【非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか3【瞑想】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか2【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1471071690/ でだ・・
そのことが瞑想とどうかかわってくるのか・・^^
それが問題となる^^ 個人的見解だと・・
人が何時間も瞑想でかかる時間を・・
15分くらいで達成してしまう・・
という効果があると・・^^ 瞑想のレベルは死に近づくほど瞑想レベルが高くなる^^ これらをみると・・
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定 1.空無辺処
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。 1.空無辺処
対象に対する意識を完全に超え、(対象に)触れるという意識をなくし、
あれこれ定まらずに意識することも止めて、「虚空は無辺である」という
空無辺処に達します
この解釈がぴったりくるな^^ 水風呂から石の上で瞑想すると・・
すぐにこの境地になる^^ 2.識無辺処
空無辺処を完全に超え、「識は無辺である」という識無辺処に達します。
「物質対象に何にも触れない、触れない」と外に心を向けていた空無辺処から、
逆に心そのものに心を向けて、心自体が、何にも遮られることのない、限りないものだと、
対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。 「対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。」
う〜〜ん^^
心も既にないんだが・・^^
風景に同化しちゃってる^^ 3・無所有処
識無辺処を完全に超え、「何もない(空)」という無所有処に達します。
心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。 「心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。 」
そうこれこれ^^
「何もない(空)」・・^^
まさにぴったり^^ 4.非想非非想処
無所有処を完全に超え、非想非非想処に達します。
何も意識しない心さえなくしてみようと、意識はおろか、意識しようとする
衝動「想」さえ起こさせない、でもそれさえも完全に起こらないのは
心自体が滅することでちょっと不可能で、実際には想が起こるのか
起こらないのか分からないほど微かにして、もちろん意識などは全く
起こらない状態にまで達します。
世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさないよう
抑えられている禅定が、この、色界禅定を超えた無色界等至の最高の状態です。 「世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさない」
う〜〜んどうだろうね^^
仮死状態か・・^^
そこまではいっていないだろ・・か^^ 水風呂で心臓が凍れば・・^^
この境地見れるかも^^ 5.想受滅
想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。
飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に
休止します。身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりません
ので、硬いお地蔵さんのような状態になります。
想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。 ・・ということで・・^^
瞑想する時間が限られているので・・
疑似体験しているわけだが^^ なぜなら・・
ひと言で言うと・・
「この境地にいると心地よい」からである^^ 「この境地にいると心地よい」
これだけで1年続けているのだが・・
本当に「至福のひと時」なんだよね^^
理屈じゃないんだよな^^ この境地を知るだけでも意味がある^^
例え疑似体験でもかまわないんだよな^^ 難点は・・
永続性が伴わない^^
ということかな^^
時間かけていないからね^^ 体温が戻れば普段とそう変わらない^^
一時だけのもの^^ あっ・・^^
これについて考察したかったな・・^^
明日にしよおっと^^
715 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/15(土) 05:18:56.22 ID:l/EG5C89
「業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。
結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である」
清浄道論かー^^ 現象とは・・^^
単に諸法のみが生起する。^^
すなわち・・ 人の行為は・・・
単に諸法のみが生起してるのであって・・
諸法に人の行為が伴っていると・・^^ 明日おまえら見て・・
「あっ・・諸法が生起してるな・・」
という感じで観察してみよっと^^ その結果を書いてみるかな^^
人を見ずに法を見よ・・
それが正見である^^ 法を見たかったんだが・・
それどこではなかった^^ まぁ・・^^
落ち着いた時にでも観察してみよっと^^ 煩悩(悪因)→社会→悪果
八正道(善因)→社会→善果
これは確定してる^^ 煩悩を持って社会に関わると周りの人たちに迷惑をかけ・・
悪果しかもたらさない^^
ちみたちの周りにいないかい^^
一人は必ずいるはず^^
確定的に1人はいるんだよな^^
不思議なことに^^ どんな組織でも1人はいる・・
これは必然である^^ 三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに・しんい)
愚痴(ぐち)
の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。
三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。 「十二因縁の無明が、最も根本的なものである」
すなわち・・
十二縁起
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
無明が最も根本的な煩悩であると・・^^ 煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。
この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる
(日常語の愛と意味が異なることを注意)。 うん?
無明と愛かー^^
煩悩は我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。
う〜〜ん^^ 五上分結
修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
1.色貪(しきとん) - 色界に対する欲望・執着
2.無色貪(むしきとん) - 無色界に対する欲望・執着
3.掉挙(じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
4.慢(まん) - 慢心
5.無明(むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる 1.欲界(よくかい)
欲望にとらわれたものが住む世界である。
欲界とは、欲のある世界という意味である。
通常のわれわれ人間の住む世界は、この欲界に属する。
普通の意味での地上世界は、欲界に属する。 2.色界(しきかい)
欲望はほとんど超越したが、まだ物質的な形のある世界(色)であり、
形にとらわれたものが住む世界である。
色界とは、欲はほとんどないが、まだ形のある世界という意味である。
色界とは、形あるものの世界のことで、「色」とは形あるものの訳語と
して用いている。この形あるものは、変化し、壊れ、一定の空間を占め
ている世界である。 3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、
ただ精神作用のみがある世界である。
無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。
無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが
存在する世界である。 色界とは、形あるものの世界
無色界とは、形なきものの世界のことで、
形はないが精神作用のみが存在する世界
う〜〜ん^^ 三毒
「 貪 」むさぼりの心
「 瞋 」怒りの心
「 痴 」おろかでわからずやの心 同じかいの
ストーカー
すごいうるさい すいどう全開開閉連続騒音 いまだやってる
特定されないように 10数回連続を 数回やって 死後階やって また数回・・・
100% 引っ越してきたストーカー ばればれ 郊外にせよ面へら多すぎ
集団ストーカー そこらのネットで扇動された基地外めんへら と 反日 税金泥棒補助金詐欺 DQN擁護の悪徳弁護士・・・
ゴミ屑ゴキブリ人間は死ぬまで既知外
a
卑しいキショイしつこいうざい しね 「お前たちは自分で、どれくらいの数の<煩悩> を自覚することができるか、
よく考えてみよ、自分で自分の<煩悩>をさえ数えることも出来ないで、
とても仏道修行などはおぼつくまい」
鈴木正三(1579〜1655年、曹洞宗の禅僧)
うわっ^^ 瞑想後に樽風呂へ入るんだけど・・
ふと気がついたことがある・・^^ この樽風呂は竹口から絶えず勢いよく湯が流れている・・^^ さて・・・^^
何を言いたいのか・・
おわかりいただけたであろうか・・^^ ひと言で言うと・・
「大円鏡智」・・^^
となる^^ 外界からの情報が水面に大量に流れてくると・・
泡のように意識が発生し・・
鏡のような水面が波立ち・・
ありのままの姿を映し出さなくなると・・ すなわち・・
鏡であった水面が・・
鏡ではなくなると・・^^ 確か・・
唯識三十項でも・・
同じようなこと・・
書いてあったな・・^^
調べてみるか・・^^ 「第十五頌」
依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水
(根本識に依止(えじ)す。五識は縁に随って現じ、或るときは倶
(とも)なり。或るときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。)
これだな・・^^ 「第十五頌」では前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)は
必ず阿頼耶識と一緒に働いている。しかし、前五識は常時働いているの
ではなく、何らかの縁(外部の刺激など)がある時のみ働く。そして両
者の関係は、水(阿頼耶識)と波(前五識)の如くであると説いてい
る。確かに、波は水がなければ発生しないし、波のない静かな水面と
なる時もある。
ふむふむ^^ 「述曰。彼の解深密等に説く。広慧は大暴流水に、
若し一浪の生ずる縁が現前することあれば、ただ一浪が転ず。
乃至、若し多浪の生ずる縁が現前すれば、多浪が転ずることあるが如く、
諸識もまた爾なり。暴流の如き阿陀那の故に、乃至、諸識は転ずることを
得等といえり。これは五識を以て濤波に喩う。
本識を暴水に喩う」(『述記』第七本・五十右)
ふむふむ^^ 煩悩とは謂く貪と瞋と,癡と慢と疑と悪見とぞ。
随煩悩とは謂く忿と,恨と覆と悩と嫉と慳と,
誑と諂と害と驕と,無慚及び無愧と,
掉挙と昏沈と,不信と併に懈怠と,
放逸と及び失念と,散乱と不正知となり。
不定とは謂く悔と眠と,尋と伺とぞ二に各々二あり。
根本識に依止す。五識は縁に随て現ず。
或ときは倶なり或ときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。
煩悩から・・濤波の水に依るが如し。になり・・^^^ 基本的に自分が思うのは、10〜30年前頃の教会の 無策な態度が、
今日の教会の問題の原因だと推察する。
その時期は自分が最も教会から離れてた時期なんで、詳細はわからないけど、
今日びの教会信徒の態度は最悪と思う。
無関心、仲間割れ、信徒の間での優劣・階級付けをして差別、徒党を組む、
偏狭な態度…
都内大教会でも、聖堂係は 堂内で気分が悪くなり うずくまっている参加者を
見かけても素通りですよ。
人間としての度量の狭さ、醜さのオンパレードだね。
神父たちの人格は悪くないのだけど、悪しき信徒達は 神父との交流を
セレブ的活動、アクセサリー的なものとしか見なしてない。
もはや、腐りきった信徒を統制・教育できなくなってる教会、
が現状だと思う。 意識は常に現起す。無想天に生まれたると。
及び無心の二定と,睡眠と悶絶をば除く。
是の諸の識は転変して,分別たり所分別たり。
此に由りて彼皆無し,故に一切唯識なり。
一切種識の,是の如く是の如く変ずるに由り。
展転する力を以ての故に,彼彼の分別生ず。
諸の業の習気と,二取の習気と倶なるに由て,
前の異熟既に尽きぬれば,復た余の異熟を生ず。
分別までいくと・・^^ 教会か・・・^^
他力か・・^^
他宗教の批判はしない^^
当然である^^ 人が集まると・・
煩悩が生じるんだよね^^
これはしょうがないね^^
いやなら行かなければいいだけ^^ どうやら・・・
人は・・
先に目・口・鼻が造られ・・
ずっと後に脳が造られたみたいだ^^ つまり・・
十二縁起
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→
これを示している^^ 昨日煩悩について考えたが・・
三毒
煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに・しんい)
愚痴(ぐち)
の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。
三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。 三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、
十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
すなわち・・
脳の起源は無明からはじまると・・
確定した^^ 質問者 「何故スピリチュアルを信じても救いがないのですか?」
マハルシ「人間は想念の救いがないと信じてる限り、自分が救わ
れたと信じることができないからです。」
質問者 「ではどうやってその想念を救うのですか?」
マハルシ「それは自分しか自分を救うことはできないと思う自分
を捨て去ることができない自分がいないということに
気が付くことです」
から始まります」 ん?
つまり・・我執を捨てろと・・^^
当然である^^
寝る^^ 812 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/18(火) 20:07:23.68 ID:PwhsN8CG
外界からの情報が水面に大量に流れてくると・・
泡のように意識が発生し・・
鏡のような水面が波立ち・・
ありのままの姿を映し出さなくなると・・
つまり・・^^
http://livedoor.blogimg.jp/yossan_yumeguri/imgs/f/5/f57108a3.jpg ・・ということは・・^^
すべてが心の中で生じることになるのか^^ 大円鏡智
あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、
あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じる
ことなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。
まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如く
に、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、
そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージ
であると考えます。
ふむふむ^^ 樽風呂のイメージ ということで^^
またまた寝る^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています