YHWH☆十字架☆ヤハウェ☆イエス・キリスト復活66 [無断転載禁止]©2ch.net
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「わたしは愚か者となったのです。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのです。
実際は、あなたがたから推薦されるべきでした。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、
あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからです。 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と
力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきました。
いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。
ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではありませんか。
この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。」 「さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしています。しかし、負担はかけないつもりです。
わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。
いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきです。
そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。
わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのでしょうか。
わたしは、あなたがたに重荷を負わせなかったとしても、悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、
人は言います。 わたしは、あなたがたにつかわした人たちのうちのだれかをとおして、あなたがたから
むさぼり取ったでしょうか。 わたしは、テトスに勧めてそちらに行かせ、また、かの兄弟を同行させた。テトスは、
あなたがたからむさぼり取ったことがあるでしょうか。わたしたちは、みな同じ心で歩いたではありませんか。
同じ足並みで歩いたではないですか。あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対して弁明をしているのだと、
今までずっと思ってきたでしょう。しかし、わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのです。
愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのです。わたしは、こんな心配をしています。
わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、
あなたがたの願っているような者でないことになりはしませんか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、
そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはしないでしょうか。 わたしが再びそちらに行った場合、
わたしの神が、あなたがたの前でわたしに恥をかかせ、その上、多くの人が前に罪を犯していながら、
その汚れと不品行と好色とを悔い改めていないので、わたしを悲しませることになりはしないでしょうか。」 「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行こうとしています。すべての事がらは、ふたりか三人の証人の
証言によって確定するのです。 わたしは、前に罪を犯した者たちやその他のすべての人々に、二度目に
滞在していたとき警告しておいたのですが、離れている今またあらかじめ言っておきます。今度行った時には、
決して容赦はしません。 なぜなら、あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を
求めているからです。キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強いのです。
すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。このように、
わたしたちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によって、
キリストと共に生きるのです。あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、
自分を吟味しなさい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのですか
もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられます。しかしわたしは、自分たちが
見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたいのです。」 「わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈ります。
それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが
見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためです。
わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力があります。 わたしたちは、
自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜びます。わたしたちが特に祈るのは、あなたがたが
完全に良くなってくれることです。 こういうわけで、離れていて以上のようなことを書いたのは、
わたしがあなたがたの所に行ったとき、倒すためではなく高めるためにヤハウェが授けて下さった権威を用いて、
きびしい処置をする必要がないようにしたいためです。
最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。完全な者となりなさい。互いに励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるでしょう。
きよい接吻をもって互いにあいさつをかわしなさい。聖徒たち一同が、あなたがたによろしくとのことです。
ヤハウェなるイエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.dinnerさん、みなさん、こんばんは。
>>603
Christian.dinnerさん、よろしくおねがいします。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
>>7
サラさん、今週はありがとうございました。来週もプチ旅行のガイドよろしくお願いいたします。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ イエス・キリストの啓示 パウロが記したガラテヤの聖徒への手紙
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた
父なる神とによって立てられた使徒パウロ、ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。
わたしたちの父なる神とヤハウェなるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、
ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのです。栄光が世々限りなく神にあるように、アーメン。
あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、
違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならないのです。それは福音というべきものではなく、
ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことです。
しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に
反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわれるべきです。 わたしたちが前に言っておいたように、
今わたしは重ねて言います。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、
その人はのろわれるべきです。 」 「今わたしは、人に喜ばれようとしているのでしょうか、それとも、神に喜ばれようとしているのでしょうか。あるいは、
人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、
わたしはキリストの僕ではありません。
兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておきます。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。
わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのです。」 「ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いています。すなわち、
わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていました。 そして、同国人の中でわたしと
同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心でした。
ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、
異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、
血肉に相談もせず、 また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行きました。
それから再びダマスコに帰ったのです。
その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在しました。
しかし、ヤハウェの兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかったのです。 ここに書いていることは、
神のみまえで言いますが、決して偽りではありません。 その後、わたしはシリヤとキリキヤとの地方に行きました。
しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていなかったのです。
ただ彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」
と聞き、わたしのことで、神をほめたたえました。
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上りました。
そこに上ったのは、啓示によってです。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、
「重だった人たち」には個人的に示しました。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、
むだにならないためです。しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、
割礼をしいられなかったのです。 それは、忍び込んできた偽兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、
キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためでした。
わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかったのです。」 「そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには
全く問題ではありませんでした。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、
わたしに何も加えることをしなかったのです。それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音を
ゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、
(というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、
異邦人につかわして下さったからです)、 かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられている
ヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べました。そこで、わたしたちは
異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのです。 ただ一つ、わたしたちが貧しい人々を
かえりみるようにとのことでしたが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのです。
ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじりました。
というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、
割礼の者たちを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからです。
そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれていました。」 「彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言いました、
「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、
どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのか」。
わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではありませんが、 人の義とされるのは
律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのです。それは、律法の行いによるのではなく、
キリストを信じる信仰によって義とされるためです。
なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからです。」 「しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、
キリストは罪に仕える者なのでしょうか。断じてそうではありません。 もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、
再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになります。
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死にました。わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。
生きているのは、もはや、わたしではありません。キリストが、わたしのうちに生きておられるのです。
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた
神の御子を信じる信仰によって、生きています。 わたしは、神の恵みを無にはしません。
もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになります。
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に
描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのですか。わたしは、ただこの一つの事を、
あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが聖霊を受けたのは、律法を行ったからですか、
それとも、聞いて信じたからですか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのですか。聖霊で始めたのに、
今になって肉で仕上げるというのですか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのですか。
まさか、むだではないでしょう。すると、あなたがたに聖霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、
律法を行ったからですか、それとも、聞いて信じたからですか。
このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のです。 「だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきです。 聖書は、神が異邦人を信仰によって
義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」
との良い知らせを、予告したのです。 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、
祝福を受けます。 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にあります。
「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからです。
そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかです。
なぜなら、「義人は信仰により生きる」からです。 律法は信仰に基いているものではありません。
かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のです。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、
わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さいました。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」
と書いてあります。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、
約束された聖霊を、わたしたちが信仰によって受けるためです。」 「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言いましょう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、
これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできません。 さて、約束は、アブラハムと
彼の子孫とに対してなされたのです。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして
「あなたの子孫とに」と言っています。これは、キリストのことです。 わたしの言う意味は、こうです。
神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、
その約束がむなしくなるようなことはありません。 もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、
もはや約束に基いたものではありません。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みを
アブラハムに賜わったのです。それでは、律法とはなんでしょうか。それは違反を促すため、
あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、
かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎないのです。 仲介者なるものは、
一方だけに属する者ではありません。しかし、神はおひとりです。 では、律法は神の約束と相いれないものでしょうか。
断じてそうではありません。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに
律法によって実現されたでしょう。 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって
与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのです」 「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、
やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていました。
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのです。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいません。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのです。
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。 もしキリストのものであるなら、
あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」 わっしょいわっしょい
ヤハウェヤハウェ
上やわー上やわー
ヤベーわーヤベーわー
わべやわべやわべや おーれー
おーれー
ヤハウェ サンバー
おーれー
おーれー
ヤハウェ サンバー 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「わたしの言う意味は、こうです。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、
僕となんの差別もなく、 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれていました。
それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者でした。
しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになったのです。
それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためでした。
このように、あなたがたは子であるのですから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」
と呼ぶ御子の霊を送って下さったのです。 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子です。
子である以上、また神による相続人なのです。」 「神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていました。
しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、
もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのですか。
あなたがたは、日や月や季節や年などを守っています。 わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、
あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならないのです。
兄弟たちよ。お願いします。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのですから。
あなたがたは、一度もわたしに対して不都合なことをしたことはありません。 あなたがたも知っているとおり、
最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためでした。 そして、わたしの肉体には
あなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、
神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれました。 その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのですか。
はっきり言いますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったです。
それなのに、真理を語ったために、わたしはあなたがたの敵になったのですか。 彼らがあなたがたに対して熱心なのは、
善意からではありません。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから
引き離そうとしているのです。 わたしがあなたがたの所にいる時だけでなく、いつも、良いことについて
熱心に慕われるのは、良いことです。 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、
わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをします。 できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、
語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれています。」 「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを
聞かないのですか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、
ひとりは自由の女から生れました。 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって
生れたのでした。 さて、この物語は比喩としてみられます。すなわち、この女たちは二つの契約をさします。
そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産みます。ハガルがそれです。 ハガルといえば、
アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当ります。なぜなら、それは子たちと共に、
奴隷となっているからです。 しかし、天のエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさします。
すなわち、こう書いてあります、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。
ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。
兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子です。 しかし、その当時、肉によって生れた者が、
霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様です。 しかし、聖書はなんと言っていますか。
「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とあります。
だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子供なのです。」 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのです。だから、堅く立って、
二度と奴隷のくびきにつながれてはいけません。見よ、このパウロがあなたがたに言います。
もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになるでしょう。
割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておきます。そういう人たちは、
律法の全部を行う義務があります。 律法によって義とされようとするあなたがたは、
キリストから離れてしまっています。恵みから落ちているのです。わたしたちは聖霊の助けにより、
信仰によって義とされる望みを強くいだいています。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、
問題ではありません。尊いのは、愛によって働く信仰だけです。
あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのですか。
そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではありません。 少しのパン種でも、
粉のかたまり全体をふくらませるのです。 あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、
ヤハウェにあって信頼しています。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、
さばきを受けるでしょう。 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、
いまなお迫害されるはずがありましょうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているでしょう。
あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがいい。
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためです。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、
愛をもって互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
というこの一句に尽きるからです。」 割礼なき洗礼は有り得ないのである。これは道理の話し。 無理が通れば道理引っ込む。
無理してまで何をしようとしたのでしょうね。 「気をつけなさい。もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうでしょう。
わたしは命じます、聖霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはありません。
なぜなら、肉の欲するところは聖霊に反し、また聖霊の欲するところは肉に反するからです。
こうして、二つのものは互いに相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、
することができないようになります。 もしあなたがたが聖霊に導かれるなら、律法の下にはいないのです。
肉の働きは明白です。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、
党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいです。わたしは以前も言ったように、
今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがありません。
しかし、聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、
これらを否定する律法はありません。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に
十字架につけてしまったのです。もしわたしたちが聖霊によって生きるのなら、また聖霊によって進もうではありませんか。
互いにいどみ合い、互いにねたみ合って、虚栄に生きてはいけません。」 「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、
柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に
陥ることがありはしないかと、反省しなさい。 互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたは
キリストの律法を全うするでしょう。もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように
思っているとすれば、その人は自分を欺いているのです。 ひとりびとり、自分の行いを検討してみなさい。
そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるでしょう。
人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきです。
御言葉を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、
神は侮られるようなかたではありません。人は自分のまいたものを、刈り取ることになります。
すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るでしょう。
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならないのです。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになります。
だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではありませんか。」 「ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。
いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、
迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとするのです。
事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、
割礼を受けさせようとしています。 しかし、わたし自身には、わたしたちのアドニーである
イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはなりません。この十字架につけられて、
この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのです。 割礼のあるなしは問題ではなく、
ただ、新しく造られることこそ、重要なのです。 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。
また、神のイスラエルの上にあるように。
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。
兄弟たちよ。わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」 形式化した割礼に意味などない。
それを否定するのはむしろ当然である。現代の洗礼のように。 パウロが否定したのは形骸化、形式化した割礼。そこまでは悪くない。
しかし真実を歪める事は誰にも出来ないのです。 ユダヤ教は真理と道理は決して曲げない。それが宗教民族の姿勢です。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.dinnerさん、みなさん、こんばんは。
>>11-12
こんばんは。
>>20-21
こんばんは。
>>26-28>>32-34>>36
こんばんは。
割礼や洗礼について、勉強になります。ありがとうございます。
>>35
Christian.dinnerさん、ありがとうございます。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
>>7
サラさん、先週はありがとうございました。今週もプチ旅行のガイドよろしくお願いいたします。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ 「詩篇 第148篇
ハレルヤ。もろもろの天からヤハウェをほめたたえよ。もろもろの高き所でヤハウェをほめたたえよ。
その天使よ、みなヤハウェをほめたたえよ。その万軍よ、みなヤハウェをほめたたえよ。
日よ、月よ、ヤハウェをほめたたえよ。輝く星よ、みなヤハウェをほめたたえよ。
いと高き天よ、天の上にある水よ、ヤハウェをほめたたえよ。これらのものにヤハウェのみ名をほめたたえさせよ、
これらはヤハウェが命じられると造られたからである。ヤハウェはこれらをとこしえに堅く定め、
越えることのできないその境を定められた。
海の獣よ、すべての淵よ、地からヤハウェをほめたたえよ。
火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、もろもろの山、すべての丘、
実を結ぶ木、すべての香柏よ、野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥よ、
地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、
彼らをしてヤハウェのみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。
ヤハウェはその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、
ヤハウェに近いイスラエルの人々のほめたたえるものである。ハレルヤ。」 詩篇 136
「ヤハウェに感謝せよ、ヤハウェは恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろのヤハウェのヤハウェに感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
ただひとり大いなるくすしきみわざをなされる方に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
知恵をもって天を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
地を水の上に敷かれた方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
大いなる光を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。 「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神を賛美しよう。神はキリストにあって、
天上でもろもろの霊の祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえに清く傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって
神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのです。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためです。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、
すなわち、罪過のゆるしを受けました。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとを
わたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに
示して下さったのです。 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかなりません。それによって、
神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのです。
わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあって
あらかじめ定められ、神の民として選ばれました。 それは、早くからキリストに望みをおいている
わたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 あなたがたもまた、キリストにあって、
真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、
約束された聖霊の証印をおされたのです。」 詩篇 136
「ヤハウェに感謝せよ、ヤハウェは恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろのヤハウェのヤハウェに感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
ただひとり大いなるくすしきみわざをなされる方に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
知恵をもって天を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
地を水の上に敷かれた方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
大いなる光を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。 「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、
思い出していただきたい。
あなたがたが、いい加減な気持ちで信じたりせず、わたしの宣べ伝えたとおりの御言葉を堅く信じていれば、
この福音によって救われます。
わたしが最も重要なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことでした。
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれたこと、 そして葬られたこと、
聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえられたこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れてくださったことです。
そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れてくださいました。その中にはすでに眠った者たちもいますが、
大多数はいまなお生存しています。
そののち、ヤコブに現れてくださり、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、未熟児のような
私の前にも現われてくださったのです。
実際わたしは、神様の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者です。
しかし、神様の恵みによって、わたしは今日あるを得ています。そして、わたしに賜わった神様の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきました。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神様からの恵みです。
とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、 あなたがたは信じたのです」
イエス・キリストの啓示、パウロがコリントの聖徒に宛てた手紙より 詩篇 第19篇 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。 この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
ヤハウェのおきては完全であって、魂を生きかえらせ、 ヤハウェのあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
ヤハウェのさとしは正しくて、心を喜ばせ、ヤハウェの戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
ヤハウェを恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、 ヤハウェのさばきは真実であって、ことごとく正しい。
これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。 どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、 これに支配されることのないようにしてください。
そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
わが岩、わがあがないぬしなるアド二ー、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが あなたの前に喜ばれますように。 詩篇
「私は山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。 わが助けは、天と地を造られたヤハウェから来る。
ヤハウェはあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
ヤハウェはあなたを守る者、ヤハウェはあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。ヤハウェはあなたを守って、
すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。
ヤハウェは今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」。 >>45
神様に献金している者は、天に蓄えているので、マラキの神の守りが発生します。
しかし、献金せず、自分に蓄えている者は、そのような結果となります。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.dinnerさん、みなさん、おはようございます。
>>46
おはようございます。
神様の喜ぶことをしたいと思います。ありがとうございます。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ 「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神を賛美しよう。神はキリストにあって、
天上でもろもろの霊の祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえに清く傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって
神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのです。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためです。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、
すなわち、罪過のゆるしを受けました。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとを
わたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに
示して下さったのです。 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかなりません。それによって、
神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのです。
わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあって
あらかじめ定められ、神の民として選ばれました。 それは、早くからキリストに望みをおいている
わたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 あなたがたもまた、キリストにあって、
真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、
約束された聖霊の証印をおされたのです。」 「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、
神の栄光をほめたたえるに至るためです。
こういうわけで、わたしも、ヤハウェ・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、
わたしの祈りのたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝しています。
どうか、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに
賜わって神を認めさせ、 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが
神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、
あなたがたが知るに至るように、と祈っています。 神はその力をキリストのうちに働かせて、
彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 彼を、すべての支配、権威、権力、
権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのです。
そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、
満ちみちているものに、ほかならないのです。」 「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、 かつてはそれらの中で、
この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、
歩いていたのです。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、
肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子でした。
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって
死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのです――
キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのです。
それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、
きたるべき世々に示すためでした。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのです。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物です。 決して行いによるのではありません。
それは、だれも誇ることがないためなのです。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さいました。」 「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った
肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、 またその当時は、キリストを知らず、
イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者でした。
ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、
キリストの血によって近いものとなったのです。 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、
敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのです。
それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、
二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのです。
それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも
平和を宣べ伝えられました。 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの聖霊の中にあって、
父のみもとに近づくことができるからです。 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのです。 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという
土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石です。
このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、ヤハウェにある聖なる神殿に成長し、 そしてあなたがたも、
ヤハウェにあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのです。」 「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――
わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたでしょう。
すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのです。
あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかります。
この奥義は、いまは、聖霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されていますが、
前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのです。 それは、異邦人が、
福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、
共に約束にあずかる者となることです。 わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた
神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのです。」 「すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたのですが、
それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、 更にまた、万物の造り主である神の中に
世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためです。
それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
わたしたちのアドニーであるキリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものです。
このヤハウェ・キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に
神に近づくことができるのです。 だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、
落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのです。」 「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれている
あらゆるものの源なる父に祈ります。 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもって
あなたがたの内なる人を強くして下さるように、 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、
あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、
深さを理解することができ、 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、
神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈ります。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、
はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会により、また、キリスト・イエスによって、
栄光が世々限りなくあるように、アーメン。」 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から始まった事で、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか 「さて、ヤハウェにある囚人であるわたしは、あなたがたに勧めます。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、 平和のきずなで結ばれて、
聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 からだは一つ、聖霊も一つです。あなたがたが召されたのは、
一つの望みを目ざして召されたのと同様です。 ヤハウェは一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つです。
しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられています。
そこで、こう言われています、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。
さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではありませんか。 降りてこられた者自身は、
同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのです。
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、
お立てになったのです。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、
ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためです。 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、
だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、
もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、
かしらなるキリストに達するのです。 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、
しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、
愛のうちに育てられていくのです。」 「そこで、わたしはヤハウェにあっておごそかに勧めます。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で
歩いているように歩いてはいけない。 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、
神のいのちから遠く離れ、 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねています。
しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかったのです。
あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずです。
すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきです。
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは
お互いに肢体なのですから。 怒ることがあっても、罪を犯してはいけません。憤ったままで
日が暮れるようであってはならないのです。 また、悪魔に機会を与えてはいけません。
盗んだ者は、今後、盗んではいけない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で
正当な働きをしなさい。 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけません。必要があれば、
人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのです。
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。 互いに情深く、
あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、
あなたがたも互いにゆるし合いなさい。」 「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、
神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのです。
また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、
口にすることさえしてはいけません。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。
これらは、よろしくない事です。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 あなたがたは、
よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、
偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができないのです。
あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。
これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下ります。 だから、彼らの仲間になってはいけない。
あなたがたは、以前は闇でしたが、今はヤハウェにあって光となっています。光の子らしく歩きなさい――
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものです―― ヤハウェに喜ばれるものがなんであるかを、
わきまえ知りなさい。 実を結ばない闇のわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事です。しかし、光にさらされる時、
すべてのものは、明らかになります。 明らかにされたものは皆、光となるのです。だから、こう書いてあります、
「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照らされるでしょう」。 「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、愚かな者にならないで、
ヤハウェの御旨がなんであるかを悟りなさい。 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとです。
むしろ聖霊に満たされて、 詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、ヤハウェにむかって心から
賛美の歌をうたいなさい。 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちのアドニーである
イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、 キリストに対する恐れの心をもって、
互いに仕え合うべきです。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ 「妻たる者よ。ヤハウェに仕えるように自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会のかしらであって、
自らは、からだなる教会の救い主であられるように、夫は妻のかしらです。
そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきです。
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、
ご自分に迎えるためです。 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばなりません。
自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのです。 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいません。
かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常です。
わたしたちは、キリストのからだの肢体なのです。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
ふたりの者は一体となるべきである」。 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしています。
いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。」 「子たる者よ。ヤハウェにあって両親に従いなさい。これは正しいことです。
「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについています、
「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
父たる者よ。子供をおこらせないで、ヤハウェの薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。
僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
人にではなくヤハウェに仕えるように、快く仕えなさい。
あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、
それぞれヤハウェから受けるでしょう。 主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。
おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとのヤハウェは
天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのです。」 ぶっちゃけね キリスト教を信じるにしても
教会などに所属しないほうが良いよ
キリスト ルシファー ローマ法王
で調べたらわかると思うけど 「最後に言います。ヤハウェにあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、
血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪霊に対する戦いです。
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、
その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるでしょう。
また、救いのかぶとをかぶり、聖霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい。
絶えず祈りと願いをし、どんな時でも聖霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、
すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、
大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのですが、つながれていても、
語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしいのです
わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、ヤハウェにあって
忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告してくれるでしょう。 彼をあなたがたのもとに送るのは、
あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのです。
父なる神とわたしたちのアドニーであるイエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。
変らない真実をもって、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。」 「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、
ならびに監督たちと執事たちへ。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、 あなたがたにあるように。
わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、
いつも喜びをもって祈り、 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝しています。
そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までに
それを完成して下さるにちがいないと、確信しています。わたしが、あなたがた一同のために、
そう考えるのは当然です。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、
あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからです。
わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、
それを証明して下さるかたは神です。 わたしはこう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識において、
するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを
判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」 「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、
あなたがたに知ってもらいたいのです。 すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、
兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、 そして兄弟たちのうち多くの者は、
わたしの入獄によってヤハウェにある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言葉を語るようになったのです。
一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいます。
後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、
前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしています。
すると、どうなのですか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのは
キリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶでしょう。 なぜなら、あなたがたの祈りと、
イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救いとなることを知っているからです。
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、
いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが
あがめられることです。」 「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益です。 しかし、肉体において生きていることが、
わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわかりません。
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっています。わたしの願いを言えば、この世を去って
キリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。 しかし、肉体にとどまっていることは、
あなたがたのためには、さらに必要です。 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、
あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思います。
そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによって
キリスト・イエスにある誇りを増すことになるでしょう。ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。
そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、
一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、 かつ、何事についても、敵対する者たちに
ろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。
このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしであって、それは神から来るのです。
あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっています。
あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのです。」 素晴しい内容に感謝しております。
ただ、休憩中・終業後にロムってますが
膨大なので、消化しきれません。
もう少しだけスローペースになれば。。。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、こんばんは。
>>70
ありがとうございます。ハレルヤ。あなたのご意見を検討し模索しましょう。
しかし、模索した結果がこれですから、あなたのご希望どおりになるのかどうか
たぶん、変わらないかもしれません。変われば、わたしも楽になるのですが、
ヤハウェなる父である神とイエス・キリストから特訓されて、イベントもあるわで
大変なのはわたし自身なので、あなたも大変でしょうが、イエス様について行ってください。
今日はありがとう。イエス様も、あなたがみことばを読んで、
神に感謝しておられることをきっと喜んでいらっしゃるでしょう。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのディナーにしましょう。 「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、聖霊の交わり、
熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、
心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、
へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、
他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、 あなたがたの間でも互に生かしなさい。
キリストは、神の身分であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられました。
その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる御名を彼に賜わったのです。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストはヤハウェである」と告白して、栄光を父なる神に帰するためなのです。」 「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、
わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、
それは神のよしとされるところだからです。 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、
傷のない神の子となるためです。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように
この世に輝いています。 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、
労したこともむだではなかったと誇ることができます。 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物を
ささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。」 「さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、ヤハウェなるイエスにあって願っています。
それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからです。 テモテのような心で、親身になって
あなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもいません。 人はみな、自分のことを求めるだけで、
キリスト・イエスのことは求めていないのです。 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりです。
すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきました。
そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っています。
わたし自身もまもなく行けるものと、ヤハウェにあって確信しています。 しかし、さしあたり、
わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、
あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っています。
彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからです。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、
彼は心苦しく思っています。 彼は実に、ひん死の病気にかかったのですが、神は彼をあわれんで下さいました。
彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのです。
そこで、大急ぎで彼を送り返します。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、
心配を和らげることができるでしょう。」 「こういうわけだから、大いに喜んで、ヤハウェにあって彼を迎えてほしいのです。また、こうした人々は
尊重せねばなりません。 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、
キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのです。
最後に、わたしの兄弟たちよ。ヤハウェにあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが
それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになります。
あの犬たちを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者なのです。
もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはありません。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、
わたしはそれをもっと頼みとしています。 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、
ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 熱心の点では教会の迫害者、
律法の義については落ち度のない者です。 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、
キリストのゆえに損と思うようになりました。」 「わたしは、更に進んで、わたしのアドニーであるキリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、
いっさいのものを損と思っています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったのですが、それらのものを、
ふん土のように思っています。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、
キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに
自分を見いだすようになるためです。 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、
その死のさまとひとしくなり、 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのです。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして
追い求めているのです。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからです。
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていません。ただこの一事を努めています。すなわち、後のものを忘れ、
前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に
召して下さる神の賞与を得ようと努めているのです。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、
そのように考えるべきです。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるでしょう。
ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきです。」 「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされている
わたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからです。
わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話しましたが、今また涙を流して語ります。彼らの最後は滅びです。
彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことです。
しかし、わたしたちの国籍は天にあります。そこから、救い主、ヤハウェ・イエス・キリストのこられるのを、
わたしたちは待ち望んでいます。 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、
わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるでしょう。」 「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。
このように、ヤハウェにあって堅く立ちなさい。
わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧めます。どうか、ヤハウェにあって一つ思いになってほしい。
ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いします。このふたりの女を助けてあげなさい。
彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、
福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちです。
あなたがたは、ヤハウェにあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、
みんなの人に示しなさい。ヤハウェは近いのです。何事も思い煩ってはなりません。
ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよいでしょう。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、
キリスト・イエスにあって守るでしょう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、
すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、
称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。 あなたがたが、わたしから学んだこと、
受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。
そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいてくださいます。」 「さて、わたしがヤハウェにあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに
今またついに芽ばえてきたことです。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたのですが、
よい機会がなかったのです。 わたしは乏しいから、こう言うのではありません。わたしは、どんな境遇にあっても、
足ることを学びました。 わたしは貧乏に対処する道を知っており、財産が豊富にある道も知っています。
わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する
秘けつを心得ています。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができます。
しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれました。 ピリピの人たちよ。
あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、
物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かったのです。
またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれました。
わたしは、贈り物を求めているのではありません。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく
果実なのです。 わたしは、すべての物を受けてあり余るほどです。
エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りています。それは、かんばしいかおりであり、
神の喜んで受けて下さる供え物です。」 「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって
満たして下さるでしょう。
わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アーメン。
キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしくとお伝えください。わたしと一緒にいる兄弟たちから、
あなたがたによろしくとのことです。
すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちからも、よろしくとのことです。
ヤハウェ・イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、 ハレルヤ
今日のイベント 失恋板
もう疲れた・・・片思い 失恋 44
http://itest.2ch.net//test/read.cgi/break/1477279897/l50 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.dinnerさん、みなさん、こんばんは。
>>70
こんばんは。
>>81
Christian.dinnerさん、こんばんは。
失恋板、確認しました。ありがとうございます。
>>82
こんばんは。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
>>83
サラさん、明日のイベント会場は今日中にお知らせします。よろしくお願いいたします。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ イエス・キリストの啓示、パウロが記したコリントの聖徒への手紙
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、
思い出していただきたい。
あなたがたが、いい加減な気持ちで信じたりせず、わたしの宣べ伝えたとおりの御言葉を堅く信じていれば、
この福音によって救われます。
わたしが最も重要なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことでした。
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれたこと、 そして葬られたこと、
聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえられたこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れてくださったことです。
そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れてくださいました。その中にはすでに眠った者たちもいますが、
大多数はいまなお生存しています。
そののち、ヤコブに現れてくださり、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、
未熟児のような私の前にも現われてくださったのです。
実際わたしは、神様の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者です。
しかし、神様の恵みによって、わたしは今日あるを得ています。そして、わたしに賜わった神様の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきました。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神様からの恵みです。
とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、 あなたがたは信じたのです」 宗教でいう救いは御利益の救いにあらず ×
悟りによる救い ○ 詩篇
「ヤハウェに感謝せよ、ヤハウェは恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろのヤハウェのヤハウェに感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
ただひとり大いなるくすしきみわざをなされる方に感謝せよ、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
知恵をもって天を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
地を水の上に敷かれた方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
大いなる光を創造された方に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。 パウロはキリストの正しい教えを御利益信仰に歪めおとしめ、
信じろなどとうそぶいた。 真実に対極し、悪魔の具現化であると解釈され、
最後の審判の際に苦しみが与えられるとされる。
救いは決して得られない。 このスレの新参者です。質問させて下さい。
@アドニーは、どういう意味ですか?
Aまた、父なる神=ヤハウェ=創造主で宜しいでしょうか?
B牧師から三位一体と聞きますが、聖書のどこにも『三位一体』の記述無し。
勝手な解釈が赦されない聖書と御言葉において、三つの位格が…等々、
分かりずらい説明を聞かされます。
賢明なる方々の説明を期待します。宜しくお願い致します。 >>91
おはようございます。アドニーとは、聖書にある「主」を意味します。
「主」は、ヘブライ語原典では、Κύριεではなく、ヤハウェのことで、
本来、主ではなく、ヤハウェと訳すべきです。ただし、「ヤハウェよ」の呼びかけ、または
「わがヤハウェ」の表現の場合は、学者の間では、「ヤハウェ」ではなく、
「アドニー」が適切とされています。
ギリシャ語のΚύριεはキュリエと発音し、キュリオスのことですが、
元来、この「キュリオス」は原典にはなく、、偽預言者たちにより置き換えられた言葉なのです。
「キュリオス」は神の啓示には書いておらず、は、旧ヘブライ文字「ヤハウェ」と記されていました。
三位一体は聖書に書いてない言葉で、これも偽預言者の詭弁です。
三位一体論者も支持者も、どちらも間違っています。
なぜなら、クリスチャンは、イエス・キリストの体の各器官であり、イエス様とひとつであり、
また、イエス・キリストは人となられた神であるからです。 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、 コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、
忠実な兄弟たちへ。
わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神に感謝しています。 これは、キリスト・イエスに対する
あなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからです。
この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、
あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いています。
そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて
神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのです。 あなたがたはこの福音を、
わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのでした。
彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、 あなたがたが聖霊によっていだいている愛を、
わたしたちに知らせてくれたのです。 そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、
あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、 ヤハウェのみこころにかなった
生活をして真にヤハウェを喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識を
いよいよ増し加えるに至ることです。 更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって
賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、 光のうちにある聖徒たちの
特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することです。 神は、わたしたちを
闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。
わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのです。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたです。
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、
みな御子にあって創造されました。これらいっさいのものは、御子によって創造され、御子のために創造されたのです。
彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っています。 そして自らは、そのからだなる教会のかしらです。
彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたです。それは、ご自身がすべてのことにおいて
第一の者となるためです。 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、
彼によってご自分と和解させて下さいました。 >>92 Christian.morningのcoffee様、ありがとう御座います。
三位一体ではなく三位一団と思うようになりました。
的確なる応答を感謝致します。 「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していました。 しかし今では、
御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、
責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのです。 ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、
しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきです。
この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが
奉仕しています。今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、
キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っています。 わたしは、神の言葉を
告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられていますが、そのために教会に奉仕する者になっているのです。
その言葉の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのです。
神は彼らに、異邦人の受けるこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされました。
この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みです。 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、
知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えています。
それは、彼らがキリストにあって完全者として立つようになるためです。
わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのです。」 >>95
どういたしまして。ありがとうございます。ハレルヤ。 聖霊とは?
@イエスは、悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて・・・
A旧約聖書に記された預言は、”御魂”の導きであると、聞きます。
B五旬節は、“聖霊”が、初めて地上に降ったときと聞きます。
全て、新約の“聖霊”と同一で宜しいでしょうか?
また、聖霊とはイエス・キリストの父なる神の霊(神霊)という
解釈で宜しいでしょうか?
御教示下されば嬉しいです。 >>98
ヤハウェの御霊については、三位一体という神学の間違いからくる混乱により、ギリシャ語のプネウマ
ヘブライ語のルーアハ等の議論がなされますが、三位一体という言葉が、聖書にないサタン起源ゆえ
そのような学説は、あまり知る必要もないでしょう。単純明解に言えば、神の聖霊は、一つとお考えください。
聖書にこう書いてあります。
「からだは一つ、聖霊(御霊)は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが
一つであったのと同じです。
ヤハウェは一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、
すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています