエス・キリストの直接の言葉のみで語る
これなら論旨は通っている 「聖伝」 あるいは 「教会の伝統」 という概念について、恐らく、プロテスタントの人々はもちろんのこと、無教会主義の皆さんも何となく否定的な気持ちを持っておられるのではないでしょうか。
しかし、そのような人たちはたいてい、この 「聖伝」 あるいは 「伝統」 という用語に好感や親しみがないだけで、実は真面目に自分でその内容を調べたことも学んだ経験もないのです。
つまり、偏見と誤解によって切り捨てているだけで、実はキリスト教と教会の大きな歴史遺産を、もったいないことに、無視しているのではないでしょうか。
今回は一度にではなく、少しずつ分けて書き込みますので、どうぞ皆さんのご意見を、異論反論も含めて聞かせてください。
よろしくお願いします。
− − − 私は書き込みを日曜日は休んでいます(^O^) − − − 【聖伝とは @】
宗教改革以来、プロテスタント諸教会は、「聖書が神のキリストにおける啓示の唯一の証言であり器である」 と主張して来ました。
そしてそれは、教会に対する聖書の権威とか規範性などという語を用いて、教義学者たちによって説明されるのが常でありました。
その際の対立軸として、「カトリック教会は聖書と並んで教会の伝統に同等の権威を認めている」 ことが、攻撃対象にされて来たことは、広く知られています。
それと並んで攻撃の的とされたのは、「教会ないし教皇が、聖書および教会の伝統の権威ある解釈者である」 という、ローマカトリック教会の主張でありました。
以下に挙げるプロテスタント陣営の主張は、多分に攻撃的な (かなり悪意に満ちた) 解釈であって、ローマカトリック側の立場から見れば、曲解に近い大いに不本意な非難でありました。
1.聖書と並んで伝統を権威と認めることによって、相対的に聖書の権威を軽んじている。
2.カトリック教会 (ないし教皇) は自らを解釈者にすることによって、神の啓示を恣意的に曲げている。 【聖伝とは A】
先ず、多くの人々に誤解されている 「聖伝」 の定義から、私の説明を始めてみようと思います。
ほとんどのプロテスタント信者は、「聖伝とは、ある一定の範囲の、カトリック教会が受け継いで来た文書群のことである」 と思っています。
それは歴史的に、プロテスタント陣営からの攻撃が、カトリック側が引用するそのような諸文書の使用に対する批判であったからです。
そのようなカトリック攻撃は、古今のプロテスタント側の教義学や教理史、教会史等の書籍で豊富に読むことが出来ます。
ところが注意して観察すると、カトリック教会は過去に 「聖伝」 の出所を示すためにそれらの諸文書に言及はしても、「聖伝とはそれらの諸文書のことである」 などとは、決して主張しなかったことが分かります。
つまり、聖伝とそれら諸文書とを同一視することは、プロテスタント側の (気づかずに陥った) 誤解でありました。 464 :老クリスチャン 2016/11/14(月)
【聖伝とは B】
もちろんプロテスタント陣営にもいろいろな主義 (教派) があって、決して一枚岩ではありませんが、宗教改革者ルターに代表される立場では、機械的に 「書物としての聖書 = 啓示」 とは理解されていません。
「聖書は、そこにキリストが横たわっている飼い葉桶である。」(ルター)
しかし、その啓示の器である正典としての聖書は、創世記から黙示録までという枠で限界づけられた 「閉じた書物」(申 13:1、黙 22:18-20 参照) であります。
カトリックとプロテスタントの間で、聖書正典に続編が含まれるか否かで立場が対立するのも、ある意味で聖書が確定した枠の中の 「閉じられた書物」 であるとの認識では、一致している証拠であると言ってよいでしょう。 465 :老クリスチャン 2016/11/14(月)
【聖伝とは C】
それに対して 「聖伝」 は、ある特定の文書群に限定されない 「教会の伝統」 であって、トリエント公会議の定義を借りれば、「記されない神の言葉」 と表現されるものであります。
第二バチカン公会議の公文書である 「神の啓示に関する教義憲章」 は、聖伝を 「使徒たちに由来する」 と説明して、次のように述べています。
「教父たちのもろもろのことばは、この聖伝が生き生きと存在したことの証言であって、その富は信じ祈る教会の実践と生活とに広く行き渡っている。」
この 「教父」 という呼称で、プロテスタント側の人はたいてい、一世紀の終わりから二世紀初め頃に活躍した 「使徒後教父」 を、先ず連想すると思います。
教会史の教科書では、さらにそれに続く八世紀初め頃までが、教父たちの時代として書かれています。
その定義は、「正統的な信仰を保持した人々、しかも後世の教会がなおその基準的な教えをそこに求めることが出来る、そのような人々」 ということです。 >>749
昼亭さんが、聖霊派に「異言を悪霊の仕業と罵った」ことを謝罪すべきです。 ヒルティの言葉を引用しながら話すことと
イエスの言葉に従うことは矛盾しない。
イエスの言葉を読んだ途端、自分の解釈になっているはずだ。
読むだけでなく、
すべてのものは常に自分側の程度に応じた解釈が伴うのは当然であり、
自分が読むのであれば、その途端、解釈し自説になる。
ヒルティを引用するかどうかでなく、イエスの言葉に対する自分側の
解釈内にヒルティの言葉があるのだ。 ヒルテイにならいてさんのブログを読みました。
わたしもヒルテイさんと同じような体験をしてますので、
おっしゃっていることがよくわかります。
感動的でしたよ。ヒルテイにならいてさんに感謝します。
全体の分量も手頃で読みやすかったです。 ヒルテイさんを批判する人も見かけるが、
その主張を理解しないで批判するのはやめようね。
批判はブログを読んでからだよ。 ヒルテイさんのブログを読んで、
すろ老人の悪意と冒涜が透けて見えてきたよ。
悪霊ハゲ老人は最低だなw >>757 >>745
ヒルティは「眠られぬ夜のために」
で旧約聖書新約聖書の章句を引用して書いている
ヒルティがカルバン派の信仰のもと旧約聖書新約聖書の言葉に従っているから
「イエス・キリストの直接の言葉のみに従う」
のであればヒルティと同様に
新約聖書のイエス・キリストの直接の言葉を引用して書くことになる
それがヒルティに倣うことである @〜Dで一区切り
466 :老クリスチャン 2016/11/14(月)
【聖伝とは D】
ところがカトリック教会では、公会議に参加する司教たちも、みな 「教父」 と呼ばれるのです。
これは決して新しい考え方ではなくて、すでにニカイア公会議の時代から始まった呼称です。
恐らくプロテスタント界ではほとんど一般に知られていない、この 「教父」 という呼称の使われ方を知らないと、第二バチカン公会議の公文書における 「聖伝」 の説明を正しく理解出来ないと思います。
カトリック教会が 「聖伝」 と呼んでいるものは、教会の生きた神学活動であって、歴史の教会がめんめんとして続けて来た、そして現在も行っている 「使徒たちから伝えられたこと (キリストの福音)」 の解明の試みだからです。
しかもそれは、神学者個人個人の私的な活動ではなくて、常に 「教会の責任において試みられる」 神学活動であります。 >>758
どんな体験をされたのですか?
具体的にどうぞ >>759
というか、ギプスさんは本当によんでないでしょ。
中味の薄い論評から読んでない事がばればれです >>760
ここはキリストにあっての交わりの場です。
龍神体験者は下品な中傷をおやめなさい 申し訳ないですが、老クリさんはお控えください。
ここは無教会の人の集うスレです。 >>763-765
すろ爺さんは、ヒルテイさんのブログを読みましたか。
敵を知り味方を知れば百戦危うからず。 >>766
そうですか
【聖伝とは @〜D】について理解しようとしたが保留
>>765 >>766
キリスト教無教会の範囲について検討が必要ですか
>>1に「イエスキリストを信じる人の集う」とあるので
イエスキリストが救世主で神の子であることを信じる人までが対象でしょうか >>768
あれも違うしこれも違うというのが、消極的キリスト教無教会。
積極的無教会は、真理を探して新約聖書もまな板にのせる。
場合によってはキリスト教も捨てる。
イワシの頭も信心から、というバカげた信仰はやめましょうよ。 >>769
「イエスキリストを信じる人の集う」
とあるので無制限にはならないでしょう
「イエスを信じる人の集う」ならまた対象が違いますが コピペですが「神の子」であると信じるだと
聖書的ユニテリアン派までがこのスレの対象になるようですね
聖書的ユニテリアン派
イエスはメシアであり神の子であるが、神その人ではない
合理的ユニテリアン派
イエスは神の子ではなく、他者をよりよい生を生きることができるように導いた善良で賢明な人に過ぎない >>770
無教会主義ができた経緯から言えば、キリスト教をベースに、
真理を探している人々の集いにすべきですね。
キリスト教的妄想に義理立てする理由は皆無でしょう。
ただ、いろいろな霊的レベルの人がいます。
その違いが大きすぎたら交流できないでしょうが、
それほどでなければお互いに刺激になり、よい関係が築けます。
あまりギチギチやったらスレ自体が潰れますよ。
水清ければ魚住まず、と言いますから。 キリスト教グノーシス派を称する人は
イエスは、この世界を創造した神の上位にあると考えるようなので
「神の子」であると信じるだと対象外ですね >>772
>>766の意図に沿うものです
>ここは無教会の人の集うスレです。
>>1
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです
スレタイ
【イエス】無教会の人が集うスレ★2【キリスト】
に沿って考えています >>772
イエスを信じず、龍神を信ずるギプス君と
カトリックを捨てて、グノーシスを掲げるズラ君とは
このスレッドの対象外ですが、
昼亭さんグループということで受け入れてもよいです。
但し、お三人に対しては、異言への侮辱についての謝罪を要請します。 無教会主義 聖霊派の
小池辰雄さんに謝罪しなさい。 グノーシス派はキリスト教的真理を探求しようという立場なので、
このスレの参加資格は十分ありますね。
既成のキリスト教から落ちこぼれた人たちを広く受け入れる。
無教会派としてはこれしかないでしょう。
そのうえで、相手の主義主張に寛容であれば言うことないですね。
少し前に議論した、相手を許すというテーマの実践です。 だいたい無教会主義は、みんなギリシア語で聖書読んでいるぞ。
体験主義+聖書主義がスタンダードなんです
カール・ヒルティも体験主義+聖書主義です。
昼亭さんは、単なる体験主義
ギプスさんも単なる体験主義
ズラはただの女装家。。。。 「神」であると信じるだと
聖書的ユニテリアン派がこのスレの対象外になって
キリスト教グノーシス派の人は範囲内になるのでしょうか
救世主より上になるから結局だめでしょうか >>778
そういうデタラメを言ってはダメだよ。
わたしは三回は読んでるし、他の人も十分読み込んでますよ。
自分だけいい子になろうとするのが悪霊すろの欠点。 >>聖伝
基本的に、老クリさんの説明で正しいと思うが、元カトリックの立場から若干補足しようと思う。
狭義の聖伝の他に、広義の聖伝についての解釈というものがある。
現代にまで聖霊の働きが生きて積み重なり伝承された霊的財産としての賜物全体を広義の聖伝ととらえる。
その意味では、聖伝は聖書と並列されるものではなく、むしろ聖書自体が聖伝の一つと位置付けられる。
だから、使徒継承の教父や聖人らの教説と彼らが残した文献や聖遺物が聖伝に留まるものではない。
(この点については、カトリック聖職者でも誤解している向きがあるのは残念です。)
もちろん、教会の秘跡や典礼様式と諸公会議に基づく教義も広義における聖伝に含まれて来る。
つまり、キリスト教会とは、聖伝の上に今生きて成立しているものと解釈するのがカトリック教会の立場なのである。
カトリックへの批判姿勢が強いプロテスタント教会では、多分に誤解され、あるいは悪意を以って、カトリックの聖伝を
批判する人達が居るのは承知しているが・・・。
. >>775
馬鹿なのか。オマエは。 あ 馬鹿でなくてハゲでしたね。どうもすみません(棒 >>779
三位一体とか、神が何であるかは、まだ議論の余地がありますよね。
このスレで議論してもいいのではないでしょうか。
唯物論的な立場はさすがにスレチになるのでしょうが。 合理的ユニテリアン派
イエスは神の子ではなく、他者をよりよい生を生きることができるように導いた善良で賢明な人に過ぎない
などのイエスを人とする派はこのスレの対象外で異論なさそうですね >>775
グノーシスはこのスレッドの対象外ですか
昼亭さんグループというのは異言についてのものですね
謝罪というのは訂正とかではだめなんですか >>780
すろと老クリスチャンは独善のまむし族であるという認識はここ数ヶ月で広がった。
どうして歪んだ実になるのかねえ。 使徒2章
4『一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した。』
11『彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』
異言とは外国語のことである。
諸外国の様々な言葉が宣教のはじまりであった。
イエスキリストの力である、この聖霊の働きが意図することは
形として異邦人宣教への宣言であり、
むしろ異邦も同胞も取っ払われた事を意味しているのではないか。
多言語を話せることが、新しい世の福音の
出発点で重要な意味があり、現代人の自分たちはそれをどう受け止めるかだ。 言葉が通じない。バベルの塔。
霊的な一致言語があったということでもある。
フランス人は英語を拒否する。ある民族の言語を世界統一言語とする
事に拒否がある。
言語と支配の関係に敏感なのだろうか。
異言については何か神の上辺ではわからない
意図があるように思える。 >>750
>>363<私たちはイエスの直接の言葉のみに従うべきである>
これは「キリスト教の信仰全体はキリストの直接の言葉を含んだ四福音書とその最良の注釈書で
ある使徒たちの手紙とを頼みとすれば十分である」(「幸福論」)と引用すべきところを間違っ
てしまったものです。そのようにご理解ください。 〔真の救いとは?〕パート2
精神医学者V・E・フランクルはその著書の中で第二次大戦中、アウシュビッツ強制収容所の
中での体験を証言しています。
「私は強制収容所で以前から知っていた若い女性と一緒になりました。再会した時、彼女は
みじめな境遇にあり、重い病気で死にかかっていました。けれども、死ぬ数日前にこう明か
してくれました。
〈私はここに来ることになって、運命に感謝しています。以前、何不自由ない生活を送って
いた時、確かに文学について色々と野心を抱いていましたが、どこか真剣になりきれないと
ころがありました。でも今はどんなことがあっても幸せです。今はすべて真剣になりました。
それに本当の自分を確かめることができますし、そうしないではいられないのです。〉
こう言った時、彼女は以前私が知っていた時より、晴々としていました。彼女はその時、リルケ
があらゆる人に求め、臨んだことができたのです。つまり、〈死を自分のものにできる〉ことに
成功したのです。言い換えると、死までも全生涯の意味に組み入れ、死によってさえ、生きる意
味を実現することが本当にできたのです。」(V・E・フランクル著「それでも人生にイエスと言う」
春秋社刊)
死と向き合う、あるいは対峙するという艱難辛苦の体験の中でこそはじめて超感覚的世界の存在(神)
の臨在が始まるということがここでも証明されています。ひたすら神学や教義の学習・研究に明け暮
れる神父や牧師、他の多くのキリスト者がたどり着くことが極めて困難な世界がそこにあります。 >>792
つまりマゾになれば、救われるのですか? >>745
>「死ぬのが楽しみ」等と言う言葉はめったに言えるものではありません。「奇跡の言葉」と言えます。
「死ぬのが楽しみ」というのは滅多に言えるものではない、ことはないです。
ふつうによく聞く話です。
宗教板そのほか2ちゃんねるでは「早く死にたい」はよく見ることです。
日本のキリシタン弾圧のときは、早く天国に行きたくて
殉教希望者が殺到したそうです。
殉教者は20〜30万人と言われています。
今でも、すぐに殉教できるイスラム教徒は幸せです。
今、日本だけでも死にたいと思っている人は何万人もいるとおもいます。
カトリックではイエスのように最も惨めな死に方をするのが、
最高の喜びであります。
だから、イエスのように残酷に処刑されるのはよいことです。
それが、イエスに倣うことです。
キリシタン弾圧のときは、処刑されたあと、その人の遺物に人が群がりました。
あやかりたい、ありがたいものだからです。
同じ原爆でも、広島と、被爆者の多くがカトリック信徒だった長崎では、
原爆の意味が違うのです。
「死ぬのが楽しみ」は「奇跡の言葉」ではなく、
むかしからありふれたことばだとおもいます。 >>793
> >>792
> つまりマゾになれば、救われるのですか?
そのマゾの状態で、
最後まで堪え忍ぶものが救われるのです。
信仰とは、神の虐待に堪え忍ぶことです。
昔は、宗教的理由で処刑がありましたから、よかったですが、
現在では、長期間にわたって堪え忍ばなければなりません。
だから、生まれつき強靭な精神、強靭な肉体の持ち主以外は、
途中で脱落してしまいます。
それで、棄教してしまうと、
救われることはなくなるであろう、です。
だから、キリスト教に最初からかかわらないほうが、救われます。
棄教は大罪ですが、
キリスト教を知らなかった場合は罪にはならないからです。 次はネットに載っていたある不治の病に侵された若者の言葉です。
「僕は重い心臓病のため、主治医から余命あと五年と宣告を受けている者です。初めは取り乱しましたが、
今は死ぬのが楽しみです。毎日充実した日々を送っています。皆さんも与えられた人生を普通に全うしま
しょう。
余命が分かると人生観がガラリと変わります。他人の人生が自分の幸せのように感じます。」
「死ぬのが楽しみ」等と言う言葉はめったに言えるものではありません。「奇跡の言葉」と言えます。
この若者はおそらく、死の恐怖との戦いと言う煩悶地獄の時期を乗り越えて、ついには死をも超越し、その
結果ついには聖霊の宿りを受けて、魂の平安に至ったのではないかと思われます。 『毎日充実した日々を送っています。
皆さんも与えられた人生を普通に全うしましょう。
余命が分かると人生観がガラリと変わります。
他人の人生が自分の幸せのように感じます。』 修行をすれば儂のように充実した人生を送れるのじゃ
それを悟りというのじゃ >>782
たいへん適切な 「聖伝理解」 をお持ちだと、感心しました。
実は今回私が書こうと思っている論点に、非常に近い理解です。
ただ、聖伝に狭義と広義という分類ないし仕分けを付けることには、私としては異論があります。
「聖伝」 についての今回の書き込みは、昨年私が書いたものを増補修正しています。
前回はあまり反応がありませんでしたが、今回は是非、皆さんのご意見を異論反論も含めてお聞かせください。
期待していします。 【聖伝とは B】
もちろんプロテスタント陣営にもいろいろな主義 (教派) があって、決して一枚岩ではありませんが、宗教改革者ルターに代表される立場では、機械的に 「書物としての聖書 = 啓示」 とは理解されていません。
「聖書は、そこにキリストが横たわっている飼い葉桶である。」(ルター)
しかし、その啓示の器である正典としての聖書は、創世記から黙示録までという枠で限界づけられた 「閉じた書物」(申 13:1、黙 22:18-20 参照) であります。
カトリックとプロテスタントの間で、聖書正典に続編が含まれるか否かで立場が対立するのも、ある意味で聖書が確定した枠の中の 「閉じられた書物」 であるとの認識では、一致している証拠であると言ってよいでしょう。
聖書が 「閉じられた」 あるいは 「閉じた書物」 であるとは、言うまでもなく 「これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」(申 13:1 他) という意味です。
歴史的には四世紀頃から、信仰の基準を意味する 「正典 (Canon)」 の語が聖書に適用されるようになりました。
やがてプロテスタント教会が誕生すると、これを根拠に、「聖書が信仰の “ただ一つの” 基準である」 と強く主張するようになります。
しかし、この “ただ一つの基準” という理解は、歴史的には決して 「正典 (Canon)」 という語の用法における最初からの意味ではなかったのです。 【聖伝とは C】
聖書正典の結集史を少し学んだ人ならご存じのように、四世紀頃に教会による最終的な承認を得るまでのその過程は、実は結集よりも排除の方が大切であったのです。
なぜなら教会の活動が拡大するにつれて、常に新しい文書が生まれる傾向があり、いかにして教会を異端的な活動から守るかが、当時の最大の課題だったからです。
また、正典に含める旧約聖書の範囲についても、初代教会以来ずっと異論がなかったわけではありません。
四世紀末の教会会議で、正典の範囲に今日 「続編」 と呼ばれているものを含める立場が承認され、宗教改革が起こるまではこの立場が支配的でありました。
しかし、一世紀末にユダヤ教がこれを排除して彼らの正典としたことを重く考える人々が、有力な聖書学者たちの中には常にいたのです。
トリエント公会議が、宗教改革に対抗してカトリックの立場を明確にし、聖伝と聖書を信仰の基準であると表明したとき、カトリック教会は同時にその聖書正典の従来の範囲も再確認しました。
これらのことを見ていくと、プロテスタント教会が 「聖伝」 だけでなく、正典の中の 「続編」 をも拒否した動機が何であったかが明らかになって来ます。
それはカトリック教会の教理に対する批判から出て来た結論であって、決して教会が聖書を 「正典 (Canon)」 と呼んで来たことからの当然の帰結ではありません。
「続編には何の権威もなく、正典の一部ではない」 と言う主張と、「聖書が信仰の “ただ一つの” 基準であって、聖伝はそうではない」 という主張は、同じ根から生えた木なのです。 >>794
死ぬのが楽しみってわかる
おしっこもうんこもしなくていいし
知能も高くなって宝石も石ころ並みに落ちてて
若くて落ち着いて静かに暮らせて別世界素敵ってなるわ
元世界は過酷すぎる! 老クリさんの投稿については
>>766で投稿者の当スレ内での投稿に異論が出され
【イエス】無教会の人が集うスレ★2【キリスト】
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです
のうち「無教会の人」「教会に行かないもしくは行かなくなった人の集う」
に該当しないだろうことにつきスレの対象外であるとの
留保付きです >>791
この返答はいまだ理解できません
<私たちはイエスの直接の言葉のみに従うべきである>
これは
「ヒルテイの思想の神髄」
「ヒルテイの著書を熟読し(ないとなかなか理解できない)」
「神の臨在体験をしないとなかなか理解できない」
とまで言った言葉は何だったのですか?
370 :ヒルテイにならいて 2017/01/20(金)
(略)
「イエスの直接の言葉のみに従うべき」これは誤解を受けやすい言葉ですが、
ヒルテイの思想の神髄とも言えます。
ヒルテイの著書を熟読し、何より神の臨在体験をしないとなかなか理解できないと思います。
791 :ヒルテイにならいて 2017/01/24(火)
>750
>363<私たちはイエスの直接の言葉のみに従うべきである>
これは「キリスト教の信仰全体はキリストの直接の言葉を含んだ四福音書と
その最良の注釈書である使徒たちの手紙とを頼みとすれば十分である」(「幸福論」)
と引用すべきところを間違ってしまったものです。そのようにご理解ください。 >>804
@「キリスト教の信仰全体はキリストの直接の言葉を含んだ四福音書とその最良の
注釈書である使徒たちの手紙を頼みとすれば十分である。(ヒルテイの言葉)
A「キリストの直接の言葉のみに従うべきである」(私の書き込み)
私はヒルテイの言葉@を引用すべきところを自分の短文Aで済ませてしまったこと
が間違いと言っているのです。
しかし、@とAの意味するところは同じです。私は今>>745>>792で「まことの救い」パート1〜2でヒルテイ
の思想を具体例を挙げて紹介しています。質問して下さるのは良いのですが、部分的に見るのでなく、ヒルテ
イの著書を読破するなり、私のブログ「ヒルテイにならいてーすべての艱難辛苦にの中にある人々のために」
をみて頂くなりしてヒルテイの思想の全体を読んで頂ければ見方が変わってくるはずです。そういう観点から
の質問も頂ければと思います。 ヒルテイにならいてさんの言わんとする所はわかりますよ。
福音書の中に、イエスの本当の言葉なんだろうかと
疑わせる個所がいくつもあります。
その真偽を見分けるには、本当は聖霊体験が欠かせないのです。
聖霊体験をすれば、イエスの言葉とされる中に、
真理を語っている言葉がいくつもあることを知ります。
それを強調したかったのではないでしょうか。
もちろん改ざんや作り話も含まれているけど、
それでもイエスの言葉には数多くの真理が語られています。
それらの真偽を見分けるのは、最終的には個人の責任でしょうね。
何であれ、結局は自己責任です。
ヒルテイさんの話は参考意見と理解すればよいかと思います。 >>805
「キリスト教の信仰全体はキリストの直接の言葉を含んだ四福音書と
その最良の注釈書である使徒たちの手紙とを頼みとすれば十分である」(「幸福論」)
↓
<私たちはイエスの直接の言葉のみに従うべきである>
四福音書とその最良の注釈書である使徒たちの手紙は
新約聖書全体(使徒言行録とヨハネの黙示録を除く)
↓
イエスの直接の言葉の「直接」は
福音書や使徒言行録の中のイエスが「 」付きで語った部分でしょう >>805
「ヒルテイの著書を熟読し(ないとなかなか理解できない)」
「神の臨在体験をしないとなかなか理解できない」
熟読しなくても神の臨在体験をしなくても
正しく引用するだけで読む人は言いたいことは理解できたでしょう >>805
「幸福論」の後に発行された「眠られぬ夜のために」で
ヒルテイ自身が多く旧約聖書を引用や参照先にしている以上
「キリスト教の信仰全体はキリストの直接の言葉を含んだ四福音書と
その最良の注釈書である使徒たちの手紙とを頼みとすれば十分である」が
「ヒルテイの思想の神髄」とは言えません
「眠られぬ夜のために」にも
福音書→史書→詩篇・ヨブ記→預言書→使徒たちの手紙・使徒言行録・ヨハネの黙示録
の順に読むのがよいとあります
ヒルテイは新約聖書も旧約聖書も読者に読むように勧めています >>808
学者同士の議論じゃないのだから、
相手の言い方に拘ってもあんまり意味ないと思うよ。
うまく語れることもあれば、わかりにくくなることもある。
お互いさまなんだから、許し合うのがマナーだよね。
キリキリやってもいい結果は出てこない。
ヒルテイさんも訂正したんだから、それで良しとしよう。 >>810
ヒルテイの著書の熟読や神の臨在体験が
<私たちはイエスの直接の言葉のみに従うべきである>
の言葉を産み出すのに必要だったと理解したので
単なる引用ミスでしかも>>807のような違いがあり
拍子抜けしてしまいました
イエスの直接の言葉のみ
キリストの直接の言葉を含んだ四福音書とその最良の注釈書である使徒たちの手紙
全く違うでしょう >>811
イエスの言葉オンリー
と
四福音書とその最良の注釈書である使徒たちの手紙
とでは、
例えば何がどう違うの? .
実のところ「聖伝」について、カトリック教会は大変深刻な問題を教会内部水面下に抱え込んでしまっている。
>>782 で便宜上、狭義と広義に分けて補足説明を試みたのも、それら問題を念頭に置いての上でであった。
カトリックの至宝である秘跡の聖性と有効性を説く上で、聖伝についての正しい理解が本来不可欠なのであるものの、
エキュメニカル運動の中にあって、あるべき理解と方向性が曖昧にされている感は否めない。
秘跡の聖性の喪失及び形骸化は、これら背景の理解抜きには語り得ないものだろう。
この問題について、聖伝の解釈を軸に更に問題の本質に迫ることは可能ではあるが、このスレの住民には関心薄いことであろうし、
そこに問題があることを読み解ける者は、カトリック古参使徒であるナルミさんくらいだろうと思われる。
そして、日本の改革重視路線にある、今や大多数派となった司教司祭及び彼らに追従する信者からは攻撃されかねない。
加えて現在、私はキリスト教グノーシス派の立ち位置にあるので、この件について触れるのはここまでとしたい。(スレチでもあるし
カリックのミサ聖堂とは、聖書を読み説き祈りを共に分かち合う場ではない。
それらはカトリックでも推奨されることではあろうが、そこに留まるならばプロテスタント教会の礼拝堂と変わらないだろう。
しかし本来、カトリックはそうではない。
カトリックが自ら抱え込んでしまった自己矛盾的でさえある問題の根深さは、歴史の進捗と共に基礎を揺るがし土台を腐らせて行くだろう。
少なくとも前教皇ベネディクト16世本人は、把握していたのだろうが、現教皇がどうなのかは、私は何も知らない。
. >>812
イエスの直接の言葉「 」部分のみ読む
四福音書と使徒たちの手紙を読む
このスレでいうなら例えば異言について違う見解になりませんか
異言は使徒言行録と使徒パウロの手紙にありますが
異言の内容が2つで違うのはご存じのはずです
パウロは生前のイエスの言葉を聞いていませんし
手紙でもほとんど書きません ご存知のように、新約聖書の成立は、パウロの手紙が最初です。
次にマルコなどの福音書になり黙示録になります。
ヒルテイさんの、イエスの直接の言葉に従うという話は、
福音書を重視、パウロの手紙を軽く扱うことを意味しています。
この評価の仕方には、わたしも大賛成です。
パウロはイエスに直接会ってないし、12弟子でもなかったからです。
福音書でも、イエスの直接の言葉に従うという話にも大賛成です。
福音作家の主張や解釈は排除した方がいいでしょう。
そうするとヒルテイさんの話と同じになります。
わたしの場合は、イエスの言葉であっても真偽を判断すべきだと
思うので、さらに絞り込むことになります。
その基準は、聖霊体験や霊魂体験という個人的な体験になります。
たぶん、ヒルテイさんと同じ考え方かもしれないです。 >>815
その理解なら
ヒルテイにならいてさん イエスの直接の言葉にのみ従う 福音書オンリーのうちさらに「 」のみ
ヒルティ 新約聖書も旧約聖書も
で大きく違いますね >>815
>>815さんはグノーシス主義のようですね
http://hissi.org/read.php/psy/20170124/VkduQUVIalY.html
ヒルテイにならいてさんはキリスト教の枠内でしょうから
全く違うはずですよ
>>815さんはこちらの方でしょうか
719 :すろ 2017/01/22(日)
今のところ、
異言を悪霊と中傷するのは、
1.龍神の背中に乗ったことオカルト体験を聖霊体験と勘違いしているギプス君 キリスト教グノーシス派さんの投稿
ID:VGnAEHjVさん(ギプス君?)の投稿については
【イエス】無教会の人が集うスレ★2【キリスト】
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです
のうち「イエスキリストを信じる人」に該当しないだろうことにつき
当スレの対象外であるとの留保付きです
グノーシス
旧約の神は不完全な創造神でイエスの語る至高神とは別で
イエスは仮現としての存在でキリストではない
イエスをキリストと信じない >>809 >>816
わたしは偶然、だいたいヒルティが勧める順序で新約と旧約を
読みました。読みやすそうな順に選んだらそうなったみたいです。
三回ぐら読みましたが、今はヒルテイさんと同じような結論に
達しています。つまるところ、イエスの言葉だけで十分なのです。
そう思えるようになるまで、けっこうな努力をしました。
ヒルテイさんもそうなのかもしれませんよ。 >>819
それはキリスト教の枠外にいるグノーシス主義の人なら
そういう理解になるでしょう
あなたは「イエスキリストを信じる人」に該当しませんよね? >>813
力んだ文章書くね。
あなたはもっとわかりやすい文章を書くようにしないといけない。 赦しについて、このスレで質問した者です。
このスレは自己顕示欲の怪物とその信者が占拠する場所になったんですか?
前スレの最初のほうにルカ書等について質問させてもらった記憶がありますが
その頃が遠く感じられます。
質問に答えてくれた人はありがとう。
荒らす人については主が適宜とりなしてくださるでしょう。 >>821
俺は忙しいの。
力むも力まないも、その時の限られた時間内で書き込んでいるから読み返して推敲された文章ではない。 .
では、皆さん。穏やかな一時と良き夢、良き目覚めがありますように。 ( 神に感謝
https://www.youtube.com/watch?v=UuQQWzDAJHg
. >>814
使徒行伝は(ルカ+ルカ後編の使徒行伝)はパウロ派ですよ。
単純に言うと
1.使徒行伝の異言…諸外国語
2.パウロ…意味不明語
ですが、
罪の女トピック(ヨハネ8:1-11)の
8:6後半しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
れは異言でありませんが、ここで書いておられたものが異言の可能性はあります。 >>819
ギプスさん、それは違います。
ギプスさんの立場は「イエスの言葉」だけでよい
昼亭さんの立場は「イエスの言葉に収斂される」なので、
「イエスの言葉」と四福音書と手紙と旧約は矛盾しない。
つまり昼亭さんのお立場の「イエスの言葉」とは
「四福音書+手紙+旧約+黙示録」です。 >>813
聖伝の中の聖伝、宣伝の王が「聖書」です。
「聖書」があれば、究極のところ、カトリックも教皇もいりません。
「聖書」の中にすべてがあるからです すろ爺さんの隠蔽された真実
@ ハゲ
A 75歳(誕生日が来れば満76歳)
B 単身独り身 >>828
霊的真実
@前髪がナチュラルホワイトメッシュ 全体的にはなよなよな黒髪
A気分は20歳
B家族と同居の幸せ生活 ギプス君が40代で一番若いのでは?
ここはR40指定だから 悟り話と同じく
まことのキリスト教話は、信者から見たら
タワゴトなんだろうな >>827 >聖伝の王が「聖書」です。
このご意見には、私も賛成します。
>「聖書」の中にすべてがある ・ ・ ・
これは永らくプロテスタント陣営で主張されて来たことです。
たいへん純真な主張なのですが、“そうではない” と感じている神学者もいるのです。
表だっては主張しませんが、言葉の端にそれが出て来ることがあります。
私は神学校で、ある教授が 「君たちは今は分からないだろうが、伝統というものの重みに気づく時が来るかも知れない」 と言うのを聞いて、その頃は意味が分かりませんでしたが、 ・ ・ ・
その後長い年月を経て、やがて徐々に理解するようになりました。 【聖伝とは D】
聖書が 「閉じられた書物」 であるとは、それが使徒と預言者による啓示の証言であって、それ以降の誰によってもこれに新しい言葉 (啓示と称するもの) を追加することは許されないという意味に理解すべきです。
使徒たちに与えられた新約の啓示の証言が、現存する聖書に記述されている以外には、一切この世には存在しないなどと、古代の教会は考えませんでした。
教会が 「聖伝」 と呼んで来たものは、ですから、聖書を含むある特定の文書群に限定されない 「教会の伝統」 であります。
それはトリエント公会議の定義を借りれば、「記されない神の言葉」 と表現されるものです。
第二バチカン公会議の公文書である 「神の啓示に関する教義憲章」 は、聖伝を (聖書と共に) 「使徒たちに由来する」 と説明して、次のように述べています。
「教父たちのもろもろのことばは、この聖伝が生き生きと存在したことの証言であって、その富は信じ祈る教会の実践と生活とに広く行き渡っている。」
この 「教父」 という呼称で、プロテスタント側の人はたいてい、一世紀の終わりから二世紀初め頃に活躍した 「使徒後教父」 を、先ず連想すると思います。
教会史の教科書では、さらにそれに続く八世紀初め頃までが、教父たちの時代として書かれています。
その定義は、「正統的な信仰を保持した人々、しかも後世の教会がなおその基準的な教えをそこに求めることが出来る、そのような人々」 ということです。 【聖伝とは E】
ところがカトリック教会では、公会議に参加する司教たちも、みな 「教父」 と呼ばれるのです。
これは決して新しい考え方ではなくて、すでにニカイア公会議の時代から始まった呼称です。
恐らくプロテスタント界ではほとんど一般に知られていない、この 「教父」 という呼称の使われ方を知らないと、第二バチカン公会議の公文書における 「聖伝」 の説明を正しく理解出来ないと思います。
カトリック教会が 「聖伝」 と呼んでいるものは、教会の生きた神学活動であって、歴史の教会がめんめんとして続けて来た、そして現在も行っている 「使徒たちから伝えられたこと (キリストの福音)」 の解明の試みだからです。
しかもそれは、神学者個人個人の私的な活動ではなくて、常に 「教会の責任において試みられる」 神学活動であります。
ですからカトリック教会が言っているのは、この (教会の) 神学活動の中に、「今も聖伝が生き生きと存在している」 ということなのです。
このような教会の生き生きとした神学活動から生ずる果実を、教導職が自らが正しく理解して信徒を教え導くことの大切さは、もちろん言うまでもありません。
しかし、必ずしも現場の司祭や修道者の指導が十分でない場合にも、今日では意欲ある信徒は、自ら教会の公文書類を通して 「使徒たちから伝えられたこと (キリストの福音)」 を学ぶことが出来るのです。
いちばん危険なのは、一部の熱心な信者が、聖伝すなわち教会の神学活動には無知無関心なのに、聖書だけを自己流に読み、解釈して、不適切なキリスト教理解を主張し始めることです。 『聖伝とは』
聖伝とは、
聖書に書きのせられていないが、使徒の時代から、
聖霊の御助によって、誤りなく伝えられた神の御言葉である。
聖伝は、
1.信経または信仰宣言書、
公会議または信仰道徳に関する教皇の公式の教書
2.教父の著書、祈祷書、典礼書、殉教録、古代キリスト教の美術,碑銘等
に含まれている。
聖伝は聖書と同様に重んずべきものである。 >>822
>このスレは自己顕示欲の怪物とその信者が占拠する場所になったんですか?
>荒らす人については主が適宜とりなしてくださるでしょう。
このスレの縛りが
教会に今(ほとんども含む?)行っていない
イエスをキリストと信じる
の2つだけなので他の教派ごとのスレと違って信仰に違いがあるのでそれが原因の一つでしょうね
そこにキリスト教の枠外にあるグノーシスの人がスレに侵入してきたのが現状でしょう
カトリックで教会に行っている人も無教会を攻撃する意図の投稿のようです あわれみの
イエズス様と
くらべてみ
そうすれば
見えるだろうよ
あれがヘビ コテハンが跳梁跋扈して妄言口走ってる時点で狂ってる
最初の頃はよかったな
さようなら コテハンだから悪いとは思いません。
むしろその人のイメージがわかり、その人の発言が理解しやすくなります。
問題なのは、名無しだろうがコテハンだろうが、
周囲との対話や議論を拒否、自分だけの主張を繰り返すだけの人です。
このスレで言えば、老クリさんがその典型的な見本でしょう。
無教会派のスレで、牧師をやっていた頃のブログコピペを何度も繰り返し、
教会主義をしつこく主張しています。
この人は自分への批判をまったく受け付けないから、
この人の投稿はスレアラシであり、周囲への「精神的な暴力」だと思います。 さてもう一つの問題は、このスレのテンプレにある、
ここは「イエスキリストを信じる人の集うスレです」にあります。
なぜなら、イエスキリストを信じるなら、教会に行くべきなのです。
この矛盾に悪霊の老クリさんがつけ込んでいます。
イエスキリストの教会に何か疑問を感じたということは、
イエスキリストに疑問を感じ、聖書に疑問を感じたことなのです。
ですから、イエスキリストのどこがおかしいのか、というテーマに
挑戦しなければならないのです。
そういった視点からの主張や質問には積極的に答えるべきです。
そうすることによって教会主義の誤りも、無教会主義の確かな立場も
明らかになるからです。同じ仲間同士のぬるま湯の中にいたら、
霊的に退化することはあっても、霊的に進歩することはないでしょう。
進歩するには、ほどほどの精神的緊張が欠かせないのです。 >>841
荒らしはあなたです。
>>840
最初の頃から名無しでいた私に言わせると
最初にコテハンになったのが昼亭さんです
>>842
「イエスキリストを信じる人の集うスレです」
あなたはイエス・キリストを疑っているのだから、このスレにふさわしくないです。 イワシ頭の老クリさんは無視すればいいでしょう。
この人も相当な年のようで、頭がすっかり老化して固くなってます。
いまさら何を言ってもムダでしょう。
こうなりたくない見本ですね。
憐れですが、これがキリスト教徒のなれの果てです。 >>843 → >>828
ちなみに宗教板の最高齢者は御隠居で80代です。 老クリスチャンさんは
イエスのような方です。
嫌われているのがその証拠。
イエスも迫害されました。
つるぎを投げ込んだり、分裂をもたらす人は、
イエスの再来かもしれません。
「 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
嫌がらせはまだ止まないでしょう。
それは成就しなければいけないことがあるからです。
「 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」 >>843
>>「イエスキリストを信じる人の集うスレです」
---------------
>>379
>>意味不明な言葉ですが、とはいえ身体が熱くなったり、優しい気持ちに包まれたり
>>その時々で色んな身体の変化がありますので全体として聖霊が働いている
>>ことが実感できるものです。
>>379
>>異言で激しい祈り(泣き叫び、身体を激しく動かして)を
>>されておられる方を見かけたことがありますが、こども心に
>>この方は何か知らないが困難を持たれて
---------------
なにをどう信じているのやら。 とんでもないオカルト爺だよな。
. カトリック教徒が励まし合う場所
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542
>1のテンプレ
カトリック、プロテスタントが混じると揉めるもと
辛いことがあって励まし合いたいカトリックの方はこちらへどうぞ
上のスレにも元プロテスタント牧師現カトリック信者の老クリさんの連続投稿はある
上のスレにキリスト教の枠外にあるグノーシスはいない
カール・ヒルティや福音書のみがグノーシスの大好物なので
つけいるスキを与えてしまったのではないか
>>842はグノーシスの視点 すろ>10歳の頃、異言体験をしたし、天国の我が家を夢で見た。
別に夢で見たことは否定しません。
でも、異言体験は聖霊体験ではないことを理解してください。
欲望を根こそぎにしないと聖霊体験はできません。
社会を知らない、伸び盛りの子供には欲望の根こそぎは不可能です。
よって、異言体験は聖霊体験ではないのです。
それは神の怒りに触れたような、何かしらよくない体験なのです。
残念ですが、そういうことです。 >>842
ギプスさん、あなたがいくら異言を否定しても
聖書では、異言は聖霊の賜物であり、聖霊体験なのです。
龍神体験も根こそぎ体験も聖書にないので
聖霊体験ではありません。
あなた専用のスレをお立てになりそちらでどうぞ
>>850
雪は大丈夫ですか? 積雪何センチですか? >>853
このところ雪は降りませんねぇ。昨日も今日も清々しい青空でしたよ。
. >>853
>龍神体験も根こそぎ体験も聖書にないので
>聖霊体験ではありません。
龍神体験が聖霊体験だと言ったことはありません。
悪霊すろは、ウソをつくのをやめなさい。
そう言ったというなら、過去スレから証拠を出してください。 >>853
コテハン「キリスト教グノーシス派」さんは
キリスト教の枠外のグノーシスの思想ではないのですか キリスト教グノーシス派という立場はれっきとして存在する。
他方、非キリスト教グノーシス派というのもあり、
それはマニ教やマンダ教を言うらしい。 >>857
一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており、
キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
イエスをキリストと信じていないのでこのスレに居るのは場違い
ちゃんと宗教板の下のスレが居るべき場所がある
グノーシス街
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1458124370 イエスキリストを信じながら、
教会を否定するのは異端じゃないの??? >>859
キリスト教の異端かどうかは2世紀の争いのようにいわゆる正統派とグノーシス派でやれば良い
イエスをキリストと信じるかどうかがこのスレの対象内と対象外を分ける 「信じる」と「思い込む」の違いからはっきりさせたほうがよさそうだぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>846
まむしには
漁(すなど)られぬよう
めくらろん
めくらろん
お前の心
歪んだな
鑑(かんが)みろ
ノバク神父は
きらわれる?
イエス愛
ヘビはりつぽう
見まがうな
すろとろん
めくらシマヘビ
サタンつき >>855
0027 神も仏も名無しさん 2017/01/06 18:06:59
欲望を【根こそぎ】にすれば、聖霊体験も霊魂体験も龍神体験もできる。
でも、欲望を【根こそぎ】にすることが非常に困難なのだ。
わたしは10歳の頃、自分の何が悪いのか、なぜ生きるのかと疑問に思い、
大人になったら思いっきり探求するぞと心に誓った。← ここがすごいかも。
それから10年後、子供の頃の誓いをすっかり忘れて大学に入った。
でも無意識のうちに、子供の頃の誓いを実現すべく動いていた。
フロイトと唯物弁証法を自己流で学んだよ、アルバイトしながら。
そういった努力がついに報われたのが30歳だった。
初心を貫徹するのに20年かかった。
子供の頃から同じテーマで20年、悶々としていたわけですね。
その成果が聖霊(甘露)体験、霊魂体験、龍神体験です。
だから言っとくけど、わたしが神秘体験のコツを公開したとしても、
残念ですが簡単には体験できないと思います。 究極の悟り・・・それは神人合一 [無断転載禁止]©2ch.net
47 : 神も仏も名無しさん2016/08/02(火) 20:03:22.88 ID:Y/Km6iIa
わたしの発言は、わたしの体験に根ざしてます。
宗教書とはまったく無縁の唯物論者が、ある日突然、聖霊体験をし、
それから半年後に霊魂体験、その半年後に龍神体験をしたのです。
聖書も仏教書も語学もまったく無関係ですよ。
わたしに言わせれば、みなさんは何をやってるのかと。 290 : 神も仏も名無しさん2016/08/08(月) 12:52:34.43 ID:hqLr76y7
ミルナさんにも龍神様が興味を持ってるようです。
それは8・8のIDを見てわかりました。
イエスは聖者だったとは思いますが、キリストではありません。
真のキリストは龍神様ではないかと考えています。
キリスト教を捨て、2チャンで学んだ龍神様の知識を本にまとめ、
このチャンスをものにしてください。
出版にこぎつければ、今後の生活費ぐらいにはなるでしょう。 317 : 神も仏も名無しさん2016/08/08(月) 18:18:17.15 ID:hqLr76y7
>>313-314
キツネやタヌキは、地上生活があるので動物霊と言われます。
動物は個性が未熟なので、死後は「類魂」となって個性を喪失します。
ーー類魂に関してはスピリチュアル(マイヤーズ霊)参照
これに対して龍神様は、霊界生き通しの霊であり、真の天使なのです。
動物霊だと言う人は龍神様を知らないのです。 330 : 神も仏も名無しさん2016/08/08(月) 20:03:30.53 ID:hqLr76y7
これに対して自力は、悔い改めることで聖霊体験をします。
人は聖霊(神)との出会いによって救われます。
自力による「救い」は可能なのです。
しかし、この道は困難であり、聖霊体験は簡単にはできません。
聖霊体験と霊魂体験と龍神体験は、体験時期を別々にしています。
順序はこのままですが、春→秋→春という半年ぐらいの間隔がありました。
どれも貴重ですが、最初の聖霊体験ですでに救われています。
龍神体験の意味は、龍神様の背に乗ったままで坐禅が終了したことにある
ようです。つまり今も乗ったままのようなのです。どういうことかと言えば、
わたしが龍神様を拝まなくても、いざとなると龍神様が動き出す、
龍神様が仕えてくれるということです。わたしはそれに感謝して龍神に
様をつけています。釈迦を釈尊というのと同じです。感謝です。 ギプスさんの「龍神体験」は
「聖霊体験」→「霊魂体験」→「龍神体験」となっていますが
聖書にそんなことは書いてませんので
キリスト教とは無関係です。 昼亭君、
君といっしょになって異言を悪霊と中傷するギプス君は
こんな人なのです。
反省して聖霊派に謝罪しなさい >>872
朝昼晩と老栗さんの悪口を21投稿されたカトリックの方ですね。
なぜ老栗さんに嫉妬されているのですか? >>874
嫉妬なら
だれかマネする
なぜしない?
それはだな
エセ信仰の
タプダンス
お三方
ろんすろまむし
タプダンス あわれみの
イエス想起で
見えてくる
あれまむし
悪魔入ってる
とくと見よ
イエスから
開けてもらえよ
心眼を .
>>聖霊派の暇さん
スレを荒らしてはいけませんよ。 イイ歳喰らった老人のすることではないな。
. .
チンパンの体の毛を剃って両手でぶら下げて「エイリアンを捕まえた☆」とかの見出しで写真掲げたものを見た田舎少年が、
「スゲー 宇宙人だ!」「マジ すけぇ…」とか言って興奮してるレベルが「異言」なのだわな。
何信じるかは自由だけど、騙されたままで人生終わるてのも、哀れな話よ。
. >>853
>龍神体験も根こそぎ体験も聖書にないので
>聖霊体験ではありません。
過去レス >>865-870 を見ても、
龍神体験が聖霊体験だと言っていた証拠は出て来ませんでしたね。
ウソつき老人すろは、ウソを謝罪し、悔い改めてください。 『教会に行かない もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人の集うスレです』
これに該当するかどうか、自分でわかると思うが。 >>879
ギプスさんの場合、
竜神体験の初段階が聖霊体験と位置づけられているので一連です。
謝罪の必要があるのはギプスさんです 神秘体験への道
現状は苦 ・・・ 罪と悪。
原因は集 ・・・ 欲望から罪悪が生じる。
結果は滅 ・・・ 欲望の消滅。精神的な死。聖山の頂上。
方法は道 ・・・ 欲望を【根こそぎ】にする。
神秘体験は三つある
順序は ・・・ 聖霊(甘露)体験 → 霊魂体験 → 龍神体験 神秘体験の意味
聖霊体験ができれば、残りの二つも簡単にできる。
ハードルは精神的な死だが、これは聖霊体験で経験済みだから。
古い自我の崩壊 → 聖霊体験 ・・・ 神との出会い。聖書の領域。
滅尽定 → 霊魂体験 ・・・ 自分との出会い。仏教の領域(坐禅)。
アガペー → 龍神体験 ・・・ 天使との出会い。聖書や神道の領域。
イエスを含め、聖書には霊魂体験が抜け落ちている。
霊魂体験をするには坐禅の技術が欠かせない。
自分を知れば、自分が神だなどとは決して思わないだろう。
地上に生まれた以上、イエスであっても決して神にはなれない。
イエスもわれわれと同じ人間でしかない。 よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいのなら
死ぬ気で働け >>883
ギプスさん、誰も竜神体験なんて求めていません。
ここはイエス・キリストを信ずる者たちの集いです。
龍神をキリストと信仰されておられるギプスさんの出番はないのです。
昼亭さんも竜神体験なんてしたいと考えられてないと思います。
諦めなさい パウロが作った贖罪説
イエスが人類の罪を贖ったという話はパウロの大ウソだ。
人類はイエスの前も後も、欲望まみれで生きている。
この欲望から罪悪が生まれて来る。人類は罪悪から解放されていない。
欲望を手放したら死んでしまうと思うから、欲望が手放せない。
イエスの死は、人類の欲望、罪悪にはまったく関係ない。
自分がどう生きるかは自分で決め、自分が責任を負わなければならない。
イエスは人類の教師ではあるが、神でもキリストでもない。 【聖伝とは F】
以上の説明から、「神の啓示に関する教義憲章」 が 「使徒たちに由来するこの聖伝は、聖霊の助けによって教会の中で進展する」(8) と述べている意味を理解していただけたでしょうか。
この 「聖霊の助けによって」 という表現によって、カトリック教会が (聖書やキリスト教についての)「広義の (世俗の) 学問」 と、「教会による生きた神学活動」 とを区別していることに、注目していただきたいと思います。
神学も学問でありますから、広義の世俗の学問や研究からも、いつも有益な助けを得て来ました。
ですから教会は、信仰を持っていない学者や研究者を拒否したり排斥することはありません。
ただ、単なる広義の学問と、その中に聖伝が生き生きと (現在も !) 存在している教会の神学活動とは、明確に区別されなければならないのです。
「(聖書と聖伝を) 正しく解釈する任務は、ただ教会の生きた教導職のみにゆだねられており、その権威はイエス・キリストの名において行使される」(10) とは、そういう意味です。
「もちろん、この教導職は神のことばの上にあるのではなく、これに奉仕するものであって、伝承されたものだけを教えるのである。」(10)
つまり、たとえ司祭であっても、聖伝とは無関係に、自己の考えに基づいてカテケージス (信徒教育) を行ったり、ミサで説教したりしてはなりません。
ですから、たとえ司祭が、あるいは他の高位聖職者が語る言葉であっても、信徒たちは各々公会議の下記の教えを覚えて、その当否を自ら判断するべきなのです。
「われわれの主イエス・キリストの栄えある再臨までは、もはやいかなる新しい公的啓示も期待すべきではない。」(4)
実際、多くのカトリック信徒たちが、“神父さまのおっしゃることはすべて信じる” という建前を美徳としながら、陰で “聖職者不信” を口にすることが多いのを見るのは、本当に悲しいことです。
カトリック信徒が、神父さまを尊敬し信頼することと、自らの “主の御前での判断責任” を放棄することとは、別々のことであって、決して弁解の理由にはなり得ません。 【聖伝とは G】
最後に、「聖書」 と 「聖伝」 の関係について、同じく 「神の啓示に関する教義憲章」 から引用します。
「(啓示の完成者である主イエス・キリストから使徒たちに授けられ、使徒たちが伝えた) この聖伝と旧新約両聖書とは、
地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままの神を見るときまで (Iヨハ 3:2 参照)、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。」(7)
「この聖伝によってこそ聖書正典は完全な形で教会に知られているのであり、また、聖書自体もこの聖伝においてこそより深く理解され、たえず効力あるものとされるのである。」(8)
「それゆえ、聖伝と聖書とは互いに蜜に結びつき、通じ合っている。 というのは、神という同じ源から流れ出ている両者は、ある程度一体であって、同一の目的を目指しているからである。」(9)
「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる遺産を形成し、教会に託されたものである。」(10)
特にカトリック教会においては、ローマ教皇やローマ教皇庁、日本の司教団等が発表する公文書は、私たちがそこから 「教会の公式な教え」 を学ぶ文書であります。
決して、私たちがそれを互いに研究して、「こういう意味に解釈することにしよう」 などと討議したり議論する資料ではありません。
カトリック教会の公文書は、皆がそれをいろいろに解釈するという、解釈の自由のようなものを想定していないのです。
それは信徒だけではなくて、司祭にも等しく適用される原則です。
「○○神父さまが、こう説明されたから」、「△△神父さまが、ああ説明なさったから」 などということで、いろいろに解釈出来ると思うのは、間違っているのです。
もちろん誰にとっても、(神学を含め) 学問研究の自由は、いささかも否定されているわけではません。
私自身も、ささやかながら、神学の研究を長く続けているキリスト信者の一人です。
ただ、たとえ司祭であっても、個人が 「カトリック教会の公式の教え」 の 「新解釈や珍解釈を主張する」 ようなことは、禁止されているということです。 神霊≧聖霊
神霊体験があれば、イエスキリストを理解(信じる)できる。
キリスト教が信頼足りうるかどうかは全く別だ。
わが宗教のキリスト教でなければ聖霊体験はできないと
考える者は、その驕りから犯罪が始まっているのだ。
それを洗脳という。 龍神体験をしたのは偶然です。
そしてこれこそは奥義中の奥義なのです。
聖霊体験は強烈でしたが、坐禅中の霊魂体験はそれほどでもなかった。
坐禅を開始してわずかな期間だったので、もっとすごい体験はないかと
しつこく坐禅をやり続けたのです。失業中でヒマだったし。
そして龍神体験をしたのですが、その時はそれほどの体験ではないと
思いました。でもその後生きて行く中で、不思議なことがたびたび起こり、
龍神様に助けられていることを次第に実感するようになったのです。
聖霊体験や霊魂体験すると、この世間で生きるのが困難になるのです。
自分のことしか考えない世間の中で、周囲を優先したら当然
追い詰められます。龍神様の力がないと死ぬ以外に道がなくなります。 キリスト教であっても、
もし、まことの聖霊体験をしたならば、キリスト教と無関係に
神霊体験はありうると、一宗教であるキリスト教を
超える。
神霊≧聖霊
どこにいようが、まことの神霊体験=聖霊体験ならば
パウロも理解できる。 同じ。
が、あえて言わなくてはならいのは、聖書用語に取り押さえられる、
捕らわれが観える為。 >>822
>このスレは自己顕示欲の怪物とその信者が占拠する場所になったんですか?
>荒らす人については主が適宜とりなしてくださるでしょう。
>>880
>『教会に行かない もしくは行かなくなったが
>イエスキリストを信じる人の集うスレです』
>これに該当するかどうか、自分でわかると思うが。
>>887=ギプスさん
>イエスは人類の教師ではあるが、神でもキリストでもない。
老クリスチャンさんやギプスさんはこのスレの非該当者
老クリスチャンさんの投稿はカトリックスレに対応を求めればいいのかな?
ギプスさんは下記のスレが居場所でしょ
【ギプスさん】みるなとギプスの龍神スレ【専用】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1484525219 >>895
あなたは神霊体験をしましたか。
したとしたら、それはどんな体験でしたか。 すろさんも他のみなさんも、わたしが語る
聖霊体験や霊魂体験や龍神体験の話は正確に引用してください。
命にかかわることでもあり、神秘体験ができるかどうかにも関係します。
その責任はウソを書いた人にあると言っておきます。 その体験をする前は絶望しかありませんが、
聖霊体験は目を開けたままでやります。ですから安全です。
ところが、霊魂体験と龍神体験は坐禅中にやります。
非想非非想処の先にある魔境という段階で、これしかないという
状況設定に放り込まれ、そこで心の深奧を試されます。
これしかないという答えを出せないと失格です。
ですから、神秘体験の順番がきわめて重要になるのです。
聖霊体験を経ないで滅尽定をやると死ぬ可能性があります。
霊魂体験を経ないで龍神の魔境に入ったら悪い結果になります。
龍神が鷲掴みにしている丸い球は、龍神の怒りに触れた
人間の霊魂だろうと思います。たぶん腑抜けにされるのでしょう。
神秘体験をするには、動かすことのできない順序があるのです。 >>898
ノーコメント。
経験や体験は神秘に限らずどのようなものでも、基本は同じだ。
自分の霊性、人格向上 所謂覚醒につなげていけるかは
各人が丹を日ごとにかかっている。
具体の愛の実行のなかに人格向上が溶け込んでおらず、、
体験、経験の話が、今ある自分と分裂しており
別個に存在しても何の意味があろうか。
何々大学を出ました。有名企業に就職しました。
は、何も意味のない肩書だけだ。
そのレベルで体験、経験を語っても意味はない。 宇佐神宮とイエスキリスト (不思議体験シリーズ)
宇佐神宮に仕掛けられた景教、三柱鳥居、「三と八」の奥義(福音)
↓
http://www.vector.co.jp/soft/cmt/winnt/amuse/se511461.html 昼亭君、わかったかね。
異言を悪霊と中傷するギプス君は、龍神信仰者だ。
これに懲りたら、反省しなさい また誰かの策略で書き込みストップか
259 :ヒルテイにならいて 2017/01/16(月) 19:50:40.68
>>244 >>245
>それにあなたのレス以後私の書き込みが一時ストップされたが。
>私のレスを快く思わない人がいるのは間違いない。
>以前にもそういうことがありました。
>今後、また私の書き込みが途絶えたら、誰かの策略なので皆さんそう思って下さい。
>私が沈黙したり、屈服することはありません。 キリスト教の異言を悪霊の仕業と中傷した三人の正体
ギプス君…悪霊の龍神体験者
ズラ君…悪霊のグノーシス主義者
昼亭君…元カルト教会出身者 >>903
>>906
清原が「覚醒剤をやってはいけない」と言った。
確かに「覚醒剤をやってはいけない」。
清原が覚醒剤中毒者だからといって、その発言が間違いとはならない。
その手の感情論はやめとけ。 >>907
昼亭君が「医療用大麻をやってはいけない」と言った
すろが「医療用は合法ですよ」と指摘した
すると昼亭君は「うちの病院では違法な大麻を使用していた」と答えた。
昼亭君の病院が違法大麻を使っていたからと言って
普通の病院が違法大麻を使っているわけではないという話だ 旅に出ててちょっとご無沙汰してました。携帯用のパソコンでないのでしょうがないです。ストップされたわけでは
ないのでご心配なく。
>>905さんはあいかわらず情けないことばかり言ってますね。キリスト教徒の晩年は自らの信仰を完成する時期
であると言ってます。あなたは75才なんでしょう?最後の審判にどう臨むのですか
あなたのことは知る人>>526さん等があなたのことを告白してくれていますね。私も全くその通りだと思います。
また>586さんはあなたのレスはスルーすべきだともアドバイスしてくれています。同意ですね。
また、いくらあなたが私を貶めて悪霊レベルの中傷、悪口合戦に巻き込もうとしてもだめです。あきらめなさい。
あなたは他のスレをつぶしてきたそうですが、私がいる限りそれは無理です。 >>909
まだ反省してなかったのですか。
72歳にもなって恥ずかしくないのですか? >>526さん、龍神体験を自慢されているギプスさんの発言ですよ
あなたは騙されているだけです。 >>909加筆と訂正
ヒルテイは「キリスト教徒の晩年は自らの信仰を完成する時期である」と言っています。
あなたのことを告白→あなたのことを告発 >>912
昼亭君は晩節を汚して、ヒルティを泣かせています。
残念なことです >>745[真の救いとは?]パート1
この若者の生き様そのものが奇跡です。だから彼の言葉「死ぬのが楽しみ」も奇跡の言葉なのです。
>>792[真の救いとは?]パート2
>>793マゾ、マゾヒズムとは他者から身体的、精神的な苦痛・虐待を受けることによって
満足を得る性的倒錯のことです。
これに対してヒルテイの言う苦悩・艱難辛苦とは神による試練のことです。ヒルテイは
「苦悩は神に選ばれた証拠である」と言っています。とんでもない混同をしないようにして
下さい。
ビクトル・フランクルを批判するなら、その著書を一度読んでからにしなさい。 >>914
「苦悩は神に選ばれた証拠である」つて霊的倒錯でしょ。 カール・ヒルティはスイスの改革派でカルヴァン主義の信仰で
ドルト信仰基準というものを信仰の基準にしていますが
ヒルテイにならいてさんも
カール・ヒルティにならって同じ信仰の基準なのですか
246 :神も仏も名無しさん 2017/01/14(土)
ヒルティか
同じヘブル人への手紙のすばらしい第11章には、信仰の先駆者や貫徹者のことが挙げられているが、しかし、そのような人びとはいつわずかしかいなかった。
いくらか弱くなってきたわれわれ改革主義の信仰を更新するためには、このような精神的強者(この世は彼らに値いするものではないが)を、いまや大勢持たなければなるまい。
必要なのは、長老会や委員会やまたは宗務会などではない。これらのものは、「堅い食物」には不向きである。
(「眠られぬ夜のために第二部」)
ヒルティの言わんとしてるのは政府の行政組織や会社の内部組織の改革のように教会の内部組織の改革をして長老会や委員会やまたは宗務会をなくしてすっきりさせようということだろ 247 :神も仏も名無しさん 2017/01/14(土)
>>246
ここにある「われわれ改革主義の信仰」というのがスイスの改革派のことでカルヴァン派と合流してカルヴァン主義を採用しているグループ
そこで採用しているドルト信仰基準
ドルト信仰基準
1.全的堕落- 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
2.無条件的選び- 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
3.制限的・限定的贖罪- キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
4.不可抵抗的恩恵- 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
5.聖徒の堅忍- いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
ヒルティはこれを信仰基準とした上で著書を書いてることは忘れたらだめだろ >>914
カール・ヒルティはスイスの改革派でカルヴァン主義の信仰で
ドルト信仰基準というものを信仰の基準にしていますが
ヒルテイにならいてさんも
カール・ヒルティにならって同じ信仰基準と考えていいでしょうか? よお
統合失調感情障害
自己満足のネット検索だけで
救われたか? まこと君
統合失調感情障害から救われたいのなら
死ぬ気で働け >>915
「苦悩は神に選ばれた証である」というヒルテイの言葉は霊的倒錯?それもとんでもない誤解
ですね。次のヒルテイの言葉の意味と合わせてよく考えてみてください。
「苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみ我々は神の傍近くにいることに慣れ、常に神の
傍近くにいることを感じることができる、というところにある。」(「幸福論第二部」)
「つらい試練や、意気消沈はいつも新しく、より大きな浄福と神の力が加えられるための入り
口である。」(「眠られぬ夜のために」第一部) >>915
「苦悩は神に選ばれた証である」というヒルテイの言葉は霊的倒錯?それもとんでもない誤解
ですね。次のヒルテイの言葉の意味と合わせてよく考えてみてください。
「苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみ我々は神の傍近くにいることに慣れ、常に神の
傍近くにいることを感じることができる、というところにある。」(「幸福論第二部」)
「つらい試練や、意気消沈はいつも新しく、より大きな浄福と神の力が加えられるための入り
口である。」(「眠られぬ夜のために」第一部) ダブってしまいました。
>>916>>917>>918さん
ヒルテイが「カルヴァン派的な傾向の色彩を少しばかり持った、断固たるプロテスタント派」
(「ヒルテイ伝」より)と自称していたようですが、ドルト信仰基準なるものを信仰の基準に
しているとは私が読んだ限りではヒルテイの著書には見かけないと思いますが。
私も浅学ですので、その出典を教えて下さい。
ただ、ヒルテイの信仰の神髄は「艱難辛苦を通して聖霊の宿りを受けること」につきます。
ヒルテイは著書んの中で教義や神学を否定はしてませんが、ドルト信仰基準には殆ど触れ
てないところを見ると、形式上、基準にしていたとしても存在価値は認めていなかったの
でしょう。
なぜなら真の信仰には教義、神学は殆ど用をなさないからです。これは私の信仰体験から
も言えることです。 ドルト信仰基準についてはネット検索で概略理解しました。いずれにしろ、ヒルテイは重きを
なしていなかったのではないでしょうか? もう少し緩やかな無教会主義のスレがほしくなりました。
どなたか、そんなスレを建ててくれませんか。 イエスキリストを信じるなら教会に行けばいいのです。
なぜ教会に行かないのですか。その方がはるかに疑問です。
その理由をお答えください。 >>927 は >>918 さんへのレスです。
スルーしたり、ごまかしたりせず、明確にお答えください。 >>924
>ドルト信仰基準なるものを信仰の基準にしている
>私が読んだ限りではヒルテイの著書には見かけない
ヒルテイの著書には見かけないではなしに
スレ内に引用箇所を>で示していますよ
それはキリスト教の教会員にあなたはイエスキリストを信じますか
と聞いているのと同じ質問
キリスト教の教会員→イエスキリストを信じる >>916
「改革主義の信仰を更新するためには」と昼亭は言っているのですから
ドルト信仰告白ではないでしょ。
「御言葉によって、絶えず改革される」という改革派のコンセプトのことでしょ? >>928
>もう少し緩やかな無教会主義のスレがほしくなりました。
>イエスキリストを信じるなら教会に行けばいいのです。
矛盾ですね >>924
>いくらか弱くなってきたわれわれ改革主義の信仰を更新するためには、
>このような精神的強者(この世は彼らに値いするものではないが)を、いまや大勢持たなければなるまい。
>必要なのは、長老会や委員会やまたは宗務会などではない。これらのものは、「堅い食物」には不向きである。
>ここにある「われわれ改革主義の信仰」というのがスイスの改革派のことで
>カルヴァン派と合流してカルヴァン主義を採用しているグループ
>そこで採用しているドルト信仰基準
改革派の教会→ドルト信仰基準
カール・ヒルティは改革派の教会員→ドルト信仰基準を信じる
われわれ改革主義の信仰を更新
必要なのは、長老会や委員会やまたは宗務会などではない。これらのものは、「堅い食物」には不向き
→改革派の教会の教義に不満があるのでなくむしろそれに誇りがあり組織が階層的な事に不満なだけ
改めてヒルテイにならいてさんも
カール・ヒルティにならって同じ信仰基準と考えていいでしょうか? >>932
>矛盾ですね
あなたはなぜこのスレにいるのですか。 >>934
教会に行かない
もしくは行かなくなったが
イエスキリストを信じる人だから
矛盾しているあなたはなぜこのスレにいるのですか。
>あなたはギプススレに行きなさい。 >>933
おっしゃっていることがよくわかりませんな。ヒルテイは改革派の教会員であっ
たかもしれませんが、ドルト信仰基準を信じていたとは言えないのでは?ヒルテイ
はその著書でそのようなことは全く書いていません。形式的に入っていただけでは
ありませんか?
したがって私もそのような信仰基準であるわけありません。ヒルテイの信仰はそ
のようなものではありません。 >>936
それは違いますよ
著書で「われわれ改革主義の信仰を更新するためには」と
仰せですから >>937
ドルト信仰基準を信じるとどの著書の何ページに書いてありますか? >>935
>イエスキリストを信じる人だから
それでは答えになってません。
宗教板には、カトリックのスレも、プロテスタントのスレもあるのだから、
それに参加すれば済むではないですか。あなたの話は虫が良すぎです。
無教会のスレを名乗るのは看板に偽りありです。
それに心の狭い残念な人ですね。
わたしがこのスレに書き込んでいるのはヒルテイさんがいるからです。
ブログも読ませていただき感謝してます。 >>936
困りましたね
スイスの改革派→カルヴァン主義→ドルト信仰基準
これでご理解いただけるでしょうか
ドルト信仰基準に表現されるカルヴァンの予定説を採らないなら
それは改革派ではありません
>いくらか弱くなってきたわれわれ改革主義の信仰を更新するために
「われわれ改革主義の信仰」がカール・ヒルティの信仰を告白しています >>939
>私がこのスレに書き込んでいるのはヒルテイさんがいるからです。
ブログも読ませていただき感謝しています<
有難うございます。わたしもこのスレに関わらせていただき感謝です。「どのように敵対してくる人
でも神の器である」とのヒルテイの言葉。良いですね。 ヨハ13:13 「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。
そのように呼ぶのは正しい。わたしはそうである。」
ヨハ20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 >>936
これならご理解いただけるでしょうか
→いくらか弱くなってきたわれわれカルヴァン派の信仰を更新するために
カール・ヒルティは教会のカルヴァン派の信仰を強くしたいと言っているのです わたしがこのスレに書き込んでいるのはヒルテイにならいてさんのファンだからです。
ブログは読んでいませんが感謝しています。 >>941
ちっとも困りませんよ。
まことの救いは教義や神学を超えたものです。ヒルテイが「聖書は読むべきものでなく、
食らうべきものである」と言ったのは、「聖書は知的にでなく霊的に読むべきものである」
という意味です。
禅宗で言う教外別伝不立文字という言葉は悟りは言葉でなく心から心へと伝えるとい
う意味です。言葉だけにとらわれていると必ず矛盾を生じて煩悶葛藤が生じてきます。
>>745>>792に書いた「真の救いとは?」の二人の例はそういう問題を克服して内的進化を果
たした人達です。以上、よく考えてみてください。 >>947
本当にヒルティにならうのであれば
カール・ヒルティのように1階にカルヴァン派の信仰を建てた上に
2階にカール・ヒルティの自論を建てるべきではないですか >>945それならわかります。しかし、ヒルテイが教義、形式に偏向
した教会に疑問を抱いていたのも事実です。
>>946
ありがたいお言葉有難うございます。
私はもう寝ます。皆さん、また明日。 このスレには、ヒルテイさんとわたしという二人の
聖霊体験者がいるのです。二人も聖霊体験者が揃ったのは驚くべき
ことです。2ちゃんを10年以上やってますが初めてです。
それらしい若い人とも最近、少しだけ話しました。
新しい時代がやって来た感じがします。すごいことですね。 >>949
改善すべきなのは教会の組織をピラミッド型からフラット型にすべきという組織論です
「堅い食物」というのは教会員がカルヴァン派の信仰のもと
基本的な教えについてはすでにマスターしているということで
カルヴァン派の教義については疑問を抱いていないということでしょう
あくまでカール・ヒルティは教会のカルヴァン派の信仰をより強くしたいと考えています >>949
こちらこそ、どうもありがとうございます。<(_ _*)> このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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