【仏教3.0】山下良道 part3【一法庵】 [無断転載禁止]©2ch.net
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慈悲の瞑想の意味について話がでたが
自我 の世界から 無我の世界へ導くものじゃないかと思えてきた。
自我の世界だと、
自分のためだし、他人にイラっとするし、生きとし生けるものの幸せなんて考えないし
無我の世界だと、
自と他の区別がなくなり、自分のだめだけじゃなくなり、生きとし生けるもの幸せを願う。
そういう心持ちを示したのが慈悲の瞑想ではないか、と。
一般社会の競争しあい、だましあいの中で使用するのは抵抗あっても
まずは家族の中でそういう心持ちで生活してみるのって必要だと思う。
自我自我しく生きちゃってると、家族の中でさえ、お互いのパワーを削りあうような
暮らしをしてしまうもの。 > 前スレ999 ( http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1452059269/999 )
>シャバ生活での折り合いの付け方
世俗の価値観から離脱するのが瞑想なので
世俗の価値観から充実感を得るには、瞑想しながらも、それとは別に
仕事なり家庭生活なりを、ちゃんと頑張らないと、いかんのではありませんか。
そんだけのことでは。
自分も同じテーマにぶつかってますけどね。 苦しい、虚しいのは、智慧が育ってきてるから当然ともいえる面もあると思うし。
いっそ出家できるのなら、まっすぐ解脱に向かってしまうのが良いのでしょうけれども。
出家できない。
そうかといって世俗の価値観が陽炎のようなものだと気づいてもいる。
中途半端。
それが悩みの原因なのではないですかね。 はやく死んで兜卒天に生まれ変わりたい。
↑
行ける保障はない
そんな今日この頃 みなさんは一法庵のポッドキャストは一回分初めから終わりまで全部聞けてますか?
僕はもう無理です。最初に言った主題からどんどん脱線して行ってマンネリしたいつもの論調になり、結局、結論もうやむや。
惰性で話され時間を無駄にされたようでなんだかなぁと思います。お声からも覚者の落ち着きがまったく感じられない。聞くのもウンザリ、生理的に嫌気のさす不協和音でマインドフルになれない。何かの役に立ってますか? 以前こころを観ていたとき
ずっと奥に暴れ叫んでいる固まりのようなものがみえました。
これはずっと観ていると、消えて行く物なんですが
それは永遠に消え去る物ではない物でした。
ただこれを、ただ優しい目で、小さなこどもが
だだをこねている姿を、やさしく、慈しんで観ているようにすると
その消えるスピードはより早く消えて行きます。
それが消え去った後にはただその観ているものだけがあります。
この子どもは無くなりはしませんが、かみついたりもされますが
ただ
わたしは幸せでありますようにと
観ているものが言っているようにとみえます。 >>9
それは慈悲の瞑想がうまくいっとるね
ペインボディは何年も死んだふりするから
怠けずそのまましっかり瞑想を続けなさい >>9
ただ、ペインボディが消えるスピードのことを
いっている辺りはあなたのシンキングマインドが出ちゃってる
時間の概念が出ているときは瞑想にはなってないよ。
瞑想の主体が先発ピッチャーに戻ってる
今にとどまれ。 瞑想で得た知見を世間で生かすには瞑想そのものとは別の工夫が
必要になるのではないか、と思います。
出家したり、お坊さんになるのではなく、世間で暮らすのならば。 瞑想と日常生活を区別せず、あらゆる対象に対する、あらゆる反応を
智慧と慈悲で行えたらよいのだろう、と頭では思ってる。
要するに、四梵住。 アホか
そんなんだれでもそう思うワイ!
ホンマ文脈無視してお題目ぶっこむのお好きですね。
言うは易し 相談したいことがあるといって書き込む
↓
レスがつく
↓
説教する
何がしたいのん。 ちなみに、わたしは山下さんの法話は聞いてないし、本も読んでないよ。
テラワダ界隈というざっくりしたカテゴリに入ってるから、その中のひとりとしてウォッチしてるだけ。
魚川祐司氏との鼎談だけ見てた。
山下氏についていこうと思えないなら、他も見てみたらいいじゃない。 お前じゃ役不足だって言ってるだよ
ぼちぼち察してくれんかね?
ありがた迷惑。慈悲の瞑想でオナってろ。 別にここは君の人生相談をする場所ではないのだから、指図は受けないよ。 瞑想と日常生活を区別せず、あらゆる対象に対する、あらゆる反応を
智慧と慈悲で行えたらよいのだろう、と頭では思ってる。
要するに、四梵住。
⬆
コレどの口が言った? 我が侭をいって暴れる人の言いなりになることが慈悲とも思えないけどもね。
気弱な対応をすることが慈悲だと思っているなら、それが原因で生きるのが息苦しくなっているのでは。 僕は不忘念を守ってます(笑)
その上で突っ込んでる。
お前はオナってるだけ。 仕事、恋愛・結婚、家庭生活。
これはこれできちんとやる。
そんだけのこと。 >>22
深い境地の人を見ていると、言いなりにはなってないね。
相手の深いところをしっかり感じた上で、包み込むような諭しかたをしたり、
受けとめた上で穏やかに言うことを言っている感じ。
鋭いんだけど慈しみが込められていて、言われた側もその場に居合わせた者も心洗われる感じ。
ワガママな人って飢えている人が多いみたいね。
深い境地の人は穏やかに諭してカルナーを注ぐ。
ジョークが上手くてユーモラスに切り返しながら、
相手を傷つけずに上手く気付かせることができる人もいる。
>魚川祐司氏
http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏と山下良道氏(と藤田一照氏)の対話
podcast法話
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道著
四六 ● 300頁
発行日:2016年9月
定価:本体1,800円+税
日本の伝統的な〈仏教1.0〉と
上座系瞑想実践的な〈仏教2.0〉を
共に包み超えて、新たな〈仏教3.0〉を提唱
その哲学とはどのようなものか
はたして新時代を切り開く力となり得るのか
今話題の
禅僧・藤田一照
哲学者・永井均
ワンダルマ仏教僧・山下良道
の三者による、白熱、スリリングな徹底討論 慈悲の瞑想は、一段階 上の視点で俯瞰してみることだと思う。
自我の世界というのは、直接的だ。
あいつが悪い・・「そこ悪いよ」と直接的にいう。いやだなぁと思う など
慈悲の世界は、もう一段階上。
あいつが悪い・・・・いやだなぁと思う、そこが悪いよといいたい自分を感じる
そうした自分の自我を感じた上で
相手はどういった自我に動かされて行動しているのだろう という視点に進める
これが慈悲ではないかと思う。
要するに、罪を憎んで人を憎まず の視点で生活する練習。
なので、正しいこと教えてやってるのに、まったく聞かない。などと
思っている人がいれば、
それは、自我の世界での注意の仕方だから、相手の自我を強めたり、反発をくらう
慈悲の世界での注意の仕方(正解への導き方)に移行する必要があるのかもしれない。 自画自賛になるけど、>>27の解釈って結構いいよね?
しかし>>27は、足りなくて
慈悲は、
@自我を俯瞰でみる視点に立つ
A俯瞰で見た上で、みながうまく行く選択をする(自他の区別がない愛にもとづくから)
@+Aかもしれないね。
しかし、正直ものはバカを見る。 なんて立場や
宗教によって飼いならされた愚民。なんて立場になるのは御免であるから
そこらへんをもう少し考えていきたいよね。 @ができるようになると
社会での勝率はきっと上がっていくよね?
Aオンリーだと、お人よし馬鹿みたいになって利用されるんじゃない? それならの境地の人は利用される前に
穏やかな笑顔でスッとかわしているよ。
彼らのメッタ・カルナーは気弱な優しさとは違う。 慈悲のためには、少欲知足って大事だと思わない?
多欲不知足だと、いつも足りない足りないもっともっとという状態になり
自分の欲を満たそうと精一杯になる。そして欲はとどまることをしらない。
不満は、自分の能力不足につのり、さらには家族構成員の能力の低さにも不満がでる。
自分の自我自我ワールドでもう目いっぱいになる。
自分の不満を解消するのが先だろうから、他人の自我なんて想像している暇は
もちろんない。
他人の幸せとかもちろん無理。自分が不幸せだと思ってるんだから。
でも少欲知足って難しいよね。
我慢するということなんて続かないんだから、少欲知足状態で満足や幸せを
感じれるようにならないと継続できないんだろうね。 神様に生かされていることがわからず、
神様を褒め称えることが出来なければ、
自我が消えてない。
キリスト・イエスに感謝を表そう。 私は書き込むときは想像とかではなく実際の関わりの経験で書いているよ。
指導者と他の修行者同士の関わりの経験。
そこで見せてもらったもの。 愛というものが、自と他の堺がなくなって、他人も愛せるという境地ならば
世の中の99.99999%がそういう境地には達しているわけではなく
ほとんどの人が愛というものを持ってないということではないだろうか。
というのは、逆に愛があるなんていう前提で行動すると、
苦しみ、悲しみがでるのではないかと思うのだ。
親子も夫婦も恋人も 利害関係でつながっているというのが正見であって、
愛というのはまぁうまく利用するための言葉にすぎないのではないだろうか。 キリスト教なんかは愛の定義がはっきりしてるみたいだな
愛とは神から与えられているものであると。
その定義なら納得できるわ。
人間同士ってのは、家族でも恋人でも本当の愛はたぶん存在しない。
愛があるなんて前提で生きると、
なかったときの失望がすごいんだよ。 もう山下先生のマイブームとしては終了したんじゃない? 山下氏は、現代人に仏教を布教する上での、自分なりの方便を試行錯誤してるような感じなの? 試行錯誤というか知り合う賛同者のうち著名な人にマル乗っかりしている印象を受ける。池見先生のことも2年前は否定していた。偽物のマインドフルネスであるとして。 体の微細な感覚というのも、物質と非物質の境界にあるものなんだけど、
フォーカシンングもう一段フィジカルなとこにステップを増やして難易度を下げてる。そんな提案は一法庵メンバーからも何年も前からあったよ。 体の微細な感覚が見れない人が接心参加者のほぼ全員という致命的な現実を直視せざるを得なくなって、どげんかせんといかん場面で、ちょうど知り合った池見先生のフォーカシングに飛び付いた。 方向性は間違ってないと思う。フォーカシングのように
肉体に親しんでから、メタフィジカル(気とかプラーナとか微細な感覚)
へ進んだ方が成功率は上がると思う。
話は毎回おんなじ話で無駄にだらだら長いし、何年同じことやってんだよと思うとこもある。進歩と退歩を繰り返してる。堂々巡りとも言う。 現代人のニーズに合わせるっていうのは、仏教の方から民衆に歩み寄ることでしょ。
でも、修行って、修行者が仏教の方に歩んでいくことだからさ。
自分はもう感化される受け身の立場ではなく、すでに修行者だという自覚があるなら
仏教の方に変革と歩み寄りを求めるのではなくて、やっぱり自分が歩んでいかないと
いけないと思うんだよね。
ようするに、テーラワーダという船に乗るなら
テーラワーダの方に合わせた方が、ずっと早いと思う。 新しい方便を開発するより、お前らわがままいわずに釈尊の教えたとおりやれっぺや、と
はっきりビシッと言う方が100万倍効率よいんじゃないかと。 結果が出れば方便だろうと伝統的なやり方だろうがどっちでもいいよ。結果がでない人ばっかだから問題なんでしょ。釈尊の教えって何さ。それがわかんないからみんな苦労してんだろ。お前さんもわからないからここを徘徊してんだろ。
山下さんも「新しい地球の会」の時から何の進歩もない。
体の微細な感覚の再現性だけを愚直に研鑽してたら、
ダントツで第一人者だったろうに。
結局、振り出しに戻ってる。
自分で歩くしかないと言うのはあなたの言う通り。
釈尊もそう言ってる。これに関しては誰からも異論はでないはず。 結果が出れば方便だろうと伝統的なやり方だろうがどっちでもいいよ。結果がでない人ばっかだから問題なんでしょ。釈尊の教えって何さ。それがわかんないからみんな苦労してんだろ。お前さんもわからないからここを徘徊してんだろ。
山下さんも「新しい地球の会」の時から何の進歩もない。
体の微細な感覚の再現性だけを愚直に研鑽してたら、
鬱病解消系のマインドフルネス界隈ではダントツで第一人者だったろうに。
結局、振り出しに戻ってる。
自分で歩くしかないと言うのはあなたの言う通り。
釈尊もそう言ってる。これに関しては誰からも異論はでないはず。 わざわざ「丸乗っかり」・「飛びついた」と言いたいこのセンス。 青い目の禅僧だの幻冬舎新書だのに丸乗っかりしてすぐ引っ込んだinnovaterとよく似た口ぶりだな、2chに引きこもることにしたのか、ほお。 自我の願望を叶えないといけないと信じ込んでいる結びつきの強さ。
または、自我自体の強さ。
これらが不幸の原因になっていることが多いんじゃないだろうか。
どうしても何かをしちゃう。
どうしても何かができない。
どうしても何かにならないといけないと思ってしまう。
現在、思い描く何かになっていないことで嘆く。 などなど。
これらの仕組みに気づいて生活するのと、気づかないまま自我の世界に
一生懸命になるのとは違うよね。
こういう宗教の基本みたいなところに導いてくれたという点で山下氏には感謝。
瞑想法については、別に山下氏から教えてもらわなくてもいいかな。
いろんな方法を試して自分にあったやつをやっていこうって感じ。 慈悲の瞑想 という言葉に、ん?瞑想なの?と違和感があったが
一般的な瞑想の意味・・・・静かに座って心を落ち着ける方法 などだろうが
瞑想というのを、「自我の世界を離れるための技法の総称」 としたらどうだろうか?
そうすると慈悲の瞑想という言葉もしっくりくるのではないだろうか。
キリスト教も自我の世界を離れることを目標としているが、
キリスト教は、言葉による瞑想だな。ことば瞑想だな。と思った。
たとえば、憎い相手を「許す」
許さないのが普通だろうが、許さないとき、自分の体は緊張し、
相手にダメージを与え返してやろう、正してやろうという自我モリモリになる
しかし、許すとしたときには、その緊張や仕返しのこころがふっと和らぐ。
自我の世界からふっと解放されるということを意味するのではないだろうか。
また、自分の罪への懺悔だが。
これも自分の罪を犯した自我を縛りつけるのではなく、懺悔で許すことにより
解放していく動きではないだろうか。
懺悔を繰り返すことにより、悪い気持ちが起こった時点で懺悔し、行動に
移す前に生成消滅してしまえるように導いているのではないかと思った。
という予想なのだがどう思う?
キリスト教は、サマタやヴィパッサナー使わずどうやって自我を離れるのか興味があるのだ。 まず、キリスト教の良書を数冊読んでみたら書いてあるかもしれませんよ。
こうじゃないだろうか?と考えるのも楽しいですけど(自分の思考能力を感じられるから)、
楽しいということよりも実益を求めるなら本が手っ取り早い。 >>52
貶されても落ち込まない。
褒められても浮かれない。 キリスト教は自分が神に対面する道、
仏教は自分が自分に対面する道だといわれています。
キリスト教のゆるしは聖霊を受けることによって可能となります。 キリスト教は神様を賛美する信仰です。
自分(我)を捨てないと出来ません。
仏教、瞑想で悟った時、神様を賛美出来るようになります。
神様に向き合う為の我を捨てる過程が仏教のような気がします。
青空が神様と認識することです。そこには愛があります。
悟っただけでは愛がありません。
自己満足に陥らないように気をつけましょう。 >>56
>自己満足に陥らないように気をつけましょう。
お前だよ >>56
>悟っただけでは愛がありません。
悟りを知識か何かだと君は思ってるんじゃないかな
その思いこそが君が言う「自分」なんじゃないかと
そんな人の説く愛なんて、所詮自己満足以外の何物でもないでしょ
無償の愛は、好むと好まざるとに依らず自然そのままに成立してて行われてるんじゃないか
その事に気付けたその時こそが悪人正機なんでしょ
取り繕って計らい尽くしてもがいていた自分を憐れんで手放しやらないと
いつまでも君は気付けないと思うよ
キリスト教も一闡提の人は救われないんだよ
一闡提じゃ聖三一が分からないままだからね 2chで何を説教こいてんだよ
救いようもなく頭痛い奴だな。 >>58
正しいことを言ってやってるから悪人、凡夫ではない。とはならないと思いますよ。
正しいと信じこんでいることで、自分の悪人性、凡夫性を
認めないってことにはなっていませんか?
正しいことを教えてやってるからいいんだ!と。
私は、実生活でそういうことがよくあるタイプです。
こちらが正しいことを言っているのに、うとまれる。
結局、私が正しかっただろ!ということが多いので、私の態度は変わらない。
しかし、私は少しずつ気が付き始めた。
正しいことをガミガミと説教するのは自我の世界を強めているだけだ。
家の中が自我自我ワールドになってしまっていると。
私の父も同じタイプだった。
私の代で、この自我パターンを超えれるのか、超えられないのか。
挑戦してみたい。 頑張れー。
天はきっと応援している。
としか言えないけど、がんばるという言葉が我を張るみたいで使いにくい。
なんかいい言葉はありませんかね? 実は正しいと言う事を客観的に証明できないみたいなんです。
主観的にしか、正しいと言えない所があるみたいなんで
ドロボウにも三分の理とでもいうか
お釈迦様が論争はするなと言ったのも
その根源にこの問題があるんじゃ無いかと思えるんです。
まあこれもわたしの見解に過ぎないんですが..... >>61
ども^^
>>62
たしかに、私の側の「お前が悪いんだろ」という感情・自我を手放したとき
正見ができて、新しい正しさが見えることもあるかもしれません。 昔、お世話になったAV女優や
今もお世話になっているデリヘル孃に
慈悲を送るとナンかしっくりきます ハゲのオッサンや老人にも、分け隔てなく慈悲の念を送って下さい。 >>64
自分が観ている頭に来る他人も、その人はどこに居るかというと
どうも、自分の脳の中の電気信号でしかないと言えちゃうんですよ
映画のスクリーンに映っているみたいな
そのスクリーンは、自分の中なんで、自分が居なければ、その人は存在
しないことになってしまう。
これを追求していくと完全に客観的な実体は無いって事になるんですが
観測者がどうも必要ななってくるみたいな所があるんです
相当奇妙な事を言っているとは思いますけど...... AV女優やデリヘル嬢、ハゲのおっさんや老人も
それが居るのは、自分の心の中なんで
それに対して慈悲というのは、[私]が「私」の中に対して慈悲を
しているとしか
だからこの世界をただ優しく観ているとでも
木でも、石でも、自動車でも、頭に来る他人でも、猫でも、ハゲのおっさんでも >>67
その内容を奇妙だと思う人はここにはいないでしょう。
慈悲も他人にかけているようで、
自分の頭の中の認識を整えていく作業ということになってくるのかもしれませんね。
私はまだそこらへんを突き詰めて理解できてはいませんねぇ。 >>67
もしも心が脳内の電気信号に過ぎないなら、死んだときに脳はなくなるので
その時、心も消えてなくなってしまうことになる。
心の発生源は脳じゃなくて、心が脳を動かしていると思ってる。
これは自身のサマディ体験からの知見。 脳みそが自己の本体だというのは、
自我を出発点とした認識、とくに身体が自己の本体だという認識、有身見だと思う。 おー、そう言われたらそうだな。
じゃあ、自分て何?になる。
そもそも自分なんていないとか、青空としての私、などの情報は入ってくるのだけど、理論的には理解出来るけどまだピンときていないのが今の自分だ。 [影] ← [影絵] ← [光]
影絵が消えると影も消えてしまうように、思考と五感が止まると自我が消えてしまう。
その時、光だけが残るように、意識だけが残る。
思考や感覚で動き回らず、一箇所に留まった意識だけが残る。 これはあくまでサマタ瞑想によるサマディの体験からの知見。
思考と感覚が自我の実感を形作っているので、
思考と感覚を止めてしまうと、自我の実感も消えてしまう。
サマタが成功すると、実感として、自我がなくなっちゃった意識だけの
状態というのを経験する。
自我の枠組みを規定している思考とか、身体の感覚がないので
どこまでが自分という境界線を規定するものがない状態。
なので、他人と自分の区別が本当に分からなくなってしまう。
自他を平等に見よう、とかいう計らい自体がなくなっちゃう。
逆説的だけど、自我が消えることで、自我が分かってくる。
自我ってのはこういう風に生じていたのか、ってはじめて納得感を
もって理解されてくる。 >>74
影は確かにあるけど、いくつかの要素が組み合わさって一時的に
生じているに過ぎないし、しかもそれはあくまで影に過ぎないってことが
瞑想を通じた精神現象の観測事実として分かってくる。 意識
たぶん、欲界心が消えて、色界心が見ていたんだと思うが、まだヴィパッサナーまで行ってないので分からない。 ブッダが放った慈悲が遍満している、それだけがある世界だった。
世界というか、そういうマインドステート。
強さも種類も、人間の心に生じる類のものではなかった。 その時以来、三宝に三礼する時は地面に突っ伏すように礼拝するようになった。
もう自然とそうならざるを得なかった。
頭が上がらない。 サンユッタニカーヤにこの様な話が残っています。
ヴァッカリは、世尊が来るのに気付き、病床から起き上がり、きちんと座った。
「やめなさい。ヴァッカリよ。寝ていなさい。私にそんな気を使うことはない」と言い、釈尊は枕元に座った。
「最後に尊師のお顔を一目見たいと思って・・・。
私から出向いていかなければならないのに、もう歩けないのです。申し訳ありません」
「何を言うんだヴァッカリよ。元気を出しなさい。こんな私の耄碌した体を見ても、なんにもならない。
むしろ、私が説いた法が、いつもあなたとともにある。
かつて私は言ったね。『法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る』と」 >>70
ありがとうございます。
ウジョティカ・セヤドーと山下さんの対話なんてあったんですね。
山下さんもこの頃は素直だったんだなぁ。
有名な先生には今も昔もミーハーでかぁ やっと強い感情の渦に巻き込まれている最中に
これは自我にまきこまれているだけなんだ とふっと我に返ることができるようになってきた。
それと同時期に、夢の中で これは夢なんだ。と気づくようになってきた。
なにか関係があるんだろうねぇ。
こういう変化はおもしろいし、うれしい。 関係あるはずです
そうなるようにできてる
不思議な話ですが 山下氏はこの対談で、とても重要な根源的な話をしています。 何もしないことの幸福があると、ウジョウティカ氏が述べているのが印象的です。
ただ在ると言う事が、幸福で有り、そこは平安であり、静寂で在ると
その通りだと思います。まさかこの様なモノがあるとは(モノとは失礼な言い方ですが) 12月から東京勤務。憂鬱だな。
瞑想だけしていたい。そんときが一番幸せ。 五蓋の昏沈随眠に相当するので、精進すれば日常生活や仕事も瞑想になると思う。
頑張って。 >>70
この部分
U、日本の禅の伝統においてはすべてのものを芸術(道)にしています。
このような伝統を基礎に、日本の人々に、すべてのことを“マインドフルに”行うことを教えることができると思います。
日本の禅の伝統の中には既にそれがあるのです。
S、セヤドー、問題は日本の禅の人々はその原則を知らないということです。
例えば茶道ですが、茶道は禅と共に発展してきました。
茶道では一つ一つの動作で、茶碗を注意深く扱います。
しかしそれは何のためにでしょう?禅の人はこまごまとした作法の詳細について語ります。
しかし、要点は“マインドフル”を成長させることなのですが。
U、茶道は瞑想法の一つですね。
もちろん茶道は芸術の一つとしてとても洗練されてきました。
しかし日常においても、私たちがすべきことを注意深く(マインドフルに)するならそれは瞑想になるということです。
だから日本の人々には既にそういう基礎があるのです。
S、禅の修行において歯を磨いたり、トイレに行ったりする時、私たちは偈を唱えます。
例えば歯を磨く時は、「口の中を清浄にし、話を清浄にします」と。
そのとき歯を磨くという行為が仏教の修行になります。
トイレに行く時も、顔を洗う時も・・・。
ですから禅の中にはすべてがあるのですが、人々はその要点を知りません。 すべて出来なくても良いんですよ
気がついた時にすれば、何を意味するか自ずとわかるようになっていますから >>94
この対話については、道元禅師と典座教訓の故事を
思い出します。
この対話が何故そうなのか、この典座のお話からつながるように思えます。 >>96
そうなの?
一つ一つの行動にしても、自我的に傾けるやり方、無我的に傾けるやり方あるよね。
ごはんを食べるときに特にそう思う。
自我に従って、がつがつ食べると、一瞬の快感は得られるけど、
体は緊張していき、もっともっとという状態になる。
ゆっくり何回もかんで、ヴィパッサナー的に食べると、体はリラックスして
適切な量で静かな満足感が得られる。
結局はもう、一瞬一瞬のこころの平穏を楽しんで生きるってことがすべてかな?
その心の平穏の深度を深めていくために
瞑想だったり、自我的な昨日や明日がが意味ないと気づくことだったり、
まわりの人を許していくことだったり。
その平穏の深度を深めつつ、味わいつつってのが幸せな人生ってことなんかなぁ?
という方向に考えが行きつつある。 仏教 4.0 とかよく分からんのだが、4.1とかのマイナーアップデートや
GitHubによる管理と共有とかもできるのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています